ピノキオへの福音(影片みか)
「もっと早めに告げておくべきだった。――故郷に帰りたまえ、影片」
――その一言は、自分にとって死刑宣告に等しかった。
◇ピノキオへの福音
故郷の空気は、2年経っても変わらなかった。
衝動のままに飛び出したあの日から、暫く戻らなかった駅。そこに、影片みかはどこか不安定な浮遊感とともに降り立った。
んあ、といういつもの口癖を、ため息と共に吐き出した。迷子の子供のような目を、雑踏に向けた後伏せる。
「……まさか、こんな形で帰ることになるなんてなぁ」
二度と帰らないつもりだった。――少なくとも、帰ることを考えたことは無い。
師と慕う神に仕え、支え、泥水をすすりながら這いずり回った日々を駆け抜けることに必死だったから。
「……なのに、捨てられちゃ世話ないわぁ」
自分を不要と言い、そばにいる資格などないと突き放した青年を思い出した。彼の言葉が、氷よりも鋭く冷たい刃物となって心臓を抉る。
影片は人形だ。人形師に調律され、意のままに動く傀儡 。その人形師に不要と断じられてしまえば、そこに自分の居場所 はない。
分かっていた。自分は人形なのだから、彼と同じ場所には行けない。それでも傍にいられるだけで、愛でてもらえるだけで幸せだったのだ。
――やっぱり、俺を捨てるん、お師さん?
あの時投げた問いに、冷たく返された言葉が心を傷つけた。元来痛みに鈍感なはずのこの体は、心までは麻痺させてくれないらしかった。
『初めから所有などしていない。記名せずになかったことにして、闇に葬るだけだ』
――ここまではっきり口にされると、いくら頭の悪い自分でも理解できる。「失敗作」である自分は、初めから「斎宮宗に愛されるお人形」ではなかったということだ。
「……でも、なんでやろなぁ。お師さんのことは憎めないんや」
兄と慕った仁兎のことは恨めたのに。影片はどうしても、斎宮を憎みきれなかった。
彼の命令は絶対だから、だろうか。二度と夢ノ咲には、あの地へは戻らない。そう、覚悟を決めたからだろうか。
結局、斎宮はもちろん、彼の家族に満足なお礼はできなかった。斎宮が帰宅する前に、二度と姿を見せるなという命令に従って荷物をまとめ、駅に走ったからだ。
優しい人たちに、温かい家庭。元からその中にはなかった影片の居場所を作ってくれたのは、ほかでもない斎宮だった。
――でも、そんな甘い夢ももう終わりだ。
自分は彼の言う「人間」にはなれない。彼が欲する芸術家になれないのなら、大好きな彼の歩みを止めてはならないのだ。
大きく息を吸って、悲しさも痛みも追い出すように息を吐いた。そうして、影片は重い足を引き摺って記憶通りの道を歩く。
いまはただ、何も考えずにうずくまりたかった。
※
「みかくん、おかえり。元気にやってたんやなぁ」
何も言わずに迎えくれた施設長 は、潤んだ瞳で影片に笑いかけてくれた。
その優しさが嬉しくもあり、後ろめたくもあった。影片は、ぎこちない笑みで頭を下げる。
「ごめんなあ。なんも言わずに飛び出して……連絡もなしに帰ってきて」
「そんなん、ええんよ。斎宮さんの奥さんから定期的に連絡もろてたんやけど、まあ元気でやってるみたいで安心したわあ」
この人は、いつも優しい。出奔した直後はさすがに烈火のごとく怒られたけれど、斎宮たちに手伝ってもらって自分の考えを伝えた時は、二つ返事で応援してくれた。
……そんな養母に、夢ノ咲学院を辞めると――もうアイドルをしないと言ったら、どんな顔をするだろうか。この人のことだから、最終的には頷いてくれるのだろうけど、悲しませてしまうことは想像に難くない。
……それに、いきなり帰ってきた自分を、この施設は受け入れてくれるのだろうか。法的には高校卒業まで入れるはずだが、施設を飛び出してかなりの年月が経っている。
影片はここ以外に行くところがないけれど、空きがなければ別の場所を探すしかない。それを考えるだけで苦しかった。
「まあ、積もる話はあとでええわ。皆に会ってきい。あとで、お父さんとも話そうな?」
「……あ、お父やんは」
「今日は仕事中でなあ。外にいるんで、夕方までは帰らんとちゃう?」
くすくすと笑いながら、養母は影片を施設の中に導いていく。優しく、包容力のある気性は変わらない。
「――そろそろ春休みやもんな? お休みもらって帰ってきたん?」
「あ……」
影片のいない空白期間のことを説明していた養母は、ふと振り返ってそんなことを訊いてきた。それに影片の肩が揺れる。
