Kalanchoe〈1〉
リキエルの死に顔は、とても美しかった。
いつも泣いて笑ってパニクって。生を謳歌するのに忙しくてたまらないという表情を描き出すその顔には、何の感情も浮かんではいなかった。
よくあいつのバイクで連れて行ってもらった美術館に展示された絵画や彫刻のような荘厳さを伴って、何者をも寄せつけない静謐な眠りに就いているようだ。
俺は思わず禁を破るような心持ちでその頬に指で触れた。そしてその冷たさに、ああ、こいつはもう生きてはいないと、そう実感させられた。刹那、俺の意識は途切れた。
──────
気づけば自室のベッドで眠っていた。ああ、夢だったのかと、いつの間にか流れていた涙を拭いながら身を起こす。だが、となりに在るはずのあのぬくもりは名残りすら無くて。冷え切ったあいつの定位置に指先で触れて、その温度の無さが先程の夢とリンクして身震いする。
ふらつきながらリビングへと向かえば、ふたりの兄達が俺を見て目を丸くした。
「おはよう、ウンガロ。今日は早いんだね」
「お、おはようウンガロ。そのぉ〜、あれだ。朝メシ、食うか?」
いつも通りのジョルノの兄貴が、何故かぎこちないヴェルサスの脇腹を肘で強めに小突いている。それを不思議に思いながら、俺はきょろきょろと部屋を見回す。そして兄達に問うた。
「──リキエルは?」
ふたりとも虚を突かれたような表情になったが、それも一瞬だけのことで、兄貴は言った。
「亡くなりました」
「そう、なのか? あれはてっきり夢かと思ったんだがなぁ」
淡々と会話する俺たちをぎょっとした目で見比べたヴェルサスが言葉を選びながら問いかけてくる。
「夢……? お、おいウンガロ……いつから覚えていないんだ……?」
「あいつの、リキエルの頬に触れて、冷てぇな、って思ったあたりから」
「ッ!」
ヴェルサスは何故か言葉を失ったようだった。
兄貴が代わるように言った。
「……あの後さまざまな事がありましたよ。その間、君は心ここにあらずな様子でしたが、どうやらあの瞬間からここ一ヶ月の記憶が無いようだ」
「もしかして俺、ふたりに毎日この質問してる?」
ヴェルサスが兄貴を見やる。答えに窮しているようだ。
兄貴は俺を真っ直ぐ見据えて言った。
「そうですね。一時的な記憶の混濁だと思い見守っていましたが」
「……そっか……迷惑、かけちまったな」
そう言って踵を返す。俺の背に向かってヴェルサスが声を投げかけてくる。
「ウンガロッ……! どこに行くつもりだ」
「『俺たち』の部屋だけど」
「変な気ぃ起こすんじゃあねぇぞ……」
震えた声で言うヴェルサスに後ろ手でひらひらと手を振って自室に戻った。
──────
パタンと閉じた扉に背を預けて、ずり落ちるように座り込んだ。ドアの向こう側から、兄貴とヴェルサスの言い争う声が響いてきたが、その原因になってしまっている俺はどうすることもできない。というよりも、何もする気が起きなかった。ただ、遮光カーテンを閉め切った暗い『俺たちの部屋』に、リキエルの名残がありすぎて、吐いてしまいそうだった。こんなにも近くに感じるのに、あいつはもうこの世界の何処にも居ない。その事実にやっと打ちのめされて、俺は床に力無く横たわる。改めて見ると、錯乱したかつての俺がやったのか、部屋は随分と荒れていた。あいつの遺したものを探して部屋を漁って回った過去の俺の気持ちも分かるし、死者への冒涜のようなその行為の後片付けをする気力は今は無かった。
ふと、視線の先にスケッチブックがある事に気づく。何故だか俺はそれに惹かれるようにだるくて仕方ない手を伸ばした。寝転がったまま、引き寄せたそれのページをペラペラと捲っていく。古びたスケッチブックは、幼い俺たちの落描きで溢れていた。まだ黒髪だった頃のジョルノの兄貴だとか、軽く自動車に轢かれても自力で帰ってきた満身創痍のヴェルサスであるとか。今は亡き父の姿もあった。そこでふと違和感を覚える。どのページにもリキエルが居ないのだ。俺はよくあいつを描いていたし、リキエルも俺を描いてくれた。それにもかかわらず、どうして、とページを何度も往復する。
そんなはずはない、と思わず身を起こして本格的にあいつの絵を探した。だが、リキエルが居るはずのページからストンとこぼれ落ちてしまったかのように不自然な空白があるだけだった。
もう一度最初のページから見ていこうとした瞬間だった。
「ウンガロ!」
最早懐かしくなってしまった声が、俺の名を呼んだ。
──────
視線をスケッチブックから徐々に上にずらしていく。
見覚えのありすぎる白黒の牛柄っぽいツナギ。自信ありげに笑みを浮かべる口元。ツンととがった鼻先に高い鼻梁。意志の強そうな眉。長いまつげに縁取られたキラキラときらめく瞳。顎のラインで切り揃えられた艶々した黒髪。
双子なのに、何もかも俺とは異なる美しい『あいつ』がそこに居た。
俺は思わず呟いていた。
「なぁ、俺も連れて行ってくれ。──リキエル」
あいつはハッとしたように目を瞠って言う。
「俺はお迎えなんかじゃあないぞッ! だからおまえを連れて行くことはできないんだ!」
「どういう意味だ」そう問おうと口を開きかけたところで『リキエルらしきもの』が「あ!」と声を上げたので俺は口を噤んだ。
「またカーテン閉めたままじゃあないか。せっかくの朝だって言うのに! ほら、あんなにきれいに晴れてる!」
