無題2(こちかめ/両本)
両津のダンナとケンカした。
と言うよりも、俺が勝手にあの場を目撃し、一方的に逃げ出したのだ。
ダンナの顔がものすごく広いのはそりゃもう思い知ってるし、手が早いのも身をもって痛感している。そう、俺もダンナに手を出されたうちのひとりだからだ。とは言っても、その……、だ、抱かれるのは俺の特性上、専ら気の弱い時の俺で、『俺』が抱かれたことはないのだが。一度バイクのシートに寝そべらされて覆いかぶさられたことはあったが、ダンナが求めてくれているにもかかわらず、俺は怖気づいて逃げてしまった。あの時のダンナは、バイクを下りて泣きべそをかく『あっちの俺』の肩を抱き、ほろ苦い笑みを浮かべていた。未だにあの時のことを思い出すだけで、後悔と申し訳なさともどかしさで胸の奥がぎゅっと痛む。
今もそうだ。さっき見かけた現場を思い出しては、そのたびに痛む胸を持て余している。キス、してたな……とあの光景を何度も脳裏に描いてしまう。こんな女々しい感情が『俺』の中にもあって、バイクに乗っていても振り払えないという現状に驚いている。
このまま速度を上げ続けて、身を切る透明な風のようになれたらどんなに楽だろう。
***
「チクショウ、本田のやつ……逃げ足速すぎだろうが」
分かりきった事実に悪態をついても仕方がない。それは自覚しているのだが、どうしても後悔ともつかない感情が多分に混じった溜め息は止められない。
パチンコ帰り。いわゆるタチンボの中に、年端もいかない少女が混じっていたため、わしにしてはめずらしく注意をしていたら強引に引き寄せられキスをされた。その瞬間を、警邏中だったらしい本田に目撃されてしまったのだ。気不味いなどという生半可な事態ではない。わしのかわいい後輩兼恋びとであるあいつの鋭い目が驚きに見開かれ、何かを振り切るように顔を前に向けウィリーでもしそうな勢いでバイクで走り抜けるのが、すべてスローモーションで見えた、気がしたくらいだ。
ひとまず派出所の中川と麗子に連絡を取り、困惑している二人に後を引き継がせると、わしは駆け出した。バイク相手、それもあの本田が本気になれば追いつけるはずもない。それでも走らずにはいられなかった。バイクに乗っていようがいまいがナイーブなあいつの今の胸中を思うと、わしは堪らない気持ちになる。
あいつの行きそうな場所をしらみつぶしに探していく。あらかた探し回り途方に暮れ始めたところで、中川から連絡が入った。本田が派出所に現れたらしい。わしは居ても立ってもいられないと、流石に疲れが出始めた両足を叱咤し走り出した。
***
あいつはいつものように派出所の前にバイクを停めていた。ドッドッドッというエンジンの重低音が響いている。いつもなら勝手知ったるといった様子で派出所の中に上がり込んでくるのに、今のあいつはまるでいつでも逃げられるよう保険をかけているように見えた。
「……本田」
やっと会えたという安堵からくる溜め息とともに呟くようにこぼれた名を、エンジン音のさなかでも耳聡く聞きつけたらしいあいつがこっちを向く。わしと目が合った瞬間、本田は酷く傷ついたような顔をした。キリリとした目許に光るものを見て、わしは思わず駆け寄った。
「泣いてるのか……?」
本田はのぞき込むわしから逃げるように顔を背けた。
「んなわけ……ッ!」
「ねぇだろう」とでも言葉を続けようとしたのだろうが、途中でほろっと頬を伝ったしずくに邪魔されたらしく、本田は言葉を詰まらせる。
そのさまが、とても痛々しかった。
