掌編

 よく晴れた冬の朝。
 師匠の研究室へと続く廊下を歩きながら、首をかしげる。
 なんだか……家の中が静かすぎない?
 いつもなら、もう薬草を煮ていたり魔法の試し打ちをしたりしていて、変なにおいがしたり、大きな音が聞こえてきたりしている時間だ。
 それが今日は、特になにもない。しん、としている。
 わたしは研究室の扉の前で立ち止まって、ノックした。
「師匠ー。朝ごはんができましたよー!」
 返事、なし。
「師匠? アルヴァス様? 起きてますか?」
 もう一回呼びかける。やっぱり、返事はなし。なにかしら作業をしているような気配もなし。
 うん。これはイヤな予感しかしない。
 わたしはそっと、扉を開けた。
 研究室は、いつも通り――ううん、いつもよりちょっと散らかっていた。
 机の上には、開きっぱなしの分厚い本。書きかけの魔法陣。薬草の瓶が何本か、変な順番で並んでいる。
 師匠、昨日は夜更かししましたね、これは。
 そう思いながら、机に近づいて、
「……ん?」
 わたしの足は止まった。
 机の真ん中。魔法陣の描きかけの紙の上に『それ』はいた。
 まんまるで。
 ふさふさで。
 ふわふわの。
 師匠と同じ、金色をした毛玉。でも、毛玉みたいだけど、手足がある。
 この生き物は、えっと、たしか。そうだ、ハムスターだ。
「え?」
 目をこすってから、もう一回見る。
 ……いる。ハムスターがいる。普通に、机の上にいる。
「へぇっ……?」
 声が裏返った、そのとき。
 ハムスターと、目が合った。じーっ。
 あ。この目。この、静かなたたずまい。
 昨日、町の定期市でハムスターを見たときも、師匠はこんな顔で、じーっと観察してた。市場でかごの中に収められていたハムスターよりも落ち着いていて、なんだかキリっとしている。
「師匠?」
 呼んでみる。返事はない。でも、ハムスターは逃げない。魔法陣の紙の上で、ちょこんと座ったまま、まんまるな赤色の目で、わたしを見ている。
 そのとき。
 梁の上から、クルル、と低い声。
 師匠の使い魔――シロカラスのミルが、ひらりと降りてきて、わたしの肩に止まった。
「ミル。このハムスターは、師匠?」
「カァ」
 ミルはうなづいた。
「……すぐにもとに戻す方法、知ってる?」
「カーァ」
 ミルは目をつむった。
「だよねえ」
 分からないよねえ、戻し方なんて。ミルもわたしも完全に困ってしまった。
 でも、こんなことは前にもあった。魔法薬のテストで、師匠の腕が三本になったときとか、首に魚のうろこが生えたときとか。あんなときも、次の日にはなにもなかったみたいにもとの師匠に戻っていた。
 だから、たぶん。今回ハムスターになっちゃったのも、そういうやつだろう。師匠はすごい魔法使いだけど、たまーにおっちょこちょいなのだ。
 わたしは深呼吸して、言う。
「……とりあえず。今日は、様子を見ますね」
 ハムスターは、なにも言わない。ただやたら堂々とした姿勢のまま、小さく瞬きした。うん。これはどう見ても、師匠で間違いないだろう。
 というか、昨日、市場でキャラバンが見せてくれたハムスターを見たときにも思ったんだけど……。
 ハムスターって、かわいいな。