まさか、斎宮に見捨てられたから逃げてきた、なんて言えなかった。少々言い淀んだ後、
「……まあ、そんなとこやね」
なんて誤魔化す。そう、と養母は微笑んだ。
「まあ、あんたの部屋くらいは残っておるからね。子供たちと遊んだらそこでゆっくりしい。……今日くらい、手伝いなんてせんでええんよ?」
「おん。……おおきに、お母やん」
優しい言葉に、気遣い。久しぶりに触れるこの人のそれが嬉しくて心地のいいはずなのに、どうしてもうまく笑えない。やはり、自分は出来損ないの人形なのだ。
そんな自分の気持ちを知って知らずか、養母は少し寂し気な笑みで目の前の扉に手をかける。聞こえてくる歓声に顔をあげる影片を促しながら、彼女は年季の入った扉を開け放った。
「――みんな。みかくん帰ってきたで!」
――その瞬間、騒がしかった空間は一気に静まり返った。
懐かしい顔ぶれ、知らない顔ぶれ。様々な顔が、視線が一気に影片に集まる。一瞬、影片は狼狽えて半歩退がった。
(――あ)
やはり、視線は苦手だった。慣れ親しんだ、自分の大好きな子供たちのはずなのに視線が怖い。舞台で慣れたはずの「見られる」ということに、自分は今更怯えてしまった。
二年という空白の月日は、未知とイコールだ。そこにいる彼らが自分をどう迎え入れるのか、受容してくれるのか、それとも――そういうものが、一切不明瞭なのだ。
――ああ、だから俺、お師さんに捨てられたんやろか。
こわい、ここにいることが。この子たちは、自分のことをどう思っているのだろうか。もしかしたら自分と同じように、『大好きな人に捨てられた』と思われて――?
「――みか兄ィ!」
歓声が、再び息を吹き返した。雪崩のように駆け寄ってきた子供たちに、影片は面食らって立ち尽くした。
「……えっ?」
己の思考に沈んでいたせいで、影片は事態をすぐに飲み込めなかった。あっという間に影片を取り囲んだ子供たちは、彼が口を挟む余地もないほどに喋りかけ始める。
「みか兄ィ、ひさしぶり! いつもテレビでみてるんよ!? 今日はどないしたん? 撮影?」
「みか兄ィー! うち、みか兄ぃの歌大好きなんよ! 聞かせてくれへん? そんで教えてくれへん? 今度、お歌のテストがあるねん!」
「七夕祭のステージ素敵やった! すごい! かっこよかったでみか兄ィ!」
「あんな? ウチ、こっそりお小遣いを貯めてこないだのライブ見に行けたんよ。分からへんかったやろ? みか兄ィ、えらいかっこよかったぁ!」
「えっ、え?」
どういうことだろう。この子たちは、自分を恨んでいないのだろうか。それどころか、こちらの体を折らんばかりの力強さで抱き着いてくる。
慌てて踏みとどまった影片に、さらに子供の波が押し寄せた。
「ねえねえみか兄ィ、学校のお話もっと聞かせて! みか兄ィがここにいたこと、知らん子もおるんよ? やからもっと知ってほしいんねん!」
そう言って話をせがんだのは、自分より二つ下の少年だった。彼の目は、星よりもずっと眩しい光を宿している。
その目に、影片は何か懐かしいものを感じた。少し考えて、すぐに正体に行きつく。
憧れ、賞賛――それに、純粋な好意。影片のことが好きだという、ただそれだけの思いの結晶。
そんなものが、影片の眼前いっぱいにちりばめられていた。
「――え、おれ? お師さんやのうて?」
それが自分に向けられていると、にわかには信じがたくて――相変わらず、斎宮のことが口を吐いた。その言葉に、もう一度波が押し寄せる。
「私たちは、みか兄ィがええんやって! もちろん、あの人もすごいかもしれへんけど、私たちにとってはみか兄ィがええの!」
そう言って頬を膨らませたのは、三歳下の少女。となりで、もう一人も声を上げる。
「うちと歩花 な? 中学生になってダンス部に入ってん。『valkyrie』の番組録画した奴毎回持ってって、みか兄ィの動き研究してるんやで?」
「そうやの! どうやったらみか兄ィみたいに踊れるか、歌えるか、ずーっと考えて練習してるんよ?」
そう言って、双子の少女たちはずい、と揃って身を乗り出した。年を重ねて更に似てきた彼女たちに、影片は葵兄弟の面影を見た気がした。
「だからな、みか兄ィ。俺たちに色々教えてほしいねん。俺たち、みか兄ィが帰ってくるのを待ってたんよ。話したいこと、話してほしいこと、いっぱいあんねん。全部聞かせて、聞いてほしいんやけどなあ?」
