月光に毒される
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強い者を求めて旅を続ける三人。
一角と弓親が名前と出会ってから、八年が経とうとしていた。近頃、一角は物思いに耽ることが増えた。争い事には興醒めした様子で、闘いに消極的だ。
「一角、参加しないの?」
瓦版に張り出された剣術大会の広告を見ていた一角は、無言でその場を後にした。残された弓親と名前は顔を見合わせた。以前なら先陣を切って参加した筈が…どうも様子がおかしい。
*
物足りない。
暇つぶしになるような強い奴に出会う事が減った。いくら捜して見たかったとしても、一角の欲を満たすような強い輩には出会えない。近頃は死神になった、あの人の事を頻繁に思い浮かべていた。
『負けてそれでも死に損ねたら…それはお前がツイていたのだから生き延びることだけ考えろ。そして、自分を殺し損ねた奴を殺すことだけ考えろ』
もう何十年も前の事だ。あれから俺は強くなれたのか?
一角は遠方に見える、瀞霊廷の外壁を見ながら息を吐いた。あの壁の向こうに血を滾らせる闘いが待っている。このまま燻っているぐらいなら、死に損ないも同然。
(俺はーーー…。)
***
「俺は死神になる。」
一角の真剣な眼差しを見た弓親と名前は、彼が冗談を言っているとは思わなかったが、その内容は到底信じがたい。
(ついに、この時が来たんだね。)
腹に決めた一角の覚悟がひしひしと伝わってくる。長年一角に連れ添ってきた弓親は、すぐにそれを感じ取った。
しかし名前は動揺している。それも当然だ。彼女は一角が執着しているあの男の存在を知らない。
「死神になれば奴らの命令、規則に従い、手足となって命を懸けて闘う事になる。自分の意思に反する事もやらなきゃならねぇ。だが、生活環境が整っていて格段に強くなれる。」
理屈を唱えるが一角はただ、強さの為に死神になりたいと言っているようだ。旅の途中、死神を見かける機会が何度もあったが、一角は無言で彼らを観察していた。流魂街にいる強者は大方、目処が付いている。最早、流魂街に留まる理由は無くなった。
「僕は、一角に付いて行くよ。此処にいるのも飽きてきたしね。」
一角は弓親を見てニヤリと笑った。弓親の事だ。何も言わずとも一角の心中を察していたに違いない。それに気付いた一角は弓親に感謝した。問題は口を真一文字に閉じている名前。拳を握り、考えに耽っている。
「ここまで旅に付いて来れた根性は認めてやるよ。死神になるかどうかは、お前が決めろ。」
「…私は行かない。」
名前は一角の問いに直ぐ答えた。今まで二人と生活を共にし、旅を続けてきた名前。感情を吐露しない名前は何を考えていたのかは、二人も把握していない。ただ、名前に人として生活する知識と能力を与えた。自ら進んで学ぼうとする彼女の姿は、一角が思うに決して悪くない旅だったと思うが…。死神になるのは話が別だ。
「死神になる理由も執着もない…私は此処(流魂街)に残る。」
名前はそう言うと、一角に目を向けた。
「だが…お前を殺す事はずっと前から決めていた!」
名前は素早動きで短刀を抜き、一角に斬りかかった。一角も瞬時に反応し、彼女の腕を押さえる。
「…いつかかってくるかと思ったが…はっ!面白いな。」
殺気を殺す事を覚えた彼女の攻撃は、一角でさえ今の今まで分からなかった。一角を睨みつける名前の目は殺気で満ち溢れている。
「良い目だ。いいぜ、死ぬ気で掛かってこい!」
「今日こそ、今までの恨み晴らしてやる!!!」
一角は名前の腕を押し返し、走って距離を取った。一角は刀を抜き、鞘を持ったまま名前に斬りかかった。突然始まった戦闘の邪魔にならぬよう離れる弓親。名前がいつ一角に襲い掛かるか観察していたが、一向にその気配がなかった。就寝時や入浴している時など、狙える隙は幾らでもあった筈だ。しかし彼女はそれをしなかった。
(…彼女は一角を本当に恨んでいるのだろうか?)
激しくぶつかり合う二人を弓親は無言で見守った。
*
一角と共に鍛錬した名前は彼の動きを読んでいた。それは一角も同様。互いに隙を狙い、打撃、斬撃を入れる。既に血が滲み、打撃を喰らった箇所が悲鳴を上げている。
「殺気と怒りを上手く隠せているじゃねぇか。成長したな…名前。」
「その名を呼ぶのは最期だ!」
飛び掛かる一角が名前に刃を向ける。それを短刀で受け止め、次に鞘で殴りかかる事を読んでいた名前は下から一角の刀を握る腕を蹴り上げ、体勢を崩す。一瞬出来た隙に左手で一角の頬を殴る。
「…っぶ!」
歯が折れ、吐血する一角。続けて名前は一角の顔目がけて短刀を振り下ろすが、鞘を持った左腕がそれを受け止めた。
「くっ…!」
腕に刺さる短刀。斬り落とせず動きが止まった名前に向かって刀を振り下ろした。
「ぐあぁっ!!!」
初めて闘った時と同じく、左肩から腹にかけてを斬られた名前。大きく裂かれた傷口からは流血する。地面に崩れ落ちた名前を尻目に、腕に刺さった短刀を抜く一角。腕から激しく流血する。地面に伏せ、震える体を起き上がらせようとする名前。動くたびに鮮血が滲む名前に一角は「止めとけ」と釘を刺す。しかし名前はそれでも上体を起こし、一角を見据える。肩で浅く息を繰り返す名前。失血し、眩暈を起こしているがまだ闘う気でいるようだ。初めて名前と刃を交えた時は瀕死の状態にも関わらず、戦闘が再開した事もあり一角は緊張の糸を緩めなかった。
「お前と出会って、私の人生はめちゃくちゃだ!様々な味付けの料理、温かい湯で体を洗う事。文字を読む事…。」
「へっ!良かったじゃねぇか、楽しみが増えたんならよぉ。」
初めて聞いた彼女の本音。一角が彼女に経験させた事は、やはり彼女にとって良い経験だった。それを知ることが出来て一角は嬉しく思った。
「五月蠅い!もう昔には戻れない。知らなかった方が良かったんだ…あの時に、死んでいれば…!」
(コイツ…死ぬつもりか?)
一角は彼女の言葉を聞き、直観的にそう思った。更木剣八に負け、止めを刺すよう懇願した過去の記憶が脳裏をよぎった瞬間、名前は瞬歩で一角の正面から斬りかかった。一角は彼女の手首を掴み、捻り上げる。
「ぐうぅっ!!」
「俺らと旅するのは嫌じゃなかったんだろ?だからお前は素直に俺らの言う事を聞いていた、違うか?」
「黙れぇ!!」
名前は失血している事も忘れ、全力で一角の腕を振りほどいた。
そして自らの血を舐めるとニヤリと嗤った。
「ハッ…!出会った頃とおんなじ、狂ってんな。いいぜ、愉しめそうだぜ!」
名前は瞬歩で姿を消し、一角の隙を狙う。彼女の姿が見えなくなった一角は、目を閉じて耳を澄ます。
シュンっ…!
