トランプ兵と名無しの森



 歌声が聞こえた。
 幼い頃に連れていかれた劇場で聴いた、テノール歌手のように低く力強い美声。果たして自分は、オペラでも観に行っていただろうか。
 頭は重く、体は指一本動かせない。なんでだろうとぼんやり思った直後、崖から落ちたことを思い出す。
 そうだ、マジカルペン。勢いよく思考が引き戻される意識の中、エースは周辺に目をやる。赤い宝石のついた万年筆は、自分の右手に握られていた。
 どうやら、あの状況でも手放さずにいたらしい。安堵の息を吐いたエースは、その瞬間に体を走った痛みに悲鳴を上げて蹲った。
 その瞬間、歌声はぶつりと止んだ。驚いたように誰かが息を呑む声が聞こえて、男の声がエースにかかる。 
「――やっと起きたな。大丈夫か?」
 エースはその声に応えられなかった。鈍い痛みが、脈動に合わせて全身に染みていく。それに体を震わせながらも、彼は顔を上げて声のする方を振り返る。涙で滲んだ視界に光が突き刺さって、うまく目が開けられなかった。
「……う、あ……?」
 弱々しい声が口から漏れる。ようやく焦点の合い始めた視界に、ぼろぼろの壁が映りこんだ。その前で頭を地面につけた生物が、こちらをじっと見つめていた。両者の視線が絡んだまま、しばらく沈黙が場を支配する。
 それを人間と言っていいのか、覚醒してすぐのエースには判断できなかった。それを一言で表すなら、男の顔を描いて礼服を着せた卵、と言うような外見だったからだ。
 あまりの光景に呆然と固まったエースに、男は冷静に話しかける。丸い体から生えた腕を組み、ふん、と大きく鼻を鳴らした。
「ああ、あんた、頭は打ってないぞ。私が魔法で受け止めてやったからな。というわけで、最大限かつ最上級の感謝を込めて私を崇め奉るがいい」
「……?」
 こいつ喋るのかよ、とエースは顔を顰めた。
 それにしても、随分と偉そうな口調だ。逆さまの状態で言われても何の威厳もない。
 エースはゆっくりと体を起こし、胡坐をかいて座り込んだ。
「え……と……。あんた、誰……?」
 まだ、思考が追い付かない。少なくとも、この状況に驚きとか、恐怖といった感情を抱く余裕がないくらいには。
 ここは一体どこだろう。体は痛いが、骨折や裂傷などと言った外傷はないようだ。感覚があるということは、とりあえずここはあの世などではないということか。
 くらくらとゆれる頭を抑えながらエースが訊くと、男はああ、と気の抜けた声を出す。
「私はハンプティ・ダンプティと言う。もうずいぶんと長い間、地面と一体化している男だ。――さて、少年。私はお前にしなきゃならんことがたくさんある。まずは私に礼を言って、それから話を聞くがいい」
 尊大な口調で男は言った。それでエースは、痛みの引いて来た頭から手を離す。ようやく脳が働きだして、訪れるはずだった転落死を彼によって免れたことを理解した。
「……ありがとうございました」
 固い口調でお礼を言い、小さく頭を下げる。それを聞いた男は期待外れと言いたげな顔をしたが、すぐに大きく息を吐いた。
「――まあ、いい。それでお前、名は?」
 いいってなんだよ、と思いながらも、エースは素直に返答する。
「……エース」
「……そう、か。……ふむ」
 エースの返答に、ハンプティは意外そうな顔をする。その反応にエースが眉をひそめた時、彼は次の質問を投げた。
「……ここひと月の間に、お前みたいにスートを顔に描いた者たちが来たんだが。もしかして、お前の知り合いか?」
 その瞬間、エースの目は驚愕に見開かれた。弾かれたように飛び出して、男の傍に駆け寄って膝をつく。四つん這いの体制で、男の目線まで頭を下げた。
「それ……! もしかして、黒髪と緑の髪と、オレンジ髪の奴らだったりする⁉」
 言いながら、目元を指して級友たちのスートの特徴を伝えた。ハンプティはああ、と納得したような声を上げる。
「……そうだ。初めに来たのはスペードメイク、その次がダイヤ、最後がクラブだ。なんだ、知り合いだったのか」
 ハンプティの返答に、エースは頭を抱えた。彼の言う訪問者たちの順番と特徴と、失踪した友人たちのそれは完全に一致している。「マジかよ……」と呟けば、ハンプティはますます怪訝そうな顔をした。
