神芳


『逃げろ……!!』
芳野は人がいない、寂れた街を走っていた。ずっと降り続いている雨は、止む気配がない。
消えてしまったゲーテの声が生々しく蘇る。
かつて恋人だった男、狩矢神の手により消滅させられ、彼の標的は芳野に向いた。
絶対に追いつかれては駄目だ。
神は芳野の能力に目を付けていた。
彼が、何を企んでいるかは分からなかった。
だが、芳野はやすやすと彼の野望を叶えさせたりはしなかった。
(私たちバウントは、天に立ってはいけないのよ……。)
どれだけ時間が経ったのか、分からなくなるほど走り続けた。
芳野は辺りの気配を探った。
神は来ていないようだ……。
芳野は民家へ逃げ込んだ。
椅子や割れた食器が散乱している室内を突っきり、書斎の部屋を探す。
少し頑丈な扉を開け、本棚をどかす。すると、後ろから隠し扉が出てきた。
芳野はすばやくそこに入り、棚を元に戻した。
中は暗く、カビ臭いムッとした湿気のにおいが彼女を包んだ。
奥に続く廊下を進むと、階段があった。どうやら、別の家に続いているようだ。
扉が見え、芳野はそこを開けた。
するとスーツやコートが掛けられ、クローゼットの裏側だと認識した。
クローゼットから出てきた芳野はまず、濡れた衣服を脱いだ。
そして下着のまま、近くにあったベッドに横になった。
(寒い……。)
もうすぐ夜とあって、暖房器具のない部屋は寒い。
バウントは、普通の人と人の間に生まれた子ども。
身体は人間と変わらなかった。
濡れたままでいれば、確実に風邪をひいてしまう。
芳野は額に手を当て、唸った。
いつの間にか頭痛がしてきて、熱も出てきたようだ。
(どうしたらいいの……。)
ぼんやりする視界の中で、芳野はひたすら寒さと痛みに耐えた。
「そのままだと、風邪をひくぞ。」
「っ……!!?」
まさに今、彼女を追い詰める者の声がして芳野は恐怖した。
芳野はすぐさま攻撃しようと身体を起こしたが、彼はそれをさせなかった。
神は芳野の身体を抱き、逃れられないように動きを封じた。
芳野は後悔の念を持った。
もっと早く気付くべきだった……!!
「そう、強ばるな。私は君を殺したりしない。」
耳元で囁く神。
ただそれだけだったが、芳野は声も上げられなかった。
全身を恐怖だけが支配した。
「濡れネズミじゃないか。可哀そうに。」
優しい、彼の声。
昔と同じもののはずなのに、どうしてここまで恐怖を感じるのだろうか。
「放して……貴方の思惑どおりにさせないわよ。」
神は芳野の言葉には反応せず、何を思ったのか彼女が身に付けていた下着を脱がし始めた。
「いやっ……!!なにをっ!!」
彼女の声など無視し、神は手を動かす。
「君は誤解している。」
神は芳野を仰向けに倒して首筋に口付けた。
「私は君を愛しているよ。昔と同じように。
君の全てを支配したいほど、私は君を愛している。」
「そんなの、嘘よっ!!あなたは変わってしまった!!昔の貴方は、もっと優しくて、素晴らしい人だった!!」
殺気を感じた芳野は必死に抵抗した。
しかし、神は赤子の首をひねるように簡単にそれを押さえつけ、低く唸った。
「一つになろう、芳野……。」
芳野は身体が凍りつくのを感じた。
「いやっ!!嫌よっ……!!ああっ……!!」
身体を流れる血が、熱くなっていく。
どうしようもない感情に呑まれていくのが、自分でも分かる。
もはや、芳野はどうすることも出来なかった。
 *
生きている人間を襲う貴方の姿を見てから、芳野は彼を信じられなくなった。
魂魄を食らう貴方の顔はとても恐ろしかった。
どうして、こうなってしまったの?
貴方と私は痛みも、幸せも分かち合う仲だったじゃない。
あの時の笑顔は、全て嘘だったの?
これが、本当の貴方なの?
貴方を止められない、己の無力さが憎い。
貴方の痛みを分かってあげられないのが、どうしようもなく哀しい。
ねぇ、教えて。
貴方の痛みを、私の炎で癒してあげるから。
貴方の全てを包み込むから。
復讐なんかしなくていい。ただ、永遠に私と愛し合って静かに暮らしていたい。
(貴方を、この世界の誰よりも…愛しています。)
 ***
芳野が目覚めた時には、神はすでにその姿を消していた。
テーブルには、煙草の吸殻が残されていた。
熱と頭痛はすっかり治まっていた。
それどころか、痛みも傷も、すべてが何事もなかったかのように消えていた。
綺麗に畳まれた自分の衣服を手に取り、芳野は静かに涙を流した。
神は、嘘などついていなかった。
芳野の記憶の中にいる神と、彼女が恐れる神は、同じ人物だった。
彼の優しさは、今も残っている。
芳野は決意した。神を止めなければならない。
もう、彼に対する恐怖はない。
痛みを癒してあげたい。
全てを、理解してあげたい。
それが、今の私のするべきこと。
(待っていて。必ず、貴方を救ってみせるわ。)
芳野は衣服を抱き締め、心に強く誓った。

【痛み、かなしみ】...end.
1/4ページ