一角短編集
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【疲れた日は】
「苗字!!!演習用の火薬は持ってきたか!?」
「こちらに。」
重たい雲が覆う空の下、刑軍の実践演習は行われていた。
そこは瀞霊廷内のある一角で、よく軍事演習が行われる。
夜には雨が降るだろうと予想していたため、項目を変更して演習は行われていた。
「一撃目!発射!!」
ドカンっと耳をつんざく爆発音と共に、砂埃が大きく舞い上がる。
「来るぞ!!」
仲間の隊員の声とともに、砂埃を裂く風が陣地に侵入した。
キィンっと刃同士が交わる音が響く。仲間が敵と相対したようだ。
名前は敵の殺気を感じ取り、身を翻した。すると敵は一瞬彼女を見失ったようだ。その隙を見逃さなかった名前は敵の腹めがけて強烈な一撃を撃った。
「ぐはぁっ…!!!」
敵は地面に倒れ気を失ったようだ。名前はすぐに次の敵を探す。
仲間が敵陣に向かっていく気配を感じ、一緒に走り出した。
*
「今日の演習はこれまで培ってきた技術と努力を試すものだ。己に何が足りないか、踏まえた上で今後の演習に取り組むように!」
軍団長である砕蜂の話が終わり、隊員たちは撤収の準備で動き出す。
名前は席官として武器の片付けに立ち会った。
「いつものように、火薬の移動が最優先だ。その後、準備ができた班から移動開始。」
隊員の動きを見ながら的確に指示を出す名前。
今にも雨が降り出しそうな空。一刻も早く武器を片付けたい所だ。
「火薬、移動します!」
「梱包確認。」
名前は六人の隊員が持つ火薬が入った箱を手早く、入念に確認した。
「確認完了、許可する。落ち着いて運ぶように。」
火薬と言う事だけあり、その使用は慎重に取り扱わなければならない。
雨の日でも使わなければならない場面も当然出てくる。
こういった練習は実践あるのみだ。
「大砲移動準備できました!」
名前は大砲三機を他の席官と確認していく。
そうしている間に、ポツポツと空からは雨粒が落ちてきた。
「確認完了、皆で運ぶぞ!」
隊員はそれぞれの大砲を運び出していく。名前も一番最後の大砲と共に移動を手伝った。
ザアアァァア…
一刻後には本降りに変わり、隊舎に着く頃には隊員達はびしょ濡れになっていた。
「ご苦労だったな。早く着替えて食事を摂るといい。」
砕蜂に報告を終えた名前は真っ先にシャワー室へ向かった。
他の隊員達は既に着替え終わり、夕食に向かっている為、比較的空いていた。
(今日はここで夕食を食べるか…。)
普段は寝泊まりで借りている部屋で自炊している名前だったが、帰ってから食事を作るのが億劫だと感じ、食堂で食べる事にした。
そんな事を考えながら、温かい湯を浴び、冷えた体を温めた。
*
人影が少なくなってきた食堂。
名前が食事を摂っていると、隠密機動警ら隊の隊員が名前に声を掛けた。
二番隊は隠密機動の総合機関が併設されているので、食堂は隠密機動の出入りもする。
「苗字班長…。」
「どうした?」
「夜勤の者が二人体調不良になり、急遽代理が必要になりました。」
「そうか…代理は一人で大丈夫か?」
「はい。」
名前は少し考え、自身が代理に入る事にした。後で執務室へ寄り、明日の勤務を午後からに調節すれば良い。
「私が代理で入る。食事を終えたら向かおう。」
「了解しました。」
警ら隊の隊員は食堂を後にした。
名前も手早く食事を済ませた。
*
隠密機動に所属していると不規則な勤務形態になる。
承知の上で働いているが、過労で体調を崩す者も多い。
しかし高い給料を得る事が出来るので、決して待遇は悪くない。
別段、貯金する理由もないが…。
「班長、急なお願いで申し訳ありません。」
「こういう時もある。お互い様だ。」
「ありがとうございます。」
部下の尻を持つのは上官としての務め。
それは元居た十一番隊で学んだ事だった。
「雨が降っている。合羽の準備はいいか?」
「大丈夫です。」
雨の日の巡回は視界も悪く、濡れないように合羽羽織を着て笠を被って行う。
名前もそれを着て準備は完璧だ。
「さぁ、定刻だ。出発!」
『了解!』
名前と警ら隊の隊員は各担当地域に向かって走り出した。
雨の中を小走りで走るが、時折滑りそうになる。
更に昼の通常勤務と実践演習の疲れもあり、時折眩暈を感じた。
(いけない…しっかりしなきゃ。)
「いつ何時、敵の襲撃に遭うか分からない。常に万全でなければならない」と砕蜂隊長はいつも隊員達に唱えている。
(一徹くらい、どうってことない。)
名前は鞭を打って体を動かした。
***
翌日、午後。雨は止んでいたが、いつ降ってもおかしくない空模様だ。
名前は通常勤務に努めていた。
睡眠は午前中に摂れていたが、連日続く激務で疲労を回復できずにいた。
「苗字、四番隊で滋養強壮剤を打った方がいいぞ。」
そう言ったのは副隊長の大前田稀千代。
顔色の悪い名前を見て、思わず苦言した。
「勤務後、四番隊に寄りたいと思います。」
「今日は早退していいぞ。」
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます。」
*
鍛錬中、普段ならミスなど犯さない名前だったが、今日は幾度かやり直す事柄が起きた。
小さなミスだったのでその場で済んだが、一歩間違えば怪我をする。
「あと一刻…。」
時計を見ながら、名前は頬を両手で叩いた。
今は瀞霊廷で上がっている問題と対策の討論中。十三隊の席官が集まる会議だ。
期間までに隊の意見をまとめ、議会で回答しなければならない。
これが中々定刻通りに進まない。
幾つかの議題に対してすんなり決まる時があれば、隊で意見が食い違うと次回の会議に持ち越しになる時がある。
「では、前回に引き続き雑費の明確化について話し合います。」
議長である七番隊、伊勢七緒が取り仕切る中各隊が意見を述べていく。
「二番隊は明確に記録を残しています。更に来客時に計上された費用の詳細は、日別に残しています。」
「そうですね。二番隊はこの資料にある通り、しっかり明確になっていますが…
問題はこの金額です!十一番隊と十二番隊同様、どうやったら他の隊と比べて一桁ズレてくるんですか!?」
七緒の追及に、名前は冷静に意見を述べた。
「我が隊は隠密機動併設で客人が多い故に、常に最高のおもてなしをするよう努めています。
あちらの隊の方々と同じにしないで頂きたい。」
名前の言葉を聞いた阿近が眉を吊り上げた。
「あ?聞き捨てならねぇなぁ。こっちだって技術開発局を併設してるんだ。誰が隠密武器を開発してると思っている?
