月光に毒される
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*
昼間の暑さがようやく和らいだ宵五ツ刻。東南から昇った月は明るく地を照らしている。
今日も仕事を終えた屋敷の者たちが宴会を開いていた。宴を抜け出した一角は女を捜した。あれから彼女とは一切顔を合わせていない。彼女の方から一角を避けているのだろう。丘に人影が見える。一角はそこへ向かって歩み始めた。
「……。」
女は湖面から見える景色と月を眺めている。そよそよとさわやかな風が草木を揺らす。蛙や虫たちの鳴き声が心地よい。
一角は一間空けて女の隣にあぐらをかいて座り、持ってきた酒を煽った。
眉をひそめる女に、一角はニマリと口元を引き上げた。
「呑むか?」
「要らない。」
女は即座に拒否した。彼女の事だ、きっと酒なんか吞んだことないのだろう。そもそも酒とは何か説明しないといけないだろうか?まぁいい、そのうち教えてやるさ。
「お前、生まれた時の事覚えているか?」
どうせ答えてくれないだろう、と一角は思った。だが予想に反し、女は間を置いてから口を開いた。
「…分からない。気が付いたら今の姿だった。」
「そうか。」
一角は酒を煽った。
「俺はよ、チンピラの寄せ集まりみてーな所で生まれて、その集団の中で移動しながら村を襲ったりしてたんだぜ。」
彼の言葉に相槌を打つわけでもなく、女は耳を傾けた。一角はそのまま話し続けた。
「そのうち、内輪で争いが増えて俺たちは分裂した。始めは何人かいたんだが、強え奴と戦ってるうちに俺は一人になった。んで、弓親(あいつ)と出会った。俺たちはいろんなやつと戦ってきた。負けはなかった……あの人と出会うまではな。」
女は初めて一角の顔を見た。この話に興味を持ったようだ。その様子を見て一角はふっと笑みを零した。ようやく食いついた。
「刀一本なのに恐ろしく強かった。幾ら斬っても倒れない。むしろどんどん強くなっていく。結局俺はやられちまってよ、こうして生き永らえてるのさ。」
「その人の名は決して忘れることはねぇ。」
「更木剣八。俺を初めて倒した男だ。」
「…そいつは今、どこにいるの?」
「あの人はきっと死神になっているはずだ。あそこには化け物のように強いやつがゴロゴロいるって聞いたぜ。」
「そう…。」
(今から言う事は…絶対ぇ怒るんだろうな…。)
しばらく考えていた事を、ついに彼女へ伝える。一角は長い沈黙を破った。
「…お前、名前ねぇんだろ。」
「……。」
女は黙っている。
「名前、俺が付けてやろうか?」
「は?」
女は目を見開き有り得ない、という表情で一角を睨み付ける。
「勝手な事を言うな!!」
「名前がねぇんだったら付けちまえばいいんだよ、な?」
「お前にそこまで決められる筋合いはない!」
「これから一緒に旅すんのに名前がないと不便だろ。」
「私は行くとは言っていない!」
「なら、さっさと否定すりゃあ良いだろ?何勿体ぶってんだよ。」
「……。」
「それに、名前が無いんだったら自分で勝手に名乗ってりゃ良かったんだ。でもお前はそれをしなかったんだろ?」
「名など無くていい!」
「それ、本心か?」
「……っ!!?」
一角は彼女が動揺していることが手に取るように分かった。今までヒトと関わりのない生活で名前など不要だと思っていたようだが、今の彼女には名前が必要だ。
「ずーっと考えていたんだぜ?お前の名前。」
一角は女と刃を交えてから、彼女に見合った名前を考えていた。周囲に女子がいなかった為、大丸組合にいる女子の名前を一人ずつ確認した。
