何度世界が巡っても、〈1〉



 白いカーテンが、春の風に吹かれて舞い上がる。
 看護師さんの一人が小走りにやって来て、「ごめんなさい。窓、閉めますね」と言うのを、俺は無意識に止めていた。彼女は逡巡した後、気になることが有ったら伝えるようにと優しく言付けて、ドアの向こう側に消えていく。
 それを見送って、俺はまた視線をカーテンに移した。ふわり、ふわりと、不規則に揺れるそれは、俺の中では安心の象徴だった。
 この白を基調としたクリニックは小さいけどスタッフも看護師も、もちろん医師も優しいし、プライバシーへの気遣いもきちんとしている。初めて訪れた時、ちょうど一年前もこんなふうにカーテンはやわらかく靡いていた。ここに来るまで誰にも理解してもらえなかった話を聞いてもらえるという安堵感を得た瞬間から、この白い空間は安心の証となった。
 真っ白な待合室には、手作りの指人形や花飾りが控えめに置かれていて、そこにも好感が持てる。
 だから俺は今もここで、自分が呼ばれるのを待っている。
 視線をカーテンと窓へ戻す。すると、外の駐車場に一台の車が停まった。ずいぶんと音漏れがひどい車で、こちらまでズンズンと重低音が響いてくる。助手席のドアが開いて、一瞬デタラメなジャンルの音楽が流れ出したと思ったら、どうやら運転手がエンジンを停めたようで、その不安を煽るような曲も聴こえなくなった。
 運転手に向けて助手席の人物が何かを伝えると、運転席のシルエットが頷いたのが見えた。そして──
「43番、43番の方ー」
 診察室のドアが開き、俺の番号が呼ばれた。
 何となく後ろ髪を引かれるような、どこか残念な気分で立ち上がり、俺は診察室へといざなわれた。
 
──────
 
 このクリニックの院長は女性だ。毅然とした態度と言葉遣いに、最初こそ気圧されたものだけど、今ではとても信頼できる人となっている。
 今日も話さなければならないことをメモして行って汗をかきながら懸命に伝えれば、的確なアドバイスと労いの言葉、そして処方薬の調子を訊ねて「このお薬になってから特に安定しているようね」と微笑ってくれた。
 話が一段落したのでお礼を言って診察室をあとにする。お大事に、という言葉にもう一度礼をして、扉を閉める。
 視線を上げると、俺はビクリと飛び上がった。この時間帯は俺しか予約が無いと思っていたのだけど、待合室にひとが居たからだ。ぐったりと背もたれに身を預け、こちらの存在にも気付いていないようだった。
 思わぬ登場に、俺はしばらくドアの前で固まっていた。すると、俺の視線と荒くなっていく呼吸が届いてしまったのだろう、その人物が顔を上げた。その刹那。
「リ……ッ!?」
 聞き間違いでなければ、そのひとは俺の名を発音しかけた。でも、その時俺はこの空間で初めて発作を起こしてしまった。ああ、まただ。ここもだめになるのかと、死にそうな動悸を抱えながら俺はその場に座り込んでしまった。気を失うその瞬間、どこか聞き覚えのあるざらついた声が、震える涙声で必死に看護師を呼ぶのが聴こえていたような気がした。

──────

「そうですか。ではその方にもお礼をしなくてはならないかもしれませんね」
 俺の後見人であるジョルノさんが淡々と述べた。
「だが絶対ではない。義理を欠くことは非常に心苦しいですが。クリニックを変えるのなら、その方とももう顔を合わせることもなくなるのですし」
 俺はジョルノさんの事務所の執務室で縮こまりながら、出してもらった紅茶にも手を出せないでいた。
 ジョルノさんはこの事務所を拠点とする弁護士だ。相当なやり手なのだと部下の皆さんが言っていた。どうしてそんなすごい人が俺の後見人になってくれたのかはずっと謎で、たぶんこの先もその話題を出すことすらできないままなのだろうという予感がある。と言っても、威圧感……というか後光のようなものを放っているようにも見えるこの人が、俺を途中で見限ったりしないことも何となく分かってはいるのだけど。
 ジョルノさんがティーカップに口をつけ、ひとつ息を吐いた。
「それで。どうしますか? 選択肢は多くありますが選ぶ権利は君が持っている。そうでしょう、リキエル?」
 急に名を呼ばれて、俺は飛び上がらんばかりになった、というか実際に一瞬中腰になった。ジョルノさんの視線が「落ち着いて」と物語っている。俺は深呼吸を繰り返してから、言葉をこぼした。
「変えたく、ない、です……?」
「疑問形ですね。どうしてクリニックを変えないのですか? 確かに君はあの場所を気に入っている様子でしたが、そんなふうになってまで、通う理由がありますか」
 じっと見据えられて、俺は過呼吸を起こしそうになる。それでも、どうしても伝えなくてはならない事があった。
「……あのひと、俺のことを知っていた」
「、どうしてそう思ったのですか?」
「名前を、呼ばれかけたんです。パニックになりそうな俺を見て、『リ……ッ!?』って言いかけたんですよ、あのひと。大丈夫ですか、とか、気持ち悪い、とかじゃなくて。あの瞬間に咄嗟に『リ』は出てこないかなって」
「……たったそれだけですか」
 執務椅子に凭れたジョルノさんは、あきれているようだった。俺は必死に言い募る。
「それだけじゃあ、ありません。……懐かしい声を聴いたんです」
「声、」
「俺もあのひとを知っている気がする。気のせいかもしれない、でもこのままにしておくのは違うと思うんです。だから、見極めるまで、クリニックは変更しない方向でお願いしたい、です」
 ジョルノさんは額に手を当て、「声、声かぁ……」と独りごちてから、俺に向き直って言った。
「……分かりました。ただ、くれぐれも無理はしないでくださいね」
 俺はここ最近でいちばん嬉しくなって、「はいッ」と元気よく返事をした。ジョルノさんはどこか寂しそうに微笑んでいた。