先ほど話をせがんだ少年は、そう言って甘えるような仕草をした。それでも動けない影片に、彼は笑いかける。
「――オレ、っていうか、ここにいるみんな。将来はアイドルになりたいねん。みんな、みか兄ィみたいになりたい。全部みか兄ィが与えてくれた夢なんよ」
「……おれ、が?」
信じられなかった。すぐに理解することができなかった。
だって自分は、斎宮がいなければ何もできないお人形だ。その彼に捨てられて、失意のままに逃げ出してきた情けない木偶でしかないのに。
「――ねえみか兄ィ、コレ見てくれへん?」
そう言って1人の少女が見せてくれたものに、影片は目を見張るほど驚いた。それは、影片自身が一番よく知っている――。
「びっくりしたやろ! このお洋服も、おもちゃもみんな、発売されたもんは片っ端から買うてるんよ」
目の前の少女が来ているのは、最近『valkyrie』がプロデュースした洋服だった。
正確には、影片が任されてデザインしたものを、斎宮が調整を重ねて形にしたもの。それを目の前の彼女は、満面の笑みを浮かべて着ていた。
「それでな、学校のみんなに自慢しててん。今大人気の『valkyrie』の、影片みかって人はオレたちの『みか兄ィ』やって!」
「みか兄ィは、うちらの誇りやねん!」
ある少女は髪飾りを、ある少年はアンティークな手提げかばんを――それぞれ好きなものを身に着けて笑う子供たちを見て、影片は胸をつかれた思いがした。
嬉しさと、驚きと――そんなものがせり上ってきて、泣きそうになる。
「……誇り? おれが?」
あたりまえやん、と誰もが頷いた。自分たちを愛してくれたあなたが、他のだれかに素晴らしいものを与え続けている姿が嬉しい――そんなことを、拙い言葉を用いて惜しみなく伝えてくれる。
はは、と乾いた笑いが漏れた。涙ではなく、心と体の深いところから、もっと温かいものがこみあげてくるのが分かる。
何人かの子供たちが、影片の手を引いて背中を押した。そのまま立ち上がった影片を、彼らは庭園へと導いていく。
「歌って、みか兄ィ! 遊ぼう、みか兄ィ! ――みか兄ィの見てきた“芸術”を、オレたちに見せてほしい!」
異口同音の賛美、期待――それから愛情。そういうものが、冷たくなっていた影片の心身を優しく溶かしていく。
影片は天上を仰いだ。美しい蒼天、眩しい太陽――その向こうに、何かを見たような気がした。
乞われるまま、影片は歌い出す。師と仰いだ神と紡いだ、芸術の一端を。
(ああ――おれ、ほんまにアイドルになったんやなあ)
子供たちの視線が、期待と歓喜に満ちた目が、今はこんなにも愛しい。心地よい。
こういう目ならば、みられることも怖くない。――むしろ、もっと見てほしい!
影片は、夢中で歌声を紡ぎ続けた。『valkyrie』でも、「夢ノ咲学院のアイドル」でもない――「影片みか」個人として。
今度は、心から笑えていたような気がした。
※
慌てて駆けこんだ新幹線の通路は、視界を覆わんとする手荷物のせいで行きよりも狭かった。
時間に追い立てられるように買った切符が示す指定席に着いて、影片は両手いっぱいの袋を床に降ろす。網棚には、忘れそうで置きたくなかった。
ふと窓を見ると、お見送り争奪戦を勝ち残った子供たちと、引率職員が笑顔で手を振ってくれていた。それに手を振り返すと同時に、車内に出発のアナウンスが流れた。
彼らの姿が見えなくなるまで手を振って、影片は力尽きたように背もたれに沈んだ。疲労感はあったものの、気分はとても晴れやかだった。
(不思議やなあ……。こんな気持ちで、蜻蛉返りすることになるなんて)
我を忘れるほど遊んで、話して、歌ったのは久方ぶりだった。まるで童心に帰ったようで、夢ノ咲学院の一員として、『valkyrie』として活動していた時とはまた違った幸せに包まれていた。
数時間前は、まったく逆の気持ちだったのだ。こんなに短期間にコロコロと気持ちが変わる自分が、我ながら恐ろしい。
(……でも、帰ってきてよかった)
そうでなければ、きっとあの子たちの気持ちには気づけなかった。自分に焦がれ、手を伸ばして……無垢な目を輝かせる人たちがいることなんて、きっと知らないままだった。
(……帰ったら、皆怒るやろか)
いきなり姿を消して、皆はどう思っただろう。特に嵐など、自分をずっと心配してくれていたというのに。
(……人形のままのおれは、もうお師さんとは一緒にいられないなあ)
