夢であってくれ。前編
気がつくと周りには気絶しているのか死んでいるのかも判らないモノたちが転がっていた。
その中でまだ醜悪に呻いているモノの頭を強かに踏みつける。やっと静かになったソレを蹴り転がして歩を進めた。
埃っぽい床に散らばる青い制服とレモン色のスカーフを見て、自分が襤褸以外何も身に着けていないことを自覚する。何故、と思考しようとすると、ズキリと頭が痛んだ。
「あいたいよぉ……せんぱい……」
ふいに口をついて出た言葉。ずっと外の自分が呼んでいたようだけど、せんぱい……って一体誰なんだろう。
頭痛は次第に酷くなっていく。
遠くからサイレンの音が聴こえる。
『俺』の意識は、そこでまた途切れた。
***
リノリウムの廊下を駆け抜けていると、目当ての病室から怒号が響いてきた。
「俺に触れるんじゃねぇ!! ふざけんなッ! テメェ、ぶっ殺してやる!」
あの声は間違いなく本田のものだ、それもバイクに乗っている時の。しかし何かが違う、気がする。そもそもここにバイクがあるはずも無い。
違和感を拭えないまま、件の病室にたどり着く。中を覗き込むと、病衣を着た本田がベッドの上で暴れていた。とは言っても右腕と右足をそれぞれ怪我して固定されているため、男性看護師五人がかりで取り押さえられている。よく見ればその険しい目許には、涙が滲んでいた。
「本田!! 落ち着け!」
ぼんやりとその光景を眺めていたのはほんの数瞬で、わしは看護師たちの間に割って入った。とにかくこのままではマズいと思い必死に声を掛ける。怯えた様子でがむしゃらに暴れる本田はとても痛々しかった。
「本田、わしだ! 両津だ! もう大丈夫だから! なっ!」
わしを見た本田の目からほろりと涙がこぼれ、ピタリと目が合う。本田はまるで覚えたての言葉を発音するこどものように、「りょうつ……」とわしの名をたどたどしく復唱した。何かを思案しようと涙に濡れた瞳が揺れる。だが。
「──ぐぅッ! あ、頭が、……!」
「おい、大丈夫か!」
知らず握りしめていた手を振り払われる。
「だれ、なんだよ……? テメェはッ……!?」
「……は?」
あっけにとられるわしの目の前で本田は気を失ってしまった。俄にカクンと力を失った上半身を咄嗟に受け止めて、ベッドに横たえる。すうすうと寝息を立てる本田は、あの気弱なあいつそのものだった。それなのに、あの本田が何処か遠くに行ってしまったように感じられて、わしはその場にしゃがみ込んで縋るように名を呼んだ。
「本田……!」
自分を無力だと思ったのは初めてだった。
***
交通課の面々から本田との連絡が途切れたと聞いた時、わしは交通課長の胸ぐらを掴んで詳しい事情を問い質した。
曰く、本田の白バイが道路に投げ出され、近くに血痕があったと。
現場に残された塗料から、連絡が取れなくなる直前まで本田が追跡していた車種が判明したこと。その車輌が盗難車で、最近本田が厳しく取り締まった半グレ集団が盗んだものだったということ。
そこまで聞き出せば十分だった。署をあげての捜査にわしも割り込んだ。
本田を真っ先に見つけたのはわしだった。
薄暗く埃臭い倉庫の中、乾いた血痕を辿って行った先にあいつは倒れていた。
慌てて駆け寄り呼吸していることを確かめ、改めて周りを見回せば死屍累々の有様で、中には署の捜査本部で写真を見た半グレ集団のリーダーもいた。
至急応援と救急を要請してから倒れている本田をよく見ると、右腕と右脚に血の滲んだ襤褸切れが巻かれているだけでその他は何も着せられておらず、そのうえ身体のいたるところが乾いた白濁で汚されていることに気付き、これまで感じたことがないほどの強い怒りを覚えた。
わしにとって長らくかわいい後輩だったあいつは、ほんの一ヶ月前にわしの恋びとまで駆け上がったが、本田自身まだ心の準備ができないとかで体の関係にまでは至っていなかった。そんな焦れったさすら感じる関係を、これからもなんだかんだ言いながら続けていくのだと、思っていたのに。
憤りに震える手で自分の制服を脱ぎ、胎児のような体勢で眠っている本田に掛けてやる。大切に抱き起こし、その幼気ですらある寝顔を穢す白濁を指で拭った。その時、確かに本田はわしを呼んだのだ、掠れた声で「せんぱぃ……」と。だから少し安心してしまっていた。
そもそも発見したこの時に、バイクを奪われた気弱な本田がこれだけの人数を相手取って戦えるはずが無いと、気付くべきだったのだ。
***
派出所に戻ると、沈痛な面持ちの中川がわしを出迎えた。
「──わしを見て、『誰なんだ』……だと」
「本当に、記憶喪失なんですね……」
「普段の温和な様子を伝えたら、医者は『解離』ではないかと言っていた。自分の身に起きた事態から心を守るために別の人格を作りだしたんじゃないか、ってことらしい」
「でも先輩の話を聴くとまるで……、」