──────

 二週間後。診察日だ。
 クリニックへと赴いて、俺はあの車を駐車場に見つけてちょっとだけ心が上向くのが分かった。
 歩きながら何気なく眺めていると、運転席の窓が開いて「よう」と声をかけられた。その時点で逃げ出そうかと思ってしまったけど、それはあまりにも失礼すぎると思い留まる。瞼がひとりでに落ちてきそうになるのを何とかしようといつものように深呼吸をする。
「す、すみません……不躾に見つめてしまって、」
「おー。つーか、ほんとにまた牛柄! なんだかんだ言っても、変わらねぇなァ、おまえも」
「えっ?」
「……イヤ、何でもねぇ。聞かなかったことにしてくれよ」
 「な!」と妙になれなれしく肩に手を置かれる。だけど何故か別に不快には感じなかった。俺は思い切って訊いてみることにした。
「ご同行の方、ですよね……? その。あのひと、の」
 失礼ついでに踏み込んでみた。すると運転席の彼はニィッと口端をつり上げた。人相は整っているのに、言ってはなんだけどガラの悪い笑みだった。でもやっぱり不愉快になったりはしないので不思議な気分だ。
「そうだ。会ったんだよな? あいつと」
「あ、会った、というか……助けてもらった、というか」
「あいつが人助けェ!? ンー、まぁおまえが相手だから特別かぁ」
「あの、それはどういう……?」
「あー、いや。コッチの話だ。ほら、行けよ。急に呼び止めてわるかったな」
 「あいつによろしくな〜」と手を振られる。
 俺はと言えばぺこりと頭を下げてから、今日もあのひとと会えるのか、と病とは別の動悸を感じながら、クリニックの入り口に向かうのだった。