十一番隊こそ金の無駄遣いが多いだろうが。」
十二番隊の非が十一番隊の斑目一角に向けられた。
首の後ろを指で掻きながら、机を叩いた。
「隊員の士気を高めるために必要な酒をウチは買ってる。鍛錬中に壊れた備品や修繕も必要、俺たちに無駄はねぇ!」
「それを雑費で計上しているのが間違いです!食費と修繕費を雑費にしないで下さい!」
七緒が火を噴き、他隊の席官が苦笑する。
「めんどくせぇなぁ。」
一角は欠伸をしながら二番隊の名前を見た。
彼女は視線が下がり、遠くを見ている。
疲れ切った表情だ。
(……。)
「十一番隊は経費の再計算を。二番隊、十二番隊は次回までに計上の多い項目を書き出して下さい。いいですね!では次の議題に入ります。」
*
会議が終わり、時刻は名前が帰る時間になっていた。
(さっさと隊舎に戻って早退しよう。)
名前はぼんやりしながら廊下を歩いていると、誰かに背中をばんっと叩かれた。
「なぁに腑抜けたツラしてんだ?」
「一角…。」
名前はめんどくさい男に絡まれ、ため息を吐いた。その間も歩む足は止めない。
「何の用?」
「いつにも増してひでぇ顔してんじゃねぇか。寝不足か?」
「五月蠅い。一角には関係ない。まだ勤務中でしょ、早く戻って。」
十一番隊とは完全に方向が逆だが、一角は名前に付いて歩いてくる。
「俺はいいんだよ。」
「私はこれで帰る。用事があるから構ってる暇はないの。」
「へぇ…。」
(あぁ…もう何でこんな時に限ってこの男に捕まるのよ。)
なにかと名前の邪魔をする一角に苛立ちを感じた。
放っておいてほしいのに。
「じゃあ。」
建物の外に出た名前は今度こそ一角と別れを告げようと振り返った。
身長の高い一角を見上げると、名前は急に視界がぐらついた。
眩暈で平衡感覚を失い、倒れそうになる。
「おいっ。」
なんとか踏みとどまり、顔に手を当てて首を振る。
「なんともない。後で救護詰所に行くから大丈夫。」
「大丈夫じゃねーだろ。運んでってやろうか?」
「要らないってば。」
抵抗する名前に一角は彼女の首筋に手を当てた。
「すげぇ熱。ぐずぐず言ってねぇで、行くぞ!」
「はっ!?」
一角は名前を担ぎ、四番隊へ向かった。
「降ろして!先に二番隊に戻らないと。」
「体調が悪かったから先に救護詰所に寄ったって言えばいいだろ。」
「私の事なのに、勝手に決めて…!」
「いつもの事だろうが。」
名前は一角の袖を握りしめた。
彼と出会ってから、何かと強引に突っかかってくる。
他の隊員は名前に近付きもしないのに、一体何故?
彼に体を預けると急に体が重くなった気がした。
(あぁ、もう動けない。)
今まで無理をしていたのが祟ったようだ。
緊張の糸が緩み、体のだるさが名前を襲った。頭もぼーっとしてきた。
彼女が力を抜き、自分に体を預けた事に気が付いた一角は名前をしっかり抱いた。
会議が始まる前から彼女の異変に気が付いていた。
いつも気を張っている名前は隙だらけで、先程も背中を叩くまで彼女は一角の気配に気が付かなかった。
「お前の事だ、どうせ無茶したんだろ?」
「……。」
只でさえ厳しい二番隊で隠密機動にも所属している彼女は、きっと苦労が絶えないだろう。
更に忍耐強く、いつも我慢している名前は自身の体調すら見返らない。
傍で見ていて目が離せないのは昔と変わらないな、と一角は思った。
救護詰所に到着し、一角はそのまま建物の中に入った。
「急患だ、こいつを診てやってくれ。」
隊員たちは驚きの目で一角を見つめる。
「苗字さん?こちらに横にしてもらっていいですか?」
一人の女性隊員が一角に指示する。
一角は案内されたベッドに名前を横にした。
「頼んだぜ。」
「運んで頂き、ありがとうございます。後はお任せを。」
名前は何も言えないようだったが、一角に視線を送った。
一角は口元を引き上げ「さっさと治せよ」と言って部屋を出て行った。
*
「報告ご苦労だったな。」
名前が救護詰所に運ばれた事を聞いた大前田稀千代は一角に礼を言った。
「んじゃ、そういう事なんで。」
要件を伝えた一角は十一番隊舎に帰ろうと踵を返したが、稀千代に引き留められた。
「斑目。お前たち、付き合ってんのか?」
「……。」
稀千代の詮索に、一角はどう返そうか考えた。
人付き合いの薄い名前と共にいる事を考えたら、周りからそう思われても仕方のないが、二人は交際などしていない。
一角が一方的に彼女を気にしているのだが、名前はそれを快くは思ってはいない筈だ。
「アイツは怒るだろうが、妹みたいに思ってるんで。」
「ほぅ…なら、大事にしないとな。」
妹のいる稀千代はその気持ちをよく理解していたが、果たしてこの男が名前に向ける気持ちはそれと同じなのだろうか?