「そうだ、あれはバイクに乗っているときの本田、しかも族の頭だった頃まで戻っている。病院で会ったあいつの親父さんが言うには、むかしの家族のことは覚えてはいたらしいんだ。ただしあの本田の中では伊歩ちゃんも門喜もまだ小学生だし、今の弟妹を見ても誰なのか認識できなかったそうでな。つまり解離と退行が同時に起きてしまったってことだろう。……そうでもしないと『あっちの本田』を守れないと本能的にあいつの無意識が悟ったんだろうな。それで常に気を張っていた頃の、バイク無しでも戦えるあの人格を無理やり表出させた。それがそのまま主人格として定着したんじゃないか?」
「じゃあ、いつものやさしい本田さんにはもう会えないかもしれないということですか……?」
「そうは言ってない。あいつの心には絶対あの本田は居る。なんせわしをせんぱいと呼んだ瞬間があったからな」
心配そうにわしを見る中川に「ま、なるようになる」とぎこちなく笑って見せれば、「そう、だといいんですが……」と不安を拭えない複雑な表情で頷いた。
***
本田の家族には、救出当時のあいつの様子は伝えない方針となった。状況が状況なだけに、本田自身の尊厳を守るため、署内にもひそかに箝口令が出されている。詳細を知るのはあいつを発見したわしと、応援としてあの惨状を目撃した中川や麗子といったごく限られた人間だけだ。
本田を発見した直後、犯人共をその場で始末していこうとしたわしを背後から羽交い締めしにて止めた中川に「『片付け』ならいつでもできるようにしておきますから……今は本田さんに寄り添ってあげてください」と諭されたわしは、苦い気持ちで本田を抱きしめたまま救急車の到着を待ち、ストレッチャーで運ばれるあいつを見送るしかなかった。
わしより先に病院に到着していた、バイクにしか興味が無いはずの本田の親父さんからは、何かを悟った表情で懇ろに礼を言われた。去り際の悔しそうな表情の中、その目許に光るものがあって遣る瀬無かった。
***
目覚めてから今日で一ヶ月経ったらしい。日々の記憶が朧気だが、俺を何故か『お兄ちゃん』と呼ぶべっぴんさんが花瓶の水を替えながら教えてくれた。
この俺がバイクで事故るなんざあり得ねぇと思っていた。だが、ザマァねぇ、右腕右脚には真っさらな包帯が巻かれ身動ぐたびにまだじくじくと痛む。
ここに来るまでの記憶が無いのは、一時的な記憶の混乱だとか医者が言っていた。
どうせいつもみてぇに馬鹿やらかして、調子に乗っていたのだろう。
白い天井を見つめながら考える。そろそろ潮時ってやつか、と。というか個室なんかにしちまって、入院代払えるのか親父……と心配になる。
心配ついでにそろそろ親父のバイク屋を継ぐのも悪くねぇかもな、なんて考えているとノックも無しに病室のドアが開いた。
ここにいるのが妹の伊歩だったら、機嫌を損ねちまうような雑さだ。……心優しいあいつも年ごろってやつなんだろう、洗濯物も親父と分けてほしいとこっそりおふくろに伝えていた。兄である俺もいつかそう言われると思うと少し身構えちまうなぁ。
「──い、おい。本田!」
名を呼ばれてハッとする。目の前にはゴツい警官のおっさんがこっちをのぞき込んでいて、思わず仰け反りそうになったがベッドに邪魔され叶わなかった。
このおっさんは事故当時から俺を知っているらしく、時々、というかほぼ毎日見舞いに来る。暇なのか。警察だろうに。
「またぼんやりしていたぞ、頭や傷が痛むならちゃんと言えよ。じゃないと今度暴れたら手錠使ってでも止めなきゃならんからな」
「……ふん。警察が怖くて族の頭なんざ張れるかよ。俺の単独事故だったんだろ? 聴くことなんかそう無ぇだろうに。やっぱ暇なのか? それに……まだ何も思い出せねぇし」
「ばか、わしはおまえがまた看護師や医者相手に暴れてやしないかと見張りに来てやっとるんだ。それと……無理に思い出さなくてもいい。あとはこっちで勝手にやる」
「そうかよ。だったら早く戻ったほうがいいんじゃねぇのか、おっさん」
素っ気なく言い返す。
するとおっさんは急に丸椅子ごとベッドに近寄って、じっと俺の顔を見つめてきた。近くで見るとまたなかなか迫力のあるツラしてやがる。
ガンの飛ばし合いなら負けねぇぞ、と睨み返す。
「……はぁ」
急に脱力し肩を落としたおっさんは、丸椅子にどっかりと座り直して言った。
「『おっさん』、なぁ……」
「は? 実際おっさんだろうが」
おっさんは角刈り頭をガシガシ掻いて、「そういうことじゃなくて……」だとかなんとかぼそぼそ呟いていて正直なところかなり挙動不審だ。
そのさまを見ていると、何というか少し笑えた。なんて言ったらいいのか分からねぇが、何処か懐かしいような感じがして、『このひとらしくねぇな』とほぼ無意識に思っていた。
「……ははっ。今のあんた、俺が警官だったら職質してるぜ」
何とはなしにそう言えば、おっさんは顔をバッと勢いよく上げて俺を見てきた。何とも言えない表情をしていた。そのツラに浮かぶ感情は……なんだ? 悔しさ? 寂しさ? 申し訳なさ? その全部か? それともまったく別の感情か?