──────

「あ」
 受付を済ませると、すぐに中待合に呼ばれる。そこには既にあのひとが居て、あの時と同じようにぐったりしていた。
 思わず声を上げた俺を、あのひとはちろりと見遣って、すぐに視線をそらしてしまった。というか、視線のやり場に困って仕方なく気まずそうに自らの足元に目をやった感じだった。
 どうしよう、困らせてしまった。俺の存在があのひとを困惑させるというのなら、俺はこの場から消えてなくなりたい衝動に駆られる。でも今日はこのひとに伝えなきゃいけない事があるのを思い出して踏みとどまった。
 俺はあのひとから三つ隣の席に浅く腰かけた。すぐ隣の席も、一つ空けて座るのもなんだかまだ早いと思ったからだ。まだ早いってなんだよ、それじゃあまるでそこから先を望んでいるみたいな考えじゃあないか、と内心で狼狽える。
「ぁ、あのッ」
 押し出されるようにして口からこぼれた呼びかけ。この場には俺たちふたりしか居ないけど、いやなら無視を決め込んでもよさそうなのに、あのひとは律義にこちらを見てくれた。
「先日は、その、あ、ありがとうございましたっ」
 さすがに返事はしてもらえないかな、むしろ俺のことなんか忘れられてるかな……と半ば諦めていたのだけど、あのひとはゆっくりと言葉を紡いだ。
「……別に、俺は何も」
 何もしてない、と俺への拒否感からそう続くかと思ったら、「何もできなかった……」と悔いるように続いて俺はこのひとの中に確かな善性を感じ取った。幼い頃からこの病気の発作等で周囲の白い目に晒されて生きてきたから、人の悪意と善意には敏感な自信がある。間違いない、このひとはいいひとだ。
 視線を泳がせて、気まずそうに俯くこのひとをもっと知りたい。そう強く思った。これまで色んなことを諦めてきたけど、この微かな関係性を、もっと強固なものにしたかった。
 親切な人は確かに今までにもいた。でもこのひとは特別な気がした。だって。
「突然すみません、でもあなたは俺と会ったことがある。違います、か……?」
「俺相手にかしこまるのはやめてくれ……調子が狂う」
「え?」
 マズイことを言ってしまった、と何故かあのひとの顔に描かれていた。そして慌てて言い訳のようなものをし始めた。
「あっ、あんたには、そのぉなんというか……素朴で自然な話し方が似合う、と思う、から」
 やっぱりどこか懐かしい声で話す彼のしどろもどろな様子に俺は微笑ましくなって、久しく心から笑えていなかった事に気づいた。
 その気づきを得た途端、今まで錆びついていた涙腺が緩んだのが分かって、俺は慌てた。
 このひとの前では笑っていたい、そう思った矢先にこれでは、迷惑をかけてしまう。大の男が急に泣き始めたら誰だって引くだろう。でもこのひとは違った。
 席を立つと、あのひとは恐る恐るといった様子でこちらに歩み寄ってきた。そして俺のすぐ隣にストンと腰を下ろし、「イヤだったら言ってくれ」とひとこと断ってから、俺の背をさすり始めた。
「だいじょうぶ、何も心配いらないからな……ゆっくり深呼吸するんだ。そう、上手だな、」
 リキエル。
 揺り籠にゆられているような安心感に余計に溢れてきていた涙がぴたりと止まる。
「い、今俺の名前……」
 あのひとは空いている方の手で自らの口元をパシッと抑えた。まるで禁忌を口にしてしまったかのように青褪めている。
 このひとは絶対俺の事を知っている。ならやっぱり俺もこのひとの事をもっと詳しく知りたい、そうでなくては失礼だ。そう思って身を乗り出そうとした瞬間。診察室から呼び出しがあり、あのひとは俄に立ち上がった。
 これ幸いという表情で白い扉の向こうに消えていくあの人の背を、俺は見つめる事しかできなくて、この胸に穴が空いたような切なさは何なのだろうと思いを巡らせた。

──────

「で、結局のところ、診察室から出てきても取り付く島も無かったと」
 ジョルノさんは溜息混じりに言った。
「でも、お礼は何とか言えました。すごく噛み噛みでしたけど」
「その点については素直に褒めましょう。……それで、満足できましたか?」
 俺は首を横に振った。満足なんてできるわけがない。
 むしろもっと知りたいことが増えてしまった。
「まずは……あのひとの名前を訊かなきゃですね」
「君が生きることに積極的になるのは僕も嬉しい。ですが、知って後悔する事実があるということも、覚えておいてくださいね」
「後悔する……事実、ですか……?」
 ジョルノさんはデスクに肘をついて手を組むと、口元を隠すようにして言った。
「君は、こうと決めたら人を信用し過ぎる。例えば、僕の事とか。そしてその待合室の彼の事とか」
「ふたりとも良いひとだって、俺には分かります」
「……そういうところですよ」
 ジョルノさんはお手上げだとでも言うように肩をすくめた。
「ですが……次の診察日では彼との席を詰めてみるのも、一つの手かもしれませんね」
 ……アレ? 今のってアドバイス? として受け取ってもいいのかな?
 俺にはジョルノさんの深遠な考えは読めないので、諦めて冷めかけた紅茶を静かに啜った。

──────

「──話が違うのではないですか、ヴェルサス」
 執務椅子を反転させて夜景を眺めながら、ジョルノ・ジョバァーナは咎めるように電話口に向けて言った。
「ウンガロの治療はまだ始まったばかりでしょう」
 電話の向こう、ヴェルサスと呼ばれた男はグフッと独特な笑い声を上げた。ジョルノのトゲのある物言いにもまったく怖気づいていないようだ。
『俺だって想定外だぜ〜? まさかあんな小さいクリニックに通わせてるとは思わねぇよ。アンタなら金にあかせてどデカい病院にでも入院させてるもんかと思うだろ普通』
「かわいい弟の主張を尊重した結果ですよ」
『俺たちはそのかわいい弟とやらには含まれねぇのかよ?』
 ジョルノは、はぁ、とあからさまに溜息をついた。
「かわいくなかったら、こうして電話しません。ウンガロはどうしていますか?」
『寝てるよ。なんか、認知行動療法? だかなんかの説明を受けて疲れちまったらしくて』
「そうですか……眠れていますか。それは良かった」
『俺も眠ィんだけど』
「付き合せてしまってわるかったねヴェルサス。おやすみ」
『お、おう。なんか素直すぎてこわい。……ハア、ともかくリキエルの見守り、頼むぜ』
「それはこちらの台詞でもあります。今回もやっと見つけた末の弟たちですからね。もう二度と『あのような事』には、」
『分ーかってるって! ウンガロも、二度とあんなふうにならない為に苦しい治療始めたんだからな。それじゃ、おやすみ』