人に命名する事など初めてだった一角は、自分なりに良い名前を考えたつもりだったが、彼女自身はどうだろうか? 音の良い、一角が近くにいてほしいと願う名前だ。
「名前、お前は名前だ。」
「名前……。」
女は顔を伏せて唇を噛んだ。肩を震わせているのは、それが怒りなのか嬉しさなのか本人しか分からない。ただ耳まで赤くなっている所を見ると、何か感情を抱いたみたいだ。
「明日からそう呼ばせてもらうぜ、名前!」
彼女がどう思ったかは分からない。しかし一角はこれから彼女をこの名で呼ぼうと決心している。女は一角に顔を見せることなく瞬歩で屋敷に戻って行った。
*
「で、彼女はなんて言ってたの?」
屋敷に戻ると弓親が一角に詰め寄った。
「何が?」
「は?旅について来るのか聞いたんじゃないの?」
「あ、そういやそうだったな。忘れてた。」
弓親はやれやれと肩をすくめた。
「じゃあ何話してたの?」
「あいつに名前がないと何かと不便だから、俺が付けてやったのさ。」
「…っぶ!?本当に??ていうかあの子、絶対怒ったでしょ。」
予測もしなかった出来事に弓親は噴き出した。ただの暇つぶしにしては相当お節介だ。
「まーな。でも、俺にしちゃいい名前付けたと思うぜ?」
「なんて名前付けたのさ?」
「名前。」
「名前?…割とまともな名前だね。」
「そりゃ、大丸組合の給仕たちから名前を聞いて考えたからな!」
「何でそこまで熱心になるの?」
弓親はそこが一番引っかかっていた。今まで様々な女に出会ってきた。
上玉から不細工まで、時には一角に言い寄って来る女もいた。
しかしそれには目もくれなかった男が、何故彼女に拘るのだろう?
「その方がおもしれーだろ?」
「………。」
弓親は言葉も出なかった。一角の考えは読めない。しかし彼の行動は弓親を退屈させずにいた。これだから面白い。
「明日は買い出しに行くぜ。ここみたいに食いもんが簡単に手に入らねーからな。」
一角は満足げに湯浴みに向かった。
*
名前…と名付けられた女は個室のシャワー室にいた。初めてこの場所で温かい湯で全身を洗ってから、数日が経つ。大丸組合には男女共に大浴場が備え付けられていたが、赤の他人と肌の付き合いはしたくなかった。
「はぁ…はぁ……くそっ…!!!」
浴室の壁を叩いた名前はその場に崩れ落ちた。
(訳が分からない…!)
数十年の習慣がたった数日で目まぐるしく変わっていく。名前は新しい生活を頭で理解するのに必死だった。初めて口にする飲食物や衣類。更には食器や道具を使った慣れない作業に疲弊し、軽いパニック状態に陥っていた。名前がこれほどまでに苦労しているのは、全てあの男のせいなのだ。
「名前まで勝手に……。」
名前に戦いを挑み、負傷した彼女を治療し、更には名前まで与えた。本人の意思をまるで無視した行動に、腹の底から怒りの感情が湧いた。いつか必ずこの仇を返してやる、と名前は誓った。しばらく座り込んでいた名前だったが、着物を脱いで蛇口をひねって湯を頭から浴びた。
「……。」
しかし、温かい湯で体を洗う事を知った名前は認めたくなかったが、感動した。汚れも落ちやすく、洗い終えると心身共にとてもスッキリしているのだ。
(……人々はこんなに快適な場所で暮らしていたのだな…。)
これまで暑さや寒さに苦しめられてきた彼女にとっては近代的で過ごしやすい環境は決して嫌なものではなかった。そしてあの男の言葉が蘇る。
『どーせ、また一人になるんなら、俺たちと色んな景色見た方が楽しいと思うぜ?』