「本田、おまえは……、」
何かを言いかけ、おっさんは口を噤んだ。痛そうなくらい下唇を噛み締めている。そして何かを振り切るように「また明日も来るからな」と俺に告げて足早にドアまで向かった。俺は何故か物凄くもどかしく思って、おっさんを呼び止めた。咄嗟に出た言葉は──。
「待ってくれ、ダンナ……!」
思わぬ単語なのに口に馴染むことに驚いていると、おっさん……いや、両津のダンナがこっちに駆け戻ってきた。と思うと、上半身を抱き締められた。痛いくらいの力強さだったが、何故かその痛みすら懐かしくて愛しいもののように思えた。目覚めてからずっと、看護師だろうが医者だろうが男に少しでも触れられると途轍もない恐怖に襲われていた。なのに今はそれがない。むしろこの高めの体温をもっと近くに感じたい、そう思ってしまうくらいだった。
抱き返そうか、考えた刹那。
脳裏に映像の奔流が流れ込んできた。これは──これは記憶だ。頭が割れそうなほど痛む。我を忘れるほどの痛みなのに、蘇る記憶がそれを許さない。
「──本田! 本田……ッ!」
必死に名を呼ばれる。ああ、懐かしいダミ声だ。思い出した。俺は……俺は、そう。『交機の本田』だ。盗難車の青いマークXを追跡していて……そうだ。急カーブで速度を落としきれなかったその車輌から箱乗りしていた同乗者が放り出されたんだ。ソイツを介抱するためにバイクを降りた途端、その車輌がいきなりバックしてきて……仲間であろう投げ出された奴諸共に轢かれて……轢かれて? 今、ここにいるのか? ……何かを忘れている気がする。記憶はまだ不完全なのか。
「両津のダンナ……ッ、俺ぁ、青いマークXを追っていて……ソイツは盗難車で……! そうだ、怪我人がいたんだ、アイツは……!?」
「いい、もういいんだ。本田。わしはおまえが帰ってきてくれただけで……。だから無理はしないでくれ。頭が痛むならもう休め……!」
分厚くて大きな手に背を何度も撫で下ろされ、どうしようもなく安堵した俺は頭痛から解放されたのも手伝ってか、急激な睡魔に襲われた。眠りに落ちる直前、未だ目覚めない『あっちの俺』が胸の奥の奥で、むずかる幼子のように身動いだ気配を感じた。
***
夢を見ている。
その確信はある。
俺は今、救出され入院しているはずだから。
それなのに。
饐えたにおい。薄暗い照明に照らされた舞い上がる埃。男共の下卑た嘲笑。全身を吟味する舐めるように纏わりつく視線。
それらすべてに現実味がありすぎて。
せめて俺が外に出てやれたなら、怯えている表の俺を護ってやれるっていうのに。俺はあくまでも表の俺がバイクという媒体に封じ込めた、かつて暴れ回っていた頃の残滓に過ぎない。バイク無しでは表の俺を護ることすらできないという無力感に苛まれる俺に向けて、表の俺がフッと微笑んだ、ような気がした。
記憶も地続き、ただ性格が強気になるだけで、所謂二重人格というものではない。
俺自身もそう思ってきた。だが、この時気づいてしまった。俺は今、表の俺によって、あいつから切り離されたのだと。その証拠とでもいうように、今の俺はあの薄暗い現実が見えない、感じ取ることができない。ただ只管に真っ白な空間に隔離されて、表の俺に何が起きているのかすら知覚できなくなっている。
──ああ、護られたのは俺の方だったんだ。
***
「……ダンナ、今の俺に違和感はないか?」
純白の清潔なベッドの上で、身を起こした本田が問いかけてきた。わしはりんごの皮をむく手を一瞬止めて、また無言でしょりしょりと音を立てながら作業を再開した。すると本田は焦れた様子で「なぁ、答えてくれ」と身を乗り出してくる。
「さぁな。いつも通りだろ」
「しらばっくれんなよ。気づいてんだろ、ダンナも」
掴みかからんばかりの勢いで問い詰められる。わしは危ないからと咄嗟にナイフを置き、どうどうと本田をなだめた。こいつの言いたいことは分かってはいる。
バイクに乗ってもいないのに、どうしてこの本田が表に出てきているのか。
それは、自分に起こった受け入れがたい現実から自身を守るために、あの気弱な本田の代わりに、強気なこいつが表立って『ふだんの本田』を切り離したからだと、わしは考えていた。
だが本田は、思い詰めた様子で言った。
「──俺はあいつに、表の俺に護られたんだ」
「何だって? 逆じゃないのか」
思わず疑問が口をついて出る。すると、本田は苦い自嘲を口元に浮かべて血を吐くように言葉を紡いだ。
「俺には、あいつの身に何が起きたのか、一切の記憶が無いんだ。……あの後、自分の身に何があったのか、理解していない訳じゃねえ。だが、実際に全てを受け止めたのは、あっちの俺だ。だから今、消耗したあいつは俺の心の奥で眠りに就いている。それは何となく分かるんだ。一時的に俺の記憶が退行しちまったのは多分、無意識に男という脅威から身を守ろうとしたからだ」
「待て待て。あの暴走族時代の性格で、男共を倒したんじゃないのか?」
「そこが謎なんだよ。俺はあっちの俺によって隔離されていた。そして族時代の人格は病院、つまりここで目覚めてから退行しちまったもの。なあ、両津のダンナ。──『俺たち』を守って戦ったのは、一体誰なんだろうな……?」
本田の問いかけに未知を感じ取ったわしは、ふるりと身震いをした。
重い沈黙が降りてくる。それに耐えられなくなったわしは、りんごの皮むきを再開した。上手くできたうさぎりんごを皿に盛り、本田の前に置いてやる。あいつは「相変わらず器用だな、ダンナは」と無理に微笑んだ。その笑みが、今のわしには痛くてたまらなかった。
