Phi-Brain

夏の香り

つい先日まで空を覆っていた灰色の雲はどこへやら、今日は朝からずっと干からびてしまいそうなほどの晴天だ。空からの日差しとアスファルトの照り返しが相まって、ただ移動するだけでも汗が出てくる。
とは言っても√学園は程よく冷房が効いていて、建物の外に出ない限りそんな暑さは気にしなくて済むのだけれど。食堂の夏限定メニュー・冷やし中華大盛りでギャモンとの早食い競争を終えた俺が一息ついていると、不意にアナが立ち上がってノノハの向かいの席に移動した。
アナはそのまま真正面から、ノノハの首筋に顔を近付ける。

「えっ…アナ?どうしたの?」

突然のことに驚いて、ノノハも周りもぴたりと動きを止めた。特にノノハは、下手に動けばアナから首にキスでもされそうな距離。普段は何気なく開けている彼女のワイシャツの第一ボタンとそこから見える鎖骨に、アナ以外の俺たちの視線も否応なく向かってしまう。忘れがちだが、アナは男なのだ。皆の前でノノハに、しかも際どいところに、キスなんてされてはたまったもんじゃない。ノノハだってそれは分かっている…はずなのだが、肝心の彼女は動きを止めただけで、それ以上抵抗する素振りを見せない。アナの容姿に油断しているのか、それとも…考えたくはないが、俺が知らないだけで無言の同意なのか。俺の近くでメカの点検をしていたキュービックを横目で見ると、キュービックも点検の手を止めてぎょっとした表情を浮かべている。口をぱくぱくさせて、しかし声は出てこない。
一瞬のはずなのに、天才テラスだけ時が止まったかのようだ。下の階の喧騒も遠く感じる。
と、ようやく重い沈黙を破る人物が動いた。

「…っ、アナ!ななな、何してんだテメーは!?」

怒りか別の感情か、自身の顔を髪に負けないくらい真っ赤にしたギャモンが声を張り上げる。その勢いのまま、アナを後ろから掴んでノノハから引き剥がす。咄嗟の出来事とはいえ、アナの首がしまらないようにストールではなく服のほうを掴むあたり、扱いに慣れているな、なんてどこか冷静に考える自分がいた。
首根っこを掴まれた猫のように宙ぶらりんでおとなしくなったアナは、しかしこうなったことに心当たりがない様子でギャモンを見上げる。

「ほぇ?」
「だーかーらー!…その、近すぎっつうか、危ないっつうか…。ノノハも危機感持てよ!」
「えっ、私!?」

ギャモンはごにょごにょと呟いた後、それらを隠すように矛先をノノハへ向けた。ノノハはノノハで、本当に何も分かってないのか、自分を指差しながらただただびっくりしている。
それよりはアナのほうが早くピンときたらしい。宙ぶらりんのまま「あぁ!」と手を打つ。

「ノノハ、昨日までと少し違ったから」
「はぁ?」
「シトラスの混じった夏の香りなんだな」

尚も悪気なくにこにこと言うアナに、今度は俺たち男三人がきょとんとする番だった。ただ一人、ノノハだけはアナの言葉が通じたようで、嬉しそうに説明する。

「あぁー、実は今日から夏用の日焼け止めにしたんだ!やっぱりアナは男子と違って分かってくれるわ」
「いや、アナも男だからな」

やっぱり無意識だったか。ノノハに定番のツッコミをしながら、危機感の無さに内心呆れる。さっきギャモンが矛先を変えたのも仕方ない気がした。まぁ危機感を感じさせずにあそこまで近付けるアナもアナだが。完全にガールズトークモードのノノハとアナに、キュービックも苦笑いしながらおずおずと聞く。

「だからって…。でも、そんなに良い香りだったの?」
「あはは、キューちゃんもおいで?」
「!?」

駄目だこいつ全然分かってない。
両腕を広げて差し出すノノハはきっとお姉さん気分なだけだが、それが俺たちにとってどういう意味を持つのか全然分かってない。
一方、呼ばれたキュービックは首を横にぶんぶんと振って捲し立てるように一気に話す。

「い、いいよ僕は!っていうかノノハ、また子ども扱いしてるでしょ!?」
「じゃあアナが…♪」
「おい」

相変わらず宙ぶらりんのままノノハに向かおうと手足をばたばたさせるアナは、ギャモンに一言叱られて、不服そうに頬を膨らませた。

「ぶー。ギャモンだって嗅ぎたいでしょ?ノノハの香り」
「か…っ!バカ、変な言い方すんじゃねぇ!」
「あー、バカって言ったほうがバカなんだなー」

アナは変わらずアナのペースだが、ギャモンのほうはアナの爆弾発言に動揺してしまっている。再び顔を真っ赤にして、しかしノノハの手前、言葉を選んで…ざまあねぇな、なんて思いながらノノハに目を向けた、瞬間。

「……っ」

目を伏せて、頬はほんのり染まっていて。
広げたはずの両手は、先程アナが近付いたワイシャツの隙間を守るように覆っていた。
それが意味することは、きっと…

…くそ。
ギャモンなら、意識するのかよ。



「ノノハ」

それぞれのことで頭がいっぱいになっている奴らを置いて、ノノハに歩み寄る。
そして…

「あっ、カイト。どうしたの…きゃっ!?」

腕を引いた。
彼女が勢いに負けてよろめいた瞬間を狙って、もう片方の手で彼女の肩から首のあたりを受け止める。
そのままこちらに引き寄せて、横抱きのような形に。

「…カイト?」
「次、移動教室だろ。早く戻るぞ」
「そうだったっけ?」

本当は知らない。
むしろノノハのほうが正確な情報を知っているはずだ。本来の時間割通りだったか、それとも朝の連絡で時間割変更があったか、記憶力の良いノノハのほうが間違いなく分かっている。
だから、これは口実だ。

「あーっ!カイト何してんだテメー!?」

今の状況に気付いたギャモンの怒る声が聞こえる。が、無視して足を早める。あいにく階段だがノノハに構っている余裕も無い。不安定だが落とすような真似は絶対しないし、とりあえず俺に体を預けておけば大丈夫ということは、これまで何度か挑んだパズルで証明されている。

「わっ、待ってカイト、バランスが…!じゃあ皆、また放課後にねー!」

半ばされるがままになりながら、それでも律儀に挨拶をするノノハに俺は内心溜め息をつきながら。彼女が異性を意識する基準はどこにあるのか、教室までこのまま連れ去りながら解いてみようか、なんて考えていた。



fin.

2016/10/19 公開
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