バイクに乗っている本田は超強気に見えて意外と繊細だ。それを知ったのはいつだったか。わしはあの時、ふたつの理由であいつをバイクの上に寝そべらせた。困惑を隠せないでいるあいつの強面を泣かせてみたい、という男としての本能のような好奇心がひとつ。それと、本田速人という、二面性を持つ人物を愛する者として、どちらのあいつも満足させてやりたいという恋びととしての気持ちがもうひとつの理由だった。だが、その行動は失敗に終わった。本田が身をよじってバイクの上から逃げた、と言うか落ちたからだ。その軽すぎる体を両腕で受け止め、やはり無理があったかと考えながら、何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返し泣きじゃくる本田をただ抱きしめた。そこではたと気づいたのだ。わしに迫られ、慌てて身をよじったのは強面の方の本田ではなかったか、と。柔いほうの本田をあやしつつ、泣き止むのを気長に待ち、訊ねた。「もしかして『あっちのおまえ』は抱かれたくないのか?」と。わしの腕の中でくすんくすんと洟をすすっていたあいつは、「違いますよぉ……」と小さくこぼした。「あっちの僕は……そのぉ、そういう目で見られた経験がなくて……」と続けた本田に、わしは頭を抱えたくなった。ニブい。ニブすぎる。族時代のこいつはただ、そのカリスマ性と圧倒的な強さで他を寄せ付けなかっただけだ。隙があったならあわよくば……なんて考えていた連中はわんさか居たはずで、あの時代の本田が無事でいられたのは奇跡に近い。それを伝えると、当の本人は「まっさかぁ」ところころ笑っていてわしは脱力したものだ。
今わしの目の前、涙の跡を荒っぽい仕草で拭う本田をがっしりと抱き込む。びくりと身体を硬直させるのを少し寂しい気持ちで抑えながら腕に力を込めた。
「いや……か?」
「いやなわけねぇだろ……だけどよ、俺は、ダンナの一番には絶対になれねぇから」
あぁ、布団の中のこいつはわしが名前で呼ぶだけでも、あんなにしあわせそうに微笑うというのに。その奥底に、こんなに苦しい想いを抱いていたなんて。
「今日はわるかったな、ダンナ。俺ぁ、あんたに抱いてもらえて、好きだって言ってもらえて、思い上がっちまってたみたいだ……ほら、離してくれねえと、また調子に乗ってあんたを困らせちまう」
「離さん。おまえが納得するまで、わしはこのままでいるぞ」
これでは最早子どものわがままだな、と薄く自嘲していると、腕の中の細身な身体の硬直が和らいだ。
「ダンナは引く手数多だから……って気にしねぇようにしてたけどよ。やっぱり寂しいもんは寂しいんだな」
バイクのエンジン音が止まる。とりあえず逃げる気力を削ぐことには成功したらしい。だが独白に近い本田の台詞を見過ごせるわけがなかった。
「速人、」
名を呼ぶだけでぴくりと反応する正直さはどっちの本田も同じらしいことが分かって嬉しくなる。
「バイクに跨がってない方のおまえは、おしゃべりなくせして肝心なことはほとんど言ってくれないよな」
「そ、そうか……?」
本当に自覚がないようで、本田は困惑したような声をこぼす。
「だが、そういう点では今のおまえのほうが雄弁になってくれることがわかった。これは発見だぞ!」
「わかったよダンナ、わかったから離れてくれねぇと周りの視線が痛ぇ気がする」
そう告げると、あいつはわしの腕をやんわりと解いた。
案の定というか、その顔は真っ赤に茹で上がっている。強面と赤い頬のギャップがたまらなくかわいいと思ったわしは、キスしてやろうと顔を寄せた。それを手で制すると、本田は生真面目な顔で言った。
「俺があんたのなかで一番じゃねぇのは分かってる。だけどよ、」
「おまえ、今更何言ってんだっ!?」
「えっ?」
「一番じゃなかったら、わしがこんなこっ恥ずかしい事するわけないだろ!」
「そ、そうか……そう言えばそうだな。俺のわがままに付き合わせてわるかったな、ダンナ。ありがとよ」
言いながらバイクを下りる本田。途端にへにゃりと目許の雰囲気が柔らかくなり、満面の笑みで抱きついてくる。
「えへへ。僕、せんぱいの一番になっちゃいましたぁ!」
「ところで本田。おまえの一番もわしなんだろうな?」
「もちろんですよぉっ。バイクは殿堂入りしてますから、一番はせんぱいです!」
「そうかそうか。うんうん。よーくわかった。……泣かす。そんで啼かす。寮に行くぞ、本田」
こいつ、この期に及んで……と、自分の目が据わっているのが自覚できる。
よく分かってなさそうに、きょとんとわしを見下ろす本田を抱き上げてバイクに乗っける。
キリっとした眉尻を申し訳なさそうに下げて、本田はわしに言った。
「あっちの俺がすまねぇ、ダンナ……どうか、手柔らかに頼むぜ」