***
「本田さん自身も知らない一面、ですか……少し、こわいですね」
中川が腕を組んで思案顔で目を閉じる。
「そうなんだよ。わしですら少しゾクッとしたぞ」
「いえ、そういう意味ではないんです」
「じゃあどういう意味で怖いんだ?」
麗子が盆に湯呑みを三つのせて派出所の奥から出てきて言った。
「両ちゃんたちは本田さんを、やさしい彼と強気な彼とに完全に分かれて『二重人格』になった上で退行している、って言っていたじゃない? そうではないと圭ちゃんは考えているのよ」
「……。わしにも分かるように説明してくれ」
「本田さんの中には今、おそらく『三人目』が居ます」
「ま、まだキスまでだぞッ!? それでこどもは出来んだろ! しかも三人目って……一姫二太郎かよ!」
「もう! どうしてそっちに向かっちゃうのよ! 三人目の本田さんという新しい人格が生まれたんじゃないのかって言いたいの、圭ちゃんは!」
「は、はあ? つまり……?」
怒る麗子から視線を中川に移す。さながら助けを求めるように。すると。
「バイク無しであれだけの人数を半殺しにしてしまうなんて、ふだんのやさしい本田さんでは不可能でしょう。バイクに乗っていない本田さんと、バイクに乗っている本田さん。僕の想像の域を出ませんが、このふたりの彼を折衷したような人格が、今も本田さんの中に眠っているのでは、と。いえ、眠ってくれているなら幸いです。もし目覚めているとしたら……、」
「見境なく暴れる危険人物そのものになる……とか言うんじゃねぇだろうな」
中川も麗子も、何も言わなかった。
ただ、わしが茶を啜る音が静かに響くのみだった。
***
「おじさん、だあれ?」
本田は退院後、しばらくの休職措置が適用された。寮ではなく南千住の実家に帰され、家族のもとで療養中だ。
きっと暇を持て余しているだろうと、わしはあいつの好きそうなバイクのプラモを持って、本田輪業のシャッターをくぐった。
相変わらずのラインナップの店内で、目当ての姿を見つけ、わしはその背に声を掛けた。
古い型だが新品の磨き抜かれたバイクのそばにしゃがみ込んでいた本田は、ビクリと肩を震わせてこっちを見上げた。そして言い放った、冒頭の台詞を。その表情は退院前、最後に見た時の厳めしいあの表情では無く、隙だらけで柔らかい『いつもの本田』だった。ただ違和感があるとすれば、さっきの言葉と常よりも少し高い声色、そしていつも以上に柔和で幼さすら感じさせる表情だった。
わしはなんとなく悟った。実家に帰ってくることで気を張る必要が無くなったために、強気な本田は休んでいるのだろうと。
その代わりに現れたのがこっちの人格だ。あっちの本田曰く完全に隔絶されたという人格は、やはり記憶の共有もされていないようで、いよいよ二重人格の様相を呈しているように見える。
それにしても、さっきの台詞は……いやな予感がする。
わしはいつも通りを意識して話しかけた。
「本田。ずっと家にいて暇だろ。おまえの好きなKAWASAKIゼッツーのプラモ持ってきたから一緒に作ろうぜ」
本田はまるい目をぱちくりと瞬かせた。そして申し訳なさそうに俯くと、困り顔でもじもじと言った。
「おとうさんが、『知らないひとから物をもらっちゃだめ』だって……ほんとうはお話するのもだめって言われてる」
わしはじっとりと冷や汗をかいた。もしかして、という考えがちらついている。
「し、知らないひと、は無いだろ。わしだ、両津だ、おまえのせんぱいだぞ……!?」
思わずにじり寄って本田の肩にぽんと手を置いてしまった。すると本田は震える声で短い悲鳴を上げた。
「きゃあッ!」
「お、落ち着け本田。何も痛いことしないから!」
いかん、これでは完全に不審者だ。
「やだ! さわらないで! おとうさん、たすけて!」
ぺたりとその場に座り込んで本田は本格的に泣き始めてしまった。すると店の奥から「どうした速人ーッ!!」という声とドタドタした足音が聞こえて来た。居間へと続く戸が開いて、本田の親父さんが現れる。素足のまま土間に下り、息子を守るように抱きしめた。
「すまんかったなぁ、ひとりにしてしまって……。怖かったな、よしよし。おとうさんが来たからな、もう大丈夫だ」
ものすごく居た堪れない思いで二人を見守る。
親父さんは息子の背中をぽんぽんと優しくたたいてあやしてやっている。そしてギロリと鋭い眼光をこっちに向けた。と思えばすぐにきょとんとして言う。
「両さんじゃないか。……、わるかったねぇ、うちのせがれが」
申し訳なさそうに頭を下げられ、わしもつられてしまう。
「いや、別にわるかないさ。それより、本田のその様子は……?」
「あ、あぁ、見ての通りだよ。自分を小さなこどもだと思っているようで……私や妻のことは分かるみたいなんだが、伊歩と門喜については生まれたことさえ忘れちまってるらしいんだ」
伊歩ちゃんのことは今のところ優しい近所のお姉さんだと認識してはいるようだが、実の弟の門喜には怖がって近付きさえしないらしい。
「ひたすらに悲しい、そして悔しい」そう言って親父さんは肩を落とす。
わしは親父さんに掛けてやれる言葉を持っていなかった。息子の身に何があったのか、この人は勘づいているのだろう。だからこそ、わしは何も言えない。あと一日でも救出が早ければ、もしかしたら……。そう考えてしまうのは親父さんもわしもきっと同じだ。
