愛しい君は真犯人
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――パタン。
数時間の残業を終えて漸く自宅へと辿り着いた俺は今、最後にして最大の“トラップ”と向き合っていた。
目の前の扉が大きな音を立ててしまわないよう爆弾の解体作業さながらに細心の注意を払いながら、それはそれは静かに玄関の扉を閉めていく。いつの間にか無意識に息を止めていたようで、扉が小さな音を立てて完全に閉まり、部屋の奥から力強い泣き声が聞こえてこない事を確認したところで漸く、肺の中に溜まったままの空気を深く深く吐き出した。
「…ただいま」
できるだけ足音を立てないように忍び足で廊下を抜けリビングへ入ると出迎えてくれたのは、ソファーに座ってうとうとと舟を漕ぐ愛しい妻とその腕の中でスヤスヤと眠る小さな小さな新しい家族。
先月生まれたばかりの可愛い愛娘はまだまだ三時間おきの授乳が生きる為には必要不可欠で、妻の膝の上に置かれた授乳クッションと妻の腕とに包まれてそれはもう安心したように眠っている。その表情を見るに、母乳を飲みながらそのまま寝落ちてしまったんだろう。そうして妻も長い授乳時間からやっと解放されたはいいが、娘の背中スイッチがエグくてまるで動けないまま力尽きた…ってところか。
娘を起こさないよう静かに二人の元へと近寄って、授乳後仕舞う気力も無かったであろう妻の以前よりも張った胸をそっと下着で覆ってやる。…と、ふとその白い胸元に見覚えの無い鬱血痕らしきものを見つけてハッと息を呑んだ。
産後間もない身体に負担をかけるような事は絶対にしたくなくて、今日の今日まで一度たりとも手を出さずにいた筈なのに。白い柔肌に咲くその赤は確かに所謂キスマークというやつで、妻を疑う気は全く無いがそうなるともう俺が寝惚けて手を出してしまったとしか考えられず「嘘だろ俺…」と思わず小さく声が洩れた。
「ん……あ、おかえり陣平くん」
「っ、ただいま」
「ごめん、授乳しててそのまま寝ちゃったみたい」
「…あぁ」
「…?」
長い睫毛をふるりと震わせて目を覚ました妻から小声で話しかけられた気がするが、俺は上手く返せていただろうか。見れば見る程謎が深まる見知らぬ赤からまるで目が離せずに適当な言葉で返した俺は、その時自分がどんな顔をしていたかなんて知る由もなく。
そんな俺を不思議そうに見上げ、それから視線の先を辿るようにして己の胸元に咲いた華を見た妻がプッと小さく噴き出した事で漸く我に返った。
「もしかして、その変な顔の原因はこれ?」
「……は、」
「っていうか陣平くん、今自分がどんな顔してるか気付いてる?」
「顔?」
「うん、あのね。今もし智華ちゃんが目を覚ましてその顔を見たら、絶対泣くだろうなぁって思う位には凄い顔してるよ」
「…そーかよ」
クスクスと笑いながらそーっと娘…智華から離した片手の指で、自分の眉間を指差してみせた妻から軽く顔を逸らして眉間に寄った深い皺を親指の腹でグリグリと揉み解す。確かにすげー皺寄ってんな。アレに気付いたのが智華に見られる前で良かった。
フーッと深く息を吐き出しながらちらりと横目で妻を見やると、長時間のワンオペ育児で疲れているだろうにどこか楽しげなその瞳とぱちり、目が合って。ゆっくりと開かれた愛しい唇が紡いだ思いがけない真相に、自然と強張ってしまっていたらしい全身からストンと力が抜けていく。
「このキスマークの犯人はね、智華ちゃんだよ」
「……は?智華が?」
「そう。この子、吸啜力が凄い割におっぱい見つけるのすっごく下手じゃない?だから時々こーやって、全然違う所に思いっきり吸い付いてきてキスマーク付けられちゃうんだ」
そう言いながら優しい母の顔をして愛おしそうに我が子を見つめるその姿に目を細めたのも束の間、上目遣いに此方を見上げた彼女が『コレも困りものだけど、寝惚けた誰かさんの手が時々パジャマの中に侵入してくるのも結構困りものだよ』なんて悪戯が成功した時のような良い笑顔で言い放ったもんだから、咄嗟に照れ隠しの咳払いを盛大にかまして智華を起こしてしまうまであと三秒。
それから数日後、寝惚けた愛娘に肩口を全力で吸われて真っ赤な鬱血痕を付けたまま出勤する羽目になった事は言うまでもない。
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