Cells at Work

7(なな)

酸素の入った箱を受け取って、台車に乗せる。いつもと同じ手順、同じ仕事。伝票を確認すれば、次のお届け先は「腎臓」だった。
…何度も行ったことのある場所だから道順は大丈夫。私だって、もう新人のくくりから外れる程度には仕事をこなしてきたのだから。ただ少し遠いから、気合いを入れていこう。
それだけを考えるようにして軽く腕まくりをすると、血管の通路を黙々と進む。アーチ状の屋根の下を通って、片側が一面ガラス張りになっている通りを歩いて、入り組んだ路地を左に曲がって、次は右に曲がって。歩くほどに変わっていく景色を眺めながら、順調に循環していく…と。

「…あ、」

あと少し歩けば腎小体にたどり着くというところで、見覚えのある白い制服が目に入った。
ある時、ペンを貸したことで交流が始まった白血球さん。彼はこちらに気付いていないのか背を向けたまま、他の細胞さんと何かを話している。

「……」

せっかくだから声をかけようかと思って――やめた。挙げかけた片手を台車のグリップ部分に戻して、また歩く。
この広い体内で知り合いと偶然会えることは、それだけですごいことだけど…。白血球さんとはそんな偶然に頼らなくても、お互いに約束を取りつければ簡単に会える間柄になったのだから。
もちろん、待ち合わせて会うのと偶然会えるのとではまた違った嬉しさがあるけれど、でも今は仕事中だし、細胞さんと二人で話しているところに私が入っていくのも悪いし、それに白血球さんは真面目な人だから――。

「……」

まだ私が新人だった頃に見た、『白血球さん』のスタンプカードが脳裏によぎる。
あの時の私は配達先にガン細胞がいると聞いて、逃げ出したくてたまらなかった。できることなら誰かにシフトを代わってもらいたかったし、実際にはそんな勇気は無かったけれど仕事を投げ出してしまいたくなる程には怖かった。
でも、今なら分かる。もしあそこで酸素の供給が途絶えてしまったら、それこそ世界は大変なことになる。
それに、もしあそこで白血球さんに会っていなかったら。彼は、彼のスタンプカードは、彼の命は。

…考えても不毛なことは分かっていた。私があの場にいてもいなくても、白血球さんは最初からガン細胞の討伐に向かうつもりでいたのだから。
もしも私がペンを貸さなくても、白血球さんはきっと他の細胞さんからペンを借りただろうし、もしも私が素直に逃げたままだったら、白血球さんはどうなっていたか分からない。スタンプカードの最後が埋まらないまま、戦いが長引いて疲弊して負けていた可能性だってある。だから後悔はしない、したくない。
私だっていつかは脾臓へ行って処分される日が来る。その「いつか」を思うとやっぱり少し寂しいけれど、最後まで立派に勤め上げて、笑ってこの世界とお別れしたい。…白血球さんだって、きっと同じ気持ちだったと思うから。

「こんにちは。酸素の配達に参りました」

色々考えていても、仕事は仕事だ。普段通りの笑顔を作って、すっかり顔馴染みになった受付の細胞さんに荷物を渡す。ガン細胞が現れた時も私ほど怖がっていなくて、むしろ免疫細胞の働きをまっすぐ信じていた細胞さんだ。
当時、免疫細胞の皆さんはお互いにケンカばかりだったけれど、だからといって世界全体がそうだというわけではなかったのだ。仕事をこなしていろんな細胞さんの仕事を知っていく中で、次第に私も分かった。
皆なんだかんだ言っても、生まれ育ったこの世界が好きなんだ。免疫細胞も組織の細胞も血球も…おそらく、もうこの世にはいない細胞さんたちも。

「…さぁ、あとは心臓へ戻るだけだ」

気合いを入れ直して台車を所定の位置に片付けると、今度は静脈の方へ歩き出す。行き帰りの道が多少異なるのは、この世界ではよくあることだ。
…そんな道中で目に入ってしまった、簡素な柵で仕切られただけの一区画。こちら側は血管、あちら側はろ過した老廃物が流れる地底湖。
赤血球の寿命が約120日なのに比べて、白血球の寿命はずっと短い。それがこの世界の決まりで、だから私たちは時間を見つけては約束して会うようになった。世界の決まりに逆らって無闇に生きても、どうせ何かのタイミングで相手に嫌われたら、長生きする意味なんて無いのだから。だから私たちは今を大切にする。それだけでよかったのに、今が幸せなはずなのに。何より、二人の生まれたこの世界が大好きなのに。
それでも、白血球さんに突然いなくなられるくらいなら。あの時の気持ちを繰り返すくらいなら。
いっそ私の方からこのまま、愛すべき世界と「さよなら」してしまえたら――



「赤血球!」

突然大きな声がして、体が後ろへ引き戻された。
ぐらりと傾く視界。反射的に目をつむって、だけど全身に感じるはずの衝撃は予想よりもずっと少ない。
おそるおそる目を開けると、私のお腹の方まで回された白いジャケットの腕があった。背中には男の人のものだと分かる、がっしりとした胸板と包まれるような温もり。何気なく左のほうへ視線を向ければ、私のつけた腕章よりも一回り大きい「白血球」の腕章。

「危ないだろうっ、何してんだ!?」
「白血球、さん…」

私が白血球さんと呼んだその人は、見上げれば確かに「白血球」と書かれた帽子をかぶっていて、鋭く黒い瞳はその声音よりもずっと優しくて、顔も声も愛しい人のそれで…プレートに刻まれた識別番号は「1117」。
その事実を認識した瞬間、視界が滲んだ。

「わ…悪い、つい怒鳴ってしまって」

急に涙ぐむ私を見て、白血球さんは無闇に怖がらせてしまったと思ったのか、バツが悪そうに謝ってくる。白血球さんは何も悪くないのに。むしろ、ふらふらと体外流出しそうになった私を止めてくれたのに。
「ごめんなさい」と聞こえるように呟くと、彼は私を後ろから包み込んだまま、わずかに震える声で吐露する。

「…心配した。怖かったんだ、お前が今にも消えてしまいそうだったから」

ぎゅっと抱き締める腕が強くなる。白血球さんは離す気なんて無いらしく、そのまま私の肩口に顔をうずめた。
信用されていないから解放しないのではない。ただ、あまりにも大切にされている。彼の気持ちが痛いほどに分かって、また瞳が潤む。

「無事で良かった。お前のことを守れて、本当に…」

あぁもう、ずるいなぁ。怖がる私にあの時『白血球さん』がくれた約束を、思い出してしまう。きっと白血球さんはそんなこと知らなくて、無意識に「守る」なんて言っているだけなんだけど。彼と初めて会った時の既視感を思い出して、胸の奥がざわめく。
…もう少しだけ、1117番の『白血球さん』と生きてみようかな。初恋の人の面影を宿した、最愛の人と。
肩に乗った彼の頭に手を伸ばして、帽子の上から宥めるみたいに撫でる。しばらくそうしながら、私は帽子についた識別番号プレートの「7」を静かに指先でなぞった。



fin.

(題名はポルカドットスティングレイの同タイトル曲から。元はそこまで暗い曲ではなくて、ピコピコした音の中に少しの憂鬱さや切なさが含まれてる印象なのですが、歌詞にもある「マリッジブルー」の雰囲気や1116番のことを踏まえたAe3803番の気持ちを書きたくてこうなりました。)

2019/10/07 公開
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