あれからいくら攻撃を仕掛けようとしても全て見抜かれてしまう。今のままではあいつを倒すことが出来ない。どうしたらいいのか?名前はずっとそれだけを考えていた。あの男を倒すにはもう少し時間が掛かる。
(共に行動していれば、隙をついて倒すことができるかもしれない。)
「……。」
名前は少しだけ口元を引き上げた。
*
翌日。相変わらず名前はそっぽを向き一角たちとは顔を合わせようとしない。それでも構わず一角は彼女をわざわざ連れていく。
(ほら、言ってる傍から…。)
「何故、私が付き合わなければならない!」
「名前が知らねー面白いこと教えてやるから、ついて来いよ。」
「勝手にその名で呼ぶな!」
名前は一角を殴ろうとしたが、簡単に腕を掴まれた。ギリギリと歯を食いしばって一角の腕を振り切ろうとするがそれも敵わない。
「離せ、勝手に私の事をお前が決めるな!何故私に構うのだ!!」
「何だって良いだろ、ほら行くぞ。」
一角は怒る名前をずるずると引きずるように大丸組合の門を出た。
(本当に駄々をこねる子供みたいだな…。)
弓親は一角の言葉を思い出して苦笑した。
*
旅の買い出しに来た三人は市場に来ていた。
「弓親、こいつと一緒に調味料を買ってきてくれ。俺は他の物を仕入れてくる。」
「え、僕が!?」
この子の面倒見なきゃいけないの?と驚く弓親。
「名前、初めに言っておくが弓親は強ぇぞ。無闇に怒らせるなよ。」
一角はそれだけ言うと「頼んだぜ!」と手を挙げると別の方向へ歩き出した。
(一角、キミのわがままに付き合うとは言ったけど、快く承諾したわけじゃないからね???)
怒りに震える弓親だったが、とりあえず気持ちを切り替え名前に向き直った。
「キミ、とりあえず何も言わず僕に付いてきてよね。」
名前は何も言わなかったが、弓親の後ろを歩き始めた。
(この子、一体何を考えてるのか分かんない。)
様々な女性に会ってきたが、その中でも彼女は変わっていた。寡黙と言えばそうだが、何を考えているのか分からない上に感情も読みにくい。一角と話している時は明らかに怒っているが。そんな事を考えながら、弓親は他の店より繋盛している商店に足を踏み入れた。
「こんにちは。何をお求めで?」
店に入ると屈強そうな護衛が店の隅で、二人を見つめた。この辺りは荒らしや盗みが頻発している為、店側が独自に警備を強化している。
「塩が三升に醤油三合、味噌が二合。」
弓親の注文を聞き、護衛は二人に詰め寄った。店員も顔が緊張している。
そんな店員の様子を気にすることなく、弓親は巾着から貨幣を取り出した。
「これでお願いするよ。」
貨幣を見た店員は「すぐ用意いたします」と店の奥に入っていった。
「……。」
弓親の手元をまじまじと見つめる名前。興味深そうに貨幣を見つめている。
「お金を見るのも初めてなの?」
「初めてではないが…。」
弓親はなるほどね…と名前の様子を見て納得した。一角が言う通り、人間社会で生きていくには無知すぎる。力を持っているなら腹が減る。食べ物を手に入れる為にはお金が必要だ。
「お待たせしました。」
「ありがとう。」
名前は弓親と店員のやり取りを見て、ただの鉄の塊と思っていた物が、食べ物や着るものに交換できると学んだ。
「さぁ、行くよ。」
店を出た二人がしばらく歩くと、付け狙うかのようにやさぐれた男たちが二人を囲んだ。
「そこのお二人さん、見ていたぜぇ。そんなに買い込んで宴でもするのかい?」
「ここに金と買い物袋を置いて行ったら、あんたら二人の命は助けてやる…まぁ、奴隷として売り飛ばすんだけどなぁ?!」
その男の合図と同時に他の男たちが二人目がけて襲い掛かってきた。弓親と名前は即座に瞬歩を使い、その場から離れた。
