夜見

 ガタンガタンという、妙に耳慣れない音がした。

◇夜見

 奇妙な音、止まっているのに進んでいる感覚、そして何より体に感じる痛みと違和感。そんなものに起こされるかのように、加州清光は目を開けた。
 その途端に目を貫いた光に慌てて目を閉じると、恐る恐る目元を覆ってもう一度目を開る。のどかな雰囲気の、奇妙な空間が光に慣れた目に映し出された。
 まず、自分のいる空間は細長い箱の中にあった。細長くて大きな箱の左右の壁にはいくつも穴が開いていて、その全部にガラスが張ってある。
 それに隣り合うようにして、清光の座る腰掛けがいくつも並んでいる。その真ん中には通路があって、どことも知らない場所へと繋ぐ扉に続いていた。
 この空間の名を、清光は知っている。以前主が持っていた雑誌に載っていたのを読んだことがある。
 確か列車というものだ。清光の生きた時代から、気の遠くなるほどの未来にて発達した乗り物。遠い場所に行くだけでなく、「窓」という硝子張りの穴から見える景色を楽しむためのものだったと記憶している。
 さて、自分はいつこの列車に乗ったのだろうか。そんな記憶はないのだけれど。
(……っていうか、俺今まで何してたんだっけ?)
 まだぼうっとする頭で何となく考える。奇妙な音と進む感覚は列車のもので、体の痛みと違和感は椅子に座って眠っていたせいで生じたものらしい。
 息を吐いて体を前に倒した清光は、固まった体をほぐすかのように大きく上に伸びる。バキバキという関節が鳴る音を聞きながら、眠気と倦怠感を払うかのように首をのけぞらせた。
(参ったなあ。全然記憶ないんだけど、これって無断外出だよね。主に迷惑かけるのやだな)
 そんなことを考えながらふと横を見た清光は、窓の外から見えた景色に思わず目を見開く。感嘆の声を上げ、同時に腰を浮かせて右手を窓につけた。
「何これ……。すげえ、綺麗……!」
 目に飛び込んできたものは、正に幻想的な世界と言うべき美しい景観だった。紅葉で埋め尽くされた山野、その間を清光の乗る列車は通っている。
 山野の下には森と川が広がっていた。主が趣味で収集していた写真集の、その中の一部でしかこういった景色を見たことのない清光は食い入るように外を見つめる。
 あの吸い込まれるような青い空と、言葉にならないくらい美しい紅葉は何だろう。京都の紅葉も綺麗だったが、ここのそれはまた違った情緒と魅力を解き放っている。
 まるで子供のようにきらきらと目を輝かせていると、背後からくすくすという笑い声が聞こえた。人がいたのか、と思った瞬間、ぱっと清光は体を翻した。
 どこの誰かはわからないが、みっともない姿を見られた。そう思った瞬間、羞恥で顔に朱が差すのを感じた。と同時に、目に飛び込んできた浅葱色に目を見開いた。
「清光……お前、そんなにここの景色が気に入ったの?」
 そこにいたのは、自分が最もよく知る刀。元の主と、今の主も同じくする大和守安定が常の穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
 かつての主が身に着けていた浅葱色の羽織を纏い、白い襟巻をした姿はいつもの彼だ。どうしてこんなところにいるのか、と目を細めた清光に、安定は少々ぎこちない笑みを浮かべた。
「――気付いたらここで眠ってたんだ。で、色々見て回っていたらお前がはしゃいでたのを見かけて」
「……べ、別にはしゃいでないし。ていうか、お前もってことは他の奴らも? 俺何の記憶もないんだよね」
 照れくさげにそっぽを向いた清光は、ふと思いついて安定に訊いた。彼もここにいるのなら、何人か本丸の仲間がいるのではないかと思ったからだ。しかしそれに反して、安定は首を振る。
「ううん。僕らの他には誰もいないみたい。――みんなどころか、普通の乗客も」
「ええ?」
 安定の言葉に驚いて周りを見れば、確かに車両の中にはほかに人の姿はなかった。のどかな午後特有の、静かで眠たくなるような空気が列車内に満ちている。
 訝し気に顔をしかめる清光の斜め向かい側に、安定はここ座るよ、と一声かけて着座する。少し落ち着きがないような動作で車内を見て、それからそっと清光を見た。
「――この列車、どこに行くんだろう。ちょっと気になるね」
「……そーね。ってか、停まってもらわないと困る。本丸に帰らなきゃいけないし、主たちだって心配するよ」
 清光は、彼の言葉にそっけなく返した。先程の安定の言葉で、外の景色への感動が吹き飛ぶくらいの不安に襲われたからだった。
 彼の言う通り、ここは何もかも不明だ。現在地も目的地もわからない、そんな奇妙な列車。そんなところに自分たちしかいないことや、乗る前の記憶がないという事実を改めて認識した途端に、迷子の子供が浮かべるような恐怖が沸き上がってくる。