──────

 俺の自我はいつだって、クスリを使用した直後から始まる。
 『何巡しても』、それは変わらない。
 生まれ落ちてから物心つく年になっても、不透明な膜に覆われたような五感と思考でただ生き続ける。
 そして、あらゆるきっかけでクスリを使用されて初めて、自我を得るんだ。
 クスリが無ければ成り立たない、脆弱な自我。
 自分はウンガロという負け犬だったんだと、思い出す。
 『元の世界』では、もう少しマシだったかとも思うが、結局俺たちの命は時間稼ぎ程度の価値しか無かった。それでも、アレはアレで幼少期からの記憶はあったから、擦り切れた記憶の断片しか持っていない現在よりよほど人間してたと思う。
 世界が何巡しようが自我を保ち、地に足つけて生きていけているジョルノの兄貴やヴェルサス、そしてすべてを忘れて新たな自分と向き合えているらしいリキエル。
 そのどちらでもない俺は中途半端に生きて、志も何も持たないまま薬物乱用で野垂れ死んでいく。
 それが自分というストーリーなんだと納得した俺は、数えるのもやめた何巡目かの世界でリキエルと再会した。それまでも道ですれ違ったり店員と客だったりした世界線はあっても、しっかりと関係を持ったことはなかった。
 以来、あいつは何度目の世界でも俺の前に現れては温もりを振りまいていった。だがその子ども体温に依存して、ああ離れられないと自覚した時、俺は人生の幕を閉じる。
 何度も不毛な関係を繰り返す俺たちを見かねたジョルノの兄貴が助言をくれた。自分が死んだ後のリキエルがどうなるのか俺は知らなかったが、禁断症状に陥っている俺を心配したリキエルが慣れないバイクで駆けつける途中、事故に遭い死亡するのを何巡も繰り返しているらしい。ほぼ同時刻に警察官に射殺される俺が知らないのも無理はない、と兄貴は言ってはくれたが。すべては俺が招いた事態だった。俺の弱さがあいつを、リキエルを殺していたんだ。
 何巡してもリキエルとの再会と死は避けられないと悟った俺は、兄貴にあいつを保護してやってくれと頼み込んだ。あの人はすごく頭が良いから、考えを巡らせて試行錯誤もして、リキエルを何度も護ってくれた。
 その代わり、俺とリキエルの再会は無くなった。
 俺と出会うことがリキエルの死のトリガーになっているからだ。
 だがそうと判れば話は早い。徹底的にリキエルとの出会いを避けて、全力であいつを守る。それが俺にできる唯一だから。
 そう諦めていたんだが、兄貴が閃いたらしいとヴェルサスから聞かされた。
 俺が依存症を治療してからなら、もしかするとリキエルは生きていられるかもしれないと。
 それは無理だと言った。だって俺の自我はクスリで成り立っている。いくら避けても、遅かれ早かれクスリを使用されることは俺というストーリー上、回避できないと。
 その認識ごと治療するんですと兄貴は言う。「君の自我はきちんとある。クスリに頼らなくても。クスリを使用する前の記憶が曖昧なのは、君の精神が他でもない薬物で摩耗して世界の巡りに耐えきれていないからなのでは」と。よく分からなかったけれど、兄貴が言うならそうなのだろうと思えた。
 クスリとの関係を断ち切れば、またリキエルに会える。心配もかけずに済む! そう思うと疲れ切っていた心が少し癒されるのが分かった。
 それなのに。
 また出会ってしまった。今度こそ薬物依存の治療を完遂しようと訪れた小さなクリニックで。逃げようかとも思ったが、かつてのようにパニック障害の症状で苦しむリキエルを放っておけなかった。病院なのだから看護師や医師に冷静に伝えるだけでよかったはずだった。だが俺は座り込んだあいつを抱き起こし、その懐かしい温もりに声を震わせながら看護師を呼んでしまった。
 その後ヴェルサスから聞かされた話に俺は驚いた、リキエルを拒絶しようとした。てっきり転院するものと思っていたのだが、兄貴曰く「今回のリキエルは希死念慮が強めですから、君が消えたらどうなってしまうか……」。
 俺は覚悟を決めた。絶対に依存症を治療して、リキエルを守ろうと。