 師匠に今月の課題図書だと言われて渡された本を読んだり、ついでに部屋の掃除をしていたりしたら、気づけばもうお昼だった。
「師匠、入りますよー」
 わたしは師匠を呼びに行く。やっぱり、師匠はまだハムスターのままだった。
 師匠を両手に乗せてキッチンに戻ってから、わたしはいつも通りの昼ごはんを用意する。
 師匠は小食なので、お昼ごはんはお決まりのメニューだ。あつあつのチーズトーストと二かけらのチョコレート。
「はい、どうぞ」
 ハムスター師匠の前に置く。
 ごはんを見てる。大きなお目目が飛び出しそうなくらい、すごく、見てる。
 だけど。
「あれ? どうしました?」
 師匠は食べようとしない。あれれ、どうしてだろう。わたしも師匠のお皿を見る。師匠を見る。またお皿を見る。
 ハムスターだけど人間だしなぁ。と、思っていつものごはんを用意したのがよくなかったのかな。半分魚になってたときはごはんのことなんて気にしなかったんだけど、ハムスターだと食べられないとか?
 首をひねっていたら、横から、カリカリという音。ミルがクコの実やクルミをついばんでいた。ミルにとってはこれがいつものごはん。
 わたしは師匠の目が、ミルの口元に向いているのに気がついた。
「師匠もこっち食べますか?」
 わたしはキッチンからミル用のごはん袋を取ってきて、木の実を皿の端に盛ってみた。
 途端、師匠は迷いなく近づいた。もぐ。もぐもぐ。
 あ! 食べた。しかも、ひとつひとつ殻を剥いて、すごく丁寧に。両手で持って、ちょっとずつ。頬袋が、どんどん、ぱんぱんになっていく。
「え~かわいい!」
 はっ。しまった。つい言ってしまった。
 ぴたりと動きを止めた師匠は、それから、前歯を見せて「ぢっ!」と鳴いた。そしてわたしに背を向けてしまった。これは怒られた……んだよね。
「ごめんなさい、つい。イヤでしたよね」
 今はハムスターだけど、そういえば、師匠はちゃんと大人の男の人だった。かわいいと言われても、うれしくはないよね。きっと。
 とはいえ、ハムスター師匠の後ろ姿が卵みたいで、またまたかわいい。でもかわいいって言っちゃいけないから、くちびるを噛んで頬がゆるむのを必死で耐えた。
 ……ん?
 あれれ。なんだか、おしりのあたりが腫れてない?
 わたしは顔を近づけて目を凝らす。やっぱり、おしりが体から飛び出すように腫れてる……よね。
 もしかして、実験中にケガをしてた? 朝はハムスターになってた衝撃で気がつかなかったけど、ケガだとしたらすごく心配だ。
「師匠、これはケガですか」
 わたしはハムスター師匠を両手で包み込んでから、そっと腫れているところに触った。
 次の瞬間。ハムスター師匠が、バッと動いた。手の中から、すぽんっと抜けて、テーブルクロスをつたって床にシュタッと着地。
「え、ちょ!」
 速い! 速すぎる! ハムスターって丸い体でこんなに速く動けるの?
「待って! 師匠、待って!」
 師匠は、扉の隙間からキッチンを飛び出して、ビューンと一目散に廊下に消えていった。
 追いかけなきゃ、と席を立ったら、そのときくいっと袖が引っ張られた。
 見ると、ミルがわたしの袖をくちばしで挟みながら、首を横に振っている。
「怒ってるよね。あーあ。やっちゃった……」
「カァ、カァ」
 ミルの表情は読み取れないけど、たぶん、あきれているんだろうな。
 わたしは、そっと息を吐いて、また席に着いた。師匠の食べかけのごはんは、あとでミルに研究室まで持って行ってもらおう。



 夕方。師匠がいないから、修行はお休み。
 ……しかたない。
 まだ魔力器官が安定しないわたしにできる修行は、ほとんどが知識をつけることだけ。
 本格的な魔法の訓練は、来年の、十三歳の誕生日が来てから。
 だから今は、座学が中心で、使える魔法も、ほんの少し。それでも。その『少し』ができる修行の日は、いつも楽しみで。
 ……でも。今日はお休み。
 というより、確認しに行けなかった。
 お昼のことを思い出す。びっくりさせたし、たぶん、怒らせた。
「ケガは心配だけど、本人がイヤがるならとりあえずそっとしておくしかないよね」
 仕事部屋のほうを見るけど、扉は、静かなまま。……大丈夫、だよね。でも、やっぱり、胸の奥がもやもやするなあ。
 そわそわしてしまうから、わたしは、いつもよりも早めに、キッチンで晩ごはんの支度を始めた。
 野菜を刻む。鍋に火をかける。とん、とん、とん。たまに師匠の部屋に続く廊下をちらっと見る。特になにもなく、静かだった。
「晩ごはんには、部屋から出て来るよね」と自分に言い聞かせながら、今晩のメニューを仕上げていった。
 しばらくして、料理のにおいが、部屋に広がるころ。
 ……ん?
 足元が、くすぐったい。ふわふわしてて、あったかい。
 視線を落とす。……いた。ハムスターの師匠だ。
 わたしはしゃがんで、そっと手を出す。
 すると、前足が乗ってきて、そのまま、よじよじと、まんまるな体が手の中に収まった。
 四つの足の裏が、むぎゅっと手のひらに食い込んで、ふわふわなのに、ちょっとだけ痛い。
 そうして、食卓へとご案内。
「これなら食べられますかね?」
 お皿に、木の実とフルーツ。それから、チーズを乗せていないただのバケット。
「どうでしょう?」
 気に入ってもらえるかドキドキする。
 ハムスター師匠は、お皿を見て、そして。
 もぐもぐ。昼と同じように、丁寧にひとつひとつ食べていく師匠。
 やっぱり師匠ってパン、大好きだよね。お昼もパン食べたかったよね。きっとチーズが食べられなかったんだろうなあ、と思って、晩ごはんはなにもかけなかったんだけど、正解だったみたい。
 わたしもミルも、なにも言わずに見守っていた。

