オメガバぱろ両本(こちかめ)

「本田のやつ、また好きなオンナができたみたいだぞ」

 派出所のデスクでふんぞり返りながら、両津は言った。その表情はどこか不機嫌そうだ。
 彼の台詞を聞いた中川と麗子は顔を見合わせた。本田の両津への想いに気づいている二人は、互いに一瞬でアイコンタクトを取り、探りを入れてみることにした。

「本田さんが惚れっぽいのは知っているはずですよね。今更どうしたっていうんです、先輩」
「両ちゃん自分から応援したりしてたじゃない。なのにどうしてそんなにむくれてるの?」

 両者の問いに両津はぎくりと固まり、錆びついた機械のようにギギっと二人の方を見た。冷や汗とも脂汗ともつかない、じっとりと汗ばんだ顔で言葉をぽろぽろとこぼしだす。

「……この前な、あいつのバイクにタンデムして寮に帰る途中、めちゃくちゃ『いい匂い』がしたんだよ。甘ったるいのにしつこくない、それでいて男を夢中にさせるような……あれはきっと相当値の張る香水だぞ? わしのところに来る前に本田のやつ、オンナと会ってやがったんだ。しかもそれを指摘した日からあいつ、寮の部屋に閉じ籠もっちまってな……もう一週間も顔を見ていない」

 めずらしくしょんぼりと肩を落とす両津を見、無自覚って罪だなぁ、と中川は思った。
 すると、何か合点がいった様子で麗子が口を開いた。

「両ちゃんって、αよね?」
「あるふぁ? アルファロメオのことか?」
「やっぱりね……」

 丸い目をぱちくりと瞬かせて両津が言ったのに対し、麗子は額を押さえる。そして小声で中川を呼ぶと、そっと耳打ちをし、派出所の奥へ引っ込んでしまった。
 「なんだ、麗子のやつ?」と首を傾げている両津の前に仁王立ちすると、中川は「コホン」とひとつ咳払いをした。

「……先輩、『第二の性』のことを知らないんですね?」
「知らん、何だそれ」
「が、学校で検査されませんでしたか? 親御さんと病院で検査してもらったとか……」
「要領を得んな。その第二の人生がどうしたって?」
「性、です。では、最初から話しますね」

 中川は滔々と語った。
 αのこと。βのこと。Ωのこと。αについて回る責任と、Ωを襲うヒートのこと。抑制剤のこと。そして、運命の番のことも。
 両津は初めこそ話半分で流し聞きしていたが、中川の真剣な声と表情に気圧されたのか、途中からは自ら質問するくらいに真面目に聴いていた。
 ひとしきり説明し終えた中川は、いま話の渦中にいるはずの本田の第二の性については触れずに置いた。これはとてもデリケートな話題だ。両津への想いも含めて、本田自身が伝えるべきだと考えたからだ。
 それにしても、と中川は内心で溜め息をつく。何も知らないでよくここまで来られたな先輩……と思わずにはいられない。先程の説明の中で「どおりで知らん男でも妙に色っぽく見える時があった訳だ。その、あるふぁやらおめがやらの話を聞いて安心したぞ。わしはゲイではないからな!」と豪快に笑っていた両津は豪運の持ち主だと思う。

「ということは、だ。本田はどっかのΩのかわい子ちゃんと会っていたから、そのフェロモンの残り香をまとっていたというわけか!」

 「えっ!?」どうしてそういう解釈になるんですか、と中川がツッコもうとした時にはすでに、両津は素早く帰り支度を済ませていた。

「そうと分かれば話は早い! 今度こそ本田の恋を実らせてやる! 部屋に閉じ籠もってる場合じゃないぞ本田ァ!」

 そう宣言すると同時に派出所を飛び出した両津を引き止めることもできず、自分の説明が悪かったのだろうかとしょげる中川の肩をポンと叩いた麗子は言った。

「あの勉強嫌いな両ちゃん相手によく頑張ったわよ、圭ちゃん」
「でも、とんでもない勘違いをさせてしまったような……」

 どことなく不安な要素を残したまま、日は暮れていった。

***

 自室の布団にくるまりながら、本田は溜め息をついた。
 一週間前の出来事を思い出しては深い後悔に襲われるのを、ヒートが治まった先刻から何度も繰り返している。頭の中はヒート中からずっと、両津のことでいっぱいだった。