左側が一瞬風を切った。一角は目で見るよりも先に刀を振った。斬る手ごたえを感じたが、一角が真っ二つにしたのは石だった。途端、名前の刃が一角の首を斬るが、一角は即座に角度を変え、急所を逃した。
「ちっ…!」
一角は名前を捕まえようと手を伸ばすが、彼女の速さにはついて行かない。再び名前を見失った。殺気を感じ取ることが出来ない為、何処から攻撃を仕掛けてくるか分からない。しかし一角は冷静に周囲を見渡す。自然に吹く風が周囲の草木を揺らすが、一部の草は違う方向になびいた。それは一瞬の事で徐々に移動している。彼女が動いた時に出来る風だ。
(見えた…!)
一角はその動きを見ながら、間を合わせて刀を振り下ろした。すると名前がそれを受け止める。
「お前、これ以上血を流すと死ぬぞ。」
よく見ると名前が踏んだ地面に血痕が続いている。
「知ったことか!」
「そうかよ…だがな、俺は死神になる。こんな所で時間を食ってる場合じゃねぇんだ!」
一角は左手で名前の襟を掴んだ。名前の力が緩まった隙を見逃さず、一角は刀を放り投げて右腕で彼女の顔に拳を叩きこむ。
そして間髪入れずに力いっぱいの頭突きを入れ、そのまま彼女のみぞおちを殴り上げる。名前は勢いで吹っ飛び、地面に叩きつけられた。名前は遠のいていく意識の中、一角を見上げる。
(また…勝てなかった…。)
みぞおちを強く殴られ、息すらまともに出来ない。更に失血による眩暈で視界が歪む。
「お前の負けだ…生き延びたら、俺を殺しに来い。」
一角の言葉を聞き、名前は意識を失った。地面に彼女の血が広がる。生きるか死ぬか、今度こそ彼女自身が決める時だ。名前をしばらく見下ろしていた一角だったが、やがて刀を鞘に収めて歩き出した。
「行くぞ、弓親。」
「…あぁ。」
弓親は倒れた名前を尻目に、一角の後ろを歩く。白い建物がそびえ立つ瀞霊廷。一角の目には更木剣八の背中がくっきり見えていた。
***
名前は夢のような意識下の中で目を覚ました。既視感を覚えながら辺りを見渡す。暗く、何もない巨大な空間にポツンと一人名前は横たわっている。体は例の如く鉛のように重く、動かせない。
(この感じ…あの時と同じ…。)
『前より強くなったものの、またあの男に負けたのか』
脳内に響き渡る透き通った冷静な声。相変わらず声の正体は分からないが、声の主の言う通りなので名前は反論しなかった。徐々に手足の末端から体が冷たくなってくる気がした。
「……?」
『このまま、死にたいか?』
声は名前に問いかけた。一度は諦めた命。以前の名前だったら素直にそれを受け入れていただろう。しかし、"あの男"と出会ってから名前は様々な事を知った。この世界には名前が知らない事がまだまだ沢山あるだろう。いつの間にか「知りたい」「愉しさを味わいたい」と思う、欲が生まれている事に気が付いた。名前は心の奥底から強い思いを抱いた。
「まだ…生きたい。」
手足の冷たさを忘れるくらい、胸が熱くなった。グッと掌を握りしめ体を起き上がらせようとするも、重い体は言う事を聞かない。
『ふっ…変われば変わるものだな…なら、私は何も言うまい。』
声が聞こえなくなると、途端に全身に広がる痛みに名前は悶絶した。耐えられない痛みではないが、このまま放置すればマズイと本能的に理解できた。なんとかしなければ。
「ーーーー…っ!!!」
名前が目を覚ますと、辺りは真っ暗になっていた。あの二人はいない。先ずはどうにか体を起こそう。体を動かそうとするも痛みで息が上がる。みぞおちがかなり痛むが、致命傷ほどではない。
肩から腹にかけて斬られた傷はそれほど深くなく、乾いた血が傷口を塞いでいた。
(止血した覚えはないが…。)
半信半疑ながらも、名前はサラシを外して傷を覆うように巻いた。喉の渇きを覚えた名前は、周辺を見渡した。持ってきた荷物がそのままになっている。確か竹筒の水筒が入っていた筈、と名前はゆっくり這って鞄にたどり着いた。鞄を開くと中身は、名前が触ったままになっている。竹筒を見つけた名前は蓋を取り、ゆっくりと水を飲んだ。血で張り付いた喉を洗い流すように、ぬるい水が流れて行く。戦闘で口の中を切ったようで所々、沁みて痛む。全ての傷の具合を見てみても、初めての闘いより浅い傷。手加減されたとは思わなかったが、殺すつもりのない攻撃に名前は怒りと同時に、自身の力不足に苛立った。
(しかし、もうあの男の顔を見る事はない…。)
再び一人に戻った平穏を取り戻し、名前は安堵した。もうあの男に振り回される事はない。自分が思うままの生活を送ればいいのだ。名前は空に広がる星空を見ながら、息を吐いた。
***
時は流れて数年が経った。
名前はこれまでと同じように旅を繰り返していた。同じ場所へ戻ったり、新たな土地に踏み入れたり…。狩りで食べ物を得て、飢えに苦しむ寒い季節が来る前に保存食を作って冬を越した。飢えを恐れる名前ではなくなっていた。
空き家で食事を摂る名前。日頃話す相手もおらず、時たますれ違う人と一言二言話すのみ。旅も狩りも食事も睡眠も一人。人の顔色を伺う必要もない。
「流石に薄かったな…。」
名前は自身が作った鍋の汁を飲んで呟いた。猪肉と野菜の味噌味の鍋だったが、入れる味噌の量が少なかった。あのうるさい男がいたら「お前、いっつも薄味すぎんだよ、俺らも食べる事を考えて作れよな」だのなんだの言われていただろう。
「……。」
一人なら味にケチを言われる事も腹立つ事もない。聞こえてくる音は、時折吹く風の物音のみ。
(これで良かったのだ…これで…。)
***
『今の流行はぷりん!』
瓦版(新聞)に大きく書かれた見出し。流魂街の町にも瀞霊廷で今流行っている物が流れてくる。物の流通に乏しいこの町でも死神達の嗜好品が流れてくるのだから、不思議なものだ。町を訪れた名前は本屋に立ち寄っていた。瓦版には自分が知らない事柄が写真付きで記載されている。
(死神は流魂街で暮らす者たちより裕福なのだな…。)
写真に写っている瀞霊廷は家や道が整備され、沢山の物に囲まれている。
様々な料理の写真が写り、普段から食事が身近な事を物語っている。名前は行く先々の町を訪れては本を読み、情報収集を行った。死神に興味がある訳ではないが、無意識に記事を読んでいた。旅の途中時折、チンピラに絡まれる事があったが、その時は拳で黙らせた。更に虚と遭遇した時も難なく倒し、見ていた町の者に感謝され「この町に留まってくれ」と頼まれるも、名前はそれを断って町を出た。昔から群れる事は苦手だった。自身の気分のままに、名前は各地に赴いた。
***
季節は初夏。