と言うよりも、俺が勝手にあの場を目撃し、一方的に逃げ出したのだ。
ダンナの顔がものすごく広いのはそりゃもう思い知ってるし、手が早いのも身をもって痛感している。そう、俺もダンナに手を出されたうちのひとりだからだ。とは言っても、その……、だ、抱かれるのは俺の特性上、専ら気の弱い時の俺で、『俺』が抱かれたことはないのだが。一度バイクのシートに寝そべらされて覆いかぶさられたことはあったが、ダンナが求めてくれているにもかかわらず、俺は怖気づいて逃げてしまった。あの時のダンナは、バイクを下りて泣きべそをかく『あっちの俺』の肩を抱き、ほろ苦い笑みを浮かべていた。未だにあの時のことを思い出すだけで、後悔と申し訳なさともどかしさで胸の奥がぎゅっと痛む。
今もそうだ。さっき見かけた現場を思い出しては、そのたびに痛む胸を持て余している。キス、してたな……とあの光景を何度も脳裏に描いてしまう。こんな女々しい感情が『俺』の中にもあって、バイクに乗っていても振り払えないという現状に驚いている。
このまま速度を上げ続けて、身を切る透明な風のようになれたらどんなに楽だろう。
***
「チクショウ、本田のやつ……逃げ足速すぎだろうが」
分かりきった事実に悪態をついても仕方がない。それは自覚しているのだが、どうしても後悔ともつかない感情が多分に混じった溜め息は止められない。
パチンコ帰り。いわゆるタチンボの中に、年端もいかない少女が混じっていたため、わしにしてはめずらしく注意をしていたら強引に引き寄せられキスをされた。その瞬間を、警邏中だったらしい本田に目撃されてしまったのだ。気不味いなどという生半可な事態ではない。わしのかわいい後輩兼恋びとであるあいつの鋭い目が驚きに見開かれ、何かを振り切るように顔を前に向けウィリーでもしそうな勢いでバイクで走り抜けるのが、すべてスローモーションで見えた、気がしたくらいだ。
ひとまず派出所の中川と麗子に連絡を取り、困惑している二人に後を引き継がせると、わしは駆け出した。バイク相手、それもあの本田が本気になれば追いつけるはずもない。それでも走らずにはいられなかった。バイクに乗っていようがいまいがナイーブなあいつの今の胸中を思うと、わしは堪らない気持ちになる。
あいつの行きそうな場所をしらみつぶしに探していく。あらかた探し回り途方に暮れ始めたところで、中川から連絡が入った。本田が派出所に現れたらしい。わしは居ても立ってもいられないと、流石に疲れが出始めた両足を叱咤し走り出した。
***
あいつはいつものように派出所の前にバイクを停めていた。ドッドッドッというエンジンの重低音が響いている。いつもなら勝手知ったるといった様子で派出所の中に上がり込んでくるのに、今のあいつはまるでいつでも逃げられるよう保険をかけているように見えた。
「……本田」
やっと会えたという安堵からくる溜め息とともに呟くようにこぼれた名を、エンジン音のさなかでも耳聡く聞きつけたらしいあいつがこっちを向く。わしと目が合った瞬間、本田は酷く傷ついたような顔をした。キリリとした目許に光るものを見て、わしは思わず駆け寄った。
「泣いてるのか……?」
本田はのぞき込むわしから逃げるように顔を背けた。
「んなわけ……ッ!」
「ねぇだろう」とでも言葉を続けようとしたのだろうが、途中でほろっと頬を伝ったしずくに邪魔されたらしく、本田は言葉を詰まらせる。
そのさまが、とても痛々しかった。
バイクに乗っている本田は超強気に見えて意外と繊細だ。それを知ったのはいつだったか。わしはあの時、ふたつの理由であいつをバイクの上に寝そべらせた。困惑を隠せないでいるあいつの強面を泣かせてみたい、という男としての本能のような好奇心がひとつ。それと、本田速人という、二面性を持つ人物を愛する者として、どちらのあいつも満足させてやりたいという恋びととしての気持ちがもうひとつの理由だった。だが、その行動は失敗に終わった。本田が身をよじってバイクの上から逃げた、と言うか落ちたからだ。