「はぁ……先輩、怒ってるかな」

 普段の本田は毎月欠かさず抑制剤を飲んでいた。家族よりもカワサキのバイクのほうを愛しているのではと思えるほどのβの父から、本田が暴走族になった頃、ちょうど初めてのヒートを経験した際にきつく言いつけられていたからだ。曰く「おまえはバイクに乗っているときのほうが強く『香る』。舎弟に襲われたくなければきちんと抑制剤を飲むんだぞ。絶対だぞ」だそうだ。
 にもかかわらず、激務に追われて抑制剤の存在をすっかり忘れてしまっていた。更には一週間前、両津と久々に同じ帰路につけた嬉しさで舞い上がってしまい、ヒートがいつもの周期よりも早めに来てしまったのが今回の顛末だ。
 両津に「本田、おまえ何か今日いい匂いがするぞ」と、信号待ちのあいだうなじの匂いをすんすんと嗅がれて思わず甘い声を上げてしまったのが悔やまれる。両津の困惑した「どうしたんだ、おかしな声出して」という言葉が未だに脳内をぐるぐる巡っている。あの後は自分でもどうやって寮まで帰ったのかあまり覚えていない。寮についてすぐ、両津から逃げるように自室に飛び込んだことは覚えているが。
 本田は両津のことが好きだ。
 根が乙女な本田だが、今どき『運命の番』という夢物語を信じているわけではない。それでも、両津の逞しい腕に抱かれ、うなじを噛んでもらうことを夢想してしまう自分もいる。絶対に叶わない願いだからこそ、夢見ることくらいはどうか許してほしい。
 どうしようもなく切なくなって、本田は小さな涙声で両津を呼んだ。

「ゔー、ぐすっ……会いたいよぉ。せんぱぁい……!」
「どうした、本田」

 頭までもぐりこんでいた布団の外から愛しいダミ声が聴こえてきて、本田はヒート明けで疲れ切った身体を叱咤し布団からそろりと顔を出した。そのずんぐりしたシルエットを視界に捉えた途端、思わず抱きつきたくなるのを必死に抑える。今はだめだ。いや、普段からスキンシップが多いのは否めないのだが、今はヒートの間に汗やら愛液やらで全身がぐっしょりと濡れてしまったため、自重しなければならない。
 本田自身がそう考えている一方で、彼の愛する角刈りはくんくんと鼻を鳴らし「本田……おまえ……」と呟きながらジトリと目を細め本田を見下ろした。かと思えば一転して。

「あのいい匂いのねえちゃんと上手くいったんだな!?」
「……えぇっ?」

 困惑する本田を抱き起こすと、その背を喜色満面でばしばしと派手に叩いてくる。両津の言うことをいまいち掴めずにいる本田を差し置いて「今日は寿司でも食いに行くか! おまえの奢りで!」などと皮算用して勝手に喜んでいる両津。
 本田はおずおずと口を開いた。

「せ、せんぱい? 『いい匂いのねえちゃん』って誰のことです?」
「照れるんじゃない! おまえにもやっと……やっと春が来たんだなぁ! この間会ってたΩのオンナをモノにしたんだろ?」

 ここでやっと本田は両津の勘違いになんとなく気づいた。どこからこの誤解を解いていこうか……と考えあぐねる。ただでさえヒート明けでうまく働いてくれない頭が、一生胸に秘めて生きていこうと考えていた両津への想いをぶちまけてしまえ、と自暴自棄気味に本田の意識を引っ張っていこうとする。それに抵抗しながら、懸命に言葉を選んでいると、両津が急に黙り込んだ。不思議に思った本田が両津を見上げれば、名状しがたい表情で見下されていた。その頬を染めたじっとりとした表情は、強いて言うなら……欲情、している?