稀千代は意味深な視線で一角を見るが、これ以上の詮索はしなかった。
一角の背中を見ながら、稀千代は息を吐いた。
(妹ねぇ…。)
*
「具合はどうですか?」
目を覚ました名前は女隊員に話し掛けられた。
数時間眠っていたようだ。窓の外はすっかり暗くなっている。
点滴を入れられ、先ほどより体が楽になった気がする。
「少し良くなりました。」
「過労です。働きすぎですね。」
点滴の液が無くなり、針を抜かれ名前は起き上がった。
「薬を処方します。明日は一日休んで下さいね。」
「ありがとうございました。」
救護詰所を出た名前は外で待っていた一角の姿を見て、いたたまれない気持ちになった。
「少し顔色が良くなったな。」
「…わざわざ待ってたの?」
「まぁな、ほらよ。」
一角は羽織を広げ、名前に着せた。
「稀千代に言っといたぜ。」
「…ありがとう。」
一角は名前の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。
「俺ん家で休んでけよ。飯、作ってやるから。」
「なんか気持ち悪い。余計に疲れるからやめておく。」
一角といると無駄に疲れるのだ。
有難迷惑だと思っていると、一角はいつもより穏やかな口調で呟いた。
「うるせぇ、面倒見てやるって言ってんだ。黙ってついて来い。」
「……。」
自分の為に救護詰所に運び、待っててくれた一角の気持ちに気付かない名前ではなかった。
その優しさがむず痒く、変に温かくて素直になれずにいた。
(…せっかくの気持ちを無駄にするのは失礼よね…。)
名前は黙って一角の後を歩いた。
*
一角の住まいに到着すると、既に寝床の準備は出来ていた。
「腹減ったろ。粥がいいか?うどんか?」
「うどん食べたい。」
「分かった。」
一角は調理している間に湯を沸かして給湯器に詰め、それを机に置いた。
茶葉と急須と湯呑みも置いてあり、いつでも温かいお茶が飲めるように準備してくれた。
ガチャガチャと調理する物音を聞きながら、名前は胸が熱くなる気がした。
(熱い…また熱が上がってきたの…?)
一角に借りた寝間着に羽織りを着て、名前は布団に横になった。
ほぼ使われていない清潔な布団の匂い。
ひんやりする布団に顔を押し付けると心地よかった。
「出来たぜ。」
一角は鍋敷きの上に土鍋を置き、汁椀にうどんをよそった。
「わぁ…いい匂い。」
白出汁のいい香りが蒸気と共に部屋に広がる。鍋にはうどん、卵、ネギ、油揚げが入っていた。
名前はその間に湯呑みに茶を注ぐ。
一角も自身の分を取り分け、二人は手を合わせた。
「いただきます。」
名前はうどんの出汁を飲み、ほっと息をつく。
「あぁ…美味しい…。」
名前はほころぶ表情で、箸を休めることなくうどんを啜る。
心の底から出た声に一角は嬉しく思った。
「そりゃ良かった。」
至って簡素な味付けだが、どうしてこんなに美味しいのだろう。
食堂で食べる定食は様々な材料が使われていて毎日飽きのこない料理だが、今食べているうどんには敵わない。
「幸せ。」
「ははっ!まるで、め…。」
一角は口走りそうになった言葉を慌てて引っ込めた。
名前は言葉の続きが気になった。
「まるで…何?」
"夫婦みたいだ"きっと、この言葉を言ってしまえば、彼女の事を意識してしまう。
名前も「帰る」と言い出しかねないので、その言葉は胸の奥に閉まった。
「あぁ?水を得た魚みたいだなと思っただけだ。」
「……そう?」
なんだか釈然としない一角の答えに首を傾げながら、名前は茶を啜った。
*
「お腹膨れた…。」
薬を飲み終え、満腹になった名前は暑さから羽織を脱いだ。
まだ体は熱を発し、頭もぼんやりするが一晩ゆっくり寝れば治りそうだ。
明日は非番なので、時間を気にする必要もない。
一角は食器を片付け、シャワーを浴びに行った。
一人残された名前は窓の外を眺める。
(会議の後、報告もせずに帰ってしまったから、嫌味を言われるんだろうな…。)
名前は上司の事を想い浮かべたが、今考えると気が滅入るので、頭の外に追いやった。
ふと思ったが、一角は明日仕事なのではないだろうか?
「まだ寝てなかったのかよ?」
シャワーから出た一角は寝間着姿で上半身、はだけた状態で名前を見下ろす。
「明日仕事は?」
「あぁ、出勤だぜ。」
「そっか…。」
「あん?俺がいなくて寂しいのか?」
「っば、馬鹿な事言わないで!!そんな訳ないでしょ?」
一角は笑いながらひょうたんに詰めた酒を呑んだ。
「俺がいない間、大人しく留守番しとけよ。」
「……ん。」
仕事という事は、朝起きたら彼はいないという事だ。そうしたら、気兼ねなくゆっくり休める。
今回は彼の心遣いに、大人しく甘えていよう。
「ありがとう…その、おやすみ。」
「あぁ、おやすみ。」
一角は隣の寝室に入って行った。
名前も障子を閉めて灯りを消した。
布団に入り、目を閉じる。
隣から小さく物音が聞こえる。
(何をしているんだろう?)
規則的な金属の音から、刀でも研いでいるのだろうか?
そう思いながら名前は眠りについた。
***
翌朝。
名前が目を覚ましたころ、外はすっかり明るくなっていた。
時計を見ると既に勤務が始まる時間だ。
一角の家だという事を思い出し、再び目を閉じる。
(熱は下がってきてる。厠へ行こう…。)
名前は羽織を着てゆっくり立ち上がった。
眩暈はしないが、まだ体はだるい。
厠を済ませた名前は、台所の流し台にメモ書きが置いてある事に気付いた。
『起きたら、おむすび食べろよ。鰹節を削っておいたから汁かけにしてもいい。』
おひつのふたを開けるとおむすびが二つ。
削り器も横に置いてあった。昨夜の物音は鰹節を削る音だったのだ。
名前は瞼が熱くなってきた。
(やだ…私、なんで涙なんか…。)
今度は涙で視界が歪む。
悲しい訳じゃないのに、何故涙が溢れてくるのだろうか?