それでも帰ってきた影片を、斎宮は認識してくれるだろうか。それとも、既になかったことにしてしまっていて……いないものとしてふるまうのだろうか。
(それも、仕方ないかもなあ……。おれ、お師さんの話を少しも理解できへんかったし)
背もたれに沈んだまま、視線を外に向けた。無機質なコンクリート壁を見つめながら、影片は斎宮の話を思い起こす。
(――心から愛するものを殺す選択をする意志……本能に逆らう選択をする意志こそが、人間性だ)
最初に浮かんだのは、この言葉だった。“醜いもの”を嫌悪した自分に示した、斎宮なりの答え。
(――取るに足らない誰かのために、自らを犠牲にする。そういう選択ができることを、人間性というのだよ)
取るに足らない誰か――というのは、どういうことだろう。少なくとも自分は、誰かをそういう風に評価できない。
(――僕の命令に従いたいという気持ちに正直になるなら、それは動物だ。少なくとも、人間には――芸術家にはなれない)
(――人間になってほしい。芸術家にね……)
彼は、醜いものも芸術になりえると言った。人間性を持つからこそ、人は芸術を生み出す――愛するものを殺し続けてきた結果が芸術である、と。
「芸術――」
その単語を、影片はほぼ無意識に口にした。
斎宮の、影片の、『valkyrie』の命題にして原点。格式高く孤高のユニットたる自分たちの生命線。あの帝王たる斎宮の傍で、影片がずっと見て、触れてきたものだ。
斎宮宗という芸術家は、それについてゆるぎない信念を持っている。あの時、フルーツパーラーで話してくれたことが、彼を芸術家たらしめる理想そのものだ。
自分はそれに魅入られて、今まで過ごしてきたのではないか。
(なら――おれは?)
自分は、どんな芸術を作りたいのだろう。『valkyrie』を――アイドルを通じて、何を表現したいのだろう。
「……子供を傷つける親も、子を殺す親も、おれにとってはやっぱり醜い」
そういうものを愛せれば、自分も芸術家の仲間入りができるだろうか。――斎宮の、隣にいられるだろうか。
(――俺たち、将来はみか兄ィみたいになりたい。アイドルになりたいんよ)
次の瞬間、脳裏にあの子たちの言葉が蘇った。星のようにきらめく、道標のように。
つられるようにして、斎宮との出会いを思い出した。
施設での生活が辛くて、自分のいる世界が苦しくて逃げだしたあの夜。辿り着いたゴミ捨て場で出会った彼に憧れて、数年後に画面越しに再会した彼を追いかけて故郷を飛び出した。
(あの時のおれも……あの子たちと同じ目をしていたんやろうか)
あの日、確かに自分は救われた。斎宮宗という人間と、その芸術に。
「――そうや……!」
あの時。施設に帰って、子どもたちに再会した時。
自分は、見られるのが怖いと思った。それは、空白期間によって子供たちが「未知のもの」になったからじゃない。
(――おれが、“アイドル”になったからだったんや)
施設の子供たちにとって、影片は変わらず「みんなのみか兄ィ」だ。しかし、影片はもう「みんなのみか兄ィ」だけではなくなってしまった。
観客がいる限り、アイドルは舞台で輝き続ける。――そして、その舞台はセッティングされたあの場所だけとは限らない。
(お客さん にとって――アイドル は希望や)
かつての自分にとっての斎宮がそうだったように。孤児院の子どもたちが――すべての同じ境遇の子どもたちにとっての光が、影片なのだ。
(なら……おれは、あの子たちのとっての光になる)
報われない子供たちの……辛いことも悲しいことも、理不尽もすべて我慢して震える弱者を照らす、そんな希望になる。それが、自分が芸術家になり、そう在り続けるための理由だ。
(そうか……お師さんのあの言葉は、おれを捨てるためのものやない。俺に、このことに気づいてほしかったんやな)
もしかしたら、違っているかもしれないけれど。それでも、影片なりの答えは得た。あとは、自分に出来ることをやりつくすだけだ。
(早く――早く、学院に帰ろう)
見えなかったはずの未来が、あの蒼天の向こう側が、確かな道になって影片の前に現れた。それまでは思いもしなかったことが、浮かんですら来なかったことが、抽象的でありながらも確かなイメージとなって影片に降り注ぐ。
それだけで、影片は立ち上がって走り出したい衝動にかられた。
(ああもう、何でもっと早く着かへんのやろ!?)
