トランプ兵と名無しの森
木々が歌いだすのを聴いた。強くもなければ弱くもない、そんな風に揺さぶられ、彼らは木の葉と枝を擦り合わせて歌うのだ。
それは彼らだけができる業(わざ)だけれど、ただ揃っただけではだめだ。風の強さや速度、木々の状態などによって大きく変わる。それゆえに唯一無二で、一期一会の音色になるのだ。
自分の魔法で風を操ったとしても、ここまでの音色は奏でられないだろう、なんて。普段の自分だったら絶対に考えないようなことを思ったのは、強烈な疲労から少しでも意識を反らしたかったからかもしれない。
「……は――……」
深く長い息を、声とともに吐き出した。連動するように頭を反らせば、凭れ掛かった樹に軽く頭が当たる。微かな痛みに顔を顰めた。
散々歩き回ったせいで、足は悲鳴を上げている。整備された道ではなく、ぬかるんだり湿った土の上を歩いたせいで虚脱感が強い。
どうしてこうなったんだっけ、と頭の中で問いを出す。誰も教えてくれない答えを探して、エース・トラッポラは疲労を訴える思考回路を動かした。
(……昨日、部活の後オンボロ寮に寄って……)
まるで迷子の子どものように泣きじゃくる監督生のことを、苦労して宥めた記憶がある。エースは消えないよね、と縋るように言われ、当たり前だろと返した光景がよみがえった。
――オレは消えたりしねえって。だからいい加減、泣きやめよ……。調子、狂うじゃん。
どうやったらこの友人を宥められるのだろう。いつも明るく穏やかな彼の、こんな姿は知らない。
そう思いながらも、思いつく限りの言葉をかけて、自分が知っている彼の表情を引き出そうとしていた。
――う、ん……。約束、して……約束だよ、エース。
――わかってるって。ほい、指切り。
そう言って絡めた小指同士の体温を、今でも覚えている。約束が証明されたことで、監督生は少しだけ落ち着いたようだった。
それでも、根本的な不安は拭えなかったらしい。今度は外が真っ暗にも拘らず、鏡舎まで送ると言い張ったのだ。
――へーきだって。お前魔法が使えないんだし、もし犯人の気が変わって帰りに狙われたらどーするつもり?
――グリムがいる! だから、大丈夫!
――だめ。グリムはお前の子守で疲れてんだろ。オレなら平気だから、約束したじゃん。
そう言ってしまえば、監督生は何も言えなくなってしまう。不満そうな彼に大丈夫だって、と何度も言い聞かせて帰路について、――そこから先の記憶がない。
「やっぱ、巻き込まれたってことだよな……」
もう一度深いため息を吐いた。監督生にああ言っておきながら、この
監督生は大丈夫だろうか。他寮の生徒だというのに、自分のことを顧みずにデュースたちを見つけようと奔走していた姿を思い出す。
自分がここに来る直前、彼は干からびるんじゃないかというくらい泣いていた。共通の親友と、先輩たちが短期間で消えたのだから仕方がない。そのうえ、エースやリドルまでが消えることを極端に恐れて過敏になっていたのだ。
自分と最後に会ったのは監督生だ。自分の様子を見に来たせいで、なんて考えに支配されてなければいいのだけれど。自分が思うより、彼のことが大事なのだなとエースは苦笑した。
「……あいつ、オレのことも心配してくれてんのかなあ」
ぼそりと、そんな言葉が口をついてこぼれた。半狂乱で、元の世界に帰る、という自分の目的も後回しにして自分のために駆けずり回ってくれるのだろうか。
「……って、何言ってんだオレ!」
すぐに我に返り、大きく頭を振って弱音を取り払った。
こんなことを考えるなんてらしくない。何より、あそこまで消耗した監督生にここまでの期待をするだなんて。
……けれど、その考えも本音だった。矛盾したそれに大きくため息を吐いたエースは、両手を顔で覆う。くしゃりと前髪を握りしめた。
「……寒っ」
ふいに風が吹いて、感じた冷気に体が震えた。汗とともに、上がっていた体温も引いたらしい。エースは少しでも暖を取ろうと自らの腕を擦る。
この森は酷く冷えるようだ。春先だからと上着の類を持ってこなかった自分を恨んだけれど、すぐにそんなことを考えても意味がない、とうなだれる。エースは胸ポケットに挿したマジカルペンに触れた。その流れで、確かめるようにブレザーの上から内ポケットに入ったままのスマホを軽く握る。硬い感触に安心した。
(鞄は盗られたっぽいけど、マジカルペンとスマホはある……。そのうち霧が晴れれば、連絡が取れるかも)
目が覚めた時、まずエースはこの霧を少しでも取り払おうとした。乳白色の霧が視界を邪魔するので、到底先には進めなかったからだ。