当の本田本人は、自分の父親が悔し涙をこらえていることに気づいたらしく、「おとうさん、どうしたの? いたいのいたいの、とんでけー」と一生懸命に親父さんの背をさすってやっている。その幼い気遣いがある意味逆効果だったようで、親父さんはついにおいおいと泣き出してしまった。
困り果てた様子でまた瞳を潤ませる本田と目が合うが、あいつは親父さんの背の後ろにぴゃっと隠れてしまった。身長的にあまり隠れきれていないが。
ぐすっと洟を鳴らした親父さんが本田の肩に手を添えながら、怯えた目でわしをうかがう息子を諭す。
「……ほら速人。おまえのだいすきな両さんだよ。いつもおとうさんおかあさんにお話してくれてただろう?」
親父さんに促されて、おずおずと本田は顔をのぞかせた。
……ここで焦ってはだめだ。本田は今、男という存在に怯えきっている。そこで無理をさせては、余計にこいつを傷つけてしまう。
また本田と視線が絡んだ。かと思えば、親父さんの影に隠れてしまう。
わしは本田といっしょに遊ぶために持ってきたプラモの箱を親父さんに預け、あいつに向けて言った。
「また来るよ。そのゼッツーは、もう少し慣れたら一緒につくろうな」
その中でまだ醜悪に呻いているモノの頭を強かに踏みつける。やっと静かになったソレを蹴り転がして歩を進めた。
埃っぽい床に散らばる青い制服とレモン色のスカーフを見て、自分が襤褸以外何も身に着けていないことを自覚する。何故、と思考しようとすると、ズキリと頭が痛んだ。
「あいたいよぉ……せんぱい……」
ふいに口をついて出た言葉。ずっと外の自分が呼んでいたようだけど、せんぱい……って一体誰なんだろう。
頭痛は次第に酷くなっていく。
遠くからサイレンの音が聴こえる。
『俺』の意識は、そこでまた途切れた。
***
リノリウムの廊下を駆け抜けていると、目当ての病室から怒号が響いてきた。
「俺に触れるんじゃねぇ!! ふざけんなッ! テメェ、ぶっ殺してやる!」
あの声は間違いなく本田のものだ、それもバイクに乗っている時の。しかし何かが違う、気がする。そもそもここにバイクがあるはずも無い。
違和感を拭えないまま、件の病室にたどり着く。中を覗き込むと、病衣を着た本田がベッドの上で暴れていた。とは言っても右腕と右足をそれぞれ怪我して固定されているため、男性看護師五人がかりで取り押さえられている。よく見ればその険しい目許には、涙が滲んでいた。
「本田!! 落ち着け!」
ぼんやりとその光景を眺めていたのはほんの数瞬で、わしは看護師たちの間に割って入った。とにかくこのままではマズいと思い必死に声を掛ける。怯えた様子でがむしゃらに暴れる本田はとても痛々しかった。
「本田、わしだ! 両津だ! もう大丈夫だから! なっ!」
わしを見た本田の目からほろりと涙がこぼれ、ピタリと目が合う。本田はまるで覚えたての言葉を発音するこどものように、「りょうつ……」とわしの名をたどたどしく復唱した。何かを思案しようと涙に濡れた瞳が揺れる。だが。
「──ぐぅッ! あ、頭が、……!」
「おい、大丈夫か!」
知らず握りしめていた手を振り払われる。
「だれ、なんだよ……? テメェはッ……!?」
「……は?」
あっけにとられるわしの目の前で本田は気を失ってしまった。俄にカクンと力を失った上半身を咄嗟に受け止めて、ベッドに横たえる。すうすうと寝息を立てる本田は、あの気弱なあいつそのものだった。それなのに、あの本田が何処か遠くに行ってしまったように感じられて、わしはその場にしゃがみ込んで縋るように名を呼んだ。
「本田……!」
自分を無力だと思ったのは初めてだった。
***
交通課の面々から本田との連絡が途切れたと聞いた時、わしは交通課長の胸ぐらを掴んで詳しい事情を問い質した。
曰く、本田の白バイが道路に投げ出され、近くに血痕があったと。
現場に残された塗料から、連絡が取れなくなる直前まで本田が追跡していた車種が判明したこと。その車輌が盗難車で、最近本田が厳しく取り締まった半グレ集団が盗んだものだったということ。
そこまで聞き出せば十分だった。署をあげての捜査にわしも割り込んだ。
本田を真っ先に見つけたのはわしだった。
薄暗く埃臭い倉庫の中、乾いた血痕を辿って行った先にあいつは倒れていた。
慌てて駆け寄り呼吸していることを確かめ、改めて周りを見回せば死屍累々の有様で、中には署の捜査本部で写真を見た半グレ集団のリーダーもいた。
至急応援と救急を要請してから倒れている本田をよく見ると、右腕と右脚に血の滲んだ襤褸切れが巻かれているだけでその他は何も着せられておらず、そのうえ身体のいたるところが乾いた白濁で汚されていることに気付き、これまで感じたことがないほどの強い怒りを覚えた。
わしにとって長らくかわいい後輩だったあいつは、ほんの一ヶ月前にわしの恋びとまで駆け上がったが、本田自身まだ心の準備ができないとかで体の関係にまでは至っていなかった。そんな焦れったさすら感じる関係を、これからもなんだかんだ言いながら続けていくのだと、思っていたのに。
憤りに震える手で自分の制服を脱ぎ、胎児のような体勢で眠っている本田に掛けてやる。大切に抱き起こし、その幼気ですらある寝顔を穢す白濁を指で拭った。その時、確かに本田はわしを呼んだのだ、掠れた声で「せんぱぃ……」と。だから少し安心してしまっていた。
そもそも発見したこの時に、バイクを奪われた気弱な本田がこれだけの人数を相手取って戦えるはずが無いと、気付くべきだったのだ。