思わず窓に飛びついて、変わらない景色を睨み付けた。
逸る気持ちが抑えられない。はやく、はやく、このイメージが消えないうちに、何らかの方法で形にしたい。
しびれを切らして、影片は鞄からノートと筆記具を引っ張り出した。周りも顧みず、夢中でペンを走らせる。この輝きを、手を伸ばした先の星空の光を、しっかりと離さないように。
(――俺はもう、人形やない。お師さんみたいな芸術家に――人間になるんや)
もう、その目には絶望も悲しみもなかった。産声を上げた一人の芸術家は、福音の光に導かれるようにして、己の世界を描き続けていた。
【終】
――その一言は、自分にとって死刑宣告に等しかった。
◇ピノキオへの福音
故郷の空気は、2年経っても変わらなかった。
衝動のままに飛び出したあの日から、暫く戻らなかった駅。そこに、影片みかはどこか不安定な浮遊感とともに降り立った。
んあ、といういつもの口癖を、ため息と共に吐き出した。迷子の子供のような目を、雑踏に向けた後伏せる。
「……まさか、こんな形で帰ることになるなんてなぁ」
二度と帰らないつもりだった。――少なくとも、帰ることを考えたことは無い。
師と慕う神に仕え、支え、泥水をすすりながら這いずり回った日々を駆け抜けることに必死だったから。
「……なのに、捨てられちゃ世話ないわぁ」
自分を不要と言い、そばにいる資格などないと突き放した青年を思い出した。彼の言葉が、氷よりも鋭く冷たい刃物となって心臓を抉る。
影片は人形だ。人形師に調律され、意のままに動く
分かっていた。自分は人形なのだから、彼と同じ場所には行けない。それでも傍にいられるだけで、愛でてもらえるだけで幸せだったのだ。
――やっぱり、俺を捨てるん、お師さん?
あの時投げた問いに、冷たく返された言葉が心を傷つけた。元来痛みに鈍感なはずのこの体は、心までは麻痺させてくれないらしかった。
『初めから所有などしていない。記名せずになかったことにして、闇に葬るだけだ』
――ここまではっきり口にされると、いくら頭の悪い自分でも理解できる。「失敗作」である自分は、初めから「斎宮宗に愛されるお人形」ではなかったということだ。
「……でも、なんでやろなぁ。お師さんのことは憎めないんや」
兄と慕った仁兎のことは恨めたのに。影片はどうしても、斎宮を憎みきれなかった。
彼の命令は絶対だから、だろうか。二度と夢ノ咲には、あの地へは戻らない。そう、覚悟を決めたからだろうか。
結局、斎宮はもちろん、彼の家族に満足なお礼はできなかった。斎宮が帰宅する前に、二度と姿を見せるなという命令に従って荷物をまとめ、駅に走ったからだ。
優しい人たちに、温かい家庭。元からその中にはなかった影片の居場所を作ってくれたのは、ほかでもない斎宮だった。
――でも、そんな甘い夢ももう終わりだ。
自分は彼の言う「人間」にはなれない。彼が欲する芸術家になれないのなら、大好きな彼の歩みを止めてはならないのだ。
大きく息を吸って、悲しさも痛みも追い出すように息を吐いた。そうして、影片は重い足を引き摺って記憶通りの道を歩く。
いまはただ、何も考えずにうずくまりたかった。
※
「みかくん、おかえり。元気にやってたんやなぁ」
何も言わずに迎えくれた
その優しさが嬉しくもあり、後ろめたくもあった。影片は、ぎこちない笑みで頭を下げる。
「ごめんなあ。なんも言わずに飛び出して……連絡もなしに帰ってきて」
「そんなん、ええんよ。斎宮さんの奥さんから定期的に連絡もろてたんやけど、まあ元気でやってるみたいで安心したわあ」
この人は、いつも優しい。出奔した直後はさすがに烈火のごとく怒られたけれど、斎宮たちに手伝ってもらって自分の考えを伝えた時は、二つ返事で応援してくれた。
……そんな養母に、夢ノ咲学院を辞めると――もうアイドルをしないと言ったら、どんな顔をするだろうか。この人のことだから、最終的には頷いてくれるのだろうけど、悲しませてしまうことは想像に難くない。
……それに、いきなり帰ってきた自分を、この施設は受け入れてくれるのだろうか。法的には高校卒業まで入れるはずだが、施設を飛び出してかなりの年月が経っている。
影片はここ以外に行くところがないけれど、空きがなければ別の場所を探すしかない。それを考えるだけで苦しかった。
「まあ、積もる話はあとでええわ。皆に会ってきい。あとで、お父さんとも話そうな?」
「……あ、お父やんは」
「今日は仕事中でなあ。外にいるんで、夕方までは帰らんとちゃう?」
くすくすと笑いながら、養母は影片を施設の中に導いていく。優しく、包容力のある気性は変わらない。