 見知った顔がいることは安心材料になるけれど、その彼さえここに来るまでの記憶がないようなのだから余計に不気味に思えた。
(でも……ほんとにこの列車、何なんだろ)
 今は昼下がりだ。いくら山の合間を走る列車とはいえ、ここまで人がいないのは流石におかしいと思った。
 それにずっと走っているが、停まる様子がまったくない。いったい自分たちはどこに行くのだろう。本丸に帰ることはできるのだろうか。言い知れない不安ばかりがどんどん胸に積もっていく。
 その時、急に雑音と何者かの声が聞こえた。驚いた2振りが周りを見ると、男の声が車内に響いた。どうやら、どこからかここに音声を流しているらしい。
『――えー、次は…………き……えき……お降り……ものに……さい……』
 雑音だらけで、そのアナウンスは聞こえなかった。顔をしかめた清光は答えを求めて安定を振り返るが、彼にも聞こえなかったようで首を振られた。
 けれど辛うじて聞き取れた内容から察するに、どうやらもう少し待っていれば駅に着くらしい。ほっとした途端、急な眠気に襲われた。ぼすんと勢いをつけて背もたれに倒れ込む。
「――まあ、とりあえず駅には降りれるみたいだし、よかった。どこかで電話でも借りて、本丸に電話するしかないよね」
「そうだね……。主の携帯電話に繋がれば、そこからどうにかしてもらえるかもしれないし」
 うとうととしながらも、清光は安堵とともにそんな言葉を吐き出した。それにやはりふわふわとした声で答え、安定も眠そうに目を瞬かせる。
 ふと暗くなった車内に窓を見た彼は、驚愕に目を見開いて声を上げた。
「え……っ!」
「? なに。どうしたの?」
 声とともに、安定は勢いよく立ち上がった。それに驚いた清光は訝し気に安定の視線を追う。目に映った光景に、驚いて窓を叩くようにして張り付いた。
「は……!?」
 そこに在ったのは、先程の光景とは打って変わった殺伐とした景色だった。灰色の空に、大量の意志に埋め尽くされた鈍色の川、自然など一切存在せず、黒い岩肌を惜しみもなくさらしているとがった巨岩の森。そんなものの合間を縫って列車は進んでいく。
 急に一変した景色に、困惑する清光に安定が縋りついた。あの短時間でこんな景色に変わるのはいくらなんでもあり得ない。そんな認識が、言いようのない不安となって降り注いでいた。
「ねえ……清光、ここ何なの……?」
「俺に訊かれても……どこに降りんの、この列車……」
 震える声で安定に訊かれ、困惑した清光は案内板を探す。列車には次の駅に向かう間、それを表示するものがあると聞いた。
 列車のドアの上にそれを見つけて見てみるも、ディスプレイは字が読み取れないくらい汚れていた。これでは目的地はわからない。
 その時、がくんと列車のスピードが落ちた。バランスを崩し、2振りは椅子に投げ出される。列車はゆっくりとスピードを落とし、やがて完全に停止する。空気が抜けるような音とともに、どこかの駅に腰を落ち着けた列車は沈黙した。
 車内には先程までののどかな雰囲気の代わりに、冬の深夜のような冷たい空気が降りている。清光と安定が互いの怪我の有無などを確認していると、またどこからかノイズが響く。先程と同じ声で、もう一度アナウンスが聞こえた。
『――お待た……いた……た。――駅……――駅です……』
 今度は比較的明瞭に聞こえた。それなのに、駅名だけが雑音交じりで聞こえなかった。怪訝そうに顔をしかめた清光の横で、安定が息をのむ音が聞こえた。
 どうしたのと訊くも、彼は地面を見つめたまま黙って震えている。ただならない様子に声をかけようとしたその時、重い音がしてドアが開いた。
 外は夜のように真っ暗で、まるで闇が口を開けているように思えた。
「……」
 清光は、茫然とドアの外を見る。ドアからは冷たい風が吹き込み、2振りが下車するのを待っているように沈黙したドアは妙な威圧感を感じさせた。
 このまま降りるか、出発するのを待つか。ふたつの選択肢を天秤にかけた清光は、ふと抱いた予想に顔をしかめる。安定の手を握り、顔を上げた彼と目を合わせた。
「……降りよう、安定」
 意を決して、清光は震える声を絞り出した。この駅がどこだかはわからないが、一旦降りて反対方向に行く列車に乗ればこの不気味な場所から離れられると思ったからだ。
 このまま列車に乗り続けて、これ以上気味の悪い場所に行くかもしれないのは耐えられなかった。
 清光の言葉に、小さく震えていた安定は縋るように頷いた。その手を引っ張り、清光は足早に歩き出す。2振りが駅に降り立った直後、それを待っていたかのように音を立てて扉が閉まる。
 すぐに走り出した列車を、2振りは黙って見送った。列車が通り過ぎた眼前の景色は真っ暗な夜で、人工的な明かりが何もない景色が広がっていた。