名前は初めて足を踏み入れる山を登っていた。川に沿って坂道を登って行く。獣道ではあるが、地面が踏み固まっている事から、普段人が通るようだ。山の横を流れる川は岩肌が見えるほどに透き通っている。川に入れば水が冷たく、心地よいだろう。これほどの清流であれば魚が美味しいだろうな、と名前は期待に胸を膨らませた。長い山道を歩くと、拓けた道に出た。農具屋の隣のような小さな家がぽつぽつと建てられている。どの家も硬く扉が閉められているので、現在人は住んでいないようだ。夕方に差し掛かっているので、今日はこの小さな集落で体を休める事にした。名前は川沿いの簡素な家に寝床を決め、荷物を置いた。湿気てカビ臭い屋内。窓を全開にして空気を入れ替える。小さな囲炉裏に木をくべて火を点ける。部屋を乾燥させている間に飲み水の確保と、食事の狩りを行う。
*
日が落ちて夜になった。
近くで採ってきた山菜と捕獲したアマゴを調理して食べる。ほのかに風が吹き心地よい。蛙や草虫の鳴き声が響いている。人の気配がなく安心して眠ることが出来そうだ。布団などある訳もなく、名前は持ってきた荷物を枕にして眠った。
*
翌日、名前はしばらくここに留まることに決めた。川沿いに居れば避暑地として暑さをしのげるだろう。しかし、この小さな集落がそこまで荒廃していない所を見ると、時折人の手が入るみたいだ。その時は直ぐに出ていけば問題ないだろう。この周辺には何があるだろう?名前はさらに続く山を登ることにした。昨夜寝泊まりした家に荷物を置き、名前は上に続く山道を登った。林道に入り、山の茂みの中を歩く。昨日まで歩いた山道より深く生い茂り、足元は苔でぬかるんでいる。山菜が豊富に群生している所を見ると、食べ物には困らなさそうだ。時折、鳥や動物の鳴き声が聞こえてくる。活き活きとする自然の匂いに名前は幸せを感じた。
「——————!!!」
名前は森の奥で叫び声を聞いた。
(この先で誰かが襲われている。)
一瞬迷った名前だったが、すぐに走った。現場は近い。先に見えたのは、黒い大きな影と小柄な人影。大きな影は虚だ。
「っ……!!」
虚が女性を襲おうとした瞬間、名前はその間に入った。蹴りを入れ、吹き飛んで倒れる虚。女性は突如現れた名前を驚きの目で見つめた。虚は咆哮を上げ、名前に襲い掛かるが素早い動きに反応出来ず、一瞬にして仮面が砕かれた。虚は跡形もなく消え去り、襲われていた女性は極度の緊張から解放され、その場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫か?」
「…あぁ…助かった…ありがとう。」
こんな山奥に人がいるとは思わなかった。この辺りを出入りしている者だろうか?名前は女性に近付き、怪我がないか尋ねた。
「かすり傷だから平気。」
女性は名前の腕を借りて立ち上がった。
「私は久枝 。アンタは旅をしてるの?」
久枝は赤茶色の短髪、細身で肩には大きな篭を背負っている。
「そんな所だ。私は名前。」
「昨夜、煙の匂いと灯りが燈っていたから気付いてたよ。私はこの近くで暮らしてる。」
「そうか。」
「時間はある?お礼をさせて。」
名前は久枝の好意を受け取り、彼女について行くことにした。山道を歩く途中、久枝は背負っている籠に山菜を入れていく。久枝は山菜や薬草の知識が豊富で、水が湧き出る所も知っていた。
「そんなに摘んでどうする?」
既に籠には沢山の山菜が入っていた。とても一人で食べきれる量ではない。
「此処の山菜を欲しがる人の為に採っているんだよ。」
「へぇ…。」
力の無い者は飲み食いしなくても腹が減らない。山菜を欲しがる、という事は力がある者が他にもいるという事だろうか?久枝は僅かながら力があるので、時々食事を摂る。名前と違い、一回食事を摂れば数日食べなくてもいいそうだ。
「こっちだよ。」
久枝の案内で名前が来たのは大きな茅葺屋根の家。大きな畑と鳥小屋まである。家の軒下には野菜が吊るされ、干し台に野菜や山菜が並べられ干されている。大きな家だが、他に人の気配は感じられない。畑の前にある縁側に座るように促された名前。久枝は盆にお茶とおむすびを乗せて運んできた。
「お腹が空いてるだろ、はい。」
「ありがとう、頂く。」
おむすびは雑穀が入っており、赤い色をしていた。中には味噌で和えた山菜が入っていた。
「美味しい。」
「良かった。」
久枝は先程摘んだ山菜をい草の敷物に広げ、選別している。
「週に二回、瀞霊廷の使者がこの山の食材を買いに来るんだ。後でこの下の集落で取引する。」
「瀞霊廷の使者…死神?」
「そうだよ。」
「……。」
この場所でも死神と接点があるのか。ふと死神になると言った二人の事を思い出す。しかし名前にはもう関係のない話だ。名前は大根の漬物を食べ、お茶を飲んで完食した。今まで畑を見かける事があったが、ここまで農機具が揃っている畑は他で見たことがない。死神御用達の農家という恩恵からなのだろう。久枝は選別した山菜と干した野菜を桶に入れ、それを木棚に入れる。蓋をして肩ひもに腕を通すと、それを背負って立ち上がった。
「行こうか。」
名前は久枝について歩いた。
「ここの山菜は、死神や貴族が食べるんだってさ。あの人達は食べないと生きられない。あんたもそうなんだろ?」
「……そうだな。」
「毎日?」
「一日二日は我慢できるが、なるべく毎日食べたい所だ。」
「さっきの虚も一発だったし、強いんだねぇ。」
「いや…。」
名前が寝泊まりしている小集落に到着すると、久枝は先程摘んだ山菜を綺麗に並べて置いた。
「もうすぐ約束の時間だよ。」
久枝がそう言って半刻もしないうちに、身軽な格好の笠を被った男が二人現れた。一人は髪を後ろで縛り、長いあご髭を蓄えている老人で名を文吉 。もう一人は体格の良い若い男で左之助 と言った。
「こんにちは、久枝さん。そちらの方はお初にお目に掛かりますが…。」
文吉は名前をちらりと見た。
「旅で訪れた名前さん。虚を倒してくれたんだよ。」
「心強いですね。今日も良い山菜は獲れましたかな?」
「今日はウドが採れたよ。」
久枝は先程摘んだ山菜を見せながら文吉に説明していく。名前は二人の死神の気配を探った。二人共流魂街にいる者達と違い、霊圧を押さえているため実力が計り知れない。以前出会った志波とか言う死神同様、彼らと戦闘するのは避けた方が良さげだ。
「では、これらの山菜全て頂こう。」
文吉の言葉で、左之助は背中に背負っていた木の箱を下ろした。木の箱を解錠して蓋を開けると、米や味噌などの調味料や様々な器具が入っていた。
「久枝さんに頼まれていた包丁、研いできましたよ。」
「助かるよ。」
「これだけでは足りないので、この中から欲しい物があれば交換、もしくは換金しましょう。」
(山で採れた物を売って生活しているのか…。)
名前はこんな商売の方法があるのだな、と思いながら見ていた。
久枝は木箱の中から酢を選んだ。
「これから暑くなってくるから、酢漬けが食べたくなるね。」
「久枝さんが作る物は手が込んでいて、瀞霊廷でも料亭に使われるんだ。いつも助かっているよ。」
「私もここらでは手に入らない米や酒を売ってもらっているから助かるよ。そうだ、米も貰っていいかい?」
「あぁ、どうぞ。」
木箱の中の塩を見た名前は、自身が持っている調味料が少なくなっている事を思い出した。売ってもらえるだろうか?