「ねぇキミ、雑魚の相手ぐらい一人できるよね?」
「倒していいの?」
「殺さないでね。」
名前は目にも止まらぬ速さで男たちを蹴散らした。一度の攻撃で二人が倒れ、他の男たちがどよめいた。
「おい!この女、指名手配の女だ!捕まえて報奨金かっさらうぞ!」
報奨金、という言葉に男たちの目つきが変わった。手を抜かず全力で攻撃を仕掛けてくる。
「うおらあぁっ!!」
大刀を振り回す男の攻撃をかわし、仲間の男たちを巻き添えにする。飛び道具をかわすと一人の男の顎目がけて蹴りを入れた。次々と男たちを倒していく様子を見て、弓親は「使えそうだね」と呟いた。
「このクソ女ー!!!!!」
叫ぶ男の懐に入り、後頭部から頸椎に打撃する。膝から崩れ落ちた男が最後でその場は鎮まった。短刀すら使わなかった名前は、物足りなさを感じながら弓親の元へ戻った。
「これでいいの?」
「あぁ、十分だ。」
それにしても、弓親は男たちの言葉が気になった。流魂街で指名手配の人相図なんてよっぽどの大罪を犯さなければ張り出されない。彼女は裏世界で恨みを買ってしまっているのだろうか?そうだとしたら、今後もこうして襲撃される事がありそうだ。一角と弓親も一部の者たちから恨みを買われており、時たま刺客が現れた。しかし一角の強さが裏社会にも広まり、近頃は恐れられて刺客も来なかった。そんな事を考えていると、名前が弓親に歩み寄った。
「少し寄りたい所がある。」
*
「揃ったか?」
「あぁ。」
大丸組合に戻った三人は、買い揃えた物を広げた。荷造りの準備だ。一角が揃えた油と薬を小さな瓶に入れ三人が持った。塩も均等な量に分けた。
時間があった時に作った肉と魚の干物もある。
「所で問題が発生した。」
「何だい?」
一角の神妙な面持ちに弓親は目を細めた。
「それが、大丸さんへの納金なんだが…足りねぇんだよな。」
「嘘でしょ?」
「俺も冗談だと言いたいんだが…マジだ。」
今日の買い出しがなければ足りていたかもしれないが、それは後の祭りだ。悩む一角と弓親の様子を見ていた女は巾着を取り出した。
「これで足りる?」
巾着を受け取った一角が中身を見ると、大丸に支払わなければならない金額の三倍の額を優に超える貨幣が入っていた。
「お前、どこでこれを?」
「そう言えば買い出しの後、この子が寄りたいって言ってた場所について行ったんだ。」
名前は弓親を連れ、彼女が使っているねぐらを訪れた。そこから必要な物を持ってきたのだ。
「今まで倒してきた奴らがくれた。何に使うのかと思っていたけど、これで物を買うことを知った。」
名前の強さに怖気づいた輩は命を乞う時、貨幣を手渡した。名前は使い方が分からないものだから、受け取ってそのままだったのだ。
「使っていいんだな?」
「……。」
一角が尋ねると「勝手にしろ」と言わんばかりに彼女はそっぽを向いた。全く素直じゃないなと、一角は思いながらも内心助かったと息を吐いた。
「んじゃ、ありがたく使わせて貰うぜ!」
一角は請求額の足らない差額を彼女の巾着から取り出した。
「で、ここでハッキリさせておきたい事があるんだけど。結局、キミは僕たちに付いてくるの?」
今まで旅の返答を避けていた名前だったが、痺れを切らした弓親に直接に問われてしまった為、言い逃れできない。
「おーそう言えばそうだったな。」
「全く、巻き添えになる僕の気持ちになってよ。で、どうなの?」
弓親に詰め寄られた名前は目を瞑り「行く。」と一言答えた。
「っしゃあ!よろしくな、名前!」
「決まってたなら、早く言ってよね。」