   ※

「――なにここ。駅名も読めないじゃん」
 駅の天井から吊り下がっている看板を見て、清光は舌打ちをする。駅名が書いてあるはずのそれは黒く塗りつぶされていて、ここがどこなのか皆目見当もつかない。
 そもそも清光も安定も、「駅」などという未来の場所に来たこともない。主の話や、本丸で自由に読むことができる雑誌を読んで知識だけはあるが、どうやって利用すればいいのかすら知らない。
 それなのにどうしてこんなところに来ているのか、いくら考えてもわからない。頭がどうにかなりそうだった。
「……そもそも、俺たち今まで何してたわけ? 未来に行くなら覚えてるはずだよね。そんなことさえ記憶にないなんて、おかしい」
 ぶつぶつと呟きながら、清光はイライラと爪を噛む。普段なら絶対にしない行動をしてしまうくらい、精神的に追い詰められていた。
「――ねえ安定、お前俺より先に目が覚めたんだよね。ほんとに心当たりないの?」
 安定を振り返って訊くも、当の安定は怯えた様子で首を振る。一体何にそこまで怯えているのだろう。
 訝しんでいると、安定は引き攣った顔をそっと上げる。可哀想なくらい真っ青になった彼を見て、清光は思わずため息を吐く。それは彼に対する呆れでも失望でもない。むしろ彼の様子を見て、自分を落ち着かせようとついたものだった。
「……もー。そんな怖がったって仕方ないだろ。とにかく、闇雲に動くのは危ないからどっか座る場所探すよ」
 宥めるように肩に手を置くと、安定は震えながら頷く。何だか様子がおかしくて、「寒いの?」と訊いたが安定は首を振った。
 どうやら体調が悪いとか、そういう風ではないらしい。訝し気な顔をしながらも、清光は安定の手を引いて駅の宿舎に向かう。無人の駅舎は暗く、寒くて不気味だった。
「……人、全然いないんだ。無人駅、ってやつかな」
 そんなことを呟きながら、清光は総合案内所と書かれたカウンターを覗き込む。色々な機械や書類が埃を被って散乱し、もう何年も人がいないことを容易に想像させた。
 妙な気持ち悪さを感じ、清光はホームの椅子に座る安定の許に小走りで戻る。縮こまったまま動かない彼の隣に、ストンと腰を下ろした。
「――ここ、誰もいないみたい。駅の外に出て、誰かいないか探してみる?」
 途方に暮れて安定に訊くも、その安定からの返答はない。訝しんで彼の顔を覗き込むと、どこかほっとしたような、そんな目で何か呟いていた。
 襟巻に口元が隠れてるせいで声がこもり、何を言っているのか聞き取れない。名を呼んで強く肩を小突くと、弾かれたように清光を見る。もう一度名を呼ぶと、とぼけた声が返ってきた。
「――えっ?」
「えじゃないよ。俺の話聞いてんの?」
「あ……ごめん。なに?」
 気の抜けたような顔で返答され、清光は思わず項垂れる。その反応に狼狽した安定が次々に声をかけてくるのを手で遮り、清光はもう一度同じことを訊く。安定は瞬きして、それから俯いた。
「……そんな必要はないよ、清光。列車だったらすぐに来るから」
「へ?」
 妙に安心したような声音に、清光は思わず眉をひそめた。どういうことと訊くも、安定はただ安堵の笑みを浮かべるだけで、清光の問いには答えない。
 意味の分からない彼の様子に困惑していると、駅のホームにノイズが鳴り響いた。耳を劈くようなハウリングに、清光は思わず耳を抑える。
『――間もなく、4番線に下り列車が参ります……黄色い線まで下がってお待ちください』