「これで調味料を買いたいのだが…。」
名前は自身の手持ちの貨幣を文吉に見せた。
「どれどれ…あぁ、これは瀞霊廷で流通している通貨だから良いぞ。何か欲しい物でもあったかな?」
「塩と醤油…あと味噌を頂戴したい。干物で使うんだ。」
「干物?魚のかい?」
「魚もだが、肉の干物も美味しい。」
すると文吉は興味ある視線で名前をチラリと見た。この世界では食べ物により、霊子の密度が違うとされている。わざわざ捕獲した肉を食べるという事は、それだけ霊圧を消費している事を暗示していた。彼女がそれを意識しているかは分からないが…。
「ほぅ…肉を食べるのかね。何を仕留めるんだい?」
「鳥、鹿、猪…最近は余り食べないが、熊も。」
「ほっほっほ…これは面白い。もし、干物を作ったら一度私に食べさせては頂けないですか?」
「約束は出来ない。」
「気が向いたらで結構。」
名前は左之助に貨幣を渡し、調味料を受け取った。二人の男は山菜を丁寧に木箱に入れ、蓋を閉じた。
「次回は四日後に来ます。」
左之助は木の箱を担ぎ、二人の男は再び山を下って行った。
「有り難い事に、本当に充実した暮らしだよ。」
久枝は二人の後ろ姿を見ながら呟いた。彼女の満たされた笑顔を見て名前は「楽しそうだな」と思った。
「あんた、これからどうするんだい?」
考えていたが、答えない名前を見て久枝はニッコリと笑った。
「しばらく私のとこで暮らさないかい?お互にいい刺激になると思うんだ。それに、さっき米を貰ったから飯の心配は要らないよ。」
「私が怪しいと思わないのか?」
久枝は少し考え「全然!」とニカっと笑う。その笑顔が憎いあの男を彷彿とさせた。何故私に構おうとするのだろう?
(だが…。)
一見して久枝は善人だと感じた。人と共に暮らすのは気を遣うが、山菜や薬草の知識や野菜、家畜の育て方を知って損はない。長らく人と接さない生活をしていたから、いい刺激になるかもしれない。
「……その好意、頂いておく。」
「やった!実は私、あんたが仕留めた肉が食べてみたいんだ!」
「容易い事だ。」
名前は一晩使った家を閉め、荷物を持って久枝の家に移動した。
久枝の家は着る物から布団、お風呂まで全てが揃っていた。相当の金持ちでなければここまでの家は建てられないだろう。
「驚いたかい?長い年月を掛けて稼いだ金で建てたのさ。」
「凄いな。」
「自分で作って売れば金になる。着る物も道具も、時間と材料さえあれば作れるからね。」
男二人と旅をしていた時には得られなかった知識を得られそうだ。
「代わりにと言っちゃなんだけど、私を手伝ってくれるかい?」
「そのつもりだ。私も教えてもらいたい事がある。」
「あぁ、私が知っている事なら何でも教えてあげるよ。」
その日から二人の共同生活が始まった。畑を耕し、鶏の世話をして、縄を編み、綿を糸にする。取引する日の早朝は山へ入り、山菜を摘む。
「小さいのはまだ摘まないで。これぐらいの大きさのものを収穫して。」
女は名前に山菜の見本を見せ、大きさを教えた。久枝は薬草の知識も備えていて、勉強になる事が多かった。中でも薬草は高く売れるようで、久枝は見逃さないように摘んだ。
「これは乾燥させて煎じると血行促進、冷え性に効果があるよ。群生しているから、今度一気に刈って持ち帰ろう。」
彼女の薬学の知識は素晴らしい。一体、どこで学んだのだろう?久枝は自身の事を多くは語らない。そして名前を詮索する事もなく、生活を共にするのは楽だった。
*
盛夏。畑は野菜が実り、毎日沢山の野菜が穫れる。納品できる商品にも困らなかった。畑で作業していた久枝は立ち上がり、名前に顔を向けた。
「名前、川で泳いだことある?」
「いや…。」
川に用があるとすれば、水分を補給したり、魚を捕まえたり水浴びをするだけ。名前は川で泳ぐなど、考えた事がなかった。
「そっか、じゃあ泳ぎに行こう!」
二人は着替えなどの荷物を持ち、川に向かった。到着すると、久枝は肌着になり、腕と脚の袖を紐で縛っていく。
「水の中で布は大きな抵抗になるから、こうやって縛って抵抗を減らすんだよ。」
名前も久枝に倣って肌着一枚になり、袖を紐で縛った。自身の長い髪も一縛りに束ねる。久枝は既に川の深い所に入り、スイスイと泳いでいる。
(あんなに軽やかに動けるのか…。)
山水という事もあり、予想より冷たく感じた。名前は寒気を感じながら、ゆっくりと足から入水した。流れは緩いので流される心配はないが、水中の石がぬかるんで時折滑りそうになる。
「陸の様に力を入れて歩こうとするんじゃなくて、滑るように移動してみな~。」
滑る?久枝の言葉の意味が分からないが、確かに水流に逆らって進もうとすると抵抗力が大きくとても歩きずらい。名前は久枝がやっているように体を水流と平行に倒して移動した。
(成程、こうやって動くのか…。)
「上手じゃないか。」
そう言うと久枝は水流に逆らって泳ぐ。名前も同じように真似するが、進まずに何故か体が沈んでいく。
「最初から泳ぐのは難しいから、先ずは水に慣れよう。」
名前は水の中で様々な動きを試してみた。陸の時と力の入れ方が全く違う。疲れを感じた名前は陸に上がり、休憩した。その間にも久枝は川の中を自在に動き、持っていた小刀で岩下に潜った魚を獲った。
「魚も獲れるのか。」
「そうだよ。名前は魚、好き?」
「……あぁ。」
久枝を見つめる名前。魚は釣りと罠を使って仕留める物だと思っていたので驚きだ。二人は久枝が獲った魚を焼いて食べながら休憩した。名前出来ない事を平然とやってのける久枝。時間が掛かってもいい。自分も彼女の様に泳ぎたいと思った。
それから名前は悪天候で水の流れが速い日以外は、ほぼ毎日のように川に入って泳ぎの練習を繰り返した。
久枝に泳ぎを教えてもらいながら、名前は着実に川で泳げるようになっていった。
「すっかり泳げるようになったじゃないか。」
川の中を自由に泳ぐ名前。日数で言うと一ヶ月程で出来るようになった。久枝は名前のコツコツと練習を繰り返して技を習得する姿に感心した。
「魚が獲れるようにしなければならない。」
「アンタならやれるよ、頑張りな!」
名前は水に潜りながら考えた。魚を獲る以外にも、泳ぎは戦闘に応用できるかもしれない。今後、虚や強者と戦闘に巻き込まれる可能性は十分に有る。実際、今取引している死神の能力は未知数だ。
(これも修行の一つ…。)
名前はそう考えながら水の中に潜った。
*
「どうだい、楽しいだろ?」
久枝は野菜を収穫する名前に声を掛けた。
「あぁ…。」
実ったキュウリやナス、トウモロコシを収穫しながら名前は空を見上げた。水をやり、雑草を取り、収穫…名前は野菜を育てる喜びを感じていた。今まで生物を育てる事などなかった名前。自身が育てた作物を収穫して食べる嬉しさは格別だった。
「さぁて、そろそろ食事の準備をするか!」
久枝は農機具を置き、今穫れた野菜を持ち上げた。彼女が作る料理はとても美味しい。野菜に塩や酢、醤油などで味を付けて調理した単純なものだが、野菜の鮮度が良いので全て美味しく感じる。名前はここで食べるもの全てが美味しいと感じた。
(今の暮らし…悪くない。)
これが今まで自分が求めていた暮らしなのかもしれない。久枝が言う通り、自身で作り出せば何も不自由なく生活ができる。
(生きがいを見つけたかもしれないな。)
名前は目の前の野菜を収穫した。
.
