Cells at Work

希望の象徴

高架橋の下の通路を、大勢の赤血球が足早に通り過ぎていく。皆、酸素の入った重い箱を持って。
コレステロールで道は悪く酸素は末端まで十分には行き渡らず、時折一酸化炭素やアルコールが降りかかる劣悪な環境だが、強大な外敵がいないだけでもこの世界ではきっと良いほうなのだろう。この前の戦いを経て、それをまざまざと思い知らされた。



あの時、私は絶望しそうだった。
細胞壁が固く、私たちが貪食するよりも早く分裂増殖する相手。首を絞められ、ボロボロにされて死んでいく仲間。
そして、淋シイ淋シイ…と嘆きながら私たちを取り込もうとする淋菌の囁き。「他の細胞に怖がられ疎まれて、本当は淋しいんだろう?」という言葉は、敵の話に耳を貸す必要はないと分かっていても、じわじわと私たちの心を折っていく。
実際その通りだ、あの場に行く直前だって多くの細胞たちが血まみれの私たちを怖がり、なかなか細菌を駆除できない私たちに苛立ちの言葉を投げかけた。しかし恨むつもりはなく、私はそれも含めて好中球の仕事だと割り切っていた。戦闘能力のない彼らが怯えるのは当然のことで、おまけにこの世界では誰もが余裕を失っている。だからそれが好中球の仕事を投げ出す理由にはならない。
それに私たちが奴らの侵入を食い止めなければ、次に奴らは増殖しながら全身に回り、戦う術のない細胞を襲う。赤血球の運ぶ栄養分を奪い、全身の細胞を襲えば…この世界は破滅する。だから周りに認められるかどうかなんて些細な問題で、たとえ誰からも認められなくても私たちは戦うしかない。それがたとえ負け戦だとしても。
…そう決意して、立ち向かったのに。
刀が折れてしまうほどの細胞壁、私たちを捕らえて絞め殺す圧倒的な力。刀を握り相手に食らいつくほど、その全てに挫けてしまいそうで、自分の信じる正義や誇りが揺らいでしまいそうで。
幼い私に刀の扱い方を教えてくれた隊長ですら、彼らの言葉を蹴散らし何匹かをまとめて薙ぎ倒してもその数の多さには歯が立たず、囲まれて絡め取られる。その光景に、苦しい叫びに、この世界に希望なんてないのだと身に染みて思った。

そんな中現れた、一房だけ跳ねた赤茶色の髪と大きな眼鏡が特徴的な新人赤血球。多くの細胞が働くこの世界で珍しくも何度か再会し、何となく気にかけていた存在。
戦う力を持たない赤血球が戦場に来ることはほとんどない。酸素の運搬で仕方なく来たとしてもそれは本当に「仕方なく」で、誰もが一刻も早くこの場を離れようとする。ましてやこんな、圧倒的に不利で危険で、細菌と膿だらけの場所なんて。
しかし彼は力強く言った。「白血球さんたちが命懸けで戦った証は、汚くなんてない」と。目の前に絶望的な光景が広がっていても腰を抜かさず踏みとどまり、私たちが屈してしまいそうだった淋菌の言葉に全力で反論してくれた。
そして、彼の宣言と同時に来た抗生物質・ペニシリン。それはまるで、彼が運んできてくれた希望のようで。

そこから状況は一変した。淋菌の細胞壁がなくなったこの好機を逃すまいと、生きている好中球は皆立ち上がって淋菌を撃滅しに向かう。それでも手強い相手であることに変わりはなく、私たちの駆除が淋菌の増殖より速くなければ勝てない。食うか食われるかの死闘…戦いとは無縁の細胞なら思わず目を背けたくなる光景を、彼は間近で見てくれていた。



高架橋に心地のよい風が吹き抜ける。破れた制服を骨盤の赤色骨髄で交換して、怪我の手当てを一通り済ませて…集合予定になっている時間まではもう少しあるからと、今はこうして普段通りに回る世界の様子を眺めていた。
普段通りの光景。だが、それが平和だと言い切ることはできない。赤血球は休む暇もなく次の循環に駆り出され、免疫細胞たちはストレスによる免疫力低下を危惧して常に気を張り詰め、「平和に暮らすこと」が仕事の一般細胞でさえこの状況に不満が溜まっている。血管内のコレステロールは増え続け、このままではいずれプラークとなって血小板の仕事も増えるだろう。私たちが命懸けで細菌を駆除しても、この世界のブラックな労働環境までは変わらない、変えられない。それをやるせなく思う一方、心のどこかでは既に割り切っているのも事実だ。決して現状で良いとは思えない、だが私たち細胞に何ができる?自分の仕事に特化した機能だけしか持たない私たちには、この世界全体を変える力なんてない。私たちにできることはせいぜい、この世界がこれ以上悪くならないよう対処することだけだ。仕事を始めてこの世界を実際に見て、嫌でも実感した。新人と呼ばれなくなる程度には仕事をこなしてきて、いつからかその考えが当たり前になった。

