Phi-Brain

笑顔の軌跡

腕輪が外れてから、ミゼルカはよく笑うようになった。
もはや我らの活動拠点になっている、オルペウス・オーダーの大図書館。吹き抜けの構造により一段と高い天井、それに迫るほどにまで据えられた本棚、そして数も内容もすべてを把握しきれない量の蔵書に囲まれた閲覧室で、彼女は今日も先に来て本の整理に勤しんでいる。脚立の上に座って本を手に取り、ぱらぱらとページをめくって目次と書かれた年代を確認し、適切な場所に戻す。時折、興味が湧いたらしい本に対しては、一連の動作が遅くなったり、そのまま読み耽っていたりする。目元は長い前髪に隠れてよく見えないが、わずかに口角の上がった横顔とその穏やかな雰囲気から、彼女が今、自然な状態でいるのが分かった。



笑うようになった、といっても、それ以前が特段に無表情だったわけではない。私が取り立てて見ていなかっただけで、彼女にも笑顔はあったはずだ。当時よく面倒を見ていたメランコリィが勝負に勝った時、そのメランコリィが突然どこかへいなくなったと思ったら久しぶりに元気そうな姿を見せた時。こちらに向けられた笑顔ではないにせよ、おこぼれに預かることは度々あった。
もっとも、当時は彼女の笑顔に対して、何の価値も抱いていなかったけれど。それはそんなこと以上に果たすべき使命があったからでもあるし、彼女の存在はフリーセルやピノクルやメランコリィと同様、属する集団が偶然重なった者として認識していたためでもある。クロスフィールド学院の生徒でありオルペウス・オーダーに所属している、ただ同じ目的を持った者同士。
そして何よりも、その表情にどこか痛々しいものを感じていたせいだろう。心配していた、ようやく安心できたといった様子でメランコリィだけを見つめるそれは、彼女の見てくれゆえに整っていて美しいが、実際は壊れ物のように脆くて儚くて、笑顔の形をしているのに不安定だった。

…あの時もそんな気配を察したからだ、私が彼女を拒絶しなかったのは。
メランコリィと決別した直後、彼女は何も言わず部屋へ入ると、そのまま私の背中に額を寄せた。一人分の足音、力なく開けられた扉、声は聞こえなかったが窓から見えた庭でのやり取り、そして機密ファイルの内容を鑑みるに、彼女の表情は振り向かずとも容易く予想できた。
ミゼルカに届いたパスワードで、彼女だけでなく私の真実も明るみになった。しかしそこにメランコリィは含まれていなかった。…つまりは、そういうことだ。
だから私は、彼女の望む通りの言葉を口にした。それは弱みに付け入る行為だと自覚していたけれど、ここで私まで距離を取ってしまえば、彼女は意味もなく消えてしまう気がしたから。…どうせ消えるのならば、私も彼女も、腕輪のデータを捧げて消えたほうが有意義だと信じていたから。

そうして迎えた二対二のチーム戦。ホイストの計略により腕輪をアップグレードする際も、大門カイトへ対戦を申し込むべく√学園へ赴いた際も、その上パズルが始まってからも、彼女は人前では冷静な態度を崩さなかった。それが彼女の強さだ、騎士が纏う鎧のような強固さ、そして相手に向ける剣のような鋭さ。恐れるものは何もない、今更何を言われても迷わない、オルペウス・オーダーとしての決意が現れていた。
…それでも。

『良い手だ。ミゼルカ』
『えっ』

何気なくかけた言葉に、彼女は戸惑いながら返事をした。この期に及んで褒められることなど予想もしていなかったかのような、わずかに垣間見せた素顔。
私が知る限り、彼女はいつも理詰めでパズルを解いていた。目的に向かって然るべき手順を踏んで、常に安定して答えを導き出していく。
だが、現実にはそれだけでは解けない問題が存在する。ナンバープレースで言えば、そこに出ている数字だけでは答えを一つに絞れず、仮の数字を置いてその先の矛盾点を見つけ出さねばならない場合。あるいはリンク・スライダーのように、敵の思考を読み隙を突く必要がある場合。そのような問題に、オーソドックスな解き方をする――変な手を仕掛けられない、ある意味手の内が分かりやすい彼女はどうしても弱かった。
仮の手を置いて数手先まで予測する力。それがファイ・ブレインの持つべき資質で、思考が加速すればあらゆる可能性が見えるはずだと言われたら、身も蓋もないけれど。そして稀に、答えが見えているかのように――それこそアナ・グラムのように、感覚で解いてしまう人間もいるけれど。
それを踏まえた上で、彼女は欠点を克服できていた。大門カイトが移動できる箇所を的確に読み、動きを制限すると同時に罠を張った。だからあの時の私は、何のてらいもなく彼女を評価したのだ。彼女にとってその一言がどれほどの重みを持つのか、彼女の過去も心の機微も当時の私は知りもせずに、ただ自然とその言葉を投げていた。

