月に潜む
俺の弟は、月に棲んでいる。
時折気が向いたら地球との交信を試みては失敗し、いじけて体育座りした膝小僧に顔をうずめる。そして今も、物欲しそうに地球を眺めているのではないか。
突然何を言い出すんだと思われるだろうけど、少なくとも俺はそう考えている。どうしてそう思うのか。その答えを明確に持っている訳じゃあない。だけど感じるんだ。弟は、ウンガロは、『地球上に存在していない』と。別に話が通じないから、とかでは断じて無い。むしろクスリから解放された弟は存外おとなしいし、どちらかと言えばマトモだと思う。フラッシュバックが起きた時は思わず目を背けたくなる程痛々しいけど。
俺の弟は月に棲んでいる。
……いや、実際のところは俺の部屋でカートゥーンに釘付けになっているんだけど、それはそれでいい。あまり近くで見過ぎると眼をわるくするぞ、と心配を口にしたくもなる、でも弟がせっかく見つけた楽しいものを奪う気にはなれない。弟はこれまでの人生で一番の体験は「スタンドで世界を支配してやったとき」だと言って憚らない。未曾有の被害を生み出したという自らのスタンド能力を誇りに思っているのかと訊ねれば、腕を組んで小首を傾げてしばし黙考。
そして徐ろに「あんなにみんな喜んで物語に没入していたのに」と言った。更に続けて「自分の望んだストーリーに惹き込まれて消滅したとしても、それは本望ってやつだろ。少なくとも俺はそれを『被害に遭う』とは言わねぇ。どんな結末を迎えようがハッピーエンドだ」。
最初は、他人の生命を生命とも思わないただのサイコ野郎なのかと落胆と軽蔑が勝った。でもどうやらそうでもないらしいことを直ぐに悟る。弟の表情を観察すると迷子の子どものように不安げに瞳が揺れ、それでいて大人に叱られてもその理由を幼さ故に理解できず、持論を拙いながら一生懸命に説明している幼子のような、そんな何処か夢見がちな雰囲気を醸していてこちらのほうが困惑した。
すると弟が急に自分の身を掻き抱くようにして震えだし、頻りに「寒ぃ……」と譫言のように呟き出した。俺は先程の戸惑いを残したまま、それでも弟の数え切れない程の注射痕が残る腕に、恐る恐る触れた。
その瞬間俺の頭の中に、いくつかの映像の断片が過った。
無機質な砂地や、そこに付いた小さな足跡、碧い地球と思しき目の前の風景に伸ばされる小さな手。
数瞬は何が起こったのか判らなかった、でも俺はすぐに理解した。弟の中には幼いままのもうひとりの弟が居て、こちらを覗いているのだと。先の断片にあったその場所は風景を見るにおそらく月だ。弟の心を柔く拘束していて、薄ら寒く暗いそこで弟は膝を抱えて凍えている、と感じた。
途端にどうしたら良いのか分からなくなった。長兄や次兄なら、明確かつ的確に、もしくは頭ごなしに弟の詭弁とも弁明ともつかない言葉たちを否定できたのかもしれない。そして何か良い策を考えて、幼い弟の居る場所から救い出すことができるかもしれない。そうは思えど、そもそも俺に弟の言葉を否定する権利も義務も無いことに気づいて、二の句を継げなくなった。世界を巻き込んで被害を出したことはあくまでも副産物であって、弟の失われていた自信を多少なりとも取り戻せるきっかけになった出来事だったのは事実だと思ったからだ。それを責めるのはただの俺のエゴだ。兄として、同じく世界に虐げられていたひとりとして、弟を守ってやりたいと思いこそすれ、未だおろおろとしたままの表情で震えている弟を否定しようとは既に考えられなくなっていた。その代わり、この弟を抱きしめてやりたいという衝動に駆られた。何故かは今となっても分からない。ただ漠然と、あんなに寂しい場所で独り、心細かっただろうな、とは思っていた。
「怖かったな、さびしかったな」そう言いながら弟を抱き寄せる。ぶん殴るなり突き飛ばすなりして思い切り拒絶されるだろうと覚悟していたのに、弟は俺を殴るどころか逃げる素振りすら見せなかった。そっと背を撫でれば腕の中の弟はふるりと身を震わせて、「……別に、怖くもさびしくもねェよ」とだけ言い返して俺からの抱擁自体は拒まなかった。抱き返しては、くれなかったけれど。
