Phi-Brain

空白のホームセルに愛を

「ママ、あのね…」

そこまでは簡単に言えるのに、それより先がうまく言葉にならなくて。

抱きしめて

そう言えたら、どんなに楽だろうか。遠慮がちに伸ばした手を、ママに届く前に引っ込める。
さっきまで優しかったはずのママの顔はいつのまにか怖くなっていて、僕はますますその言葉を言えなくなった―――






…なぜ、彼女はそこにいるのか。
ママに愛された記憶がまがいものだと悟ってから、僕の世界は驚くほどシンプルになった。ママが死んだことも、残されたペンダントも、約束も、今となってはどうでもいい。ただ、ファイ・ブレインに最も近いカイトとパズルをしたい。ずっとずっと永遠に、二人で楽しく遊んでいたい。だからオルペウス・オーダーもホイストもカイトの仲間たちも必要無くて、左腕のリングも二人だけの未来を示していた、はずなのに。
僕とカイトが対峙する、その近くで一人泣く彼女。もう用済みのペンダントを握りしめて、普段のポニーテールもほどいて、僕たちに何か言うわけでもなく泣き続けている。
なぜだ、なぜ井藤ノノハがいるんだ。
僕に警戒心を抱いているであろう彼女が、なぜ泣いているんだ。

不可解な未来について考えていると、ノックの音が聞こえた。この礼儀正しさはホイストだろう。というか、そもそもホイスト以外の人間が来るとは思えない場所だけどね。
だが、僕の予想は半分当たり、半分はずれ。正解のほうはホイストで、予想外だったほうは…
なぜか僕の未来に現れる人物、井藤ノノハ。
もっとも、予想外と思っているのは井藤ノノハのほうも同じようで、最初はホイストに言われるがまま部屋に入り椅子に腰かけたが、次の瞬間にはなぜ自分が連れてこられたのかと騒ぎ始めた。
あぁもう、うるさいなぁ。さっきまで静かだったはずなのにいつのまにか敵意剥き出しになっていて、僕はますます苦手になってしまう。
ホイストにこっそり意図を訊いても「確実にゲームを始めるため」と言い出すし…僕の未来にいない君はどんな悪あがきをしたって無駄なのに、何を考えて井藤ノノハなんかを連れてきたんだろうねぇ、ホイスト?まぁ、君のお茶が絶品なのは認めるけどさ。
そうだ、この美味しいお茶を飲めば彼女も穏やかになってくれるかもしれない。だって彼女はさっきまで優しい顔をしていたのだから。

「冷めないうちにどーぞ♪」

自分の思いつきにワクワクしながら勧めると、彼女は最初こそ不信感を持っていたものの、一口飲むと心底幸せそうな声を上げた。
あぁ、嬉しいな。

…でも、どうしてこんなに嬉しいんだろう?

ふと疑問が浮かんだけれど、その答えを思案するより早く現実は次の話題へと移っていく。カイトが人質の有無に関わらずここへ来ること、カイトと一緒にパズルを解いてママを喜ばせたかったこと、もうそれは叶わないこと、ママもオルペウスリングを付けていたこと、ママは僕を愛していたらしいこと。だが、それらはどこか他人事のように思えた。驚きや動揺や嬉しい気持ちよりも先に「あぁ、やっぱり」と納得してしまうのだ。
やっぱり僕の予想通り、ママはリングを使いこなせず飲まれたのか。
やっぱり僕の見た通り、カイトは神のパズルを解きに来るのか。
あぁ、やっぱり僕は、まがいものの記憶にすがってカイトとパズルを始めようとしていたのか。

そんな僕を彼女は不満げに見つめる。
ほら、そういうところが昔から苦手なんだよね。僕の挙動を煩わしいもののように見なすところも、何の意味があるか分からないペンダントを渡すところも…今みたいに、パズルをせがむと毎回同じ解けないクリスクロスを作るところも。

「…懐かしいな」

返されたペンダントを首から下げ、ずっと解けなかったパズルに再び挑戦しながら、思う。
僕は「彼女」が懐かしくて、意味不明で、苦手で、怖くて、大嫌いで…



YOU ARE MY HOPE



…大好き、だったんだ。





その事実に気付いた瞬間目に入る、心配そうな表情の「彼女」。

ねぇ、どうして泣きそうなの。
僕は、君の大好きな僕は、ここにいるよ。
だから―――




だから…ずっと抑えていた気持ちを、あふれる思いを、僕は全力でぶつける。

ねぇ、楽しかったあの時みたいに髪を下ろして、ペンダントを付けて…

『抱きしめて』。


昔は届かなかった手を、僕は必死に伸ばした。



fin.

2012/12/31 公開
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