「――そろそろ春休みやもんな? お休みもらって帰ってきたん?」
「あ……」
影片のいない空白期間のことを説明していた養母は、ふと振り返ってそんなことを訊いてきた。それに影片の肩が揺れる。
まさか、斎宮に見捨てられたから逃げてきた、なんて言えなかった。少々言い淀んだ後、
「……まあ、そんなとこやね」
なんて誤魔化す。そう、と養母は微笑んだ。
「まあ、あんたの部屋くらいは残っておるからね。子供たちと遊んだらそこでゆっくりしい。……今日くらい、手伝いなんてせんでええんよ?」
「おん。……おおきに、お母やん」
優しい言葉に、気遣い。久しぶりに触れるこの人のそれが嬉しくて心地のいいはずなのに、どうしてもうまく笑えない。やはり、自分は出来損ないの人形なのだ。
そんな自分の気持ちを知って知らずか、養母は少し寂し気な笑みで目の前の扉に手をかける。聞こえてくる歓声に顔をあげる影片を促しながら、彼女は年季の入った扉を開け放った。
「――みんな。みかくん帰ってきたで!」
――その瞬間、騒がしかった空間は一気に静まり返った。
懐かしい顔ぶれ、知らない顔ぶれ。様々な顔が、視線が一気に影片に集まる。一瞬、影片は狼狽えて半歩退がった。
(――あ)
やはり、視線は苦手だった。慣れ親しんだ、自分の大好きな子供たちのはずなのに視線が怖い。舞台で慣れたはずの「見られる」ということに、自分は今更怯えてしまった。
二年という空白の月日は、未知とイコールだ。そこにいる彼らが自分をどう迎え入れるのか、受容してくれるのか、それとも――そういうものが、一切不明瞭なのだ。
――ああ、だから俺、お師さんに捨てられたんやろか。
こわい、ここにいることが。この子たちは、自分のことをどう思っているのだろうか。もしかしたら自分と同じように、『大好きな人に捨てられた』と思われて――?
「――みか兄ィ!」
歓声が、再び息を吹き返した。雪崩のように駆け寄ってきた子供たちに、影片は面食らって立ち尽くした。
「……えっ?」
己の思考に沈んでいたせいで、影片は事態をすぐに飲み込めなかった。あっという間に影片を取り囲んだ子供たちは、彼が口を挟む余地もないほどに喋りかけ始める。
「みか兄ィ、ひさしぶり! いつもテレビでみてるんよ!? 今日はどないしたん? 撮影?」
「みか兄ィー! うち、みか兄ぃの歌大好きなんよ! 聞かせてくれへん? そんで教えてくれへん? 今度、お歌のテストがあるねん!」
「七夕祭のステージ素敵やった! すごい! かっこよかったでみか兄ィ!」
「あんな? ウチ、こっそりお小遣いを貯めてこないだのライブ見に行けたんよ。分からへんかったやろ? みか兄ィ、えらいかっこよかったぁ!」
「えっ、え?」
どういうことだろう。この子たちは、自分を恨んでいないのだろうか。それどころか、こちらの体を折らんばかりの力強さで抱き着いてくる。
慌てて踏みとどまった影片に、さらに子供の波が押し寄せた。
「ねえねえみか兄ィ、学校のお話もっと聞かせて! みか兄ィがここにいたこと、知らん子もおるんよ? やからもっと知ってほしいんねん!」
そう言って話をせがんだのは、自分より二つ下の少年だった。彼の目は、星よりもずっと眩しい光を宿している。
その目に、影片は何か懐かしいものを感じた。少し考えて、すぐに正体に行きつく。
憧れ、賞賛――それに、純粋な好意。影片のことが好きだという、ただそれだけの思いの結晶。
そんなものが、影片の眼前いっぱいにちりばめられていた。
「――え、おれ? お師さんやのうて?」
それが自分に向けられていると、にわかには信じがたくて――相変わらず、斎宮のことが口を吐いた。その言葉に、もう一度波が押し寄せる。
「私たちは、みか兄ィがええんやって! もちろん、あの人もすごいかもしれへんけど、私たちにとってはみか兄ィがええの!」
そう言って頬を膨らませたのは、三歳下の少女。となりで、もう一人も声を上げる。
「うちと
「そうやの! どうやったらみか兄ィみたいに踊れるか、歌えるか、ずーっと考えて練習してるんよ?」
そう言って、双子の少女たちはずい、と揃って身を乗り出した。年を重ねて更に似てきた彼女たちに、影片は葵兄弟の面影を見た気がした。
「だからな、みか兄ィ。俺たちに色々教えてほしいねん。俺たち、みか兄ィが帰ってくるのを待ってたんよ。話したいこと、話してほしいこと、いっぱいあんねん。全部聞かせて、聞いてほしいんやけどなあ?」
先ほど話をせがんだ少年は、そう言って甘えるような仕草をした。それでも動けない影片に、彼は笑いかける。
「――オレ、っていうか、ここにいるみんな。将来はアイドルになりたいねん。みんな、みか兄ィみたいになりたい。全部みか兄ィが与えてくれた夢なんよ」