即答した名前に呆れる弓親と喜ぶ一角。拒否するに違いないと思っていたが、案外融通の利く子なのかもしれない。
「あと、キミがいくら一角に盾つこうと勝手だけど、僕の言う事は聞いてもらうから。」
「おー怖。」
冷やかす一角の横で二人は見つめ合った。ガンを飛ばす名前に向かって弓親は笑顔で圧を掛ける。
「……分かった。」
弓親に逆らわない方がいいと察した名前は素直に答えた。
「じゃあとりあえず、お金の計算くらいできるようになった方がいいんじゃない?って言うか、まず数は数えられるの?」
「弓親、教育係頼んだぜ~俺は大丸さんに納金してくる。」
やれやれ、と弓親はため息を吐いたが彼女に向き直った。
「ちょっと貸してくれる?」
弓親は名前の貨幣を一種類ずつ並べ始めた。
*
「大丸さん、お世話になりました!」
「あぁ、またいつでも寄ってくれ。達者でな!」
大丸は一角の後ろでそっぽを向いている名前に声を掛けた。
「お前さん、ずいぶんと顔色が良くなったじゃないか。」
名前は何も言わずに軽く頭を下げた。短期間でここまで回復できたのは大丸組合の治療のおかげだ。
「これから色々あるだろうが、助かった命、大事にするんだぞ。」
「世話になりました。」
荷物を持った三人は大丸組合の門を出た。
「名前。」
一角は名前に向き直った。
「お前が俺に仕返しを狙ってるのは分かってる。いつでも相手してやるから、全力で掛かって来いよ?」
名前はプイと顔を背けた。言われなくても、と拳を握りしめた。
弓親は「勝手にやってよね」と肩をすくめた。
***
水面に浮かぶ木のウキ。それがユラユラと揺れ、沈むその瞬間を静かに待つ。今日は晴れた日。穏やかな風が時折吹き、とてもいい日和だ。
名前は瞬きもせず一点にウキだけを見つめる。ウキが沈んだ瞬間を見逃さずに竿を引き上げようとしたが、獲物は危険を察知したのか、糸を引くことなく逃げた。
「くっ……!!」
むなしく握られた竿の先には魚にかじられた餌。名前はムッと睨みつけながら再び竿を投げ入れた。
「っしゃあ、鮎ゲット~!」
離れた場所では一角が難なく魚を釣り上げていた。水に入れた竹篭の中には十数匹の川魚。
「朝食ってねぇし、そろそろ昼飯にすっか。弓親ーそっちはどうだ?」
「準備は出来てるよ。」
火を起こしていた弓親は一角の傍に歩み寄り、篭の中の魚を見て笑みを浮かべた。
「さすがだね、一角。」
一角の視線は名前に向いていた。
「相変わらず下手だよね。」
名前は数日前の狩りでも鳥はおろか、鹿や猪にさえ近付くことも出来なかった。二人はその原因を分かっていた。
「とりあえず下ごしらえすっか。」
一角は料理用の刀で器用に魚を開いていく。弓親は生の魚に竹串を刺して火の脇の地面に突き刺した。全ての魚の下処理を終えた一角は一人釣りを続ける名前の元へ向かった。
「昼飯できたぞ。」
「……。」
空腹には抗えないのか、名前は素直に釣り竿を持ち、焚き火の元で座った。
「いただきまーす。」
焼けた竹串を刺した魚にかぶりつく一角と弓親。
「やっぱ釣れたては旨ぇよなー。」
「夜はお粥にしようか。」
「そうだな。」
二人をよそに名前は炎にあぶられる魚をじっと見ていた。この男は何故あれほど簡単に魚を釣ることが出来るのだろう?何故自分にはそれが出来ないのか?以前は出来ていた狩りが、全く出来なくなっている。それはこの男と出会う前からの事だ。いつから出来なくなったのか考えていたが、人を殺めるようになってからだと気付いた。同属の生物を殺めたその時から、私の手は汚れてしまった。野生の生き物はそれに感づいているのだろうか?