一角と弓親が名前と出会ってから、八年が経とうとしていた。近頃、一角は物思いに耽ることが増えた。争い事には興醒めした様子で、闘いに消極的だ。
「一角、参加しないの?」
瓦版に張り出された剣術大会の広告を見ていた一角は、無言でその場を後にした。残された弓親と名前は顔を見合わせた。以前なら先陣を切って参加した筈が…どうも様子がおかしい。
*
物足りない。
暇つぶしになるような強い奴に出会う事が減った。いくら捜して見たかったとしても、一角の欲を満たすような強い輩には出会えない。近頃は死神になった、あの人の事を頻繁に思い浮かべていた。
『負けてそれでも死に損ねたら…それはお前がツイていたのだから生き延びることだけ考えろ。そして、自分を殺し損ねた奴を殺すことだけ考えろ』
もう何十年も前の事だ。あれから俺は強くなれたのか?
一角は遠方に見える、瀞霊廷の外壁を見ながら息を吐いた。あの壁の向こうに血を滾らせる闘いが待っている。このまま燻っているぐらいなら、死に損ないも同然。
(俺はーーー…。)
***
「俺は死神になる。」
一角の真剣な眼差しを見た弓親と名前は、彼が冗談を言っているとは思わなかったが、その内容は到底信じがたい。
(ついに、この時が来たんだね。)
腹に決めた一角の覚悟がひしひしと伝わってくる。長年一角に連れ添ってきた弓親は、すぐにそれを感じ取った。
しかし名前は動揺している。それも当然だ。彼女は一角が執着しているあの男の存在を知らない。
「死神になれば奴らの命令、規則に従い、手足となって命を懸けて闘う事になる。自分の意思に反する事もやらなきゃならねぇ。だが、生活環境が整っていて格段に強くなれる。」
理屈を唱えるが一角はただ、強さの為に死神になりたいと言っているようだ。旅の途中、死神を見かける機会が何度もあったが、一角は無言で彼らを観察していた。流魂街にいる強者は大方、目処が付いている。最早、流魂街に留まる理由は無くなった。
「僕は、一角に付いて行くよ。此処にいるのも飽きてきたしね。」
一角は弓親を見てニヤリと笑った。弓親の事だ。何も言わずとも一角の心中を察していたに違いない。それに気付いた一角は弓親に感謝した。問題は口を真一文字に閉じている名前。拳を握り、考えに耽っている。
「ここまで旅に付いて来れた根性は認めてやるよ。死神になるかどうかは、お前が決めろ。」
「…私は行かない。」
名前は一角の問いに直ぐ答えた。今まで二人と生活を共にし、旅を続けてきた名前。感情を吐露しない名前は何を考えていたのかは、二人も把握していない。ただ、名前に人として生活する知識と能力を与えた。自ら進んで学ぼうとする彼女の姿は、一角が思うに決して悪くない旅だったと思うが…。死神になるのは話が別だ。
「死神になる理由も執着もない…私は此処(流魂街)に残る。」
名前はそう言うと、一角に目を向けた。
「だが…お前を殺す事はずっと前から決めていた!」
名前は素早動きで短刀を抜き、一角に斬りかかった。一角も瞬時に反応し、彼女の腕を押さえる。
「…いつかかってくるかと思ったが…はっ!面白いな。」
殺気を殺す事を覚えた彼女の攻撃は、一角でさえ今の今まで分からなかった。一角を睨みつける名前の目は殺気で満ち溢れている。
「良い目だ。いいぜ、死ぬ気で掛かってこい!」
「今日こそ、今までの恨み晴らしてやる!!!」
一角は名前の腕を押し返し、走って距離を取った。一角は刀を抜き、鞘を持ったまま名前に斬りかかった。突然始まった戦闘の邪魔にならぬよう離れる弓親。名前がいつ一角に襲い掛かるか観察していたが、一向にその気配がなかった。就寝時や入浴している時など、狙える隙は幾らでもあった筈だ。しかし彼女はそれをしなかった。
(…彼女は一角を本当に恨んでいるのだろうか?)
激しくぶつかり合う二人を弓親は無言で見守った。
*
一角と共に鍛錬した名前は彼の動きを読んでいた。それは一角も同様。互いに隙を狙い、打撃、斬撃を入れる。既に血が滲み、打撃を喰らった箇所が悲鳴を上げている。
「殺気と怒りを上手く隠せているじゃねぇか。成長したな…名前。」
「その名を呼ぶのは最期だ!」
飛び掛かる一角が名前に刃を向ける。それを短刀で受け止め、次に鞘で殴りかかる事を読んでいた名前は下から一角の刀を握る腕を蹴り上げ、体勢を崩す。一瞬出来た隙に左手で一角の頬を殴る。
「…っぶ!」
歯が折れ、吐血する一角。続けて名前は一角の顔目がけて短刀を振り下ろすが、鞘を持った左腕がそれを受け止めた。
「くっ…!」
腕に刺さる短刀。斬り落とせず動きが止まった名前に向かって刀を振り下ろした。
「ぐあぁっ!!!」
初めて闘った時と同じく、左肩から腹にかけてを斬られた名前。大きく裂かれた傷口からは流血する。地面に崩れ落ちた名前を尻目に、腕に刺さった短刀を抜く一角。腕から激しく流血する。地面に伏せ、震える体を起き上がらせようとする名前。動くたびに鮮血が滲む名前に一角は「止めとけ」と釘を刺す。しかし名前はそれでも上体を起こし、一角を見据える。肩で浅く息を繰り返す名前。失血し、眩暈を起こしているがまだ闘う気でいるようだ。初めて名前と刃を交えた時は瀕死の状態にも関わらず、戦闘が再開した事もあり一角は緊張の糸を緩めなかった。
「お前と出会って、私の人生はめちゃくちゃだ!様々な味付けの料理、温かい湯で体を洗う事。文字を読む事…。」
「へっ!良かったじゃねぇか、楽しみが増えたんならよぉ。」
初めて聞いた彼女の本音。一角が彼女に経験させた事は、やはり彼女にとって良い経験だった。それを知ることが出来て一角は嬉しく思った。
「五月蠅い!もう昔には戻れない。知らなかった方が良かったんだ…あの時に、死んでいれば…!」
(コイツ…死ぬつもりか?)
一角は彼女の言葉を聞き、直観的にそう思った。更木剣八に負け、止めを刺すよう懇願した過去の記憶が脳裏をよぎった瞬間、名前は瞬歩で一角の正面から斬りかかった。一角は彼女の手首を掴み、捻り上げる。
「ぐうぅっ!!」
「俺らと旅するのは嫌じゃなかったんだろ?だからお前は素直に俺らの言う事を聞いていた、違うか?」
「黙れぇ!!」
名前は失血している事も忘れ、全力で一角の腕を振りほどいた。
そして自らの血を舐めるとニヤリと嗤った。
「ハッ…!出会った頃とおんなじ、狂ってんな。いいぜ、愉しめそうだぜ!」
名前は瞬歩で姿を消し、一角の隙を狙う。彼女の姿が見えなくなった一角は、目を閉じて耳を澄ます。
シュンっ…!