「……おれ、が?」
信じられなかった。すぐに理解することができなかった。
だって自分は、斎宮がいなければ何もできないお人形だ。その彼に捨てられて、失意のままに逃げ出してきた情けない木偶でしかないのに。
「――ねえみか兄ィ、コレ見てくれへん?」
そう言って1人の少女が見せてくれたものに、影片は目を見張るほど驚いた。それは、影片自身が一番よく知っている――。
「びっくりしたやろ! このお洋服も、おもちゃもみんな、発売されたもんは片っ端から買うてるんよ」
目の前の少女が来ているのは、最近『valkyrie』がプロデュースした洋服だった。
正確には、影片が任されてデザインしたものを、斎宮が調整を重ねて形にしたもの。それを目の前の彼女は、満面の笑みを浮かべて着ていた。
「それでな、学校のみんなに自慢しててん。今大人気の『valkyrie』の、影片みかって人はオレたちの『みか兄ィ』やって!」
「みか兄ィは、うちらの誇りやねん!」
ある少女は髪飾りを、ある少年はアンティークな手提げかばんを――それぞれ好きなものを身に着けて笑う子供たちを見て、影片は胸をつかれた思いがした。
嬉しさと、驚きと――そんなものがせり上ってきて、泣きそうになる。
「……誇り? おれが?」
あたりまえやん、と誰もが頷いた。自分たちを愛してくれたあなたが、他のだれかに素晴らしいものを与え続けている姿が嬉しい――そんなことを、拙い言葉を用いて惜しみなく伝えてくれる。
はは、と乾いた笑いが漏れた。涙ではなく、心と体の深いところから、もっと温かいものがこみあげてくるのが分かる。
何人かの子供たちが、影片の手を引いて背中を押した。そのまま立ち上がった影片を、彼らは庭園へと導いていく。
「歌って、みか兄ィ! 遊ぼう、みか兄ィ! ――みか兄ィの見てきた“芸術”を、オレたちに見せてほしい!」
異口同音の賛美、期待――それから愛情。そういうものが、冷たくなっていた影片の心身を優しく溶かしていく。
影片は天上を仰いだ。美しい蒼天、眩しい太陽――その向こうに、何かを見たような気がした。
乞われるまま、影片は歌い出す。師と仰いだ神と紡いだ、芸術の一端を。
(ああ――おれ、ほんまにアイドルになったんやなあ)
子供たちの視線が、期待と歓喜に満ちた目が、今はこんなにも愛しい。心地よい。
こういう目ならば、みられることも怖くない。――むしろ、もっと見てほしい!
影片は、夢中で歌声を紡ぎ続けた。『valkyrie』でも、「夢ノ咲学院のアイドル」でもない――「影片みか」個人として。
今度は、心から笑えていたような気がした。
※
慌てて駆けこんだ新幹線の通路は、視界を覆わんとする手荷物のせいで行きよりも狭かった。
時間に追い立てられるように買った切符が示す指定席に着いて、影片は両手いっぱいの袋を床に降ろす。網棚には、忘れそうで置きたくなかった。
ふと窓を見ると、お見送り争奪戦を勝ち残った子供たちと、引率職員が笑顔で手を振ってくれていた。それに手を振り返すと同時に、車内に出発のアナウンスが流れた。
彼らの姿が見えなくなるまで手を振って、影片は力尽きたように背もたれに沈んだ。疲労感はあったものの、気分はとても晴れやかだった。
(不思議やなあ……。こんな気持ちで、蜻蛉返りすることになるなんて)
我を忘れるほど遊んで、話して、歌ったのは久方ぶりだった。まるで童心に帰ったようで、夢ノ咲学院の一員として、『valkyrie』として活動していた時とはまた違った幸せに包まれていた。
数時間前は、まったく逆の気持ちだったのだ。こんなに短期間にコロコロと気持ちが変わる自分が、我ながら恐ろしい。
(……でも、帰ってきてよかった)
そうでなければ、きっとあの子たちの気持ちには気づけなかった。自分に焦がれ、手を伸ばして……無垢な目を輝かせる人たちがいることなんて、きっと知らないままだった。
(……帰ったら、皆怒るやろか)
いきなり姿を消して、皆はどう思っただろう。特に嵐など、自分をずっと心配してくれていたというのに。
(……人形のままのおれは、もうお師さんとは一緒にいられないなあ)
それでも帰ってきた影片を、斎宮は認識してくれるだろうか。それとも、既になかったことにしてしまっていて……いないものとしてふるまうのだろうか。
(それも、仕方ないかもなあ……。おれ、お師さんの話を少しも理解できへんかったし)
背もたれに沈んだまま、視線を外に向けた。無機質なコンクリート壁を見つめながら、影片は斎宮の話を思い起こす。