それ以来、俺はウンガロを視界の隅に置いておきたくなった。監視しているつもりはない、ただ、心配だった。俺の弟、という事実が庇護欲をかき立てたのかとも考えたけど、どうやらそういう訳でもなさそうで、俺の頭は混乱を極めた。でも、なんだか面映ゆいほどの幸福な混乱だった。
兄弟揃っての食事で次兄と一緒に騒がしくしているのを見守るとき、現在のようにTVの真ん前に陣取って画面に夢中になっているのを視線の先に捉えているとき、部屋の隅で膝を抱えて静かに泣いているのを見てしまったとき。
そういう、何気ない日常を見つつやっぱり思うんだ。
俺の弟は、月に棲んでいる。
俺はゆっくりと弟の横に回り込んだ。背後から行くと怯えさせてしまうからだ。TVの前で胡座をかいて、そのつぶらな瞳に過激なカートゥーンを映してきらきらさせている横顔を眺める。番組が終わるまでの数分間、俺は弟の実年齢にそぐわないほど幼気で無邪気な表情を飽きずに見つめていた。
エンディングソングまでしっかり聴いて、ウンガロはこちらを見た。初めて俺の存在に気づいたみたいにビクッとしながら「……なんだ、居たのかリキエル」とこぼす。俺は冷たくなってしまわない程度に、かつ静かに慎重に「うん。俺の部屋だからな」と尤もな返事をした。するとウンガロは照れくさそうに少し笑った。「そう言えばそうだったな」と。そして続ける。
「なんで俺、おまえの部屋に居るんだ?」
それは俺が知りたい、と返すような質問をされたが、今の俺にはウンガロの疑問の答えが分かる。それを告げる前に、俺はウンガロを抱きしめた。
やっぱり、抵抗はされない。抱き返しもされない。
「きっと寒かったからだろうな。ごめんな、帰りが遅くなって」
「『寒い』? 別にそんな事ないぞ」
「……そうだな」
囁くように語らう。ウンガロの冷えた身体に、俺の体温が溶け出して行くのが分かって何故か泣きそうになる。洟を啜ればウンガロが不思議そうに「リキエル?」と俺の名を呼ぶ。溶け合った部分からウンガロの孤独と絶望が伝わってきて、俺は抱き締める腕に更に力を込めた。
深く呼吸をして、俺は思い切って訊ねる。ウンガロのスタンドについて話を聞いたとき以来だ、この話題を振るのは。
「おまえ、いま楽しいか……?」
ウンガロが小首を傾げるのが分かった。答えを聞くのが怖かった。でも確かめておきたかった。今こうして抱き締めている存在が、何処にいるのか。
「何だよ、急に」
「どうしてだろうな、気になってさ」
耳許でウンガロが溜息混じりに、「ま、いいか」と呟いた。
「いまが楽しいとは思わねぇけど、さっきまでは最高に楽しんでたぜ。主人公の相棒がスッゲーはちゃめちゃなヤツでよォーッ! でも主人公と息ぴったりで観ててまじスカッとするぜェ!」
「そ、そうか……! 楽しかったんだな? さっきのカートゥーンが!」
「リキエル、おまえまでヴェルサスみてぇに『ガキじゃねぇんだから』とか言うんじゃあねぇだろうなァ?」
先のご機嫌は何処へやら、途端に疑り深い声音になったウンガロの、感情がジェットコースターしている様子に、俺はなんだか途方も無く嬉しくなった。
熱く語ったからだろうか、ウンガロの体温がぽかぽかと温まってきた。それにもひどく安堵して俺の目から思わずほろりと一雫溢れた。と思ったら、一滴では治まらなくてぼろぼろと涙が止まらなくなってしまった。ウンガロが気遣わしげに俺の名を呼ぶのをきっかけに、いよいよ本格的に泣き始める。
嗚咽する俺の背に、ふわりと温かな何かが触れて、恐る恐るといった様子で何度も撫で下ろされる。それが何かなんて、考えずとも判る。
「ウンガロ〜……ッ!」
「なんで泣いてんのか分かんねぇけど、泣くなとは言わねぇよ。なんかおまえあったかくて居心地いいからよぉ、しばらくこのままでも良いぜェ」
俺の弟は、きっとまだ月に棲んでいる。
それなら俺は何度でもおまえの居る月面まで飛んで行こう。
暗くて寒い殺風景な月の砂地を踏みしめながら、おまえの冷え切った身体を抱きしめよう。
なんてったって、俺の心はアポロ11号だからな。