「……なあ、そいつらどこに行ったか知らねえ? あいつらがいないから、うちの寮長すげえキレてるし、心配して毎日泣いてるやつだっているんだよ。だから、帰ってきてもらえないと困るっていうか……」
 泣いている監督生の顔と、憔悴したリドルの様子が脳裏をよぎる。これが最後に見た彼らだ。彼らや自分自身のためにも、デュースたちを一刻も早く連れて帰りたかった。
 ハンプティ・ダンプティもずっとこの森にいるのなら、出口を知っているのだろう。これで三人の行き先を知っていれば、そう時間もかからずに帰れるはず。
 出来るなら案内もしてほしかったが、彼の状態を見るに難しいか。この際贅沢は言えないのだけれど。
 そう思いながら問えば、ハンプティは息を吐いた。難しい顔で、エースの顔を見る。
「……知ってはいるが、無理だ。今連れ戻すのは難しいだろう」
「は? なにそれ、どういうこと?」
 ハンプティの言っている意味が解らず、エースは怪訝そうな顔をした。細められた瞳が揺れる。ハンプティは、やりにくそうに後頭部を掻いた。
「あー、その前に、エース。気休め程度にしかならないが、お前に関する思いつく限りの情報を、どこかにメモしておけ。記録媒体は持っているか?」
「……? 持ってるけど……なんで?」
 困惑を深めたエースが訊けば、今度はハンプティが苛立った顔で片手を振る。
「いいから、やっておけ。私が説明をしない限り、お前が記憶を失うことはない。だが、説明をしなければお前は友人たちに会えない。そういう決まりだからだ。――ほら、早くしろ」
「……?」
 さっきよりも真剣な表情と不可解な言葉に、エースは腑に落ちない顔をしながらもブレザーのポケットに手を突っ込む。
 スマホを取り出すと、先程使ったメモアプリに名前や年齢、誕生日といった個人情報を打ち込んでいった。何気なく電池残量を見ると、八十パーセントまで残っている。簡易充電器がないのが痛い。
「どれ、見せてみろ。――うん。これでいい。では、まずはここがどこかというところから説明するとしよう」
 ある程度の打ち込みを終えたスマホをハンプティに提示すると、彼は満足そうに頷く。咳払いをして話し始めた。
「――ここは、【名無しの森】と言う。複数の魔法石で森を囲い、それを利用した大掛かりな術式によって維持されている、人為的な自然の施設みたいなものだ。ここには妙な仕掛けが大量に設置されていてな、私もその一人だ」
 その説明にぎょっとした。内容は、エースの理解をかなり超えたものだったからだ。
「……あんた、モンスターじゃねえの?」
 訊けば、ハンプティは面白い話を聞いたような顔をする。
「モンスターか。まあ、そうとも言えるし違うともいえるな。私は機械なんだ。体内に埋め込まれた魔法石にて人格を得、こうして動いている。まあ、禁術によって生まれた異端の存在と言ったところだな」
「……マジで?」
 恐る恐るした質問は、とんでもない答えをもって返された。顔を引きつらせるエースに、ハンプティは面倒そうに片手を振る。
「まあ、私のことはこの際いいのだ。私は【探索者】(サーチャー)にこの森の詳細とルールを説明し、チャンスを与える駒に過ぎない。……さあ、続きを話すぞ。心して聴くがいい」
 妙に芝居がかった物言いに、エースは懐疑的な目を向ける。ハンプティはそれに構わず説明を続けた。
「まず、この森に入ったものは次第に記憶を失っていく。些細なものから始まって、ついには名前を忘れてしまう。『森自身』がそいつにとっての『見たくないもの』を見せて精神的混乱を招くからだ。
中には誇張したものを見せる場合もあり、それを延々と繰り返すことでそいつの精神を壊していく。そうすることで、そいつに自分の存在自体を放棄させるんだ」
 ハンプティの口調は軽いものだったが、目は真剣だった。感情のない目がエースを捉え、刻み込むように説明していく。それを見たエースは、背筋に冷たいものが走るのを感じて身震いした。
「――なんだよ、それ」