(――心から愛するものを殺す選択をする意志……本能に逆らう選択をする意志こそが、人間性だ)
最初に浮かんだのは、この言葉だった。“醜いもの”を嫌悪した自分に示した、斎宮なりの答え。
(――取るに足らない誰かのために、自らを犠牲にする。そういう選択ができることを、人間性というのだよ)
取るに足らない誰か――というのは、どういうことだろう。少なくとも自分は、誰かをそういう風に評価できない。
(――僕の命令に従いたいという気持ちに正直になるなら、それは動物だ。少なくとも、人間には――芸術家にはなれない)
(――人間になってほしい。芸術家にね……)
彼は、醜いものも芸術になりえると言った。人間性を持つからこそ、人は芸術を生み出す――愛するものを殺し続けてきた結果が芸術である、と。
「芸術――」
その単語を、影片はほぼ無意識に口にした。
斎宮の、影片の、『valkyrie』の命題にして原点。格式高く孤高のユニットたる自分たちの生命線。あの帝王たる斎宮の傍で、影片がずっと見て、触れてきたものだ。
斎宮宗という芸術家は、それについてゆるぎない信念を持っている。あの時、フルーツパーラーで話してくれたことが、彼を芸術家たらしめる理想そのものだ。
自分はそれに魅入られて、今まで過ごしてきたのではないか。
(なら――おれは?)
自分は、どんな芸術を作りたいのだろう。『valkyrie』を――アイドルを通じて、何を表現したいのだろう。
「……子供を傷つける親も、子を殺す親も、おれにとってはやっぱり醜い」
そういうものを愛せれば、自分も芸術家の仲間入りができるだろうか。――斎宮の、隣にいられるだろうか。
(――俺たち、将来はみか兄ィみたいになりたい。アイドルになりたいんよ)
次の瞬間、脳裏にあの子たちの言葉が蘇った。星のようにきらめく、道標のように。
つられるようにして、斎宮との出会いを思い出した。
施設での生活が辛くて、自分のいる世界が苦しくて逃げだしたあの夜。辿り着いたゴミ捨て場で出会った彼に憧れて、数年後に画面越しに再会した彼を追いかけて故郷を飛び出した。
(あの時のおれも……あの子たちと同じ目をしていたんやろうか)
あの日、確かに自分は救われた。斎宮宗という人間と、その芸術に。
「――そうや……!」
あの時。施設に帰って、子どもたちに再会した時。
自分は、見られるのが怖いと思った。それは、空白期間によって子供たちが「未知のもの」になったからじゃない。
(――おれが、“アイドル”になったからだったんや)
施設の子供たちにとって、影片は変わらず「みんなのみか兄ィ」だ。しかし、影片はもう「みんなのみか兄ィ」だけではなくなってしまった。
観客がいる限り、アイドルは舞台で輝き続ける。――そして、その舞台はセッティングされたあの場所だけとは限らない。
(
かつての自分にとっての斎宮がそうだったように。孤児院の子どもたちが――すべての同じ境遇の子どもたちにとっての光が、影片なのだ。
(なら……おれは、あの子たちのとっての光になる)
報われない子供たちの……辛いことも悲しいことも、理不尽もすべて我慢して震える弱者を照らす、そんな希望になる。それが、自分が芸術家になり、そう在り続けるための理由だ。
(そうか……お師さんのあの言葉は、おれを捨てるためのものやない。俺に、このことに気づいてほしかったんやな)
もしかしたら、違っているかもしれないけれど。それでも、影片なりの答えは得た。あとは、自分に出来ることをやりつくすだけだ。
(早く――早く、学院に帰ろう)
見えなかったはずの未来が、あの蒼天の向こう側が、確かな道になって影片の前に現れた。それまでは思いもしなかったことが、浮かんですら来なかったことが、抽象的でありながらも確かなイメージとなって影片に降り注ぐ。
それだけで、影片は立ち上がって走り出したい衝動にかられた。
(ああもう、何でもっと早く着かへんのやろ!?)
思わず窓に飛びついて、変わらない景色を睨み付けた。
逸る気持ちが抑えられない。はやく、はやく、このイメージが消えないうちに、何らかの方法で形にしたい。
しびれを切らして、影片は鞄からノートと筆記具を引っ張り出した。周りも顧みず、夢中でペンを走らせる。この輝きを、手を伸ばした先の星空の光を、しっかりと離さないように。
(――俺はもう、人形やない。お師さんみたいな芸術家に――人間になるんや)
もう、その目には絶望も悲しみもなかった。産声を上げた一人の芸術家は、福音の光に導かれるようにして、己の世界を描き続けていた。
【終】
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