空を望む【館長さん作】
それは、ある日の午後のこと。
街中を、一羽の小鳥が飛んでいく――どこかの鳥籠から逃げ出してしまったのだろうか。しかし黄色い翼は迷いなく風を切り、帰る家を探したい心細さは感じられなかった。
観光都市として栄える街の中心部、市街を縦に長く貫くメインストリートには様々な店が軒を連ね、旅行客を相手にした宿なども多い。骨休めの遠出にやってきた人々は大抵がこの近辺に宿泊し、土産屋を見て回ってから、喫茶店で軽食を取る。天気が良い日には多くの店がオープンテラスを設けているので、昼時ともなれば通りは楽しい食事に欠かせぬ賑やかな歓談で、一層華やぐのだった。
食事のためではなくコーヒー豆の量り売りを目当てにやってきた私は、すっかり用事も済ませて店から出てきたばかり。扉を押し開けて、一番に耳へ飛び込んできた歌声に驚いた。
青空の下、朗々と響き渡る歌。異国の地の物語を吟じているらしいその内容より、まず最初に衝撃を受けたのは、声だ。
空気を通し人の心まで震わさんとする声量は、女性らしからぬものだった。されど男性にしては扱う音域が軒並み高い。さて、どんな歌手がやってきているのか。興味本位で周囲を見回すと、一際密度の高い人だかりがあった。聴衆が多く、遠目からでは麗しの歌い手がどんな人物かはわからない。
幸いにも私は野次馬根性も一丁前であったので、するすると上手いこと雑踏を分け入ってそれなりの特等席を得られた。少しでも身じろげば隣人に靴がぶつかってしまいそうな中。リュートを携え、壁を背に伸びやかな詩を披露している姿を見て、またも驚いた。
女性だろうか?
まるみを帯びた体つき、長い金髪から一瞬そう思えども、肩幅や首の太さに違和を覚える。男か、女か。
されど、そんな疑問もじきにどうでも良くなっていった。耳に心地よく、胸の内を洗い流すような音楽は素晴らしい。
一曲が終わっても聞き手はすぐに次を求める。幾度かの熱心なアンコールに応えてから、吟遊詩人の丁重な礼と共に演奏会は幕となった。
誰もが喜んでチップを渡していく中、暫く端に避け、人々が去って行くのを待った。遂に残された人だかりがまばらになると、私は紙幣二枚と、黒い手帳を片手に近づいた。
ひらひらとお代を振ってから所定の場所へ入れると、柔和なお礼を会話の糸口に、私はさらさらと白紙のページに文字を書き付けた。
『大変、素晴らしい歌声でした。あなたも旅の御方ですか?』
突然始まった筆談に驚きながらも、中性的な歌手は嫌な顔ひとつせず、筆談へ応じようとペンと紙に手を伸ばす。が、それを先に制して、私は加えて書いた。耳は聞こえているので、と。
「そうですか。……そうですよね、耳の不自由な方はまず、私の歌に足を止める事はありませんから」
『本当ですか?』
間髪入れずに問うと、ゆるゆる笑いながら頷いた。
「お客様を騙す訳がありません」
少し考えて。新たなページを繰ると、そこに少し長い文をしたためる。
『あなたの歌はとても不思議でした。翼を持つように自由なのに、好きな場所へ行く事ができない切なさもある。水のように涼やかかと思えば、炎のように狂おしい。私は芸術には疎い、しがない従者ですが、そのような者にもこうして語らせてしまうほどのお力をお持ちなんですね』
後ろから新たにチップを持ってきた客に、一時相手の前を譲りはせども、暫しここから離れぬ意思を察してくれたらしい。長い感想を読み通してから、後にアルヤと名乗ったその人は少し、昔を懐かしむように目を細めた。
「翼があって、風切り羽を奪われなくても、全ての鳥が自由に空を飛べる訳ではありません。むしろ空を飛ぶという選択肢があるからこそ、かえって制約を受ける事も多いでしょう」
『それは、あなたご自身の話ですか?』
問いに、アルヤは朗々と。まるで歌うように笑った。
「いいえ、まさか。だって私は人間ですから」
その後、近くの喫茶店で昼食を共にする機会を得てからも、私はあれこれと質問攻めにしてしまった。まるでこの世界どころか、天からでもやって来たのではないかと思うほど不思議な吟遊詩人。彼と共に食べた肉厚のハンバーガーの味が、今でも忘れられずにいる。