一角の一方的な看病に迷惑だと思っていた名前だったが、何物でもない彼の優しさなのだと気付き、名前は感情があふれ出した。
怪我をしても、体調を崩しても自身を気に掛けてくれるのは一角ただ一人だった。
(好きになっちゃうじゃない、バカ……。)
彼が作ってくれたうどんが美味しいと思ったのも、体調を崩しているのに幸せだと感じたのも、一角が名前に尽くしてくれるからだ。
(もし…彼と暮らすと…。)
今の様に仕事をしながら、家事を分担して暮らしていく事になる。
今まで考えた事もない妄想に駆られ、名前は動悸を覚えた。
胸が苦しい。
これは風邪のせいでないと理解していた。
いつか小説で読んだ『人を好きになると発症する病』なのだ。
(違う違う、私は今体調が悪いのよ…平常時とは違う。)
媚薬が効いている時、人は暗示に掛かりやすい事を思い出した。
それは隠密機動の講義で学んだ。
今は体調不良と言う媚薬なのだと、名前は思い込むことにした。
そう思わなければ名前の動悸は激しさを増すばかりになる。
取り敢えず落ち着こう。
(先ずは食べて、薬を飲もう。それから寝れば治るに違いない。)
名前はおひつと削り器を持って部屋に戻った。
お茶を注ぎ、ゆっくり口に含んで飲み込んだ。
すこし動悸は収まったようだ。
そしておむすびを手に取り、一口かじった。
(……っ!!)
程よい塩味にご飯の甘み、海苔の旨味。
やっぱり美味しい。
「何でこんなに美味しいの?」
名前は一人声を上げた。
おむすびなんて今まで数えきれない程食べているのに、格別に美味しく感じる。
考えられる理由は一つだ。
(一角が、私の為に握ってくれたおむすび…。)
心拍が上がり、体が震えた。
違う、これは恋心なんかじゃない、私は決して彼が好きなんじゃ…。
一つ目のおむすびを食べ終え、削り器を手に取る。
開けると鰹節のいい香りがした。
彼のメモ書き通り、汁椀におむすびを入れ、削り節とお湯を掛けて食べてみた。
(あぁ…美味しい。)
なんとも優しい味。
こんな美味しい料理が作れるなんて、初めて知った。
(私も…いつまでも彼の世話になって訳にはいかない…。)
食事を終えた名前は処方された薬を飲み、立ち上がった。
***
「帰ったぜ〜。」
勤務が終わり、直ぐに隊舎を出た一角。途中、彼女の好きな魚を買って帰宅した。
「ん?」
家の中は煮物の匂いが漂っていた。名前が作ったようだ。
「おかえり。」
「すっかり良くなったみたいだな。」
血色のいい名前の顔を見た一角は口元を引き上げた。
「なーに作ったんだ?」
「煮物と卵焼き。掃除もやったのよ。」
「あ?大人しくしてろって言ったろ。」
「一日中寝ているなんて、拷問に等しいわ。」
「…ったく。」
一角は死魄装を脱ぎ、寝巻きに着替えた。
確かに、彼女が言った通り綺麗に床は掃かれ、ゴミはまとめられ、厠も綺麗になっていた。
「おいおい、いつからお前は俺の女房になったんだ?」
冗談で言ったつもりだったが、名前は耳を赤くして何も返答しなかった。
「まだ万全じゃないんだろ?」
「大丈夫、薬のおかげで体は治ったから…。」
「なら、いいけどよ。そういや、魚買ってきたんだぜ。」
「本当!?」
「あまご、お前好きだろ?」
名前は笑顔で頷いた。
「じゃあ塩焼きにして食べるか。」
「うん!」
*
料理が並び、二人は盃を合わせた。
「いただきます!」
名前は病み上がりなので酒は最初の一口だけ呑んだ。
一角は上機嫌で彼女の作った料理を口に入れた。
「鶏肉なんてなかったろ。外出たのか?」
「ちょっとだけ。」
「あぁん?…ったく、やっぱり監視がいないとダメだな。」
「子どもじゃないんだから、自分で体調管理できる。」
「現に今、体調崩してんだろ。」
他愛の無い会話をしながら、二人で食べる食事はとても美味しい。
居酒屋も二人だと美味しいが、手料理は更に旨く感じる。
「今晩も泊まってけよ。」
一角は提案したが、きっと彼女は「帰る」って言うだろう。
それに、それを認めればまた違った問題が出てくる。
「うん…泊まってく。」
「ま、マジかよ…!」
一角は驚いて名前を見つめた。
名前が冗談を言うような奴ではない事は、一角がよく分かっている。
未婚の男女が同じ屋根の下で寝る事の意味を知らない歳でもないだろう。
看病と意味が違うのだ。
名前は俯いて魚をほぐしている。妙な空気になり、一角は酒を煽った。
「しばらく、泊まってもいい?」
名前の予想外の提案に一角は酒を噴き出した。
彼が噴き出した酒が卓上の料理に降りかかる。
「ちょっと、汚い…。」
「ゲッホ…お前、本気で言ってんのか!?」
「本気だよ…で、良いの?駄目なの?どっち?」
名前は時に大胆な言動をする。
それに振り回される事もあったが、一角は決して嫌な気はしなかった。
「お、おう…いいけどよ。」
「じゃあ、宜しく。」
(名前一体どうしたんだよ…!?)
名前の様子がおかしい。
一人の方が気楽だと言っていた彼女が、俺と屋根を共にする日が来るなど考えられなかった。
一角は気を逸らす為に違う話題を振った。
彼の他愛のない話を聞きながら、名前は考えていた。
(これが…本当に恋じゃない事を確かめないと…。)
体調が万全になり、正常な判断が下せる時に胸の動悸が起きるか確認しなければならない。
相変わらず彼と共にいると体温が上がる気がするし、時たま動悸もする。
相手は他でもない一角だ。
五月蠅くて暑苦しくて、自身の邪魔ばかりしてきた男だ。
そんな男に恋心など抱く筈がない。認めたくなかった。
なのに…何故この胸の奥が痛むのだろう?
(恋なんか…していない。)
【疲れた日は】...end.