しかし、この霧はいくら風を起こしても、水魔法を使っても晴れることがなかった。まるで目に見えない力でそうされているように、視界が開くのを赦さなかった。
だからエースは、手探りで森を探索したのだ。方向感覚もわからないまま歩いて、歩いて……ついに疲労に勝てずに座り込んだのだった。
「マジで最悪……。つーか、腹減った――……」
小声で主張しだした腹部を抑え、エースは今度こそ膝を抱えた。このままここから出られなかったらどうなるのか、と言う恐怖が、心の中で鎌首をもたげる。
どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうと、エースは膝の上で組んだ腕に頭を埋めた。
※
そもそもの発端は、ここひと月の間に起こっているナイトレイブンカレッジ生の失踪事件だった。
けれど、無差別に学生が消えているわけではない。対象となっているのは、必ずハーツラビュル寮の寮生だった。
まず初めに、エースの友人であるデュース・スペードが失踪した。切らした万年筆のインクを購買部に買いに行って、そのまま帰ってこなかったのだ。
門限が近いから早く行け、と見送ったのはエースだった。それからいつまで経っても帰らない彼を心配して連絡しようとしたのだが、そもそもデュースはスマホを机の上に置き忘れていた。
仕方がないので、エースは部屋を抜け出して様子を見に行った。寮長に見つかれば首を刎ねられるが、自分も急かした立場だけにこのまま寝るのも目覚めが悪い。それゆえの行動だった。
寮を抜け出して購買部に行けば、デュースはすでに帰った後だという。入れ違いか、と思って慌てて引き返したが、彼は帰寮していなかった。
次の失踪者が出たのは一週間後だった。デュースについての手がかりが何もない中で、副寮長のトレイ・クローバーが姿を消した。
失踪直前の彼は、いつものようにリドルのサポートをしていたという。色々と立て込んでいたリドルに代わって書類を届けに行った彼は、そのまま帰ってこなかった――まるで、あの日のデュースのように。
あの時ほど取り乱したリドルを、エースは見たことがなかった。彼がオーバーブロットした時の比ではない。自責の念から常の冷静さを欠いた彼は、ケイトがなんとか宥めるまで必死で捜し回っていたのだから。
そして、そのケイトも。つい3日前に部活に行ったまま戻らなかった。不安に駆られたリドルがカリムに連絡を取ると、彼は部活に来ていない、と言われたらしい。
ここまでが、1か月間に立て続けに起きた事件である。寮生それぞれが個々に自衛しており、学園としても警備を強化するなど対策を取っていた。にも関わらず事件は起きた。
どうしてハーツラビュルの寮生だけが、立て続けに狙われたのだろう。彼らの共通点は同じ寮であることと、互いに交流があることだけだ。共通の知人、友人である監督生とエースも事情を聴かれはしたが、心当たりなどあるはずはなかった。
その矢先のこれだ。どうやら次の標的は自分だったらしい。迂闊だったなあと独り言ちて、エースは顔を上げる。いつまでもくよくよしていられない。どうにかして、この森を抜け出さなければならないのだ。
解決策を考えるために目を閉じたエースは、ふ、と目を開ける。第三者の誘拐の可能性を考えて思い浮かんだことを口にした。
「……わざわざ攫って来たってことは、何か目的があるはずだよな」
それは、至極当然の疑問だった。にもかかわらず、その答えをエースは知らなかった。
現状、犯人の目星どころか目的もわからない。犯人からの連絡と思われる情報含め、消えた3人に関する情報が全く入ってこないからだ。
監督生とともに学園長を問い詰めても、その彼自身が困惑していて何の情報も得られなかった。警察からの情報収集はもっと困難だ。
彼らの得た情報は、厳重な守秘義務と管理体制の下で保護されている。学生であるエースたちにできることは、もうなかった。
ゆえに、見当はつかなかった。どうして自分たちだったのか、攫って何をするつもりなのか。
誘拐ならば身代金の要求くらいは連絡してくるだろう。しかし、そんなものは一度だって入ってきていない。恐らく、自分も同様だろう。
デュース、トレイ、ケイト、そして自分。共通点は上述の通り。しかしトラブルに巻き込まれる原因なんて、自分たちにあるはずがない。
「……とにかく、まずはこれからどうするか決めよう」
エースは立ち上がる。がむしゃらに動き回るのは止めだ。もっと効率よく、要領よくやらなければならない。それは自分の得意分野だ、何も難しいことはない。そう、自分に言い聞かせた。