 発した声は震えていた。それが真実であるなら、この森は意思を与えられた魔法道具ということになる。
「なんのために、そんなことをするの」
 訊けば、ハンプティは少し考える風にするため息をついて頭を掻いた。
「……『アリス』が見つからないからだな」
「は?」
 意味が解らない。顔を歪めたエースに、ハンプティは苦笑した。
「この森と深くつながっている存在がいるんだ。そいつがアリスを欲しがってる。だけど肝心の容姿や性別がわからない。だから無差別に人を呼んで、選別しているのだと思う」
 記憶を失っても、辛くて苦しい記憶を見ても、精神を保てるほど気高く強い。そんな人を森は捜している。そういうことなのだろうとハンプティは語った。
「はあ? そんな奴いるわけないじゃん。誰にだって耐えきれないほど怖いものはあるよ」
 エースが言えば、ハンプティは悲しそうに笑う。
「……そうだな。だが、あいつ・・・はそうは思わない。今までにもたくさんの【探索者】が【役割】(キャスト)を解放しに来たが、皆そいつに食われるか、【役割】の開放に失敗して別の【役割】に変貌している」
 自分の知らない単語が次々と飛び出してくる。そのせいで理解が追い付かない。
 エースは痛む頭を抑えた。色々と考えた結果、重要そうなものから先順位をつけて質問することにした。ハンプティに向き直る。
「……あのさ、そのサーチャーとかキャストってなんのこと? オレたちがここに連れてこられたこととなんか関係がある?」
「ああ、そうだったな、すまん。それについても説明するか」
 いよいよついて行けなくなったエースが訊けば、ハンプティは所在なさげに足を動かす。かと思えば胡坐をかいた。
「【役割】とは、完全に自己を忘却してしまった者に与えられる『新しい自分』だ。つまり、生きたまま全く違う存在に書き換えられてしまう。完全に変質するまでの期間には個人差があるが、早くても1か月くらいで書き換えが完了する。そうなってしまえば、どんな手を使ってもそいつを元に戻すことは叶わなくなる」
「一か月……」
 それを聞いて、エースの背筋が凍り付いた。デュースが失踪した時期は……。
「だが、そいつらにも救済措置が与えられる。――それがお前だ」
「え?」
 急に話を振られ、エースは瞠目する。ハンプティは首肯した。
「【探索者】とは、【役割】を開放する権限が与えられた特例の訪問者だ。記憶を失うことは避けられないが、それだけだ。森による精神干渉は受けない。現に、俺の言うようなトラウマだとか、辛い記憶をは見なかっただろう」
 ハンプティに言われ、エースは頷く。確かにそんな類のものは見なかった。
「お前が【探索者】に選ばれた理由は、【役割】……つまり、お前が捜している三人と縁が深かったからだな。ただ、解放できる【役割】はそいつらだけで、他の【役割】は救えない。さらに言うと、彼らを解放できない限り、お前もここから出られないぞ」
「はあ⁉ なんだよそれ!」
 告げられた内容に、エースは声を上げた。それをなだめて、ハンプティは言う。
「……まずは、これをやろう。一つずつしかないからな、失くすんじゃないぞ」
 ハンプティは胸元に手を置く。ボールくらいの大きさの光がそこに灯った。どうやらそこに、彼の核である魔法石があるらしい。
 一拍後にボトルの栓が抜けるような音がして、両者の間の虚空に丸められた羊皮紙と丸い小物が出た。驚きつつも落ちてきたそれらを受け止めたエースに、ハンプティは言う。
「ここの地図と方位磁石だ。時計ウサギがいるとはいえ、地理もわからないのに進んだらさっきみたいなことになるからな」
 羊皮紙を広げれば、確かに森全体の地図が躍り出た。森自体はそこまで広くないようなのに、何時間も彷徨っているのは魔法石の所為だからだろうか。
「……ありがと」
 エースは、地図と磁石をスマホとは別のポケットにしまった。それを確認して、ハンプティは念を押すように言う。
「――お前の連れたちは、その中にあるどこかのエリアにいる。見つけたら、なんとかしてそいつ自身のことを思い出させろ」
 そこで一旦言葉を切り、ハンプティは少し考える風にする。