左側が一瞬風を切った。一角は目で見るよりも先に刀を振った。斬る手ごたえを感じたが、一角が真っ二つにしたのは石だった。途端、名前の刃が一角の首を斬るが、一角は即座に角度を変え、急所を逃した。
「ちっ…!」
一角は名前を捕まえようと手を伸ばすが、彼女の速さにはついて行かない。再び名前を見失った。殺気を感じ取ることが出来ない為、何処から攻撃を仕掛けてくるか分からない。しかし一角は冷静に周囲を見渡す。自然に吹く風が周囲の草木を揺らすが、一部の草は違う方向になびいた。それは一瞬の事で徐々に移動している。彼女が動いた時に出来る風だ。
(見えた…!)
一角はその動きを見ながら、間を合わせて刀を振り下ろした。すると名前がそれを受け止める。
「お前、これ以上血を流すと死ぬぞ。」
よく見ると名前が踏んだ地面に血痕が続いている。
「知ったことか!」
「そうかよ…だがな、俺は死神になる。こんな所で時間を食ってる場合じゃねぇんだ!」
一角は左手で名前の襟を掴んだ。名前の力が緩まった隙を見逃さず、一角は刀を放り投げて右腕で彼女の顔に拳を叩きこむ。
そして間髪入れずに力いっぱいの頭突きを入れ、そのまま彼女のみぞおちを殴り上げる。名前は勢いで吹っ飛び、地面に叩きつけられた。名前は遠のいていく意識の中、一角を見上げる。
(また…勝てなかった…。)
みぞおちを強く殴られ、息すらまともに出来ない。更に失血による眩暈で視界が歪む。
「お前の負けだ…生き延びたら、俺を殺しに来い。」
一角の言葉を聞き、名前は意識を失った。地面に彼女の血が広がる。生きるか死ぬか、今度こそ彼女自身が決める時だ。名前をしばらく見下ろしていた一角だったが、やがて刀を鞘に収めて歩き出した。
「行くぞ、弓親。」
「…あぁ。」
弓親は倒れた名前を尻目に、一角の後ろを歩く。白い建物がそびえ立つ瀞霊廷。一角の目には更木剣八の背中がくっきり見えていた。
***
名前は夢のような意識下の中で目を覚ました。既視感を覚えながら辺りを見渡す。暗く、何もない巨大な空間にポツンと一人名前は横たわっている。体は例の如く鉛のように重く、動かせない。
(この感じ…あの時と同じ…。)
『前より強くなったものの、またあの男に負けたのか』
脳内に響き渡る透き通った冷静な声。相変わらず声の正体は分からないが、声の主の言う通りなので名前は反論しなかった。徐々に手足の末端から体が冷たくなってくる気がした。
「……?」
『このまま、死にたいか?』
声は名前に問いかけた。一度は諦めた命。以前の名前だったら素直にそれを受け入れていただろう。しかし、"あの男"と出会ってから名前は様々な事を知った。この世界には名前が知らない事がまだまだ沢山あるだろう。いつの間にか「知りたい」「愉しさを味わいたい」と思う、欲が生まれている事に気が付いた。名前は心の奥底から強い思いを抱いた。
「まだ…生きたい。」
手足の冷たさを忘れるくらい、胸が熱くなった。グッと掌を握りしめ体を起き上がらせようとするも、重い体は言う事を聞かない。
『ふっ…変われば変わるものだな…なら、私は何も言うまい。』
声が聞こえなくなると、途端に全身に広がる痛みに名前は悶絶した。耐えられない痛みではないが、このまま放置すればマズイと本能的に理解できた。なんとかしなければ。
「ーーーー…っ!!!」
名前が目を覚ますと、辺りは真っ暗になっていた。あの二人はいない。先ずはどうにか体を起こそう。体を動かそうとするも痛みで息が上がる。みぞおちがかなり痛むが、致命傷ほどではない。
肩から腹にかけて斬られた傷はそれほど深くなく、乾いた血が傷口を塞いでいた。
(止血した覚えはないが…。)
半信半疑ながらも、名前はサラシを外して傷を覆うように巻いた。喉の渇きを覚えた名前は、周辺を見渡した。持ってきた荷物がそのままになっている。確か竹筒の水筒が入っていた筈、と名前はゆっくり這って鞄にたどり着いた。鞄を開くと中身は、名前が触ったままになっている。竹筒を見つけた名前は蓋を取り、ゆっくりと水を飲んだ。血で張り付いた喉を洗い流すように、ぬるい水が流れて行く。戦闘で口の中を切ったようで所々、沁みて痛む。全ての傷の具合を見てみても、初めての闘いより浅い傷。手加減されたとは思わなかったが、殺すつもりのない攻撃に名前は怒りと同時に、自身の力不足に苛立った。
(しかし、もうあの男の顔を見る事はない…。)
再び一人に戻った平穏を取り戻し、名前は安堵した。もうあの男に振り回される事はない。自分が思うままの生活を送ればいいのだ。名前は空に広がる星空を見ながら、息を吐いた。
***
時は流れて数年が経った。
名前はこれまでと同じように旅を繰り返していた。同じ場所へ戻ったり、新たな土地に踏み入れたり…。狩りで食べ物を得て、飢えに苦しむ寒い季節が来る前に保存食を作って冬を越した。飢えを恐れる名前ではなくなっていた。
空き家で食事を摂る名前。日頃話す相手もおらず、時たますれ違う人と一言二言話すのみ。旅も狩りも食事も睡眠も一人。人の顔色を伺う必要もない。
「流石に薄かったな…。」
名前は自身が作った鍋の汁を飲んで呟いた。猪肉と野菜の味噌味の鍋だったが、入れる味噌の量が少なかった。あのうるさい男がいたら「お前、いっつも薄味すぎんだよ、俺らも食べる事を考えて作れよな」だのなんだの言われていただろう。
「……。」
一人なら味にケチを言われる事も腹立つ事もない。聞こえてくる音は、時折吹く風の物音のみ。
(これで良かったのだ…これで…。)
***
『今の流行はぷりん!』
瓦版(新聞)に大きく書かれた見出し。流魂街の町にも瀞霊廷で今流行っている物が流れてくる。物の流通に乏しいこの町でも死神達の嗜好品が流れてくるのだから、不思議なものだ。町を訪れた名前は本屋に立ち寄っていた。瓦版には自分が知らない事柄が写真付きで記載されている。
(死神は流魂街で暮らす者たちより裕福なのだな…。)
写真に写っている瀞霊廷は家や道が整備され、沢山の物に囲まれている。
様々な料理の写真が写り、普段から食事が身近な事を物語っている。名前は行く先々の町を訪れては本を読み、情報収集を行った。死神に興味がある訳ではないが、無意識に記事を読んでいた。旅の途中時折、チンピラに絡まれる事があったが、その時は拳で黙らせた。更に虚と遭遇した時も難なく倒し、見ていた町の者に感謝され「この町に留まってくれ」と頼まれるも、名前はそれを断って町を出た。昔から群れる事は苦手だった。自身の気分のままに、名前は各地に赴いた。
***
季節は初夏。