大きく伸びをして、固まった背筋を伸ばした。一息つき、内ポケットからスマホを取り出す。電池は半分ほど残っている。これは命綱だ。電池の無駄遣いなどできない。そう思いながら、エースはふと画面右上に目をやった。
「……圏外か。まあそうだよな」
変わらない現実。最初に確認した時と変わらず、そこには圏外の文字があった。そのせいで、電話もメールも通じない。
ため息をつきながら、エースはメモアプリを開く。思考を可視化するために、声に出しながら考えを画面に打ち込んでいった。
「……最終目的は、この森から出ること。そのためにすることは……」
まず、正確な場所の把握。それから他に生物がいないかの確認。時間はともかく、進むべき方角は知りたい。せめて、東西南北のどれか一つでも。
「……あー……。兄貴がなんか言ってた気がする……。なんだっけ……」
7歳上の兄が、昔ふたりで星を見た時に方角の調べ方について教えてくれた。確かあれは、北の方角についてのことだったと思う。
「……今……午前9時か……」
確か、特定の星から方角を知る方法だった。今の時間帯では使えない。それ以前に、霧が濃くて空すら見えないのだ。
落胆したエースは、諦めて思いつく限りの目標と対策をメモアプリに打ち込んでいく。無音の空間に、スマホの画面をフリックする音だけが響いた。
「……まあ、とりあえずはこんくらいか」
頭を悩ませながらそれらを打ち終えて、エースは息を吐く。メモを保存した瞬間、背後で草木が揺れる音が響いた。
「!」
野生の獣か、それとも自分を連れてきた人物か。反射的に飛び退ったエースは、手に取ったマジカルペンを突き出した。緊張と、少しの恐怖で手が震える。見えないということはこんなにも、不安を掻き立てるものらしい。
知らないうちに呼吸が止まる。汗が一滴、輪郭を伝って下に落ちていく。正体の見えない闖入者に、心臓が早鐘を打つのが分かった。
(――攻撃魔法、は)
授業で習ったそれらを必死で呼び起こす。火属性の魔法は駄目だ。そうすれば水か、それとも木か。自分が巻き添えを食わない魔法なら何でもいい。
相手の正体はわからないが、音の大きさから推測するにそこまで大きくないかもしれない。どちらにしろ、飛び掛かってきた瞬間に魔法を叩きこまなければ襲われる。そんな恐怖が、エースの神経を過敏にさせていた。
霧の向こうで、木の葉が一層大きくかすれる音が聞こえた。エースがマジカルペンを掴む手に力を入れるのと、霧の向こうからしていた音が消えるのはほとんど同時だった。
「――ああ……ああ! すっかり遅くなっちまった、このままじゃ遅刻してしまう!」
「う……っ⁉」
霧の中から飛び出してきたのは、赤い燕尾服のような衣装に身を包み、大きな時計を持ったウサギだった。驚いて足を一歩引いたエースには目もくれず、ウサギは彼の傍を駆け抜けていく。
それを呆然と見送っていたエースだったが、はっと我に返り地面を蹴った。
「ちょ……っ、ちょっと待ったあ!」
スマホを外ポケットに落とし入れ、ペンを握ったまま走った。ぬかるんだ土が跳ね飛んで、スニーカーとズボンの裾を汚すが構っていられない。
ようやく見つけた第三者だ。しかも自分に敵意はなく、それどころかどこかに向かっているようだ。ということは、あれを追っていけば出口に辿り着けるかもしれない。
バスケ部で鍛えた脚力を駆使して、エースは夢中でウサギを追った。
彼の着ている赤いジャケットを霧の中に見つけて、もう絶対に見失わないよう全神経を集中させる。ここで見失ったら詰む。そう考えるだけで怖かった。
(ああもう……速い!)
ウサギは野生動物らしく、しっかりとした力で地を蹴ってどんどん速度を上げている。もともとの疲労が回復しきっていないエースは、それでも必死で悲鳴を上げる足を上げた。周りなど、もはや気にしていられない。
しばらく走り続けていた彼は、突然ウサギが跳躍して霧の中に消えるのを見た。エースとの距離は、ほんの数メートルでしかない。
「えっ⁉」
突然のことで止まれなかった。そのままウサギの跳躍地点を駆け抜けたエースの足元が、ふいに地面の感触をなくす。
あっと思った時には、体が重力に引きずり降ろされていた。反転する視界の中、自分が落ちた虚空の両端にある崖が映る。どんどん遠ざかっていく地面と、空を切る自分の体。風切り音が耳を劈く。
時計を持ったウサギの行動の意味を理解したエースは、自分でも驚くくらい冷静にある事実を察していた。
――ああ、オレ死んだな、と。
そこまでが、彼の記憶にある出来事だった。