***
派出所に戻ると、沈痛な面持ちの中川がわしを出迎えた。
「──わしを見て、『誰なんだ』……だと」
「本当に、記憶喪失なんですね……」
「普段の温和な様子を伝えたら、医者は『解離』ではないかと言っていた。自分の身に起きた事態から心を守るために別の人格を作りだしたんじゃないか、ってことらしい」
「でも先輩の話を聴くとまるで……、」
「そうだ、あれはバイクに乗っているときの本田、しかも族の頭だった頃まで戻っている。病院で会ったあいつの親父さんが言うには、むかしの家族のことは覚えてはいたらしいんだ。ただしあの本田の中では伊歩ちゃんも門喜もまだ小学生だし、今の弟妹を見ても誰なのか認識できなかったそうでな。つまり解離と退行が同時に起きてしまったってことだろう。……そうでもしないと『あっちの本田』を守れないと本能的にあいつの無意識が悟ったんだろうな。それで常に気を張っていた頃の、バイク無しでも戦えるあの人格を無理やり表出させた。それがそのまま主人格として定着したんじゃないか?」
「じゃあ、いつものやさしい本田さんにはもう会えないかもしれないということですか……?」
「そうは言ってない。あいつの心には絶対あの本田は居る。なんせわしをせんぱいと呼んだ瞬間があったからな」
心配そうにわしを見る中川に「ま、なるようになる」とぎこちなく笑って見せれば、「そう、だといいんですが……」と不安を拭えない複雑な表情で頷いた。
***
本田の家族には、救出当時のあいつの様子は伝えない方針となった。状況が状況なだけに、本田自身の尊厳を守るため、署内にもひそかに箝口令が出されている。詳細を知るのはあいつを発見したわしと、応援としてあの惨状を目撃した中川や麗子といったごく限られた人間だけだ。
本田を発見した直後、犯人共をその場で始末していこうとしたわしを背後から羽交い締めしにて止めた中川に「『片付け』ならいつでもできるようにしておきますから……今は本田さんに寄り添ってあげてください」と諭されたわしは、苦い気持ちで本田を抱きしめたまま救急車の到着を待ち、ストレッチャーで運ばれるあいつを見送るしかなかった。
わしより先に病院に到着していた、バイクにしか興味が無いはずの本田の親父さんからは、何かを悟った表情で懇ろに礼を言われた。去り際の悔しそうな表情の中、その目許に光るものがあって遣る瀬無かった。
***
目覚めてから今日で一ヶ月経ったらしい。日々の記憶が朧気だが、俺を何故か『お兄ちゃん』と呼ぶべっぴんさんが花瓶の水を替えながら教えてくれた。
この俺がバイクで事故るなんざあり得ねぇと思っていた。だが、ザマァねぇ、右腕右脚には真っさらな包帯が巻かれ身動ぐたびにまだじくじくと痛む。
ここに来るまでの記憶が無いのは、一時的な記憶の混乱だとか医者が言っていた。
どうせいつもみてぇに馬鹿やらかして、調子に乗っていたのだろう。
白い天井を見つめながら考える。そろそろ潮時ってやつか、と。というか個室なんかにしちまって、入院代払えるのか親父……と心配になる。
心配ついでにそろそろ親父のバイク屋を継ぐのも悪くねぇかもな、なんて考えているとノックも無しに病室のドアが開いた。
ここにいるのが妹の伊歩だったら、機嫌を損ねちまうような雑さだ。……心優しいあいつも年ごろってやつなんだろう、洗濯物も親父と分けてほしいとこっそりおふくろに伝えていた。兄である俺もいつかそう言われると思うと少し身構えちまうなぁ。
「──い、おい。本田!」
名を呼ばれてハッとする。目の前にはゴツい警官のおっさんがこっちをのぞき込んでいて、思わず仰け反りそうになったがベッドに邪魔され叶わなかった。
このおっさんは事故当時から俺を知っているらしく、時々、というかほぼ毎日見舞いに来る。暇なのか。警察だろうに。
「またぼんやりしていたぞ、頭や傷が痛むならちゃんと言えよ。じゃないと今度暴れたら手錠使ってでも止めなきゃならんからな」
「……ふん。警察が怖くて族の頭なんざ張れるかよ。俺の単独事故だったんだろ? 聴くことなんかそう無ぇだろうに。やっぱ暇なのか? それに……まだ何も思い出せねぇし」
「ばか、わしはおまえがまた看護師や医者相手に暴れてやしないかと見張りに来てやっとるんだ。それと……無理に思い出さなくてもいい。あとはこっちで勝手にやる」
「そうかよ。だったら早く戻ったほうがいいんじゃねぇのか、おっさん」
素っ気なく言い返す。
するとおっさんは急に丸椅子ごとベッドに近寄って、じっと俺の顔を見つめてきた。近くで見るとまたなかなか迫力のあるツラしてやがる。
ガンの飛ばし合いなら負けねぇぞ、と睨み返す。
「……はぁ」
急に脱力し肩を落としたおっさんは、丸椅子にどっかりと座り直して言った。
「『おっさん』、なぁ……」
「は? 実際おっさんだろうが」
おっさんは角刈り頭をガシガシ掻いて、「そういうことじゃなくて……」だとかなんとかぼそぼそ呟いていて正直なところかなり挙動不審だ。
そのさまを見ていると、何というか少し笑えた。なんて言ったらいいのか分からねぇが、何処か懐かしいような感じがして、『このひとらしくねぇな』とほぼ無意識に思っていた。
「……ははっ。今のあんた、俺が警官だったら職質してるぜ」
何とはなしにそう言えば、おっさんは顔をバッと勢いよく上げて俺を見てきた。何とも言えない表情をしていた。そのツラに浮かぶ感情は……なんだ? 悔しさ? 寂しさ? 申し訳なさ? その全部か? それともまったく別の感情か?
