愛猫に薬指を噛まれる
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「苗字さん、あなた最近野良猫を育ててるんだってね?」
向かいの席に座る先輩の突然の一言に、お弁当を食べていた手がぴたりと止まる。
「あれ、私そんな話しましたっけ…?」
「彼女が教えてくれたのよ。ほら、私無類の猫好きだから」
先輩が箸で示す方向へ顔を向けると、まるで悪びれる様子のない同僚がサンドイッチにかぶりつきながら肩を竦めてテヘッと笑っていた。犯人はお前か。
「あー、まぁそんな感じです」
「その様子だとまだ真の猫の良さが分かってないみたいね。あのね、そもそも猫という生き物は…」
猫への愛を熱く語り始めた先輩にふんふんと適当な相槌を打ちながら、ここ数ヶ月頻繁に我が家を訪れるようになった“猫”の事を思い浮かべる。
黒い癖っ毛が特徴的なその“猫”は、仕事で疲れてるからと私が何度断っても遠慮無しで数日おきにやってきては夕飯を強請り、何とは言わないが食後のデザートまで済ませて満腹になるとまたふらっと帰っていく、言うなれば要領が良くて甘え上手な長生きするタイプの野良猫だ。
そんな誰かさんのお陰で私が微かに鼻腔を擽る煙草の残り香を感じながらベッドに沈む頃にはもう遠くから新聞配達の音が聞こえ始めていて、数時間後にはまたけたたましい目覚ましの音に叩き起こされ忙しない一日が始まってしまうのだけれど、それでも結局なんだかんだと絆されて、毎回断りきれずに彼を受け入れてしまうのだからつまりは私も大概の“猫”好きなのだろう。
昼間の“猫”談義を思い出しながら数日ぶりに定時退勤をキメた私は、気付けば今日も二人分の夕飯を作ってしまっていた。無意識って怖い。
まぁもし今夜彼が来なくても残った分は明日のお弁当のおかずにできるから、なんて自分に言い訳をしてフライパンを洗っていると、鞄のポケットに入れたままのスマホが軽快なメロディーで着信を知らせた。
はいはいはい、と濡れた手を拭いてスマホを耳に当てると聞こえてきたのは底抜けに明るい友人のいつもと変わらない元気な声で、これは長電話になるなと覚悟してソファーに腰をおろしたのだった。
「あっ、そのシリーズなら私も全巻読んだよ!最後のあのシーンを見るに、あの二人はその後結婚するね!」
他愛無い雑談から始まった友人との電話は既に1時間を超えていて、後半戦は更にヒートアップ。推しトークに花が咲く。
…そう、何を隠そう私は所謂オタクなのだ。またの名を活字中毒者とも言う!好きな漫画や小説は数知れず!推しには何が何でも幸せになってもらいたい、そしてあわよくば私は推し達の住む部屋の壁になりたいーー。
「いやだってあの描写は明らかに結婚前の実家への挨拶でしょ!両家への挨拶が済んだらもうあとは入籍するだけで『ガタン!』…えっ?」
静かな室内に突然響いた物音に、一気に現実へ引き戻される。なに、泥棒…!?心臓が早鐘を打ち始め、電話を持つ手が震えた。勇気を出して恐る恐る玄関へ目を向けると、扉の前で目を見開き立ち竦む“猫”がいた。
「…び、っくりしたぁ!あっごめん、彼氏帰ってきたからそろそろ切るね!おやすみ〜」
電話を切って食事の支度をしようとソファーから立ち上がったら、物凄い剣幕の陣平くんがつかつかと目の前まで迫ってきて力いっぱい腕を掴まれる。えっなに腕痛…っていうか顔怖っ!?
「お前、結婚すんの」
「……はい?」
どうしよう、全く話が見えない。いやだって結婚も何も、私がお付き合いをしている相手は陣平くんなわけで、そもそも友達としてはかれこれ長い付き合いだけれどお付き合いを始めてからはまだ3ヶ月半だし私的には流石に結婚はまだ早いかなぁって……いやいやそうじゃなくて。
「えっと、今のところそんな予定は無いけど…」
「…はぁ?今電話で言ってたじゃねーか。あとは入籍するだけとかどーとか…」
「電話で、入籍…?えーっと…あ、えぇっ?」
鬼のような顔で唸るように並べられたヒントを反芻してゆっくり繰り返すと、漸く点と点が線になった。あぁ、そういうことか。謎が解けて思わずプッと吹き出した私に陣平くんの眉間の皺がぎゅっと深くなった気がするが、そんな鬼面でさえも可愛く見えてしまう辺りやっぱり私は“猫”が好きなのだ。
「ふふ、あのね?さっきの電話で私が言ってたのは小説の話だよ!なっかなか素直になれない主人公達が最後の最後でやっと実家へ挨拶に行くシーンがあってね」
「……ンだよびっくりさせんなバカ」
もしかして妬いた?なんて、彼の顔を覗き込むよりも早く、掴まれていた腕をグッと引かれて彼の腕の中にすっぽりと収まる。彼の手が私の後頭部を押さえているから彼の顔は見えないけれど、こういう時の彼は大体顔を耳まで真っ赤にしている事を私は知っている。
「あの、勘違いさせてごめんね?ご飯、冷めないうちに食べよ?」
「……だな。手ぇ洗ってくる」
私に顔を見せないように早足で洗面所へ消えていった彼の耳はやっぱり赤くて、思わず口角が緩む。
ニヤニヤしながらお揃いの茶碗にご飯をよそっていると、私の隣に並んだ陣平くんに笑ってんじゃねーよ、と頭を小突かれた。地味に痛い。
向かい合って食卓を囲み、いただきますと手を合わせたところで急に名前を呼ばれて顔を上げると先程とは打って変わって真剣な眼差しに、瞳を射抜かれた。ドキリ、胸が高鳴って一瞬息が止まる。
「なぁ、そろそろ一緒に住まねぇか」
「えっ…?」
「言っておくが俺はもういつでも挨拶に行く覚悟は出来てるぜ」
「…えっ!?あの、それって…」
フッと小さく笑って私の左手を取ると、陣平くんの親指の腹が優しく私の薬指の付け根を撫で始める。無言で私を見つめるその瞳があんまり優しいものだから、今度は私が赤面する番だった。
「ま、慌てる事じゃねぇし名前の心の準備が出来るまでは待つつもりだから、とりあえずここは予約って事でよろしく」
「ひぇっ…こ、こちらこそよろしくお願いします…?」
小さくリップ音を立てて私の薬指に唇を落とした彼の端正な顔があまりにも美しくて、ごくりと喉が鳴った。伏せられた切れ長な目から覗く長い睫毛がふるりと震えて瞬きを一つ。ゆっくりと顔を上げた彼の口角は上がっていて、この後落とされる爆弾のような一言に私の全身の体温は茹蛸よろしく更に急上昇するのだった。
「このノートに書いてあった野良猫とやらも、これでめでたく飼い猫に昇格だな」
(ななな何故彼の手に私の日記が!?!?っていうか中身読まれてる!!!??お、お、お巡りさーーーん!!!!!!)
1/1ページ