掌編
カラン、とコップの中で踊る氷が無機質な部屋に響いた。
女はビーカーに注いだ液体を仰ぎ、口腔に滑り込んできた氷を噛んではまた仰ぐ。それを何度か繰り返し、手についたビーカーの水滴を白衣で無造作に拭った。
白い空間に佇む、白い装置と白衣を身にまとった白髪の女。色を持つのはビーカーのライムとミントだけだった。機械ばかりが雑然と置かれている部屋。破けたソファーに深く腰掛け、ひび割れたディスプレイをグラス片手に見つめていたが、ゆっくりと視線を手元に戻し同種同類を蔑むように、そして羨むように、女の形をした有機物はライムをモヒートから手掴みする。表情もなく思考もなく、ただただ指に力を籠めていく。白い床に点々と薄黄色の滴が落ちて広がった。
時を告げる鐘もなく、割れたディスプレイは静かに女の姿を映すのみ。微かで律動的な機械音に乗せて、透明な液体その残りを一気に仰いだ。
――この部屋が外界から発たれて旅を始めてから、どれほどの年月が過ぎたろうか。かつては確かに希望が見えた。幾何もないが営みを形成するには十分であった思考する有機物と無機物、潤沢にあった沈黙する有機物を乗せて彼らは意気揚々と航行に出た。
それが今となっては見る影もない。壊れた機械が散乱し、わずかばかりの実りを糧に女は生きている。生き延びてしまった女は、もうずっと長いことひとりで生きていた。
かろうじてまだ『船』は航行を続けているが、それも長くはないだろう。女は未来を知っていた。知っていてなお、ひとりで航行を行うことを決意していた。
かつて少女だった頃の女を含め、彼らは非常に勇敢だった。しかし、それ以上に無智で無策だった。悲観を楽観で無理やり塗り替えようとした。それだけの愚かな若者だった。
決して後悔はしていない。後悔など愚かなことしないと、出航する際彼らは決めた。
心中に去来するのは懐かしさとほろ苦さ。それらが液体に混じり胃に落ち、女は息を漏らす。
女は白くなった髪をくしゃりと撫でた。相変わらずそこに表情はなかったが、やがてふと思い立ったように立ち上がる。
食糧庫の一角にあるキッチン。足を踏み入れた女はグラスに液体を再び補充し、再びソファーへと舞い戻った。ディスプレイを操作したかと思えばまた立ち上がり歩を進め、部屋の脇に置かれた無機質な箱の脇で立ち止まりその中を覗き込む。
干からびた有機物。かつては女と同じように思考する生命体だったそれは変色しかつての面影など失せている。女はむき出しになった眼窩を見つめたのち、おもむろに箱を開けた。
「今日はあなたの番よ。……悪かったわね。お酒だってもう潤沢にあるわけじゃないのよ。順番よ、順番。味わって飲みなさい。今宵は楽しくなりそうだわ」
掠れた声を出して微笑みかける。液体を口に含んだかと思うとそれに口移しで飲ませた。ヒトだったものから零れた液体も残さず舐めて、むき出しになった白色を愛おしげにゆっくりと撫でる。
こうして朝もない夜は更けていく。動く有機物は明日も、たったひとりで航行を続ける。
女はビーカーに注いだ液体を仰ぎ、口腔に滑り込んできた氷を噛んではまた仰ぐ。それを何度か繰り返し、手についたビーカーの水滴を白衣で無造作に拭った。
白い空間に佇む、白い装置と白衣を身にまとった白髪の女。色を持つのはビーカーのライムとミントだけだった。機械ばかりが雑然と置かれている部屋。破けたソファーに深く腰掛け、ひび割れたディスプレイをグラス片手に見つめていたが、ゆっくりと視線を手元に戻し同種同類を蔑むように、そして羨むように、女の形をした有機物はライムをモヒートから手掴みする。表情もなく思考もなく、ただただ指に力を籠めていく。白い床に点々と薄黄色の滴が落ちて広がった。
時を告げる鐘もなく、割れたディスプレイは静かに女の姿を映すのみ。微かで律動的な機械音に乗せて、透明な液体その残りを一気に仰いだ。
――この部屋が外界から発たれて旅を始めてから、どれほどの年月が過ぎたろうか。かつては確かに希望が見えた。幾何もないが営みを形成するには十分であった思考する有機物と無機物、潤沢にあった沈黙する有機物を乗せて彼らは意気揚々と航行に出た。
それが今となっては見る影もない。壊れた機械が散乱し、わずかばかりの実りを糧に女は生きている。生き延びてしまった女は、もうずっと長いことひとりで生きていた。
かろうじてまだ『船』は航行を続けているが、それも長くはないだろう。女は未来を知っていた。知っていてなお、ひとりで航行を行うことを決意していた。
かつて少女だった頃の女を含め、彼らは非常に勇敢だった。しかし、それ以上に無智で無策だった。悲観を楽観で無理やり塗り替えようとした。それだけの愚かな若者だった。
決して後悔はしていない。後悔など愚かなことしないと、出航する際彼らは決めた。
心中に去来するのは懐かしさとほろ苦さ。それらが液体に混じり胃に落ち、女は息を漏らす。
女は白くなった髪をくしゃりと撫でた。相変わらずそこに表情はなかったが、やがてふと思い立ったように立ち上がる。
食糧庫の一角にあるキッチン。足を踏み入れた女はグラスに液体を再び補充し、再びソファーへと舞い戻った。ディスプレイを操作したかと思えばまた立ち上がり歩を進め、部屋の脇に置かれた無機質な箱の脇で立ち止まりその中を覗き込む。
干からびた有機物。かつては女と同じように思考する生命体だったそれは変色しかつての面影など失せている。女はむき出しになった眼窩を見つめたのち、おもむろに箱を開けた。
「今日はあなたの番よ。……悪かったわね。お酒だってもう潤沢にあるわけじゃないのよ。順番よ、順番。味わって飲みなさい。今宵は楽しくなりそうだわ」
掠れた声を出して微笑みかける。液体を口に含んだかと思うとそれに口移しで飲ませた。ヒトだったものから零れた液体も残さず舐めて、むき出しになった白色を愛おしげにゆっくりと撫でる。
こうして朝もない夜は更けていく。動く有機物は明日も、たったひとりで航行を続ける。
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