「苗字!!!演習用の火薬は持ってきたか!?」
「こちらに。」
重たい雲が覆う空の下、刑軍の実践演習は行われていた。
そこは瀞霊廷内のある一角で、よく軍事演習が行われる。
夜には雨が降るだろうと予想していたため、項目を変更して演習は行われていた。
「一撃目!発射!!」
ドカンっと耳をつんざく爆発音と共に、砂埃が大きく舞い上がる。
「来るぞ!!」
仲間の隊員の声とともに、砂埃を裂く風が陣地に侵入した。
キィンっと刃同士が交わる音が響く。仲間が敵と相対したようだ。
名前は敵の殺気を感じ取り、身を翻した。すると敵は一瞬彼女を見失ったようだ。その隙を見逃さなかった名前は敵の腹めがけて強烈な一撃を撃った。
「ぐはぁっ…!!!」
敵は地面に倒れ気を失ったようだ。名前はすぐに次の敵を探す。
仲間が敵陣に向かっていく気配を感じ、一緒に走り出した。
*
「今日の演習はこれまで培ってきた技術と努力を試すものだ。己に何が足りないか、踏まえた上で今後の演習に取り組むように!」
軍団長である砕蜂の話が終わり、隊員たちは撤収の準備で動き出す。
名前は席官として武器の片付けに立ち会った。
「いつものように、火薬の移動が最優先だ。その後、準備ができた班から移動開始。」
隊員の動きを見ながら的確に指示を出す名前。
今にも雨が降り出しそうな空。一刻も早く武器を片付けたい所だ。
「火薬、移動します!」
「梱包確認。」
名前は六人の隊員が持つ火薬が入った箱を手早く、入念に確認した。
「確認完了、許可する。落ち着いて運ぶように。」
火薬と言う事だけあり、その使用は慎重に取り扱わなければならない。
雨の日でも使わなければならない場面も当然出てくる。
こういった練習は実践あるのみだ。
「大砲移動準備できました!」
名前は大砲三機を他の席官と確認していく。
そうしている間に、ポツポツと空からは雨粒が落ちてきた。
「確認完了、皆で運ぶぞ!」
隊員はそれぞれの大砲を運び出していく。名前も一番最後の大砲と共に移動を手伝った。
ザアアァァア…
一刻後には本降りに変わり、隊舎に着く頃には隊員達はびしょ濡れになっていた。
「ご苦労だったな。早く着替えて食事を摂るといい。」
砕蜂に報告を終えた名前は真っ先にシャワー室へ向かった。
他の隊員達は既に着替え終わり、夕食に向かっている為、比較的空いていた。
(今日はここで夕食を食べるか…。)
普段は寝泊まりで借りている部屋で自炊している名前だったが、帰ってから食事を作るのが億劫だと感じ、食堂で食べる事にした。
そんな事を考えながら、温かい湯を浴び、冷えた体を温めた。
*
人影が少なくなってきた食堂。
名前が食事を摂っていると、隠密機動警ら隊の隊員が名前に声を掛けた。
二番隊は隠密機動の総合機関が併設されているので、食堂は隠密機動の出入りもする。
「苗字班長…。」
「どうした?」
「夜勤の者が二人体調不良になり、急遽代理が必要になりました。」
「そうか…代理は一人で大丈夫か?」
「はい。」
名前は少し考え、自身が代理に入る事にした。後で執務室へ寄り、明日の勤務を午後からに調節すれば良い。
「私が代理で入る。食事を終えたら向かおう。」
「了解しました。」
警ら隊の隊員は食堂を後にした。
名前も手早く食事を済ませた。
*
隠密機動に所属していると不規則な勤務形態になる。
承知の上で働いているが、過労で体調を崩す者も多い。
しかし高い給料を得る事が出来るので、決して待遇は悪くない。
別段、貯金する理由もないが…。
「班長、急なお願いで申し訳ありません。」
「こういう時もある。お互い様だ。」
「ありがとうございます。」
部下の尻を持つのは上官としての務め。
それは元居た十一番隊で学んだ事だった。
「雨が降っている。合羽の準備はいいか?」
「大丈夫です。」
雨の日の巡回は視界も悪く、濡れないように合羽羽織を着て笠を被って行う。
名前もそれを着て準備は完璧だ。
「さぁ、定刻だ。出発!」
『了解!』
名前と警ら隊の隊員は各担当地域に向かって走り出した。
雨の中を小走りで走るが、時折滑りそうになる。
更に昼の通常勤務と実践演習の疲れもあり、時折眩暈を感じた。
(いけない…しっかりしなきゃ。)
「いつ何時、敵の襲撃に遭うか分からない。常に万全でなければならない」と砕蜂隊長はいつも隊員達に唱えている。
(一徹くらい、どうってことない。)
名前は鞭を打って体を動かした。
***
翌日、午後。雨は止んでいたが、いつ降ってもおかしくない空模様だ。
名前は通常勤務に努めていた。
睡眠は午前中に摂れていたが、連日続く激務で疲労を回復できずにいた。
「苗字、四番隊で滋養強壮剤を打った方がいいぞ。」
そう言ったのは副隊長の大前田稀千代。
顔色の悪い名前を見て、思わず苦言した。
「勤務後、四番隊に寄りたいと思います。」
「今日は早退していいぞ。」
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます。」
*
鍛錬中、普段ならミスなど犯さない名前だったが、今日は幾度かやり直す事柄が起きた。
小さなミスだったのでその場で済んだが、一歩間違えば怪我をする。
「あと一刻…。」
時計を見ながら、名前は頬を両手で叩いた。
今は瀞霊廷で上がっている問題と対策の討論中。十三隊の席官が集まる会議だ。
期間までに隊の意見をまとめ、議会で回答しなければならない。
これが中々定刻通りに進まない。
幾つかの議題に対してすんなり決まる時があれば、隊で意見が食い違うと次回の会議に持ち越しになる時がある。
「では、前回に引き続き雑費の明確化について話し合います。」
議長である七番隊、伊勢七緒が取り仕切る中各隊が意見を述べていく。
「二番隊は明確に記録を残しています。更に来客時に計上された費用の詳細は、日別に残しています。」
「そうですね。二番隊はこの資料にある通り、しっかり明確になっていますが…
問題はこの金額です!十一番隊と十二番隊同様、どうやったら他の隊と比べて一桁ズレてくるんですか!?」
七緒の追及に、名前は冷静に意見を述べた。
「我が隊は隠密機動併設で客人が多い故に、常に最高のおもてなしをするよう努めています。
あちらの隊の方々と同じにしないで頂きたい。」
名前の言葉を聞いた阿近が眉を吊り上げた。
「あ?聞き捨てならねぇなぁ。こっちだって技術開発局を併設してるんだ。誰が隠密武器を開発してると思っている?
