Calling


    4

 社から飛び出そうとした波は、目の前にいる人影に驚いて動きを止めた。ひ、という悲鳴が漏れると、人影の主は不思議そうに首を傾げる。
「伊佐野……なんて言ったかしら。こんなところで、どうかしたの?」
 先ほど追っていた女――村上カイの母親がそこにいた。表情のない目が不気味で、波は喪わず半歩下がる。
「い、いやー。ちょっと散歩してたら、道に迷っちゃいまして! おばさんこそ、何でここに?」
 問題の絵馬は、反射的に背中に隠していた。なんとかごまかすことを考えつつも、まずはこの場を切り抜けることにした。
「参拝よ。この神社には、小さい頃からきているから。お百度参りというわけではないのだけれど、どうしても叶えたいお願い事がある時は来ているの」
「……へえ――」
 おそらくは、死後婚の事だろう。考えながら、波は必死で舌を回す。
「あれ? でも、ここは死後婚専門の社でしょ? お願い事なら、表の本殿なんじゃないの?」
 出入り口は、今のところ女に塞がれている。このまま後退り、女がある程度の中入ったところで一気に駆け抜ける。足の速さには自信があるので、逃げ切れると確信していた。
「いやね、ちゃんと合ってるわよ。――だって」
 女の雰囲気が一変した。あっという間に、波との距離を詰める。
「――あたしの息子が結婚するんだもの!」
 波は絶叫した。掴みかかってきた女を反射的に交わし、そばをすり抜ける。
そのまま出口を目指そうとしたが、女の動きは俊敏だった。回り込まれそうになったので、慌てて社の奥に逃げた。
 勢いあまって祭壇にぶつかり、他の絵馬や置き型照明などの物品が床に落ちる。そのまま奥に退避した胡蝶は、壁にぶつかって動きを止めた。
「やば――っ」
 退路は完全に断たれた。すっかり正気を失くしたような女は、不自然なほど緩慢な動きで波に向き直る。思わず後退ろうとして、波の足が床を滑った。
「っねえ、何でこんなことしたの? 月花さんにだって親はいるんだよ!?」
 子供を亡くす痛みは、彼女が一番よく知っているはずだ。それなのに、年の変わらない月花を道連れにしようとするのが波には理解できなかった。
「白無垢じゃなくて、わざわざこの絵馬にしたのは何で? 白無垢だって似たような効果はあるんでしょ!?」
 続けざまに問うと、女は瞳孔が開いた目を波に向ける。
「あなた、何も知らないのね。白無垢の儀式はすぐには連れていけないのよ。アレは、あくまで婚約なの。今すぐ迎えには行けない。それだと意味がないじゃない」
 あの時と同じ、息継ぎなしの返答。女は、無表情のまま続ける。
「この絵馬ならば、あの世から息子が花嫁様を迎えに行けるの。あの子、梓弓ちゃんのことが本当に大好きだったみたいだから……それを叶えてあげたいの。それが親というモノでしょう?」
 波は一瞬、彼女が口にした名前に困惑した。
しかし、すぐにそれが月花の本名なのだろうと察する。そう言えば、絵馬に書いてあった名前もそうだったなあと、緊張の中でどこか呑気に考えた。
「だけど、白無垢も勿体ないでしょう。だから送ってあげたのに。何度も送り返してきたあげく、使いを寄こしてまで返すなんて失礼しちゃう」
不満そうに拗ねてみせた女は、次の瞬間口角を釣り上げた。
悪寒のする邪悪な笑顔。波は、それを見て吐き気にも似た嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
「だって、あの子が、カイが、梓弓ちゃんのために作ったものなのよ? 旦那様の愛がこもった神聖なもの。着てくれなきゃ意味がないわあ」
 女は、波に向けて一歩を踏み出した。混乱したまま、波は目についたお札を拾う。それを女に突き付けた。
「ち、ちょっと待った!」
 突然の行動に、さすがの女も困惑したのか動きを止める。それを見て、波は間髪入れずに彼女に啖呵を切った。
「ねえ、知ってる!? あたし、ちょっと前まで審神者だったんだよ! 刀剣男士の加護もあるし、言霊だって使えるんだから! それ以上来たら、あんたの足を吹っ飛ばすからね!」
 嘘だ。いや、半分は本当だ。
 審神者だった時、実際に言霊は使えた。今の脅し文句のようなことも、覚悟さえ決めればできただろう。
 しかし、今の波には霊力がない。14振り目の刀剣男士を降ろした時に枯渇したのだ。審神者を辞めた理由もそれだ。
 けれど、女はそんなことは知らないはずだ。これで本丸からの援軍が来るまで時間を稼ぐ――と思っていたけれど、期待に反して女は再び近寄り始めた。
「へっ!? ちょっ」
「どうして邪魔をするの? このままだと、あの子は一人前になれないじゃない」
 速度を上げて、女は再び波と距離を詰めた。反射的に背中を向けて蹲った波の襟を、女は無造作にわしづかみにする。
「さあ、その絵馬を返しなさい! 今夜こそ、2人は結ばれるんだから!」
「ざっけんな! 離せよババア!」
 ものすごい力で自分を引きずり起そうとする女を、波は思わず怒鳴りつけた。
普段なら絶対に言わない暴言を吐いたのは、追い詰められたが故の防衛反応だった。
 それでも、たった14歳の少女の啖呵など目の前の女には無意味だった。波の言葉に激高した女は、更に腕に力を込めて――。
「――いやあ!」
 次の瞬間、女の悲鳴が響き渡った。それと同時に、波を襲っていた圧力も消える。勢いで突っ伏しかけた波は、自由になった軌道に入ってきた空気に咳き込んだ。
 女の呻き声が聞こえた。嘘みたいに痛いほどの静寂が下りて、背後で誰かの気配が動く。
「……無事か?」
 どこか心配したような、安堵したような声が聞こえて、波は背後を振り返った。