戦況が変わったのは、何かを迷い躊躇う大門カイトにアナ・グラムが声をかけてからだった。何も考えない、パズルを楽しむ。そんな甘い考えだけで鬼気迫る我らを潰せるものかとは思ったが、その助言をきっかけに大門カイトの表情が変わり、迷いが消え、パズルは一気に加速し、更に無意味な手ばかりだったアナ・グラムまでもが私の思考を完璧に読んだ。
先程までとは一転、不利になった局面。しかしそんな中でもパズルを解く己が知らず笑顔になっていると指摘されて、楽しそうだと評されて…それでも不思議と嫌な気はしなかった。いきいきとパズルを解く大門カイトとアナ・グラムに、こちらまで毒気を抜かれたのか。もしくは真のファイ・ブレインの子どもたちが持つ実力を目の当たりにして、憎しみや恐ろしさ以上に、面白い、負けたくないという好戦的な感情が湧き出たのか。久しぶりに感じた「パズルは楽しい」という思いは、納得感をもって受け入れることができた。
そうして己の感情を認める余裕が出てきたことで初めて、共に戦うミゼルカの表情もまた、柔らかくなっていることに気付いた。
それを伝えると、彼女は困ったように目を伏せて否定してしまったけれど。パズルを楽しく思う気持ちは実際にあるのだろうが、彼女の中ではそれよりも、誘われたことが嬉しかったのだと自覚しているようだった。
ずっと変わらなくちゃと思って生きてきた、と彼女は続けた。幼い頃から誰にも必要とされなくて、そんな自分が大嫌いだった、と。
かつての私ならば、そんな思い出話はくだらない、少なくとも対戦中には必要ないと切り捨てていたことだろう。パズルを楽しいと思う個人の感情も、過ぎたことに対する感傷も、私たちが本当は実験体だという真実の残酷さや滑稽さすらも、壮大な計画の前ではどれもが無駄なものでしかない。ファイ・ブレインの可能性を捨てた大門カイトやその仲間を、それ以外の個人的な理由で憎むのは各自の勝手だが、私情によって自らの集中を乱したり、美しくない解き方を展開したりするのは無様だ。
それでも、あの時私はミゼルカの話を静かに受け入れていた。吐露された心境に返す言葉も持たないまま「…そうか」と短い相槌を打って、けれど否定はしなかった。
変わりたい、と思う向上心は必要だ。オルペウス・オーダーの大義は、自らを高めて人類の更なる成長を目指すことにあるから。だが、それも行き過ぎて強迫観念のようになってしまえば苦しいだけだろう。変わらなければという思いは、今の自分を否定することと同義だ。

派手な爆破音と鉄骨の落下する音が響く。私たちに挽回の手は残されておらず、次の大門カイトの移動先によっては更に選択肢を奪われる。真のファイ・ブレインの子どもたちがそれに気付かないはずはないけれど、それでもまだ決着はついていない、死んでいない。何かの拍子に大門カイトが揺らぐことも、アナ・グラムが悪手を出すことも、そしてそれを逃さず彼らを落下させる可能性も考えられる。その一心で、淡々と勝負を続行する。
…実際はそのようなこともなく、的確に詰められてしまったけれど。敗北を認めた私に残ったのは悔しさではなく予定調和、そしてずっと抱き続けてきた使命感だった。命懸けのパズルで実験体の我らが死ぬことによって、残りのデータが集まりレプリカ・リングは完成する。もともとこれはオルペウス・オーダーのための命、この身を捧げることなど織り込み済みだ。
最後の一手を握る大門カイトに緊張が走る。何を迷うことがあるのか、オルペウス・オーダーのために死ねるのならば私にとっては本望ですらあるのに。
だが、そこに割って入ったのはミゼルカだった。目の端に涙を浮かべて、聞き分けのない子どものように嫌だと訴える。腕輪の光は不安定に明滅していて、コントロールができていないのだとすぐに分かった。私がたしなめようとしても、鋭い言葉の切っ先を手加減なしに向けられる。