 そうして、ゆっくりとした時間が過ぎて、夜。
 暗くなったキッチンで、ハムスター師匠がうとうとしてる。
「師匠、部屋に行きますか?」と聞いてみるけど、もう夢の中みたいで、すうすうと小さな寝息を立てていた。
 どうしようかな。研究室に連れていくのもなんか違うし。
 それに、師匠は普段、わたしが寝室に入るのをすごくイヤがる。『師弟とはいえ、淑女が男の部屋に入るものではありませんよ』とか、真顔で言うし。
 シュクジョって。ねえ。今まで住んできたおうちで、そんな風に言われたことなかったから。初めはびっくりしたなあ。
 ちょっと悩んでから、わたしは、ハムスター師匠をそっとすくい上げて自分の部屋に戻った。後ろからミルもとことこついてくる。
 明日、師匠に文句を言われるかもしれない。でもそんなときは、だってハムスターだったんですよ、と言い返すだけだ。
 枕元に師匠とミルが入れるくらいの大きさのかごを置いて、中に詰められるだけの布を詰める。できるだけやわらかいやつを。そしてハムスター師匠を寝かせた。ミルもかごの中に入る。
「おやすみなさい、師匠。ミル」
 魔石ランタンの灯りを落とす。
 わたしと、カラスと、ハムスター。
 ……そういえば、師匠と一緒に寝るのは、この家に来た日以来だな。
 わたしは目を閉じて、思っていたよりも疲れていたのか、そのまま朝までぐっすり眠った。



 目を開けて、一番に思った。あれ? 部屋が、静か。
 かごの中を見る。床を見る。部屋をゆっくり見まわす。いない。ハムスター師匠が。
 ……夢?
 一瞬そう思ったけど、すぐに否定する。
 だって。キッチンのほうから、香ばしくていいにおいがする。
 こうしちゃいられない。バッとわたしは起き上がって、パパっと着替えて、ケープのボタンを止めながら廊下を早歩きする。
 キッチンに行くと――いた。人間。ちゃんと、人間。
 朝の光を受けてキラキラしている金色の髪。
 エプロン姿でフライパンの前に立つ、背中がすっとしている男の人。
 立ち上る湯気を避けるみたいに、少しだけ体を引いて、髪をかき上げた。
 師匠だ……!
「おはよう」
「おはようございます!」
 師匠もわたしも、何事もなかったみたいな顔であいさつをする。
 でも、わたしは分かっている。こういう朝は、だいたいこうなる。
 師匠はチーズをたっぷりかけたパンと野菜スープ、それと果物のボウルをそれぞれ二人分置く。ミルは朝から森の見回りに行ったのかな。ここにはいなかった。
「師匠。ハムスターになった気分はどうでしたか?」
「考え事をするには、悪くない姿でしたね」
「へー」
 狭いところに入り込めば人から声をかけられづらいから、とか、そういう理由かな?
 師匠、市場みたいな人の多いところに行くの好きじゃないし。
 この町で一番若い魔法使いだし、若い女の人たちからも人気者なんだけどな、師匠。
 あーあ。もったいない……。
「あっ」
 そういえば。
「師匠。そういえば、昨日、ハムスターになってたときなんですけど。おし……」
 言いかけて、ハッとする。
 人間に戻った師匠にその言葉は使わないほうがいいのかな? 食事中だし。
 でも、ケガだったら大変だよね。ええい。聞いてしまえ。
「あの。昨日、おしり……? そのあたりをケガしてませんでした? 今は治りましたか?」
 一瞬。
 師匠は、答える前に言葉を選ぶみたいに、ほんの少し、間を置いた。
「あれは、生物学的な特徴ですね」
「……?」
 どういうこと?
 わたしが首をかしげると、ふぅっと師匠はため息をついた。
「つまり、精巣です」
「セイソウ?」
「あるいは睾丸。ハムスターといったネズミのオスの特徴ですね」
「あ……っ!?」
 腫れているのかと心配して触ったあれは、師匠の、その……。
 寝起きの頭の中に、意味がやっと染み込む。
 かーっと一気に体が熱くなる。顔。耳。たぶん、首まで。
「ごめんなさいっ、わ、わたしっ、知らなかったとはいえ」
 頭を下げることしかできない。今、わたしは、師匠の顔が見れない。
「好奇心は悪いことではありません。それに、君はここに来るまで、生き物や草花といった自然に触れることが少なかったのも、よく理解しています」
 師匠の声は、少し困ったように笑っている感じに聞こえた。
「ですが、セリナ」
 呼ばれて、びくっとする。恐る恐る顔を上げる。
 師匠は、少しだけ身をかがめて、落ち着いた声で言った。
「どうやら基本的な生物学の補講が必要ですね」
「……はい」
「カァ、カァ」
 梁の上を見上げると、いつの間にか、ミルが戻ってきていた。
 ……さては、ミル。絶対知ってたな。
 わたしは深呼吸して、顔の熱を吐き出す。そして、背筋を伸ばす。
 こうして、わたしの一日は、また始まる。

(完)
2025.12.18
1/14ページ
    スキ