十一番隊こそ金の無駄遣いが多いだろうが。」
十二番隊の非が十一番隊の斑目一角に向けられた。
首の後ろを指で掻きながら、机を叩いた。
「隊員の士気を高めるために必要な酒をウチは買ってる。鍛錬中に壊れた備品や修繕も必要、俺たちに無駄はねぇ!」
「それを雑費で計上しているのが間違いです!食費と修繕費を雑費にしないで下さい!」
七緒が火を噴き、他隊の席官が苦笑する。
「めんどくせぇなぁ。」
一角は欠伸をしながら二番隊の名前を見た。
彼女は視線が下がり、遠くを見ている。
疲れ切った表情だ。
(……。)
「十一番隊は経費の再計算を。二番隊、十二番隊は次回までに計上の多い項目を書き出して下さい。いいですね!では次の議題に入ります。」
*
会議が終わり、時刻は名前が帰る時間になっていた。
(さっさと隊舎に戻って早退しよう。)
名前はぼんやりしながら廊下を歩いていると、誰かに背中をばんっと叩かれた。
「なぁに腑抜けたツラしてんだ?」
「一角…。」
名前はめんどくさい男に絡まれ、ため息を吐いた。その間も歩む足は止めない。
「何の用?」
「いつにも増してひでぇ顔してんじゃねぇか。寝不足か?」
「五月蠅い。一角には関係ない。まだ勤務中でしょ、早く戻って。」
十一番隊とは完全に方向が逆だが、一角は名前に付いて歩いてくる。
「俺はいいんだよ。」
「私はこれで帰る。用事があるから構ってる暇はないの。」
「へぇ…。」
(あぁ…もう何でこんな時に限ってこの男に捕まるのよ。)
なにかと名前の邪魔をする一角に苛立ちを感じた。
放っておいてほしいのに。
「じゃあ。」
建物の外に出た名前は今度こそ一角と別れを告げようと振り返った。
身長の高い一角を見上げると、名前は急に視界がぐらついた。
眩暈で平衡感覚を失い、倒れそうになる。
「おいっ。」
なんとか踏みとどまり、顔に手を当てて首を振る。
「なんともない。後で救護詰所に行くから大丈夫。」
「大丈夫じゃねーだろ。運んでってやろうか?」
「要らないってば。」
抵抗する名前に一角は彼女の首筋に手を当てた。
「すげぇ熱。ぐずぐず言ってねぇで、行くぞ!」
「はっ!?」
一角は名前を担ぎ、四番隊へ向かった。
「降ろして!先に二番隊に戻らないと。」
「体調が悪かったから先に救護詰所に寄ったって言えばいいだろ。」
「私の事なのに、勝手に決めて…!」
「いつもの事だろうが。」
名前は一角の袖を握りしめた。
彼と出会ってから、何かと強引に突っかかってくる。
他の隊員は名前に近付きもしないのに、一体何故?
彼に体を預けると急に体が重くなった気がした。
(あぁ、もう動けない。)
今まで無理をしていたのが祟ったようだ。
緊張の糸が緩み、体のだるさが名前を襲った。頭もぼーっとしてきた。
彼女が力を抜き、自分に体を預けた事に気が付いた一角は名前をしっかり抱いた。
会議が始まる前から彼女の異変に気が付いていた。
いつも気を張っている名前は隙だらけで、先程も背中を叩くまで彼女は一角の気配に気が付かなかった。
「お前の事だ、どうせ無茶したんだろ?」
「……。」
只でさえ厳しい二番隊で隠密機動にも所属している彼女は、きっと苦労が絶えないだろう。
更に忍耐強く、いつも我慢している名前は自身の体調すら見返らない。
傍で見ていて目が離せないのは昔と変わらないな、と一角は思った。
救護詰所に到着し、一角はそのまま建物の中に入った。
「急患だ、こいつを診てやってくれ。」
隊員たちは驚きの目で一角を見つめる。
「苗字さん?こちらに横にしてもらっていいですか?」
一人の女性隊員が一角に指示する。
一角は案内されたベッドに名前を横にした。
「頼んだぜ。」
「運んで頂き、ありがとうございます。後はお任せを。」
名前は何も言えないようだったが、一角に視線を送った。
一角は口元を引き上げ「さっさと治せよ」と言って部屋を出て行った。
*
「報告ご苦労だったな。」
名前が救護詰所に運ばれた事を聞いた大前田稀千代は一角に礼を言った。
「んじゃ、そういう事なんで。」
要件を伝えた一角は十一番隊舎に帰ろうと踵を返したが、稀千代に引き留められた。
「斑目。お前たち、付き合ってんのか?」
「……。」
稀千代の詮索に、一角はどう返そうか考えた。
人付き合いの薄い名前と共にいる事を考えたら、周りからそう思われても仕方のないが、二人は交際などしていない。
一角が一方的に彼女を気にしているのだが、名前はそれを快くは思ってはいない筈だ。
「アイツは怒るだろうが、妹みたいに思ってるんで。」
「ほぅ…なら、大事にしないとな。」
妹のいる稀千代はその気持ちをよく理解していたが、果たしてこの男が名前に向ける気持ちはそれと同じなのだろうか?
