Phi-Brain

The smallest feline is a masterpiece.

その人とは、いつも思いがけないところで出会う。
例えば、突然√学園へ向かうことになった時。事前連絡なんてPOG経由で学園長へ必要最低限、少なくとも私から皆へは一切しないでいたのに、その人だけは見透かしたみたいに笑って出迎えたものだから、こっちが驚いてしまった。

「レイレイ、久しぶりー!いらっしゃいなんだな!」
「そうね、久しぶり。…この子にでも聞いたの?」

言いながら、足元の黒猫を見やる。彼女もこの人に会いたいだろうからと連れて来たものの、もしかしたら猫同士でしか通じない何かで来訪を事前に教えてしまったのかもしれない。そんなものが実際にあるのかどうかは知らないけれど。
しかし目の前のアナは首を傾げるばかり。あぁもう、調子が狂う。正直、POGから連絡を受けた時点であまりにも急な予定変更だったから、それならばいっそのこと私も予告せず√学園に登場して、皆を驚かせてやろうと思ったのに。だけど、にこにこ笑うアナを見ていると、計画を邪魔されたはずなのに不思議と怒る気になれない。

「本当、あなたは相変わらずね」
「えへへー。レイレイはどう?イギリス、楽しい?」
「ええ。だいぶ良くしてもらってるわ」

答えると、アナはほっとしたのか表情を柔らかくした。普段は末っ子のように自由でそのくせ周りをよく見ているのに、時折、妙にお姉さんのような振る舞いをすることがある。まるで、自分がされて嬉しかったことを他の人にもするみたいに。
…もっとも、華奢な見た目とは裏腹にどう転んでも「姉」にはなり得ないけれど。

「フリーセルもPOGに寄った後、もうすぐ来るわよ。…なんて、あなたは知ってるかもしれないけど」

嫌味ではなく本当に、この人は何もかもを知っていそうだ。しゃがんで黒猫を優しく撫で始めたアナを見下ろしながら、ふと、以前にもこんなふうに二人が並ぶ光景を見たことを思い出した。戦いとはかけ離れた、だけど何かが足りなかった、あの時間。

「そういえば、神のパズル…時の迷路の中でもあなたと会ったわ」

名前は聞いていないけれど、姿や雰囲気は今もなんとなく覚えている。黒猫と一緒にいて、心が温かくなる優しいタッチの絵を描くのに、なぜかジグソーパズルのピースを無くしたみたいに空白の残る絵ばかり並べていた人。

「いつも帰り道の土手にいて、完成しない絵を描いていた。全部欠けてて…だけど、それで完成なんだって。欠けてない人なんていないから…って。でも不思議ね、そう言うあなたはすべて分かってて、完璧みたいに見えるわ」

心からそう思って、何気なく話した言葉だった。私やカイトやルーク、ジンでさえも間違いを繰り返してきた中で、この人だけは小さな失敗こそあれど、決定的な間違いは本能で回避して後は自由に生きてきたような、そんな印象だったから。
だけど次の瞬間、ほんのわずかにアナの纏う雰囲気が変わった。ぴりりと張り詰めた緊張感はすぐに穏やかさに紛れて霧散してしまったけれど、気のせいでも嘘でもないと言わんばかりに、黒猫が耳をぴんと立ててアナを見つめる。

「ううん、アナもおんなじ。みーんな、どこか欠けてる。アナもそう」
「えっ…?」

こちらを見上げたアナは微笑んだまま、だけど瞳の奥に寂しさを滲ませて言う。

「アナが大好きな絵には、もう会えない。アナは今も、イヴの絵に会いたいのに」

その名前が出て、そこでようやく思い至った。私がマスターブレインとして契約していた頃、敵であるカイトやルークを調べた時に偶然見た資料。オルペウス・オーダーの一人としてカイトと対戦した相手――アナの実の姉。
詳しい経緯までは分からない。その資料に書かれていたのは当時使われたパズルや、パズラーを殲滅するために有用な情報だけだったから。
けれど、アナにとっての「欠け」は間違いなくそれだ。大好きだという、イヴの絵。

「もう、見れないの?その絵…」

アナは小さく頷く。先程びっくりさせた黒猫を落ち着かせるように、再び撫でる。
しばらくの間、沈黙が流れる。こんな時どういう言葉をかければいいのか、私はまた見つけられずにいた。ジンが怖いパズルに挑戦していたと知った日のこと、あの世界でカイトがふと笑みを消した瞬間のこと…立ち尽くした思い出ばかりが心によぎって、どうしても臆病になる。
だけど、それだけじゃダメだと分かっているから。祈りを込めて、精一杯伝える。

「…私ね。欠けていても、いいと思うんだ」

努めて明るく出した答えは、神のパズルの中で見つけたそれと同じだった。

「私、ずっと自分には何かが欠けているんじゃないかって怖かったの。それで、必死に埋めようとした。ジンを助けるにはパズル能力が全然足りないんじゃないか、私も強くならなきゃって…そしたらいつの間にか、パズルを楽しめなくなってた」