 膝丸が神社に着いた時、辺りは薄暗くなろうとしていた。10月も終わりに差し掛かっているとはいえ、膝丸にとってはあまり好ましくない明るさだった。
(思ったよりも、早く辿り着いたな――)
 転送装置の履歴機能に、この神社の位置情報を登録していて正解だった。機械はどうも好きになれなかったが、めげずに格闘した甲斐があったものだ。
(とにかく、波と合流しなければ)
そう思って社務所に向かうが、そこに彼女の姿はなかった。それどころか、関係者や参拝者の姿も見えない。波の居所は訊けそうになかった。
「まったく、お転婆め。……どこに行ったんだ?」
 ここでの処分を諦めたとしても、自分に連絡がないのもおかしい。そもそも、さっきの電話からそこまで時間は過ぎていないのだ。まだここか、周辺にいると考えていいだろう。
「……たしか、この裏に迎馬を祀る社があるんだったな」
 膝丸は本殿を見た。波が絵馬を見つけたのは、きっとこの裏だろう。
「――!」
「……ん?」
 ふと、何かが聞こえた気がした。今まさに向かおうとしていた方向で、怪訝に思いながらも膝丸は歩を進める。本殿の裏手に回り、目的の社を視界にとらえたその時だった。
「さあ、その絵馬を返しなさい! 今夜こそ、2人は結ばれるんだから!」
「ざっけんな! 離せよババア!」
 ドスのきいた女の声と、今まで聞いたことのない波の絶叫がした。
一瞬あっけにとられたものの、膝丸は次の瞬間には地面を蹴っていた。扉が開いたままの社を覗くのと同時に、飛び込んできた光景に息を呑む。
荒れた室内はさることながら、右手の奥に村雨カイの母がいた。背中を向けた彼女の目の前に誰がいるかなど、考えなくても理解できた。
そこからの膝丸の行動は早かった。
間髪入れずに室内に飛び込み、振り上げられた女の右手を後ろから掴む。女が驚いた瞬間、体が弛緩する。それを逃さずに、一気に女を引きずりよせた。
「――いやあ!」
 女が絶叫した。構うことなく、膝丸は女を制圧しにかかる。床に押さえつけられても暴れようとする彼女の首に、膝丸は容赦なく手刀を叩きこんだ。一瞬後、気絶した女が床に沈む。
「まったく……」
ようやく大人しくなった女から離れ、膝丸は大きく息を吐く。壁際で咳き込む波を振り返った。
「……無事か?」
 声をかければ、波が勢いよく振り返る。膝丸の顔を見た瞬間、大きく目の見開かれた顔が一瞬で歪んだ。
「膝丸さあ~ん!」
「うお」
 泣きながら突進してきた波を受け止め、膝丸は苦笑しながらその頭を撫でた。もう少し来るのが遅かったら、一体どうなっていたのだろう。考えたら寒気がした。
「予想以上に来るの早くない!? 大好き! 神! 一生ついてく!」
「すまないが、俺には妹分は不要だ。兄者だけで手いっぱいなのでな」
 矢継ぎ早の告白を適当にあしらうと、膝丸は宥めるように波の頭を優しく叩く。彼女を説得して離れてもらった後、目を覚ます前にと女を拘束した。
「とりあえず、政府に通報するか。君は神主か関係者を呼んできてくれるか。誰もいないのなら、警察に通報してくれて構わん」
 波から絵馬を受け取ると、膝丸は彼女にそう指示を出す。まずは、この状況をどうにかしなければならなかった。
「……わかった」
 洟を啜りながら、波は素直に頷いた。彼女が社の外に出て行くのを見送った後、膝丸は女を社の中の備品や上着を使って縛り上げた。
「さて――……」
 膝丸は、迎馬をひっくり返して留め具と板を外した。主と少年の姿の描かれた紙を取り出すと、近くに落ちた照明器具を拾い上げる。
 そして、膝丸は社の外に出た。手頃な大きめの石を見つけると、そこに紙を置く。絵の中で控えめに微笑む少年を見つめ、ひとつ息を吐いた。
「……悪く思うな。君の恋は、実らせるわけにはいかん」
 そう呟くと、膝丸は絵に照明器具を叩きつけた。衝撃で発生した火が、ゆっくりと紙を焼いていく。それを静かに見守りながら、膝丸は小さく呟いた。
「……恐ろしいな。人の執念というものは」