「……はっ、いかんいかん。Ωの残り香にわしまで誘われるところだったぞ」

 「換気だ、換気……」と少しぼんやりとした声で言いながら両津は窓に視線を向けると立ち上がろうとした。その手を握りしめて、本田は声を振り絞る。

「Ωは僕なんです……せんぱい」

***

 中川は言っていた。警察官の『ほとんどはα』であると。だが決して『全員がα』とは言わなかった。それは、この組織のなかに例外がいることを示していたのだと、今の両津は本能的に理解しだしていた。
 その『例外』が目の前にいる。理性を柔く撫でていくような、どうしようもないほどの甘い匂いがふわりと一気に香った。それが何よりの証拠だった。
 両津の手を握りしめたまま俯いている本田の表情は伺い知れない。だが、むき出しの細い肩が震えているのを見ると、どうやら泣いているらしい。時折嗚咽さえ聞こえるようになったのを見かねて、両津は畳にどっしりと胡座をかいた。手は握ったまま。
 空いている方の手でがしがしと頭を掻き、本田から顔を背ける。が、視線はどうしても本田の方を見てしまう。先程までは気にも留めていなかったが、今の本田は生まれたままの姿で布団の上にいる。そして何故かあの香りがまた強くなり始めていて、両津の元々脆弱な理性を焼き切ろうとしているように感じられる。
 本田は少し乱暴に涙を拭うと、いつもの困ったような、それでいてどこか諦めたような笑みを浮かべて言った。

「お風呂、行ってきますね」

 「だから、ね? 手、離してくれないと……」と控えめに言葉を紡ぐ。それに対して両津は「おまえから握ってきたんだろうが、それに……、」と言葉を区切った。

「そんなにフェロモン振り撒いて、無事でいられると思っているのか。ここはαの巣窟みたいなものだぞ」

 「でもぉ……」と往生際悪く言い募ろうとする本田を引き寄せれば、いとも簡単に、何の抵抗も無く両津の腕のなかにその細っこい身体が収まる。

「……何で黙っていたんだ」
「……重荷になるのは、いやだったんです」
「重荷? おまえが?」
「ごめんなさい。僕が浅はかでした。抑制剤さえ飲んでいれば先輩とずっと一緒に楽しく走っていられるって、いつの間にか思い上がってしまっていたんです」
「……っ何を言っとるんだ、おまえは……!」

 いつもの本田なら元気に大泣きして「せんぱぁ〜い!」と縋ってくるような場面で、そうしてこない。それがもどかしくて、哀しくて、そしてどうしようもなく両津の不安を煽る。ここで何かをしくじれば本田は二度と自分のもとに戻ってこないような、そんな予感じみた考えが振り払えない。
 両津はこれまでの人生で感じたことのない不穏さを感じていた。

「なぁ、本田」
「はい、先輩」

 従順に、静かに、本田は応えてくれる。だが両津はその静けさが恐かった。いつものように泣きついてきて欲しかった。泣きじゃくる本田をあやすのは自分の役目だという自負があったから。そして、あやしてやればまた無邪気に微笑んで、「せんぱい!」と舌っ足らずに自分を呼んでくれるはずだと両津は思っていた。それは最早祈りに近い感情だった。

「わしはな、臆病だったり暴走したりするおまえに手を焼いたことはあっても、重荷だなんて思ったことは一度もないぞ」
「……う、嘘です。だって僕はΩ……、」
「だから! おまえがどの性を持っていても! わしの足代わりをやらせると言っとるんだ! このわしが自分のお気に入りをそう簡単に手放すと思っとるのかおまえはっ!!」
 
 本田の顔を見たくなって、両津は一旦身を離した。その泣き顔を見て、少しだけホッとする。こどものように涙と鼻水で顔をよごして、ひっくひっくとせぐり上げる顔は、いつもの本田だった。そして。「せ、」と発音するのを聴いて、両津はもう一度本田を抱きしめた。

「せんぱぁ〜い! よかったぁ~! 僕……ぼく……!」
「良い。何も言うな」
「うっ、ひぐッ……! しぇんぱ、ひっく、しぇんぱ〜い……!」
「泣け泣け。いくらでも付き合ってやるぞ」
「ありがとうございますぅ〜! ぼく、せんぱいのこと、だぁいすき!」
「ははっ! 『二輪の悪魔』に告られるとは光栄だな!」

***

 たっぷり一時間ほど泣いて、本田は泣き疲れたらしく眠ってしまった。その痩身をそっと布団に横たえて、両津は「さてと、」と静かに立ち上がった。
 本田を抱く機会はこれからいくらでもあるだろう。だからといっては何だが、今はこの距離感を大切にしていたかった。両津は、自分の中にこんなにも穏やかな感情があったことに内心で驚きつつ共同風呂を目指す。本田の身体を拭いてやる温かい濡れタオルを作るためだ。と、その前に。自室に寄って一旦ヌいておかねば、本田の部屋に戻ったときに襲いかかってしまいかねない。あんなにも両津を信用し依存し好いてくれている存在は大切にしてやりたい。

 上司や同僚たちに外堀を埋められ、本田自身の望みもあって、彼のうなじを噛むことになるのはこの日から丸々一年経ってからのことだった。