 どこかで聞いたような覚えのある、そんな男の声がした。そう言えば、自分たちが乗った列車の中で聞いたあの声に似ている。
 あの声は一体なんだろう。そう考えている清光の横で、ゆらりと安定が頭を上げた。
「――沖田くんだよ、清光」
 冷たい声で安定は言った。清光の心を読んだかのようなセリフを吐いたその声音は、彼が知っているものとは根本的に違うものだった。
 それを悟った途端、本能的な寒気が背中を駆け抜ける。ほぼ無意識に半歩下がった清光に、無表情の安定は小さく首を傾げて訊く。
「――どうしたの、清光?」
 なんの感情も抑揚もない、そんな声で安定は問う。無表情のまま、かくりと小さく首を傾げて。そんな彼に、清光は何も答えられなかった。
 どうして電車が来ることを知っていたのか、あの声に何の疑問持たないのか。訊きたいことは山ほどあるのにどれも言葉にならなくて、清光は喘ぐように口を開閉させる。
 ただ緩やかな恐怖だけが足から背中へと這っていった。気持ち悪さに口を押さえた清光に、安定は囁くように口を開いた。
「……この駅はね、夜見よみ駅って言うんだって」
「……よみ?」
 一体いつどこで知ったのか、安定はそう清光に言う。椅子から立って歩き出し、線路に背を向けるようにする。怪訝そうに反芻した清光に満足そうに頷いた。
「沖田くんが呼んでくれたんだよ、僕たちを。さっきそう教えてくれたんだ・・・・・・・・・・・・・さっきそう教えてくれたんだ」
 そう言って、安定は何か湧き上がってきたものに顔を歪めて俯く。見たくないものを見たんだ、と呟いた。
「電車の中で夢を見た。お前が僕を置いていってしまう夢。目が覚めた時、怖くて怖くて仕方なかったけど、ただ不安でお前を捜した。――そうしたらちゃんと、目の前にいたから。本当に安心したんだよ」
 恍惚とした表情で言う安定から、清光はさらに間合いを取る。言っていることは支離滅裂で、彼が何を言いたいのかが分からない。
 目の前にいるのは安定なのに、どうしてか未知の恐ろしいものに思える。湧き上がってくる恐怖のままに、清光は彼から距離を取った。
「それは夢だと思ってた。でも、ここに着いた時のあの声が沖田くんだと気付いた時、嫌な光景が頭の中に浮かんできたんだ。信じたくなくて怖かったけど、沖田くんの声が大丈夫って言ってくれた。
――だから僕ね、受け入れることにしたんだよ。沖田くんが言うなら大丈夫。怖いものなんて何もない。……そうでしょう? 清光」
 自分が知らない、意味の分からないことを安定は次々と捲し立てた。清光は耐えきれず、踵を返して地面を蹴る。安定を置いて階段を何段か飛ばしながら駆け下り、無人の改札を飛び越えた。
(――逃げないと……!)
 安定を1人にする罪悪感も、申し訳なさも今はなかった。とにかくここから逃げたい。帰りたい。そう思って清光は走り続けた。
音も景色も遮断して、震える体を無理矢理動かして駅を飛び出した。

 清光のヒールの音が、暗闇の中に吸い込まれていく。安定はそれを止めることもせず、ただ凪いだ目で見送っていた。
 やがて完全に音が消えた頃、安定はふ、と息を吐く。目を閉じて。諦めた風に呟いた。
「……駅から出ない方がいいのに。――ここはよみだ。戻れなくなっても、知らない」
 言い終わらないうちに、安定の後ろに電車が滑り込んできた。空気の抜けるような音と、重いものを動かすような音を立てて扉が開く。安定はゆっくりと振り返り、虚ろな目で電車の中を見た。