「本田、おまえは……、」
何かを言いかけ、おっさんは口を噤んだ。痛そうなくらい下唇を噛み締めている。そして何かを振り切るように「また明日も来るからな」と俺に告げて足早にドアまで向かった。俺は何故か物凄くもどかしく思って、おっさんを呼び止めた。咄嗟に出た言葉は──。
「待ってくれ、ダンナ……!」
思わぬ単語なのに口に馴染むことに驚いていると、おっさん……いや、両津のダンナがこっちに駆け戻ってきた。と思うと、上半身を抱き締められた。痛いくらいの力強さだったが、何故かその痛みすら懐かしくて愛しいもののように思えた。目覚めてからずっと、看護師だろうが医者だろうが男に少しでも触れられると途轍もない恐怖に襲われていた。なのに今はそれがない。むしろこの高めの体温をもっと近くに感じたい、そう思ってしまうくらいだった。
抱き返そうか、考えた刹那。
脳裏に映像の奔流が流れ込んできた。これは──これは記憶だ。頭が割れそうなほど痛む。我を忘れるほどの痛みなのに、蘇る記憶がそれを許さない。
「──本田! 本田……ッ!」
必死に名を呼ばれる。ああ、懐かしいダミ声だ。思い出した。俺は……俺は、そう。『交機の本田』だ。盗難車の青いマークXを追跡していて……そうだ。急カーブで速度を落としきれなかったその車輌から箱乗りしていた同乗者が放り出されたんだ。ソイツを介抱するためにバイクを降りた途端、その車輌がいきなりバックしてきて……仲間であろう投げ出された奴諸共に轢かれて……轢かれて? 今、ここにいるのか? ……何かを忘れている気がする。記憶はまだ不完全なのか。
「両津のダンナ……ッ、俺ぁ、青いマークXを追っていて……ソイツは盗難車で……! そうだ、怪我人がいたんだ、アイツは……!?」
「いい、もういいんだ。本田。わしはおまえが帰ってきてくれただけで……。だから無理はしないでくれ。頭が痛むならもう休め……!」
分厚くて大きな手に背を何度も撫で下ろされ、どうしようもなく安堵した俺は頭痛から解放されたのも手伝ってか、急激な睡魔に襲われた。眠りに落ちる直前、未だ目覚めない『あっちの俺』が胸の奥の奥で、むずかる幼子のように身動いだ気配を感じた。
***
夢を見ている。
その確信はある。
俺は今、救出され入院しているはずだから。
それなのに。
饐えたにおい。薄暗い照明に照らされた舞い上がる埃。男共の下卑た嘲笑。全身を吟味する舐めるように纏わりつく視線。
それらすべてに現実味がありすぎて。
せめて俺が外に出てやれたなら、怯えている表の俺を護ってやれるっていうのに。俺はあくまでも表の俺がバイクという媒体に封じ込めた、かつて暴れ回っていた頃の残滓に過ぎない。バイク無しでは表の俺を護ることすらできないという無力感に苛まれる俺に向けて、表の俺がフッと微笑んだ、ような気がした。
記憶も地続き、ただ性格が強気になるだけで、所謂二重人格というものではない。
俺自身もそう思ってきた。だが、この時気づいてしまった。俺は今、表の俺によって、あいつから切り離されたのだと。その証拠とでもいうように、今の俺はあの薄暗い現実が見えない、感じ取ることができない。ただ只管に真っ白な空間に隔離されて、表の俺に何が起きているのかすら知覚できなくなっている。
──ああ、護られたのは俺の方だったんだ。
***
「……ダンナ、今の俺に違和感はないか?」
純白の清潔なベッドの上で、身を起こした本田が問いかけてきた。わしはりんごの皮をむく手を一瞬止めて、また無言でしょりしょりと音を立てながら作業を再開した。すると本田は焦れた様子で「なぁ、答えてくれ」と身を乗り出してくる。
「さぁな。いつも通りだろ」
「しらばっくれんなよ。気づいてんだろ、ダンナも」
掴みかからんばかりの勢いで問い詰められる。わしは危ないからと咄嗟にナイフを置き、どうどうと本田をなだめた。こいつの言いたいことは分かってはいる。
バイクに乗ってもいないのに、どうしてこの本田が表に出てきているのか。
それは、自分に起こった受け入れがたい現実から自身を守るために、あの気弱な本田の代わりに、強気なこいつが表立って『ふだんの本田』を切り離したからだと、わしは考えていた。
だが本田は、思い詰めた様子で言った。
「──俺はあいつに、表の俺に護られたんだ」
「何だって? 逆じゃないのか」
思わず疑問が口をついて出る。すると、本田は苦い自嘲を口元に浮かべて血を吐くように言葉を紡いだ。
「俺には、あいつの身に何が起きたのか、一切の記憶が無いんだ。……あの後、自分の身に何があったのか、理解していない訳じゃねえ。だが、実際に全てを受け止めたのは、あっちの俺だ。だから今、消耗したあいつは俺の心の奥で眠りに就いている。それは何となく分かるんだ。一時的に俺の記憶が退行しちまったのは多分、無意識に男という脅威から身を守ろうとしたからだ」
「待て待て。あの暴走族時代の性格で、男共を倒したんじゃないのか?」
「そこが謎なんだよ。俺はあっちの俺によって隔離されていた。そして族時代の人格は病院、つまりここで目覚めてから退行しちまったもの。なあ、両津のダンナ。──『俺たち』を守って戦ったのは、一体誰なんだろうな……?」
本田の問いかけに未知を感じ取ったわしは、ふるりと身震いをした。
重い沈黙が降りてくる。それに耐えられなくなったわしは、りんごの皮むきを再開した。上手くできたうさぎりんごを皿に盛り、本田の前に置いてやる。あいつは「相変わらず器用だな、ダンナは」と無理に微笑んだ。その笑みが、今のわしには痛くてたまらなかった。
***
「本田さん自身も知らない一面、ですか……少し、こわいですね」
中川が腕を組んで思案顔で目を閉じる。
「そうなんだよ。わしですら少しゾクッとしたぞ」
「いえ、そういう意味ではないんです」
「じゃあどういう意味で怖いんだ?」
麗子が盆に湯呑みを三つのせて派出所の奥から出てきて言った。
「両ちゃんたちは本田さんを、やさしい彼と強気な彼とに完全に分かれて『二重人格』になった上で退行している、って言っていたじゃない? そうではないと圭ちゃんは考えているのよ」