「白血球さん…」

後ろから声が聞こえて、振り返る。先ほど思い浮かべた赤血球が真剣な顔で立っていた。
赤茶色の髪が風に揺れる。自分の髪も風になびいて視界を遮る。包帯の巻かれた手でそれを耳にかけた途端、彼は痛ましい表情になって言う。

「白血球さん、その怪我…!」
「平気だ。すぐに治るさ」

そう、免疫細胞である白血球にとってこの程度の怪我、何の問題もないことだ。核さえ無事なら怪我はいずれ治る。
だから…新米が驚いたのは、彼がまだ経験不足で、怪我が致命傷となり溶血する赤血球ばかりを見てきたせいで。何度か会っているとはいえ彼はまだまだ新米で、戦闘後の白血球をまだ見慣れていないだけで。決して私個人の身を案じてくれたわけではないのだ…と内心で言い聞かせる。
優しさに甘えるな、足元を掬われるぞ。たかが細胞一個に固執するな。何が起こるか分からないこの世界、気を許した途端に彼を失う可能性も十分ある。それに私たちは互いの識別番号さえ知らないのだ、万が一の事態が起こったとしても次に直接会うまで相手の安否は分からない。先の戦いや慢性的な免疫力低下、そして最近始まった喫煙により、この世界の血球は休みもないほど人手不足である一方で、白血球全体・赤血球全体として見れば一個人の代わりなどいくらでもいる。そんな世界で細胞一個にこだわることなど、愚か以外の何物でもないのだ。それは彼に対してだけに限らず、仕事仲間の白血球でも、尊敬する隊長でも同じこと。
しかし彼の優しさを嬉しく思ってしまう、白血球としてはどうしようもない自分がいるのもまた事実で。

「…みっともない姿を見せて、すまなかった」

ぽつりと零れたのはそんな、強く誇り高い戦士とは真逆の言葉だった。
これまではどれだけ返り血にまみれても、それが仕事だと割り切っていたのに。他の細胞から何を思われ何と言われようと、反論せず、だからといって無闇に悲しむこともせず、ただ当たり前のことだと流してきたのに。
いつものそれが、目の前の彼にだけは通用しない。情けない思いが、幻滅しないでほしいなんて浅ましい願いが、淋菌殲滅からしばらく経つのにまだ手放せずにいる。…いや、逆だ。戦闘時は無我夢中でそんなことを考える暇も無かったが、戦い終わってからこの気持ちは色濃くなった。この世界を守れたことに安堵して、自分の心に向き合う余裕ができたから。
不甲斐なさに俯く私に、それでも新米は優しかった。語気を強めて私の言葉を否定する。

「そんなことないです…!白血球さんは、この世界のために…僕たちのために、一生懸命戦ってくれました。決してみっともなくなんて…!」
「しかし、事が長引いて皆を不安にさせた。お前たちだって酸素を運んで来ただけなのに、危険な目に遭わせた…」
「でも!それだって、白血球さんが助けてくれました!一緒に酸素を運んでたアイツも…同期なんですけど、アイツもお礼を言ってきてほしいって、僕の分の二酸化炭素まで勝手に引き受けて送り出して…だからっ」

よく考えず感情的に反論しているのだろう、話の順番も筋道も無しに並べられた言葉は、しかし一呼吸置いて次に繋がる。

「ありがとうございました…本当に」

鋭さは無いのに、眼鏡の奥からまっすぐ射抜いてくる琥珀色の瞳。凛々しさは無いけれど真摯的な声、表情。赤茶色の髪の毛先がわずかに風にそよぐ。

「…いや。私は自分の仕事をしただけだ」

流されるな、ほだされるな。時に酷いことも言われるが時々は嬉しいこともある、今が偶然その「時々」だっただけで。仕事とはそういうものだ、一喜一憂するようなことではない。揺らいでしまうのはこの後白血球の集合予定があるからだ、そのせいで感傷的になっているだけなんだろう…。
内心でどれだけ言い聞かせても、そんなことなど知らない新米は懸命に伝えようとしてくる。

「僕が最後まであそこにいたのだって、僕が白血球さんの仕事を見届けたいと思ったからで、それで…。むしろ謝らないといけないのは僕の方です、戦うこともできないのにずっといて…迷惑だったらすみませんでした…!」