      ※

「――う」
 呻き声が聞こえて、髭切と歌仙は反射的に振り返った。
 ちょうど、髭切が迎馬の説明を歌仙に終えたところだった。そのため、歌仙の顔から少々血の気が引いていた。髭切が彼を振り返る。
「歌仙、担当殿とこんのすけに報告してきてくれないかい? ついでに薬研も。ここは、僕が見ておくよ」
「あ、ああ……。そうだね、頼んだよ」
 色を失った顔のまま、歌仙は部屋を飛び出した。普段の彼からは想像もできない慌ただしさで去っていく姿を見送りながら、髭切は月花の氷枕を換えようとした。
その瞬間、彼の動きが止まる。障子戸の向こう、中庭の方で何かが動いた気がした。
「……そっか。そうきたかあ」
髭切は立ち上がった。鯉口を切りながら、ゆっくりと障子に手をかける。
「夢で、主を捕まえたからかな。縁を繋いで、ここまで追ってこれたんだね」
 そう呟き、髭切は障子戸を開け放った。とたんに流れ込んできた腐臭に、更に顔が険しくなる。後ろで、臭いを浴びたらしい月花が苦し気に咳き込むのが聞こえた。

――そこにいたのは、紋付き袴の少年だった。
 目は虚ろで、体はところどころが腐っている。ボロボロの着物をまとった彼は、ひどくぎこちない動作でこちらに歩いてきていた。
「……前任さんの言うとおりかな。本丸の中にまで入ってこれるとは思わなかったけど」
 修行が足りないなあ。と髭切は独り言ちた。夢で連れていけなかったから、現実に現れた。
なんともめちゃくちゃな話だが、少年自体もかなりダメージが多いように見える。顕現に加え、神域に等しい本丸に入ってきたからだろう。
「生き返った人を斬ったことはないけど、今まで斬ってきたのとそこまで大差ないしね。――斬っちゃうよ」
髭切は、特に臆することなく刀を構えた。鬼だの妖だのを斬るのは、元々自分の得意とするところだ。
そのまま、少年と距離を詰めようと足に力を込めた時だった。髭切の上着を誰かが掴み、勢いを殺される。予想外のことに一瞬理解が遅れた彼は、驚愕して背後を振り返った。
「――待って……ください」
「……主!?」
 いつの間に起き上がったのか、立っているのもやっとといった状態の月花が髭切に縋りついていた。
彼女は髭切を止めるように首を振り、彼に縋るようにして少年と対峙した。髭切が彼女を止めようとした時、月花は少年に向かって声をかける。
「――村雨先輩」
 少年――村雨カイは、その声を聴いて足を止めた。感情の読めない目で月花を見上げる。
 月花は顔を歪めた。憐れむような、悼むような表情だった。
「膝丸様のお話、ぼんやりとですが聞こえていました。私のことを、ここまで思ってくれていてありがとうございます」
 そう言って、月花は頭を下げる。予想外の行動に唖然とする髭切に構わず、彼女は毅然とした様子で顔をあげた。
「ですが――。そのお気持ちは、お元気な時に聞きたかったです」
 それを聞いて、カイの動きが止まった。戦慄く唇が何かを紡ごうとして、最終的に強く引き結ばれる。
 やがて、彼は何かを決意したかのように両手を広げた。彼の意図を察して、髭切は月花を床に座らせた。改めて彼に歩み寄っていく。
「……嫉妬ではなく、恋情でも――人は鬼になっちゃうんだね」
そう言いながらも、髭切は呪術に振り回された彼に笑顔を向けた。抜身の刀身を、彼に向けて掲げる。
「――おやすみ。花嫁探しは疲れただろう?」
 その言葉と同時に、髭切は一太刀で少年を切り裂いた。ほとんど同時に彼の体から炎が上がって、倒れる体を包み込んでいく。
 その体が燃え尽きるのは早かった。3分にも満たない時間で跡形もなく消えた少年は、導かれるように天へと昇っていく。まるで雲が昇るようだった。
「主、大丈夫かい?」
 駆け寄った髭切に、月花は返答を返さなかった。顔色を変えた髭切に、彼女は何かを堪えたような顔をあげる。怒りと、少しのやるせなさがこもった声を上げた。
「……こんなの、ひどすぎます」
 それがカイの母親に向けられているものだと気づいて、髭切は少し悲しげな顔をする。
 彼女は神社の娘だ。神事を悪用するということがどういうことか、常人よりも理解している。
「……大丈夫だよ」
 そう言って、髭切は彼女の背中を宥めるように叩く。涙を落とし始めた彼女を慰めながら、彼は微笑んだ。
「主の悪夢も、彼の悪夢も、これでもう終わったんだから」
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