Phi-Brain

甘い見解

√学園高等部校舎の屋上を秋風が通り抜ける。肌寒いというほどではなく、その涼しさが心地いいくらいだ。授業が終わって数十分。部活のある生徒はそれぞれの部室へ向かい、部活のない生徒は帰路につく。学校に用もないのに残る生徒は自分くらいのものなのか、先客はいなかった。
ベンチに座るか一瞬迷って、結局立ったままを選んだ。欄干に寄りかかり上着のポケットから取り出したのは、透明な袋に入った丸い形のクッキー。一口食べると、さっくりとした食感とほんのり甘い味がした。作った本人はまたどこかの部活の助っ人だと言って、既に自分の側から走り去ってしまったけれど。

「……」

遠くに見える赤や黄色に染まった木々を眺めて、この場所を特等席にしていた人物が脳裏に思い浮かんだ。つい先日、データを収集するために意図的にレプリカリングを着け、自分とパズルで対戦した軸川先輩。
これまでアイリや副会長がレプリカリングで変わる様を見てきたせいか、先輩の場合はリングを着けてもそれほど変わっていないように見えた。飄々として掴み所がなくて、何を考えて腕輪を着けたのか分からなくなるほどに彼の言動はいつも通りで。心の中に溜め込んだ黒い部分は決して出すことなく、落ち着いて真剣勝負を進めていく。
しかし腕輪をコントロールしているように見えた先輩でも、パズルを進めていくうちに、本当は飲まれているのではと思わせる場面があった。

『なぜだかまったく味がしないんだよ…』

そう言ってリンゴジュースを捨てた先輩。先輩が言うには、感覚や感情を排除して、脳のすべてを思考に回しているからだと。その時の先輩は「驚きの体験だね」とまだ余裕を見せていたけれど、それから数分も経たないうちに決着がついて…もう勝負はついたはずなのに、先輩は最後の操作まできっちりと動かしてから負けを認めた。端から見れば最後まで諦めなかったように見えるが、言うなればチェスでチェックメイトされたのにわざわざキングを逃がし、本当にキングを取られて初めて気付いたようなものだ。普段の先輩ならば一手先の勝敗くらい、気付かないはずがない。
結局その後、起爆装置が既に解除されていたことをキュービックから聞き、ギャモンとキュービックの間では「先輩は腕輪に飲まれていなかった」という結論になった。だが先輩から俺だけに届いたメールを見て、やはり先輩が腕輪に飲まれていたことを知って…自分が腕輪を着けていた頃のことをふと思い返す。

自分がアイリや副会長やルークのように豹変した覚えはない。そりゃあ、パズル中に無感情になったり、あるはずのものが見えなくなったり音が聞こえなくなったりといった現象は体験したけれど、腕輪が発動したのはパズルを解く時だけで常に汚染されていた自覚はなく、日常生活においての性格や価値観までは大きく変わらなかった。ギャモンが作った愚者のパズルの時でさえ、相手が死なない手を考えていたほどだ。パズルに人殺しはさせたくない、その思いが作用したのかもしれない。
しかし今回軸川先輩と戦ったことで、俺のその考えは揺らいだ。

「…甘い」

俺の間違いを咎めるように、口の中の甘味が存在を主張する。気付いてしまえば自分でも甘い算段だったと思う。

俺がノノハスイーツをまずいと思った事も。
そのスイーツを他の奴らはおいしいと感じた事も。
スイーツではない朝食や夕食ならノノハが作ったものだろうと問題なく食べることができたのも。
腕輪が壊れてから食べたノノハスイーツをおいしいと思った事も。
全部、リンゴジュースの味を感じなくなった軸川先輩と同じだ。

あの頃の俺は、ノノハスイーツはまずいものだという先入観があった。実際、子どもの頃に食べたクッキーやバースデースペシャルは食べられたもんじゃなかったから。今思えばその理由は単純で、クッキーの時はノノハも幼すぎて料理に不慣れだったため。バースデースペシャルの時は俺の好物を味のバランスも考えずただ混ぜたため。
だが高校生になって彼女も料理を覚えて…スイーツだってあれから何度も練習したはずだ。当然、普段の食事と同様にスイーツも作り慣れて幼い頃より格段においしくなっているはずで、他の皆はおいしいと言っていた。
それなのに、当時の俺は先入観にとらわれてノノハスイーツを全力で拒否して。忘れもしない、天才テラスで何事も無かったみたいにスイーツを差し出されたあの日。
その後POGで有無を言わさずノノハスイーツを口に突っ込まれた時にはそのおいしさを感じなくて。思えばその時には既に、俺の腕ではオルペウスの腕輪が怪しく光っていた。そしてそれ以降ノノハスイーツを食べさせられる時は、決まって腕輪が発動している時で。
俺が初めてノノハスイーツをおいしいと思ったのはルークとの対戦前…腕輪が壊れた後のことだった。

「甘い…けど、やっぱうまい。俺が気付かなかっただけで、ずっとこの味だったんだな」

思い出すほど笑えてきて、俺はクッキーをもう一枚取り出して食べた。甘い。甘くておいしい。そういえば俺が初めてこの味に気付いた時も笑いが込み上げて、ノノハに心配と不可思議の混じった視線を向けられたっけ。あの時十分に説明できなかった事が、このスイーツやそれを作った人に対する自分の気持ちが、今ようやく腑に落ちた気がして、俺は口の中に漂うその甘さを再度噛みしめた。



fin.

(「1期カイトがノノハスイーツに拒否反応を起こしていたのは腕輪に味覚を歪められていた説」を唐突に提唱してみる。)

2017/12/10 公開
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