その軽すぎる体を両腕で受け止め、やはり無理があったかと考えながら、何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返し泣きじゃくる本田をただ抱きしめた。そこではたと気づいたのだ。わしに迫られ、慌てて身をよじったのは強面の方の本田ではなかったか、と。柔いほうの本田をあやしつつ、泣き止むのを気長に待ち、訊ねた。「もしかして『あっちのおまえ』は抱かれたくないのか?」と。わしの腕の中でくすんくすんと洟をすすっていたあいつは、「違いますよぉ……」と小さくこぼした。「あっちの僕は……そのぉ、そういう目で見られた経験がなくて……」と続けた本田に、わしは頭を抱えたくなった。ニブい。ニブすぎる。族時代のこいつはただ、そのカリスマ性と圧倒的な強さで他を寄せ付けなかっただけだ。隙があったならあわよくば……なんて考えていた連中はわんさか居たはずで、あの時代の本田が無事でいられたのは奇跡に近い。それを伝えると、当の本人は「まっさかぁ」ところころ笑っていてわしは脱力したものだ。
今わしの目の前、涙の跡を荒っぽい仕草で拭う本田をがっしりと抱き込む。びくりと身体を硬直させるのを少し寂しい気持ちで抑えながら腕に力を込めた。
「いや……か?」
「いやなわけねぇだろ……だけどよ、俺は、ダンナの一番には絶対になれねぇから」
あぁ、布団の中のこいつはわしが名前で呼ぶだけでも、あんなにしあわせそうに微笑うというのに。その奥底に、こんなに苦しい想いを抱いていたなんて。
「今日はわるかったな、ダンナ。俺ぁ、あんたに抱いてもらえて、好きだって言ってもらえて、思い上がっちまってたみたいだ……ほら、離してくれねえと、また調子に乗ってあんたを困らせちまう」
「離さん。おまえが納得するまで、わしはこのままでいるぞ」
これでは最早子どものわがままだな、と薄く自嘲していると、腕の中の細身な身体の硬直が和らいだ。
「ダンナは引く手数多だから……って気にしねぇようにしてたけどよ。やっぱり寂しいもんは寂しいんだな」
バイクのエンジン音が止まる。とりあえず逃げる気力を削ぐことには成功したらしい。だが独白に近い本田の台詞を見過ごせるわけがなかった。
「速人、」
名を呼ぶだけでぴくりと反応する正直さはどっちの本田も同じらしいことが分かって嬉しくなる。
「バイクに跨がってない方のおまえは、おしゃべりなくせして肝心なことはほとんど言ってくれないよな」
「そ、そうか……?」
本当に自覚がないようで、本田は困惑したような声をこぼす。
「だが、そういう点では今のおまえのほうが雄弁になってくれることがわかった。これは発見だぞ!」
「わかったよダンナ、わかったから離れてくれねぇと周りの視線が痛ぇ気がする」
そう告げると、あいつはわしの腕をやんわりと解いた。
案の定というか、その顔は真っ赤に茹で上がっている。強面と赤い頬のギャップがたまらなくかわいいと思ったわしは、キスしてやろうと顔を寄せた。それを手で制すると、本田は生真面目な顔で言った。
「俺があんたのなかで一番じゃねぇのは分かってる。だけどよ、」
「おまえ、今更何言ってんだっ!?」
「えっ?」
「一番じゃなかったら、わしがこんなこっ恥ずかしい事するわけないだろ!」
「そ、そうか……そう言えばそうだな。俺のわがままに付き合わせてわるかったな、ダンナ。ありがとよ」
言いながらバイクを下りる本田。途端にへにゃりと目許の雰囲気が柔らかくなり、満面の笑みで抱きついてくる。
「えへへ。僕、せんぱいの一番になっちゃいましたぁ!」
「ところで本田。おまえの一番もわしなんだろうな?」
「もちろんですよぉっ。バイクは殿堂入りしてますから、一番はせんぱいです!」
「そうかそうか。うんうん。よーくわかった。……泣かす。そんで啼かす。寮に行くぞ、本田」
こいつ、この期に及んで……と、自分の目が据わっているのが自覚できる。
よく分かってなさそうに、きょとんとわしを見下ろす本田を抱き上げてバイクに乗っける。
キリっとした眉尻を申し訳なさそうに下げて、本田はわしに言った。
「あっちの俺がすまねぇ、ダンナ……どうか、手柔らかに頼むぜ」