勢いよくカーテンを開け放つと『リキエル』は俺を振り返って小走りに近づいてくる。
思わず後退った俺を見て寂しそうなカオをする様はどこからどう見てもリキエルそのもので。俺は怖くなった。ゴーストだとかそういう意味で恐ろしいのではない、ただ、またあいつを、リキエルを喪うことになるであろう未来が予見されて怖かった。
それなのに、あいつは気を取り直すようにひとつ息を吐くと、笑顔で俺に歩み寄って目の前で膝を折った。お伽噺の騎士のような誓いの姿勢で俺の手を取る。
「キス、しても……?」
どこまでも律義で誠実で、どこまでもあいつだった。
「いいぜ。ただその代わり、俺も連れて行けよ」
「さっきも言ったけど、俺はおまえを笑顔にしたくて『出てきた』だけだ! おまえの『魔法』でッ。おまえにはそういうチカラがある!」
「ははっ……おまえがここに居て俺と話して触れている時点で何でも信じるぜ、俺は。魔法、魔法なァ……よくわかんねぇケドよぉ、なんか泣けて泣けてしょうがねぇや」
『リキエル』はキスをする代わりに俺の手を引いて抱き寄せると、ぎゅうと力を込めてきた。ぬくもりまであいつと寸分違わず、俺は『リキエル』の肩口に顔をうずめて泣いた。
リキエルが死んで以来おそらく初めての、誰かの前での涙だった。
──────
「──で。あいつ、いったい何なんだ」
ヴェルサスが剣呑な声でこぼしたのに対し、ジョルノは悠然と言った。
「さあ、今のところはほとんど分かりません。分かるのは、『アレ』がリキエルでは無いということくらいでしょうか」
ジョルノの答えに、ヴェルサスは眉をひそめた。
「俺にはリキエルに見えるがなァ」
後ろ頭をポリポリと掻きながら、ヴェルサスは欠伸を噛み殺した。彼の視線の先では、『リキエルと思しき人物』とウンガロがTVゲームに勤しんでいる。ヴェルサスは言葉を続けた。
「まさかゾンビ……とか?」
「有り得ません」
ジョルノはピシャリと言い放った。そこには戸惑いと恐怖、そしてそれを捩じ伏せようとする意志の強さが見て取れた。ヴェルサスは肩をすくめる。
「僕たちは彼を、きちんと葬ったでしょう。彼の魂を、神の御下に送ったはずでしょう……このような事あってはならない筈です。これは死者への冒涜と言えます」
「ケドよぉ、実際のところ『あいつ』はウンガロと仲良しこよし、いっしょに風呂まで入っちまってよォ」
「……違和感しかないですよね」
「違和感ン〜?」
「あれでは、あまりにも幼すぎる」
ヴェルサスは「ああ、それは確かにな」と頷いた。ジョルノの言わんとすることが何となく分かる。
「ほんとうのリキエルはもう少し大人びていた、って言いたいんだろ?」
「ええ。ウンガロはもともと夢見がちな子ですから、あの『リキエル』に素直に懐いてしまうのも仕方がないとは思うんです。ですが、リキエルは……あの子は、どこか達観している部分もあった筈です。それなのに、これではまるで、」
そこでジョルノは言葉を区切った。その吐息は、ほんの少し震えていた。ヴェルサスはジョルノの顔を横目でうかがって、目を丸くした。そこに涙は無い、ただ、確かにジョルノが泣いているように見えたのだ。いかなる時も冷静沈着、実際リキエルを亡くした日も葬儀の時も涙ぐみさえしなくて、声を震わせることすらなかったのに。
彼は『リキエル』とはしゃぐウンガロの後ろ姿をじっと見据え、言葉を続けた。
「まるで、『かつて在った日々』を指でなぞっている様だ」
──────
『リキエル』が現れてから、ウンガロは元気を取り戻した。表向きは。
記憶も地続きになり、頻繁に『リキエル』と朝からふたりで出かけては、夕飯頃になると帰ってくる。
聞けば、電車に揺られて映画館に行ってみたり、ただただ公園のベンチでぼーっとしてみたり、時には近場の美術館で一日過ごしてみたりしているらしい。
双子の兄を喪ったウンガロが、楽しそうな日々を取り戻して過ごしているのなら、それはそれで良いことだとヴェルサスは考えている。
だが、平穏な日常に戻りつつある筈のウンガロに変化があった。自宅のガレージに近づかなくなったのだ。そこは生前のリキエルが自慢のバイクを磨いていたり、手ずから整備したりしていた場所で、ウンガロもわざわざ絵本やコミックスを持ち込んでは、リキエルのそばでそれらを読んでいた。
そのガレージには今、廃車になってしまったリキエルのバイクが、大切に保管されている。
ウンガロはリキエルの死後一ヶ月ほどの記憶が朧気だから、その事実を知らないと思っていたのだが、あの場所に近づかないということはもしかすると……。そう考えて、ヴェルサスは自分の予感を振り切るようにかぶりを振った。
ただ、ウンガロが日に日に弱っていくのは事実だ。もともと偏食がひどかったが、今はほとんど『リキエル』が心配して食べさせてやらなければ、自ら何かを口にしようとはしない。それに『リキエル』が誘わなければ眠ろうともしないし、風呂に入ろうともしなくなっていた。どこからか急に現れた、ジョルノ曰く「あまりにも幼い」らしい『リキエル』に心配されるほど、ウンガロは自分の身を蔑ろにし始めた。
ウンガロの本心はヴェルサスには分からない。リキエルなら、双子の勘のような何かで、あまり多くを語らないウンガロの本心を見抜くこともできたかもしれない。
ただの兄、という立場をこれほど悔やんだことは無かった。