迷惑なわけないだろう。私は新米の言葉に、存在に、希望を貰ったのだから。
そう思ったけれど、言えなかった。口にしてしまえば私の弱さが露呈してしまいそうで…今はまだ、それを受け入れられるほど強くない。
だから私は、引っ込んだ言葉の代わりに彼のセリフの一部を聞き返す。単純にそれは疑問でもあった。

「…見届ける?」
「はい。肝臓に行った時、赤血球のおじいさんが『長いこと見てきたけれど、この世界に楽な仕事は一つもない』って仰ったんです。それで、僕も…赤血球の仕事だけじゃない、この世界にある色々な仕事を見届けたいと思って」
「……」

全身を回り、酸素を渡す時に相手と言葉を交わす赤血球は、それゆえ他の細胞や組織の仕事を知る機会も多い。他の細胞の仕事を知る暇があるなら酸素を運べ、自分の仕事をしろと言われるのが今の世の中ではあるが、互いの仕事を理解し合うことが悪いことであるはずはないだろう。
…私が見回りに来た時には、店から出てきたであろう集団の中に「おじいさん」と呼ばれるほど老齢の赤血球はいなかったけれど。肝臓には類洞がある、あの時の私は新米と肝細胞に気を取られていたから見逃していただけかもしれないが、もしやその「おじいさん」は、今はもう…。
だが、考えを巡らせて無言になった私を見て、新米は突然何かに気が付いたように慌て始めた。

「あっ!?すすす、すみません!」
「?」
「あのっ、あの時のはその…!違うんです!」
「……」

『あの時の』。それが何を指しているのか、私もワンテンポ遅れて理解した。
肝細胞の肩に乗る手、照れて赤くなった顔、そして私を見た後気まずそうに逸らされた視線…。何でもないというのなら堂々としていればいいのに、変に取り繕われてはこちらも疑念を抱かざるを得ない。言い様のない気持ちが胸の奥で淀む。

「本当に肝細胞さんとは何もなくて!僕も肝細胞さんのことは何とも思ってないですし!」
「……」
「あっいやすみません、何とも思ってないは酷すぎますよね!?正直に言うと綺麗だと思ってますけど、変な意味じゃなくて!あの時肝臓に行ったのもアルコールをぬ…解毒するためでして!」
「…いや、いい。あれも彼女らの仕事だろう」

帽子のつばを握って表情を隠す。自分が今どんな顔をしているのか、自分でも全く分からなかった。
新米も私に制止されてハッと我に返り、ぎこちなく目を逸らす。沈黙が流れる。
先に口を開いたのは私だった。話の内容は至極簡単な、それでいて私がずっと考えていたことだ。

「…この後、亡くなった仲間を弔うんだ」

声は震えていないだろうか。気を抜いてしまえば最後、悲しみに押し潰されてしまいそうなこの気持ちを…私はちゃんと隠せているだろうか。
私たちの仕事を見ていてくれた、見届けたいと言ってくれた新米に、どうせなら最後までと思ったのか…それともそんなのはただのエゴで、本音の部分では私の弱さが拠り所を求めてしまっているだけなのか。分からないまま、私は言葉を投げかける。つらい瞬間を共に過ごすための言葉を。

「…お前も来るか?」

弔いの場には生き残った白血球が多く集まる。おそらくそこで、淋病の完治が宣言されるだろう。そして、隊長らを見送って…区切りをつけなければならない。いつまでも亡くなった細胞にすがるわけにはいかないから。
寄り添って泣きたいわけじゃない。むしろ泣かないために、気丈に振る舞うために、強い白血球であり続けるために…今だけはそばにいてほしい。

「はい…!」

短くも決意のこもった返事に顔を上げれば、新米と目が合った。
ブラックな現実を少しずつ目の当たりにしてなお希望の光を信じる、深い琥珀色の瞳。まだ酸いも甘いも知らないがゆえだとしても、それでも彼の信じる希望に私も賭けてみたくなるような…そして同時に、その光を絶やしてはいけないと思わせるような繊細な色。
…まだこれから、隊長を始めとする大勢の仲間の弔いが待っている。白血球が弱くなるわけにはいかない。でも、いつか…気持ちの整理がついたら、目の前の彼と改めて話をしよう。おかげで救われたこと、今日は出せずに飲み込んだ言葉、本当の自分の弱さも…いつか、私自身で受け入れられたなら、その時に。



fin.

(BLACKで一番エログロが酷いのは原作4話だと思うのですが、赤白の二人が「顔見知り、赤血球にとっては憧れの存在、白血球にとっては気にかける存在」から「対等な関係、白血球にとっては一方的に守るだけでなく希望をもらえる存在」になるターニングポイントでもあるように思います。)

2018/12/07 公開
13/22ページ