名前は初めて足を踏み入れる山を登っていた。川に沿って坂道を登って行く。獣道ではあるが、地面が踏み固まっている事から、普段人が通るようだ。山の横を流れる川は岩肌が見えるほどに透き通っている。川に入れば水が冷たく、心地よいだろう。これほどの清流であれば魚が美味しいだろうな、と名前は期待に胸を膨らませた。長い山道を歩くと、拓けた道に出た。農具屋の隣のような小さな家がぽつぽつと建てられている。どの家も硬く扉が閉められているので、現在人は住んでいないようだ。夕方に差し掛かっているので、今日はこの小さな集落で体を休める事にした。名前は川沿いの簡素な家に寝床を決め、荷物を置いた。湿気てカビ臭い屋内。窓を全開にして空気を入れ替える。小さな囲炉裏に木をくべて火を点ける。部屋を乾燥させている間に飲み水の確保と、食事の狩りを行う。
*
日が落ちて夜になった。
近くで採ってきた山菜と捕獲したアマゴを調理して食べる。ほのかに風が吹き心地よい。蛙や草虫の鳴き声が響いている。人の気配がなく安心して眠ることが出来そうだ。布団などある訳もなく、名前は持ってきた荷物を枕にして眠った。
*
翌日、名前はしばらくここに留まることに決めた。川沿いに居れば避暑地として暑さをしのげるだろう。しかし、この小さな集落がそこまで荒廃していない所を見ると、時折人の手が入るみたいだ。その時は直ぐに出ていけば問題ないだろう。この周辺には何があるだろう?名前はさらに続く山を登ることにした。昨夜寝泊まりした家に荷物を置き、名前は上に続く山道を登った。林道に入り、山の茂みの中を歩く。昨日まで歩いた山道より深く生い茂り、足元は苔でぬかるんでいる。山菜が豊富に群生している所を見ると、食べ物には困らなさそうだ。時折、鳥や動物の鳴き声が聞こえてくる。活き活きとする自然の匂いに名前は幸せを感じた。
「——————!!!」
名前は森の奥で叫び声を聞いた。
(この先で誰かが襲われている。)
一瞬迷った名前だったが、すぐに走った。現場は近い。先に見えたのは、黒い大きな影と小柄な人影。大きな影は虚だ。
「っ……!!」
虚が女性を襲おうとした瞬間、名前はその間に入った。蹴りを入れ、吹き飛んで倒れる虚。女性は突如現れた名前を驚きの目で見つめた。虚は咆哮を上げ、名前に襲い掛かるが素早い動きに反応出来ず、一瞬にして仮面が砕かれた。虚は跡形もなく消え去り、襲われていた女性は極度の緊張から解放され、その場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫か?」
「…あぁ…助かった…ありがとう。」
こんな山奥に人がいるとは思わなかった。この辺りを出入りしている者だろうか?名前は女性に近付き、怪我がないか尋ねた。
「かすり傷だから平気。」
女性は名前の腕を借りて立ち上がった。
「私は
久枝は赤茶色の短髪、細身で肩には大きな篭を背負っている。
「そんな所だ。私は名前。」
「昨夜、煙の匂いと灯りが燈っていたから気付いてたよ。私はこの近くで暮らしてる。」
「そうか。」
「時間はある?お礼をさせて。」
名前は久枝の好意を受け取り、彼女について行くことにした。山道を歩く途中、久枝は背負っている籠に山菜を入れていく。久枝は山菜や薬草の知識が豊富で、水が湧き出る所も知っていた。
「そんなに摘んでどうする?」
既に籠には沢山の山菜が入っていた。とても一人で食べきれる量ではない。
「此処の山菜を欲しがる人の為に採っているんだよ。」
「へぇ…。」
力の無い者は飲み食いしなくても腹が減らない。山菜を欲しがる、という事は力がある者が他にもいるという事だろうか?久枝は僅かながら力があるので、時々食事を摂る。名前と違い、一回食事を摂れば数日食べなくてもいいそうだ。
「こっちだよ。」
久枝の案内で名前が来たのは大きな茅葺屋根の家。大きな畑と鳥小屋まである。家の軒下には野菜が吊るされ、干し台に野菜や山菜が並べられ干されている。大きな家だが、他に人の気配は感じられない。畑の前にある縁側に座るように促された名前。久枝は盆にお茶とおむすびを乗せて運んできた。
「お腹が空いてるだろ、はい。」
「ありがとう、頂く。」
おむすびは雑穀が入っており、赤い色をしていた。中には味噌で和えた山菜が入っていた。
「美味しい。」
「良かった。」
久枝は先程摘んだ山菜をい草の敷物に広げ、選別している。
「週に二回、瀞霊廷の使者がこの山の食材を買いに来るんだ。後でこの下の集落で取引する。」
「瀞霊廷の使者…死神?」
「そうだよ。」
「……。」
この場所でも死神と接点があるのか。ふと死神になると言った二人の事を思い出す。しかし名前にはもう関係のない話だ。名前は大根の漬物を食べ、お茶を飲んで完食した。今まで畑を見かける事があったが、ここまで農機具が揃っている畑は他で見たことがない。死神御用達の農家という恩恵からなのだろう。久枝は選別した山菜と干した野菜を桶に入れ、それを木棚に入れる。蓋をして肩ひもに腕を通すと、それを背負って立ち上がった。
「行こうか。」
名前は久枝について歩いた。
「ここの山菜は、死神や貴族が食べるんだってさ。あの人達は食べないと生きられない。あんたもそうなんだろ?」
「……そうだな。」
「毎日?」
「一日二日は我慢できるが、なるべく毎日食べたい所だ。」
「さっきの虚も一発だったし、強いんだねぇ。」
「いや…。」
名前が寝泊まりしている小集落に到着すると、久枝は先程摘んだ山菜を綺麗に並べて置いた。
「もうすぐ約束の時間だよ。」
久枝がそう言って半刻もしないうちに、身軽な格好の笠を被った男が二人現れた。一人は髪を後ろで縛り、長いあご髭を蓄えている老人で名を
「こんにちは、久枝さん。そちらの方はお初にお目に掛かりますが…。」
文吉は名前をちらりと見た。
「旅で訪れた名前さん。虚を倒してくれたんだよ。」
「心強いですね。今日も良い山菜は獲れましたかな?」
「今日はウドが採れたよ。」
久枝は先程摘んだ山菜を見せながら文吉に説明していく。名前は二人の死神の気配を探った。二人共流魂街にいる者達と違い、霊圧を押さえているため実力が計り知れない。以前出会った志波とか言う死神同様、彼らと戦闘するのは避けた方が良さげだ。
「では、これらの山菜全て頂こう。」
文吉の言葉で、左之助は背中に背負っていた木の箱を下ろした。木の箱を解錠して蓋を開けると、米や味噌などの調味料や様々な器具が入っていた。
「久枝さんに頼まれていた包丁、研いできましたよ。」
「助かるよ。」
「これだけでは足りないので、この中から欲しい物があれば交換、もしくは換金しましょう。」
(山で採れた物を売って生活しているのか…。)
名前はこんな商売の方法があるのだな、と思いながら見ていた。
久枝は木箱の中から酢を選んだ。
「これから暑くなってくるから、酢漬けが食べたくなるね。」
「久枝さんが作る物は手が込んでいて、瀞霊廷でも料亭に使われるんだ。いつも助かっているよ。」
「私もここらでは手に入らない米や酒を売ってもらっているから助かるよ。そうだ、米も貰っていいかい?」
「あぁ、どうぞ。」
木箱の中の塩を見た名前は、自身が持っている調味料が少なくなっている事を思い出した。売ってもらえるだろうか?