アナは何かを感じ取ったのか、はっとした様子で小さく呟く。

「パズルが好きで、だけど大嫌い…アナが思うに、裏返しの気持ち」
「そうね。パズルは好き、パズルは楽しい。だからジンについて行った。…だけど、ジンを傷つけるパズルは嫌いだった。どうしても、好きになれなかったわ」

きっとそこが、私とカイトとの違いだったのだろう。カイトは人を傷つけるパズルに対しても、真摯にパズルの声を聞いて解こうとしていたから。
以前見た資料によると、かつての彼は自分の両親を奪ったパズルにさえも向き合っていた。それがどんなにすごいことか、今なら痛いほど分かる。ジンを傷つけたパズルに対して最後まで憎まずに解く勇気は、私にはまだ無い。

「パズルを楽しむようになった今でも、私はカイトやジンにはまだ追いつけそうにないけれど。皆が寄り添って少しずつ、私の欠けを補ってくれたの」

話しながら思い浮かべるのは、あの賑やかで幸せな女子会の時間。そして今のクロスフィールド学院での生活。パズルはやっぱり楽しいもので、だけどパズル以外の時間も同じくらい楽しい。

「…ジンを失って、私の心にはまた、ぽっかりと穴が空いたわ。でも…」

これから時間が経てば、穴はまた少しずつ埋まっていく。パズルが、皆の優しさが、日々を楽しむ気持ちが、そうと意図しなくても補ってくれる。…それでも。

「無理に埋める必要、ないのよね。だって、そこには確実にジンがいたんだもの」

私の欠けは、完全に埋まることはない。この先ほとんどが埋まって一目見ただけでは分かりにくくなっても、そこには小さな穴がずっとある。
だけどそれでいいの。だってそれは、もういないジンが確かにいた証だから。楽しむことが欠けていたからって、無理に楽しむ必要も、無理して笑う必要もない。
きっと目の前のアナもそうだ。何事もなかったかのように微笑むアナは儚くて、でもそんなアナも私の知らないところでは欠けていて、皆から少しずつ埋めてもらって…同時にいつまでも埋まらない欠けがずっとある。大好きなイヴの絵がアナの心の根幹にあったことを証明する、外から見えない空白。埋めようとすると広がって、近付こうとすると遠くなる。あの時もらった言葉を思い出す。

「うん。アナが思うに、頑張って埋めなくてもいい。同じように、埋まってきたものを無理に取り除いて空白にする必要も、ないんだな」

あの時と同じ穏やかな口調で、アナが答える。何もかもを見透かして、そのすべてを受け入れるような声。だけどアナの欠けを知った今、その言葉は他でもないアナ自身に言い聞かせているようにも思えてくる。
この人も普段は見せないだけで、心に空白を抱えている。多分アナだけじゃない。皆そうやって生きているんだ。
黒猫がうっとりと目を細める。彼女が気持ち良さそうに喉を鳴らし始めたところで、アナもようやく、晴れやかな明るい笑顔になった。

「…そうだ、来る途中で差し入れ買ってきたの。後で一緒に食べましょ?」

思いきって右手を差し出してみる。少し唐突だったかなと思ったけれど、アナは特に気にした様子もなく、私の手を取るといかにも身軽な動作で立ち上がった。

「レイレイの差し入れ、何だろー?タコ焼きかなー?」
「まさか、ルークじゃあるまいし。甘いものよ、ノノハも喜ぶでしょう?」

日頃スイーツを作ってくる彼女は、今はカイトが作ったパズルに集中している…というのは既にPOGから聞いていた。そもそも今回私たちは、その件で呼び寄せられたようなものだ。まぁ、それは後でノノハに会ったら本題に入るとして。
ノノハが空き時間のすべてをパズルに使っているなら、天才テラスに甘いものが並ぶ余裕はなくなるだろう。残りの男子を考えても、はっきり言ってティータイムの内容に期待はできない。そんな予測を踏まえた上での差し入れなのだけれど、どうやら大正解らしい。アナは目を大きく開いて、見るからにぱぁっと嬉しそうな表情になる。

「やっぱりレイレイはネコ友なんだな!」
「どういう意味よ、それ?」
「レオレオも言ってた。思うに猫は最高傑作、マスターピース!」
「あっ、ちょっと!フリーセルが来てからだから、まだ早いわよー!」

手を繋いだまま、アナが食堂の方向へと走り出す。突然ぐいぐいと引っ張られて足がもつれそうになる。そんな私たちの足元で、黒猫も駆け足でついて来る。
やっぱり、この人はいつでも思いがけない人だ。…だけど、私と同じなんだ。
そう思うとなんだか楽しくなって、私もアナに負けないくらい軽やかに駆け出した。



fin.

(タイトルはレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉「ネコ科の最小動物、つまり猫は、最高傑作である」より。)

2020/09/13 公開
9/90ページ