「……そうだな、そいつにとって一番印象に残っているものが理想的だ。が、無理ならお前にまつわるものでもいい。そして『本名』を口にさせることができれば、そいつらは【役割】から解放されて、森の外に放り出される。全員を解放することができたら、必ずここに戻って来い。オレが責任をもってお前を帰してやるからな」
「……わかった」
 最後の一言にほっとした。頷いたエースに、ハンプティは満足そうな顔をした。
「……まあ、説明はこのくらいか。何か質問はあるか?」
 ハンプティに訊かれ、エースは少し考えて質問を投げる。
「……オレが記憶をなくし始めるタイミングは? あと、どこから消えるのかも知りたい」
 それは意外な質問だったのか、ハンプティは少し驚いた顔をする。すぐに表情を戻した。
「……お前が私を視認できなくなった瞬間から、だ。私がお前の元から消えるのは、私自身の意志による。どこから消え始めるのかは……まあ、人によるな。始点の特定はできない」
 随分曖昧だな、とエースは思った。咳払いをして質問を続ける。
「じゃあ、あいつらを元に戻す時に必要なのは? 思い出から記憶を取り戻させることと、名前を言わせる以外に何かある?」
 そう質問をすると、ハンプティは険しい顔をする。
「……とくにはない、な。ああ、だが、気を付けてくれ。飲まれかけている【役割】を解放しようとすれば、他の【役割】が襲い掛かってくる。そいつを奪われれば、奴らは『物語』が掛けたまま過ごすことになるからな」
 エースは顔を顰めた。思ったより簡単にはいかないのだということを嫌でも思い知って、思わず舌打ちしかけた口をつぐむ。
「……わかった。あ、あともう一つだけいい?」
「なんだ?」
 口を開きかけた時だった。低い声が空気に浸透して、双方の方がびくりと震える。一瞬で顔から血の気が引いたハンプティが叫んだ。
「――エース逃げろ! あいつが来る!」
「え?」
 その瞬間に咆哮がした。地を揺らすほどの足音も近づいてくる。
硬直するエースの腕を掴んで引き倒したハンプティは、間髪入れずに魔法を発動した。
「なっ⁉」
 二人の姿が掻き消えるのと、足音の主が壁の前に来たのはほとんど同時だった。足音が止まり、獣が喉を鳴らす音がする。声を上げようとするエースの口をふさいで、ハンプティは真っ青な顔で「それ」を睨み付けた。
「……っ!」
 まず、そいつの体はゆらゆらと揺れていた。それはさながらやじろべえを想起させる。重心を頻繁に移動させて、煙のように不安定な巨体が左右に傾ぐ。
 その肌は幼い頃絵本で見たドラゴンのようで、黒い肌には棘のような突起がある。虚ろに濁った赤い目と、よだれの垂れる口から生えた牙に本能が警鐘を鳴らす。
 ふと、そいつの鼻がひくひくと動いた。何かを探すように首を地面に押し付けて、ふんふんと臭いを嗅いでいる。引き倒されたまま仰向けの姿勢で半身を起こした格好のまま、エースはそれを凝視している。頭上でパンプティが息を呑むのが聞こえた。
 やがて、怪物は怪訝そうな様子で首を巡らせ、空を見上げる。不満げに鼻を鳴らして踵を返したかと思うと、そのまま地響きを立ててきた方向に戻っていく。その姿が霧に紛れ、足音が聞こえなくなった頃、二人の姿は再び色彩を取り戻した。
 呆然としたままのエースの横で、ハンプティが悪態をつく。忌々し気に吐き捨てた。
「――あいつ、こんなところにまでくるようになったのか」
「……もしかして、あいつが『森とつながってるやつ』?」
 半身を起こしながらエースが問えば、ハンプティは頷く。
「ああ。あいつがジャバウォックだ。図体はでかいわりに細いが、あれで結構俊敏なんだ。さっきも言ったが、今までにも何人か殺してるぞ、あいつは」
「うそだろ……」
 ハンプティの説明に眩暈を覚えた。頭がおかしくなりそうだ。記憶を失うリスクと戦いながらデュースらを取り返して、最悪の場合そいつとも戦わなければならないのか。
「っていうか、そいつは『アリス』とかいうやつを捜してるんだろ? なんで俺を狙う必要があるの」 
 混乱する頭の中でも浮かんできた疑問をぶつければ、ハンプティは困ったようにため息を吐いた。