街中を、一羽の小鳥が飛んでいく――どこかの鳥籠から逃げ出してしまったのだろうか。しかし黄色い翼は迷いなく風を切り、帰る家を探したい心細さは感じられなかった。
観光都市として栄える街の中心部、市街を縦に長く貫くメインストリートには様々な店が軒を連ね、旅行客を相手にした宿なども多い。骨休めの遠出にやってきた人々は大抵がこの近辺に宿泊し、土産屋を見て回ってから、喫茶店で軽食を取る。天気が良い日には多くの店がオープンテラスを設けているので、昼時ともなれば通りは楽しい食事に欠かせぬ賑やかな歓談で、一層華やぐのだった。
食事のためではなくコーヒー豆の量り売りを目当てにやってきた私は、すっかり用事も済ませて店から出てきたばかり。扉を押し開けて、一番に耳へ飛び込んできた歌声に驚いた。
青空の下、朗々と響き渡る歌。異国の地の物語を吟じているらしいその内容より、まず最初に衝撃を受けたのは、声だ。
空気を通し人の心まで震わさんとする声量は、女性らしからぬものだった。されど男性にしては扱う音域が軒並み高い。さて、どんな歌手がやってきているのか。興味本位で周囲を見回すと、一際密度の高い人だかりがあった。聴衆が多く、遠目からでは麗しの歌い手がどんな人物かはわからない。
幸いにも私は野次馬根性も一丁前であったので、するすると上手いこと雑踏を分け入ってそれなりの特等席を得られた。少しでも身じろげば隣人に靴がぶつかってしまいそうな中。リュートを携え、壁を背に伸びやかな詩を披露している姿を見て、またも驚いた。
女性だろうか?
まるみを帯びた体つき、長い金髪から一瞬そう思えども、肩幅や首の太さに違和を覚える。男か、女か。
されど、そんな疑問もじきにどうでも良くなっていった。耳に心地よく、胸の内を洗い流すような音楽は素晴らしい。
一曲が終わっても聞き手はすぐに次を求める。幾度かの熱心なアンコールに応えてから、吟遊詩人の丁重な礼と共に演奏会は幕となった。
誰もが喜んでチップを渡していく中、暫く端に避け、人々が去って行くのを待った。遂に残された人だかりがまばらになると、私は紙幣二枚と、黒い手帳を片手に近づいた。
ひらひらとお代を振ってから所定の場所へ入れると、柔和なお礼を会話の糸口に、私はさらさらと白紙のページに文字を書き付けた。
『大変、素晴らしい歌声でした。あなたも旅の御方ですか?』
突然始まった筆談に驚きながらも、中性的な歌手は嫌な顔ひとつせず、筆談へ応じようとペンと紙に手を伸ばす。が、それを先に制して、私は加えて書いた。耳は聞こえているので、と。
「そうですか。……そうですよね、耳の不自由な方はまず、私の歌に足を止める事はありませんから」
『本当ですか?』
間髪入れずに問うと、ゆるゆる笑いながら頷いた。
「お客様を騙す訳がありません」
少し考えて。新たなページを繰ると、そこに少し長い文をしたためる。
『あなたの歌はとても不思議でした。翼を持つように自由なのに、好きな場所へ行く事ができない切なさもある。水のように涼やかかと思えば、炎のように狂おしい。私は芸術には疎い、しがない従者ですが、そのような者にもこうして語らせてしまうほどのお力をお持ちなんですね』
後ろから新たにチップを持ってきた客に、一時相手の前を譲りはせども、暫しここから離れぬ意思を察してくれたらしい。長い感想を読み通してから、後にアルヤと名乗ったその人は少し、昔を懐かしむように目を細めた。
「翼があって、風切り羽を奪われなくても、全ての鳥が自由に空を飛べる訳ではありません。むしろ空を飛ぶという選択肢があるからこそ、かえって制約を受ける事も多いでしょう」
『それは、あなたご自身の話ですか?』
問いに、アルヤは朗々と。まるで歌うように笑った。
「いいえ、まさか。だって私は人間ですから」
その後、近くの喫茶店で昼食を共にする機会を得てからも、私はあれこれと質問攻めにしてしまった。まるでこの世界どころか、天からでもやって来たのではないかと思うほど不思議な吟遊詩人。彼と共に食べた肉厚のハンバーガーの味が、今でも忘れられずにいる。