『どうして、自分が自分のままじゃいけないのよーっ!?』

腕輪が壊れる直前、彼女がこの世界に対して突き立てた問い。本当は、自分が自分のままで居たいのだと懇願するような叫びだった。
相手の望むように変わるばかりでなく、相手に必要とされたから存在するのでもなく――必要とされないから死ぬのでもなく、ただ自分のままで生きていたいのだと。
彼女の腕輪が壊れる。意識を失って、その身が後ろへ倒れていく。
まずい、と思った時には体が動き出していた。必死に追いかけて腕を掴もうとする。足場が無いことも忘れて飛び込んで、ただひたすらに右手を伸ばす。追いつくことなどできないと分かっていながら、彼女だけは何としても助けなければと思った。
必要とされないから、必要とされるように変わりたかったミゼルカ。必要とされなくなったから、潔く消えようとした私。向かう結論が異なるだけで、根本は同じだ。
落ちていく。ごうごうと風の唸る音が耳元で聞こえる。巻き込んでしまった負い目、騎士としての矜持。そういったものは正直、考える余裕も無かった。…ただ、彼女が「生きてもっとパズルを解きたい」と望んだから。本当の私もそうだと、彼女が教えてくれたから。私が、彼女には生きてほしいと思ったから。
生きたいと純粋に願った彼女が生きられない世界など、そんな世界のほうが偽りだ。
自身の左手首に嵌めた腕輪が、破片となって崩れていく。意識が遠のく中、私の目はどうしても届かない彼女の姿を最後まで捉えていた。
…きっと私もまた、彼女の存在に寄り掛かっていたのだ。



「ダウト!おはよう、今日は早いのね」

こちらに気付いたミゼルカが、綺麗に微笑む。心配や痛々しさなど今は欠片もない、晴れやかで満ち足りた表情。
その笑顔を、私のおかげだと思うほど傲慢になるつもりはない。確かに腕輪の外れるきっかけとなった勝負に関しては私から言い出し、オルペウス・オーダーの立て直しを図る際も彼女を誘ったが、どちらもきっかけの一つにすぎない。
結局のところはミゼルカ自身が、自らの強さで乗り越えたからだ。弱さを受け入れ、腕輪の呪縛を克服し、大切な真実にいち早く気付いたから。いずれもかつての私ならば合理的ではないと見なして、それ以上考えなかった事柄だ。ゆえに、彼女が今こうして笑えているのは、紛れもなく彼女の努力の成果なのだ。
今のミゼルカは、きっと「自分」のままで居られている。…そして、私もまた。

「あぁ、おはよう」

決められた時刻より早く来ることなど、無駄だと思っていた。その時間があれば他の物事にも着手できる、合理的に成長できる。もちろん相手の時間を奪う遅刻は論外だ、それがたとえ十秒だとしても。
だが、この世界は案外、無駄なもので成り立っているらしい。不合理でくだらない、他人から見れば何でもないような時間を、日々積み重ねてできている。
彼女の素直さと比べれば格段に愛想のない挨拶を受けて、それでも彼女は本当の私を見透かして小さく頷く。こちらが返したのはたった一言なのに、それだけでもやっぱり幸せだと言わんばかりに、ひどく嬉しそうに笑う。そんな程度で早く来た意義があったかのように感じられるのだから、我ながら丸くなったものだと思う。…当然、理由は腕輪が外れたからだけではない。
あの時彼女を誘ったのは、彼女を認める一言を何気なく告げたのは、そして無駄だと分かっていても飛び込んだのは。理屈でいけば無駄なはずのこんな些細な一瞬にすら、幸福を見いだすためだったのかもしれない…などと、まだまだ慣れない考えを胸の内に秘めて、私は今日も彼女の近くのテーブル席へとついた。



fin.

2020/02/22 公開
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