「……。わしにも分かるように説明してくれ」
「本田さんの中には今、おそらく『三人目』が居ます」
「ま、まだキスまでだぞッ!? それでこどもは出来んだろ! しかも三人目って……一姫二太郎かよ!」
「もう! どうしてそっちに向かっちゃうのよ! 三人目の本田さんという新しい人格が生まれたんじゃないのかって言いたいの、圭ちゃんは!」
「は、はあ? つまり……?」
怒る麗子から視線を中川に移す。さながら助けを求めるように。すると。
「バイク無しであれだけの人数を半殺しにしてしまうなんて、ふだんのやさしい本田さんでは不可能でしょう。バイクに乗っていない本田さんと、バイクに乗っている本田さん。僕の想像の域を出ませんが、このふたりの彼を折衷したような人格が、今も本田さんの中に眠っているのでは、と。いえ、眠ってくれているなら幸いです。もし目覚めているとしたら……、」
「見境なく暴れる危険人物そのものになる……とか言うんじゃねぇだろうな」
中川も麗子も、何も言わなかった。
ただ、わしが茶を啜る音が静かに響くのみだった。
***
「おじさん、だあれ?」
本田は退院後、しばらくの休職措置が適用された。寮ではなく南千住の実家に帰され、家族のもとで療養中だ。
きっと暇を持て余しているだろうと、わしはあいつの好きそうなバイクのプラモを持って、本田輪業のシャッターをくぐった。
相変わらずのラインナップの店内で、目当ての姿を見つけ、わしはその背に声を掛けた。
古い型だが新品の磨き抜かれたバイクのそばにしゃがみ込んでいた本田は、ビクリと肩を震わせてこっちを見上げた。そして言い放った、冒頭の台詞を。その表情は退院前、最後に見た時の厳めしいあの表情では無く、隙だらけで柔らかい『いつもの本田』だった。ただ違和感があるとすれば、さっきの言葉と常よりも少し高い声色、そしていつも以上に柔和で幼さすら感じさせる表情だった。
わしはなんとなく悟った。実家に帰ってくることで気を張る必要が無くなったために、強気な本田は休んでいるのだろうと。
その代わりに現れたのがこっちの人格だ。あっちの本田曰く完全に隔絶されたという人格は、やはり記憶の共有もされていないようで、いよいよ二重人格の様相を呈しているように見える。
それにしても、さっきの台詞は……いやな予感がする。
わしはいつも通りを意識して話しかけた。
「本田。ずっと家にいて暇だろ。おまえの好きなKAWASAKIゼッツーのプラモ持ってきたから一緒に作ろうぜ」
本田はまるい目をぱちくりと瞬かせた。そして申し訳なさそうに俯くと、困り顔でもじもじと言った。
「おとうさんが、『知らないひとから物をもらっちゃだめ』だって……ほんとうはお話するのもだめって言われてる」
わしはじっとりと冷や汗をかいた。もしかして、という考えがちらついている。
「し、知らないひと、は無いだろ。わしだ、両津だ、おまえのせんぱいだぞ……!?」
思わずにじり寄って本田の肩にぽんと手を置いてしまった。すると本田は震える声で短い悲鳴を上げた。
「きゃあッ!」
「お、落ち着け本田。何も痛いことしないから!」
いかん、これでは完全に不審者だ。
「やだ! さわらないで! おとうさん、たすけて!」
ぺたりとその場に座り込んで本田は本格的に泣き始めてしまった。すると店の奥から「どうした速人ーッ!!」という声とドタドタした足音が聞こえて来た。居間へと続く戸が開いて、本田の親父さんが現れる。素足のまま土間に下り、息子を守るように抱きしめた。
「すまんかったなぁ、ひとりにしてしまって……。怖かったな、よしよし。おとうさんが来たからな、もう大丈夫だ」
ものすごく居た堪れない思いで二人を見守る。
親父さんは息子の背中をぽんぽんと優しくたたいてあやしてやっている。そしてギロリと鋭い眼光をこっちに向けた。と思えばすぐにきょとんとして言う。
「両さんじゃないか。……、わるかったねぇ、うちのせがれが」
申し訳なさそうに頭を下げられ、わしもつられてしまう。
「いや、別にわるかないさ。それより、本田のその様子は……?」
「あ、あぁ、見ての通りだよ。自分を小さなこどもだと思っているようで……私や妻のことは分かるみたいなんだが、伊歩と門喜については生まれたことさえ忘れちまってるらしいんだ」
伊歩ちゃんのことは今のところ優しい近所のお姉さんだと認識してはいるようだが、実の弟の門喜には怖がって近付きさえしないらしい。
「ひたすらに悲しい、そして悔しい」そう言って親父さんは肩を落とす。
わしは親父さんに掛けてやれる言葉を持っていなかった。息子の身に何があったのか、この人は勘づいているのだろう。だからこそ、わしは何も言えない。あと一日でも救出が早ければ、もしかしたら……。そう考えてしまうのは親父さんもわしもきっと同じだ。
当の本田本人は、自分の父親が悔し涙をこらえていることに気づいたらしく、「おとうさん、どうしたの? いたいのいたいの、とんでけー」と一生懸命に親父さんの背をさすってやっている。その幼い気遣いがある意味逆効果だったようで、親父さんはついにおいおいと泣き出してしまった。
困り果てた様子でまた瞳を潤ませる本田と目が合うが、あいつは親父さんの背の後ろにぴゃっと隠れてしまった。身長的にあまり隠れきれていないが。
ぐすっと洟を鳴らした親父さんが本田の肩に手を添えながら、怯えた目でわしをうかがう息子を諭す。
「……ほら速人。おまえのだいすきな両さんだよ。いつもおとうさんおかあさんにお話してくれてただろう?」
親父さんに促されて、おずおずと本田は顔をのぞかせた。
……ここで焦ってはだめだ。本田は今、男という存在に怯えきっている。そこで無理をさせては、余計にこいつを傷つけてしまう。
また本田と視線が絡んだ。かと思えば、親父さんの影に隠れてしまう。
わしは本田といっしょに遊ぶために持ってきたプラモの箱を親父さんに預け、あいつに向けて言った。
「また来るよ。そのゼッツーは、もう少し慣れたら一緒につくろうな」