「これで調味料を買いたいのだが…。」
名前は自身の手持ちの貨幣を文吉に見せた。
「どれどれ…あぁ、これは瀞霊廷で流通している通貨だから良いぞ。何か欲しい物でもあったかな?」
「塩と醤油…あと味噌を頂戴したい。干物で使うんだ。」
「干物?魚のかい?」
「魚もだが、肉の干物も美味しい。」
すると文吉は興味ある視線で名前をチラリと見た。この世界では食べ物により、霊子の密度が違うとされている。わざわざ捕獲した肉を食べるという事は、それだけ霊圧を消費している事を暗示していた。彼女がそれを意識しているかは分からないが…。
「ほぅ…肉を食べるのかね。何を仕留めるんだい?」
「鳥、鹿、猪…最近は余り食べないが、熊も。」
「ほっほっほ…これは面白い。もし、干物を作ったら一度私に食べさせては頂けないですか?」
「約束は出来ない。」
「気が向いたらで結構。」
名前は左之助に貨幣を渡し、調味料を受け取った。二人の男は山菜を丁寧に木箱に入れ、蓋を閉じた。
「次回は四日後に来ます。」
左之助は木の箱を担ぎ、二人の男は再び山を下って行った。
「有り難い事に、本当に充実した暮らしだよ。」
久枝は二人の後ろ姿を見ながら呟いた。彼女の満たされた笑顔を見て名前は「楽しそうだな」と思った。
「あんた、これからどうするんだい?」
考えていたが、答えない名前を見て久枝はニッコリと笑った。
「しばらく私のとこで暮らさないかい?お互にいい刺激になると思うんだ。それに、さっき米を貰ったから飯の心配は要らないよ。」
「私が怪しいと思わないのか?」
久枝は少し考え「全然!」とニカっと笑う。その笑顔が憎いあの男を彷彿とさせた。何故私に構おうとするのだろう?
(だが…。)
一見して久枝は善人だと感じた。人と共に暮らすのは気を遣うが、山菜や薬草の知識や野菜、家畜の育て方を知って損はない。長らく人と接さない生活をしていたから、いい刺激になるかもしれない。
「……その好意、頂いておく。」
「やった!実は私、あんたが仕留めた肉が食べてみたいんだ!」
「容易い事だ。」
名前は一晩使った家を閉め、荷物を持って久枝の家に移動した。
久枝の家は着る物から布団、お風呂まで全てが揃っていた。相当の金持ちでなければここまでの家は建てられないだろう。
「驚いたかい?長い年月を掛けて稼いだ金で建てたのさ。」
「凄いな。」
「自分で作って売れば金になる。着る物も道具も、時間と材料さえあれば作れるからね。」
男二人と旅をしていた時には得られなかった知識を得られそうだ。
「代わりにと言っちゃなんだけど、私を手伝ってくれるかい?」
「そのつもりだ。私も教えてもらいたい事がある。」
「あぁ、私が知っている事なら何でも教えてあげるよ。」
その日から二人の共同生活が始まった。畑を耕し、鶏の世話をして、縄を編み、綿を糸にする。取引する日の早朝は山へ入り、山菜を摘む。
「小さいのはまだ摘まないで。これぐらいの大きさのものを収穫して。」
女は名前に山菜の見本を見せ、大きさを教えた。久枝は薬草の知識も備えていて、勉強になる事が多かった。中でも薬草は高く売れるようで、久枝は見逃さないように摘んだ。
「これは乾燥させて煎じると血行促進、冷え性に効果があるよ。群生しているから、今度一気に刈って持ち帰ろう。」
彼女の薬学の知識は素晴らしい。一体、どこで学んだのだろう?久枝は自身の事を多くは語らない。そして名前を詮索する事もなく、生活を共にするのは楽だった。
*
盛夏。畑は野菜が実り、毎日沢山の野菜が穫れる。納品できる商品にも困らなかった。畑で作業していた久枝は立ち上がり、名前に顔を向けた。
「名前、川で泳いだことある?」
「いや…。」
川に用があるとすれば、水分を補給したり、魚を捕まえたり水浴びをするだけ。名前は川で泳ぐなど、考えた事がなかった。
「そっか、じゃあ泳ぎに行こう!」
二人は着替えなどの荷物を持ち、川に向かった。到着すると、久枝は肌着になり、腕と脚の袖を紐で縛っていく。
「水の中で布は大きな抵抗になるから、こうやって縛って抵抗を減らすんだよ。」
名前も久枝に倣って肌着一枚になり、袖を紐で縛った。自身の長い髪も一縛りに束ねる。久枝は既に川の深い所に入り、スイスイと泳いでいる。
(あんなに軽やかに動けるのか…。)
山水という事もあり、予想より冷たく感じた。名前は寒気を感じながら、ゆっくりと足から入水した。流れは緩いので流される心配はないが、水中の石がぬかるんで時折滑りそうになる。
「陸の様に力を入れて歩こうとするんじゃなくて、滑るように移動してみな~。」
滑る?久枝の言葉の意味が分からないが、確かに水流に逆らって進もうとすると抵抗力が大きくとても歩きずらい。名前は久枝がやっているように体を水流と平行に倒して移動した。
(成程、こうやって動くのか…。)
「上手じゃないか。」
そう言うと久枝は水流に逆らって泳ぐ。名前も同じように真似するが、進まずに何故か体が沈んでいく。
「最初から泳ぐのは難しいから、先ずは水に慣れよう。」
名前は水の中で様々な動きを試してみた。陸の時と力の入れ方が全く違う。疲れを感じた名前は陸に上がり、休憩した。その間にも久枝は川の中を自在に動き、持っていた小刀で岩下に潜った魚を獲った。
「魚も獲れるのか。」
「そうだよ。名前は魚、好き?」
「……あぁ。」
久枝を見つめる名前。魚は釣りと罠を使って仕留める物だと思っていたので驚きだ。二人は久枝が獲った魚を焼いて食べながら休憩した。名前出来ない事を平然とやってのける久枝。時間が掛かってもいい。自分も彼女の様に泳ぎたいと思った。
それから名前は悪天候で水の流れが速い日以外は、ほぼ毎日のように川に入って泳ぎの練習を繰り返した。
久枝に泳ぎを教えてもらいながら、名前は着実に川で泳げるようになっていった。
「すっかり泳げるようになったじゃないか。」
川の中を自由に泳ぐ名前。日数で言うと一ヶ月程で出来るようになった。久枝は名前のコツコツと練習を繰り返して技を習得する姿に感心した。
「魚が獲れるようにしなければならない。」
「アンタならやれるよ、頑張りな!」
名前は水に潜りながら考えた。魚を獲る以外にも、泳ぎは戦闘に応用できるかもしれない。今後、虚や強者と戦闘に巻き込まれる可能性は十分に有る。実際、今取引している死神の能力は未知数だ。
(これも修行の一つ…。)
名前はそう考えながら水の中に潜った。
*
「どうだい、楽しいだろ?」
久枝は野菜を収穫する名前に声を掛けた。
「あぁ…。」
実ったキュウリやナス、トウモロコシを収穫しながら名前は空を見上げた。水をやり、雑草を取り、収穫…名前は野菜を育てる喜びを感じていた。今まで生物を育てる事などなかった名前。自身が育てた作物を収穫して食べる嬉しさは格別だった。
「さぁて、そろそろ食事の準備をするか!」
久枝は農機具を置き、今穫れた野菜を持ち上げた。彼女が作る料理はとても美味しい。野菜に塩や酢、醤油などで味を付けて調理した単純なものだが、野菜の鮮度が良いので全て美味しく感じる。名前はここで食べるもの全てが美味しいと感じた。
(今の暮らし…悪くない。)
これが今まで自分が求めていた暮らしなのかもしれない。久枝が言う通り、自身で作り出せば何も不自由なく生活ができる。
(生きがいを見つけたかもしれないな。)
名前は目の前の野菜を収穫した。
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