稀千代は意味深な視線で一角を見るが、これ以上の詮索はしなかった。
一角の背中を見ながら、稀千代は息を吐いた。
(妹ねぇ…。)
*
「具合はどうですか?」
目を覚ました名前は女隊員に話し掛けられた。
数時間眠っていたようだ。窓の外はすっかり暗くなっている。
点滴を入れられ、先ほどより体が楽になった気がする。
「少し良くなりました。」
「過労です。働きすぎですね。」
点滴の液が無くなり、針を抜かれ名前は起き上がった。
「薬を処方します。明日は一日休んで下さいね。」
「ありがとうございました。」
救護詰所を出た名前は外で待っていた一角の姿を見て、いたたまれない気持ちになった。
「少し顔色が良くなったな。」
「…わざわざ待ってたの?」
「まぁな、ほらよ。」
一角は羽織を広げ、名前に着せた。
「稀千代に言っといたぜ。」
「…ありがとう。」
一角は名前の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。
「俺ん家で休んでけよ。飯、作ってやるから。」
「なんか気持ち悪い。余計に疲れるからやめておく。」
一角といると無駄に疲れるのだ。
有難迷惑だと思っていると、一角はいつもより穏やかな口調で呟いた。
「うるせぇ、面倒見てやるって言ってんだ。黙ってついて来い。」
「……。」
自分の為に救護詰所に運び、待っててくれた一角の気持ちに気付かない名前ではなかった。
その優しさがむず痒く、変に温かくて素直になれずにいた。
(…せっかくの気持ちを無駄にするのは失礼よね…。)
名前は黙って一角の後を歩いた。
*
一角の住まいに到着すると、既に寝床の準備は出来ていた。
「腹減ったろ。粥がいいか?うどんか?」
「うどん食べたい。」
「分かった。」
一角は調理している間に湯を沸かして給湯器に詰め、それを机に置いた。
茶葉と急須と湯呑みも置いてあり、いつでも温かいお茶が飲めるように準備してくれた。
ガチャガチャと調理する物音を聞きながら、名前は胸が熱くなる気がした。
(熱い…また熱が上がってきたの…?)
一角に借りた寝間着に羽織りを着て、名前は布団に横になった。
ほぼ使われていない清潔な布団の匂い。
ひんやりする布団に顔を押し付けると心地よかった。
「出来たぜ。」
一角は鍋敷きの上に土鍋を置き、汁椀にうどんをよそった。
「わぁ…いい匂い。」
白出汁のいい香りが蒸気と共に部屋に広がる。鍋にはうどん、卵、ネギ、油揚げが入っていた。
名前はその間に湯呑みに茶を注ぐ。
一角も自身の分を取り分け、二人は手を合わせた。
「いただきます。」
名前はうどんの出汁を飲み、ほっと息をつく。
「あぁ…美味しい…。」
名前はほころぶ表情で、箸を休めることなくうどんを啜る。
心の底から出た声に一角は嬉しく思った。
「そりゃ良かった。」
至って簡素な味付けだが、どうしてこんなに美味しいのだろう。
食堂で食べる定食は様々な材料が使われていて毎日飽きのこない料理だが、今食べているうどんには敵わない。
「幸せ。」
「ははっ!まるで、め…。」
一角は口走りそうになった言葉を慌てて引っ込めた。
名前は言葉の続きが気になった。
「まるで…何?」
"夫婦みたいだ"きっと、この言葉を言ってしまえば、彼女の事を意識してしまう。
名前も「帰る」と言い出しかねないので、その言葉は胸の奥に閉まった。
「あぁ?水を得た魚みたいだなと思っただけだ。」
「……そう?」
なんだか釈然としない一角の答えに首を傾げながら、名前は茶を啜った。
*
「お腹膨れた…。」
薬を飲み終え、満腹になった名前は暑さから羽織を脱いだ。
まだ体は熱を発し、頭もぼんやりするが一晩ゆっくり寝れば治りそうだ。
明日は非番なので、時間を気にする必要もない。
一角は食器を片付け、シャワーを浴びに行った。
一人残された名前は窓の外を眺める。
(会議の後、報告もせずに帰ってしまったから、嫌味を言われるんだろうな…。)
名前は上司の事を想い浮かべたが、今考えると気が滅入るので、頭の外に追いやった。
ふと思ったが、一角は明日仕事なのではないだろうか?
「まだ寝てなかったのかよ?」
シャワーから出た一角は寝間着姿で上半身、はだけた状態で名前を見下ろす。
「明日仕事は?」
「あぁ、出勤だぜ。」
「そっか…。」
「あん?俺がいなくて寂しいのか?」
「っば、馬鹿な事言わないで!!そんな訳ないでしょ?」
一角は笑いながらひょうたんに詰めた酒を呑んだ。
「俺がいない間、大人しく留守番しとけよ。」
「……ん。」
仕事という事は、朝起きたら彼はいないという事だ。そうしたら、気兼ねなくゆっくり休める。
今回は彼の心遣いに、大人しく甘えていよう。
「ありがとう…その、おやすみ。」
「あぁ、おやすみ。」
一角は隣の寝室に入って行った。
名前も障子を閉めて灯りを消した。
布団に入り、目を閉じる。
隣から小さく物音が聞こえる。
(何をしているんだろう?)
規則的な金属の音から、刀でも研いでいるのだろうか?
そう思いながら名前は眠りについた。
***
翌朝。
名前が目を覚ましたころ、外はすっかり明るくなっていた。
時計を見ると既に勤務が始まる時間だ。
一角の家だという事を思い出し、再び目を閉じる。
(熱は下がってきてる。厠へ行こう…。)
名前は羽織を着てゆっくり立ち上がった。
眩暈はしないが、まだ体はだるい。
厠を済ませた名前は、台所の流し台にメモ書きが置いてある事に気付いた。
『起きたら、おむすび食べろよ。鰹節を削っておいたから汁かけにしてもいい。』
おひつのふたを開けるとおむすびが二つ。
削り器も横に置いてあった。昨夜の物音は鰹節を削る音だったのだ。
名前は瞼が熱くなってきた。
(やだ…私、なんで涙なんか…。)
今度は涙で視界が歪む。
悲しい訳じゃないのに、何故涙が溢れてくるのだろうか?