「……さあな。大方、『アリス』もこの森の中にいると思っていて、【探索者】を邪魔者だと思っているんだろうさ」
 だから、出遭えば必ず襲われる。それを聞いたエースの顔がまた歪んだ。ここに来てから、何度この表情をしたことだろう。
「……弱点は?」
遭遇したらもちろん逃げるが、戦わなくてはいけない場合もあるだろう。だから訊いてみたが、ハンプティは難しそうに唸っていた。
「弱点か……弱点はなあ」
 小さい唸り声だけが、少しの間虚空に流れる。いつまで経っても唸っているハンプティを、エースは苛立ちながら見つめる。やがて、ハンプティは組んでいた手を両の腰に当てた。
「わからん!」
「いやわかんないのかよ! どうしろっていうの⁉」
 反射的に抗議の声を上げたエースを、ハンプティはまあまあと宥める。
「しいて言うなら、目が見えないことなんだが。あいつは恐ろしく鼻が利くから、目の代わりに嗅覚と聴覚をフル活用して獲物を追う。それに、傍らには高確率でバンダースナッチという怪物が控えている。出会わないように努力するしかないだろうな」
「……そ、っか」
 早々都合よくいくはずがないか。そう思ってエースはため息をつく。ポケットからスマホを取り出すと、一連の情報をスマホのメモに打ち込んだ。記憶を失うリスクがある以上、書き留めておかなければいざという時非常に困る。それゆえの行動だった。
「……で、バンダースナッチってなに? そいつもやばいの?」
 情報を書き終え、エースは次の質問を投げる。ハンプティは小さく唸った。
「あいつはな、一匹だけじゃなく何匹もいるんだ。大体さん、四匹で一組として行動している。一見ラグビーボールに手足が生えたような姿をしているんだが、こいつは首が伸びる。ゆうに三、四メートルと言ったところか。文字通りあっという間の時間で距離を詰められるくらいに速い」
 エースは、無心でスマホにその情報を打ち込む。そこから容易に想像できる、最悪の光景を思い浮かべないように努めた。
ハンプティは他には? と問う。とりあえず、不安要素はなくなったので首を振る。ハンプティはよし、と声を上げた。
「――なら、もう俺からお前に言うことは何もない。そろそろお別れだ、【探索者】。君の幸運と、健闘を祈っているよ」
 そう言うと、ハンプティの姿は透けて行った。胸元の魔法石はさっきより強く光り輝いている。初めに聞こえたものと同じ歌を口ずさみながら、ハンプティ・ダンプティは立ち込め始めた濃霧の中に吸い込まれていった。
「……。消えた……」
 エースは、それを呆然と見つめていた。目の前にはハンプティがいた壁だけが残っていて、彼の姿はもうどこにもない。
機械仕掛けと言っていたはずの彼は、まるで空気のように霧中に消えていった。魔法石の仕業だとわかっていても、にわかには信じがたい光景だった。
「……ジャバウォック、か」
先程見た怪物の姿を、目を閉じて思いだしてみる。それから、あいつと戦うイメージ。ヒグマのように鋭くて巨大な爪を掻い潜って、あの牙を避けて……。
「……いや、勝てない……な」
 呟いて、立ち上がる。もたもたしている時間はない。早くしないと、友人たちはもちろん自分も永遠にこの森から出られない。エースは地図を広げ、現在地を確かめることにした。
「……ここが現在地で……一番近いのは王の城、、か」
 指が、つうっと地図を滑る。ここからならそんなに歩かないだろう。だるさの残る体と足を軽くマッサージして、エースは方位磁石を取る。地図と方向を照らし合わせながら歩きだした。
「……てか、時計ウサギってなんのことなのか訊くの忘れた」
 おそらくは、あの時現れたあいつのことだろう。彼の物言いからして、ついて行けば迷わないということなのだろうか。
「……まあ、いいや」
 訊けなかったことを考えていても仕方がない。今は自分のことだけを考えよう。
「……早く行こ」
 王様とやらに会えばもしかしたら、彼らのことが訊けるかもしれない。焦燥に突き動かされるように、エースは徐々に速度を速めながら駆け出した。
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