           ※
 ※

 清光は息を切らしながら、駅の外を走っていた。周りの景色なんてろくに見ていないけれど、人工的な光がなくて、そのせいか人の気配もなくて、ほとんど枯れた樹がアーチのように枯れ枝を伸ばしていたのをなんとなく目に映していた。
(何ここ……どっかの田舎……!?)
 混乱する頭でそれだけを考える。記憶にある風景と照らし合わせても古い町並みだ。まるで昔話に出てくる小さな村のような。
(意味わかんない……何で、俺こんなところに、あの安定は何なんだよ……!?)
 どうしてこんなところにいるのか、どうしてこんな目に遭わなければいけないのか。答えの出ない疑問ばかりがぐるぐると頭を駆け巡る。そのうち走りつかれて立ち止まり、体をくの字に折って呼吸を整える。熱い吐息が喉を焼いて、乾いて張り付いた。
(どうやったら、ここから出られる……? とにかく帰らないと、このままここにいたら)
 このままここに居続ければ、取り返しのつかないことになってしまう。何となく、けれどはっきりとそれを確信した。
 本丸に帰って、主に報告して、そして安定の様子を見に行かなければならない。それだけを考えて、清光は頭を振る。混乱を振り切ってまた周囲の様子を把握しようとしたその時、突如鳴り響いたけたたましい音に体を跳ねさせた。
「っ!?」
 突然のことに、清光は引き攣った声を上げる。バクバクと鳴り響く心臓を抑えて、そっと振り返った。
 清光のいる地点から数メートル後ろの暗がりにある、電話ボックスからその音は鳴っていた。初めて目にした人工的なものの存在に、茫然と向き直る。
「……え?」
 こんなところに電話なんてあっただろうか。いや、自分が気付かなかっただけかもしれない。それにしても、一体誰が電話なんて。
(……出た方が、良い……?)
 一瞬躊躇した。誰からかかってきてるのか、誰宛てにかかってきているのかもわからない電話。
 もしかしたら自分宛てではないかもしれないし、あの駅から安定か、別の誰かがかけてきているのかもしれない。そう考えたが、後者はありえないだろうと清光は首を振った。闇雲に走ってきた自分のもとに、どうして電話を掛けられるだろうと思ったからだ。
「……」
 もしかしたら、ここから本丸に帰れる手段が見つかるかもしれない。そう思って、清光は恐る恐る電話ボックスに近づいた。
 ドアを開け、そっと受話器に手を伸ばす。震える手で受話器を取って、ゆっくりと耳に近づけた。
「……はい」
 電話の向こうからは、予想に反して酷い雑音が聞こえていた。まるであの列車のアナウンスの時のようだ。
 一瞬ぎょっとする清光の耳に、少しずつ声が聞こえてくる。切羽詰まったような涙声。それに気づいて、じっと耳を澄ます。
『……で……き……え……つ……』
「……え?」
 聞き覚えのある声だった。いつも聞いているあの声。まさかほんとに、と恐怖に背中が粟立った時、急に声が鮮明になる。
 金切り声に近い、何としてでも引き留めようとするような悲痛な絶叫が響いた。
『――いかないで、清光!』

 声は、安定のものだった。さっきまでとは雰囲気が違う。清光の混乱がどんどん強くなり、彼は受話器を取り落とした。空中でバウンドした受話器がゆらゆら揺れる。今の清光の瞳のように。
 その瞬間、一つの仮説が清光の脳内を過った。できれば外れていてほしいそれに、爪先から震えが全身に這いあがってくる。
 清光は乾いていく喉を必死で開き、震える唇をしっかりと意志を持って動かした。頭の中の仮説を声に出さなければ、今度こそおかしくなってしまいそうだったから。
「……まさか、俺と安定は、もう」
 震える声で呟いた刹那、体から力が抜けて座り込んだ。呆然と震えている清光の背後でドアが開いて、暗闇の中から枯れ枝のように細く節くれ立った腕が伸びる。清光の両目を塞ぐように覆い、「それ」は枯れ葉が擦れるような声で囁いた。

「――帰れるわけがないじゃないか、アンタは黄泉に堕ちたんだから」


※ ※

 無人の電話ボックスに残された、戻されることのなかった受話器。
 そこからは、悲痛に泣き叫ぶ声だけが響き渡っていた。
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