一角の一方的な看病に迷惑だと思っていた名前だったが、何物でもない彼の優しさなのだと気付き、名前は感情があふれ出した。
怪我をしても、体調を崩しても自身を気に掛けてくれるのは一角ただ一人だった。
(好きになっちゃうじゃない、バカ……。)
彼が作ってくれたうどんが美味しいと思ったのも、体調を崩しているのに幸せだと感じたのも、一角が名前に尽くしてくれるからだ。
(もし…彼と暮らすと…。)
今の様に仕事をしながら、家事を分担して暮らしていく事になる。
今まで考えた事もない妄想に駆られ、名前は動悸を覚えた。
胸が苦しい。
これは風邪のせいでないと理解していた。
いつか小説で読んだ『人を好きになると発症する病』なのだ。
(違う違う、私は今体調が悪いのよ…平常時とは違う。)
媚薬が効いている時、人は暗示に掛かりやすい事を思い出した。
それは隠密機動の講義で学んだ。
今は体調不良と言う媚薬なのだと、名前は思い込むことにした。
そう思わなければ名前の動悸は激しさを増すばかりになる。
取り敢えず落ち着こう。
(先ずは食べて、薬を飲もう。それから寝れば治るに違いない。)
名前はおひつと削り器を持って部屋に戻った。
お茶を注ぎ、ゆっくり口に含んで飲み込んだ。
すこし動悸は収まったようだ。
そしておむすびを手に取り、一口かじった。
(……っ!!)
程よい塩味にご飯の甘み、海苔の旨味。
やっぱり美味しい。
「何でこんなに美味しいの?」
名前は一人声を上げた。
おむすびなんて今まで数えきれない程食べているのに、格別に美味しく感じる。
考えられる理由は一つだ。
(一角が、私の為に握ってくれたおむすび…。)
心拍が上がり、体が震えた。
違う、これは恋心なんかじゃない、私は決して彼が好きなんじゃ…。
一つ目のおむすびを食べ終え、削り器を手に取る。
開けると鰹節のいい香りがした。
彼のメモ書き通り、汁椀におむすびを入れ、削り節とお湯を掛けて食べてみた。
(あぁ…美味しい。)
なんとも優しい味。
こんな美味しい料理が作れるなんて、初めて知った。
(私も…いつまでも彼の世話になって訳にはいかない…。)
食事を終えた名前は処方された薬を飲み、立ち上がった。
***
「帰ったぜ〜。」
勤務が終わり、直ぐに隊舎を出た一角。途中、彼女の好きな魚を買って帰宅した。
「ん?」
家の中は煮物の匂いが漂っていた。名前が作ったようだ。
「おかえり。」
「すっかり良くなったみたいだな。」
血色のいい名前の顔を見た一角は口元を引き上げた。
「なーに作ったんだ?」
「煮物と卵焼き。掃除もやったのよ。」
「あ?大人しくしてろって言ったろ。」
「一日中寝ているなんて、拷問に等しいわ。」
「…ったく。」
一角は死魄装を脱ぎ、寝巻きに着替えた。
確かに、彼女が言った通り綺麗に床は掃かれ、ゴミはまとめられ、厠も綺麗になっていた。
「おいおい、いつからお前は俺の女房になったんだ?」
冗談で言ったつもりだったが、名前は耳を赤くして何も返答しなかった。
「まだ万全じゃないんだろ?」
「大丈夫、薬のおかげで体は治ったから…。」
「なら、いいけどよ。そういや、魚買ってきたんだぜ。」
「本当!?」
「あまご、お前好きだろ?」
名前は笑顔で頷いた。
「じゃあ塩焼きにして食べるか。」
「うん!」
*
料理が並び、二人は盃を合わせた。
「いただきます!」
名前は病み上がりなので酒は最初の一口だけ呑んだ。
一角は上機嫌で彼女の作った料理を口に入れた。
「鶏肉なんてなかったろ。外出たのか?」
「ちょっとだけ。」
「あぁん?…ったく、やっぱり監視がいないとダメだな。」
「子どもじゃないんだから、自分で体調管理できる。」
「現に今、体調崩してんだろ。」
他愛の無い会話をしながら、二人で食べる食事はとても美味しい。
居酒屋も二人だと美味しいが、手料理は更に旨く感じる。
「今晩も泊まってけよ。」
一角は提案したが、きっと彼女は「帰る」って言うだろう。
それに、それを認めればまた違った問題が出てくる。
「うん…泊まってく。」
「ま、マジかよ…!」
一角は驚いて名前を見つめた。
名前が冗談を言うような奴ではない事は、一角がよく分かっている。
未婚の男女が同じ屋根の下で寝る事の意味を知らない歳でもないだろう。
看病と意味が違うのだ。
名前は俯いて魚をほぐしている。妙な空気になり、一角は酒を煽った。
「しばらく、泊まってもいい?」
名前の予想外の提案に一角は酒を噴き出した。
彼が噴き出した酒が卓上の料理に降りかかる。
「ちょっと、汚い…。」
「ゲッホ…お前、本気で言ってんのか!?」
「本気だよ…で、良いの?駄目なの?どっち?」
名前は時に大胆な言動をする。
それに振り回される事もあったが、一角は決して嫌な気はしなかった。
「お、おう…いいけどよ。」
「じゃあ、宜しく。」
(名前一体どうしたんだよ…!?)
名前の様子がおかしい。
一人の方が気楽だと言っていた彼女が、俺と屋根を共にする日が来るなど考えられなかった。
一角は気を逸らす為に違う話題を振った。
彼の他愛のない話を聞きながら、名前は考えていた。
(これが…本当に恋じゃない事を確かめないと…。)
体調が万全になり、正常な判断が下せる時に胸の動悸が起きるか確認しなければならない。
相変わらず彼と共にいると体温が上がる気がするし、時たま動悸もする。
相手は他でもない一角だ。
五月蠅くて暑苦しくて、自身の邪魔ばかりしてきた男だ。
そんな男に恋心など抱く筈がない。認めたくなかった。
なのに…何故この胸の奥が痛むのだろう?
(恋なんか…していない。)
【疲れた日は】...end.