「殺気を殺すんだな。」
呟いた一角の言葉で名前は我に返った。
「頭の中、殺す事ばかり考えてんの、丸分かりだぜ。前は出来てたんだろ?思い出せよ、その時の感覚。」
この男は殺気だけではなく、自分の心の中まで見透かしているのだろうか?認めたくないが、冷静に考えるとこの男の言う通りだ。今の私では彼に勝てない。それは殺気が滲み出ているからだと身に染みて痛感した。
(殺気を殺す…前やっていたみたいに…。)
「食うもん食わねぇと強くなれねぇぞ。」
一角は一向に魚に手を付けない名前を見かねて呟いた。味噌を塗って炙った魚の開きにかぶりついた。昼間なのにすでに酒を煽っている。名前は苛立ちを感じつつ、竹串を取り、彼の獲ってきた魚を一口かじった。塩と焦げた魚の皮と脂が美味しい。
(魚は旨い…。)
グッと目を瞑り魚を食べる名前はその美味しさを感じているようだった。耳が赤くなっている。その様子を見た一角はフッと笑みを浮かべた。
***
それからというもの、名前は黙って一角と弓親に付き従い行動した。時間が出来た時は一人になり、瞑想に耽った。
「やけに大人しくなったんじゃない?」
口を出さずに見ているだけの二人だったが、彼女が自分で模索して強くなろうとしている事が分かった。彼女なりに考えて鍛錬をしているようだ。戦いばかりが鍛錬ではない。普段の生活から身のこなし方や霊圧を制御していくのだ。
「油断して、彼女に不意を突かれないように気を付けた方がいいよ。」
「言われなくても分かってるさ。」
きっと彼女は一角に対して感謝はしていない。寧ろ隙を狙って仕返しの機会を窺っているだろう。一角は重々承知していた。しかし、それ以上に一角は彼女に期待していた。
(アイツがどう成長して強くなっていくのかが楽しみだ。)
一角や弓親以上に強くなるやもしれない。その時は命のやり取りを愉しみたいものだ。名前と共に行動するのはそれまでの暇つぶしだ、と一角は思っていた。
***
「こうやって編むんだぜ。」
一角は切り倒した竹を縦に割いて作った竹ひごを編み、魚を捕える罠を作って名前に見せた。
「凄い……。」
慣れた手つきで竹ひごを編んでいく一角を見て、名前は思わず感嘆の声を上げた。手先が器用な一角だから成しえる技だったが、初めて作る名前は見様見真似で竹籠を作った。
「……出来た…。」
出来上がった竹籠は一角の物と比べると網目が大きく、形もいびつで魚を捕える罠としては使えないが、それ以上に竹籠を作ることが出来たという事実が名前にとって良い経験になったようだ。僅かながら、口角を上げて竹籠を見つめている名前の姿を見て一角は口元を引き上げた。
他にも文字の読み方を弓親、書き方を一角が教えた。名前は物覚えが早く、行く先で張り出されているかわら版(新聞)を読んだり、分からない意味を二人に聞いたりして知識を深めていった。
***
息を潜めて赤い木の実を付けた木の枝を見つめる。そこに降り立った鳥を見つめ、名前は弓の弦を引いた。ゆっくりと息を吐き、実をついばんだ鳥に向かって矢を放った。
バサッ…!!
風を切る矢に気付いた鳥は飛び立とうと羽を広げるが、矢の方が速かった。矢が躰を貫き、鳥は地面に落ちた。
(……やった!)
名前は鳥の元に駆け寄り、拾い上げた。弓矢を使って捕獲したのは初めてだった。これも一角から作り方を教わり、名前が自分で作った弓矢だ。久し振りに野生動物を仕留める事が出来て名前は胸が熱くなった。
その後も弓矢を使い、続けて数羽捕獲した。狩猟を終えた名前は火を焚く二人の元へ戻った。名前が持ってきた獲物を見て一角と弓親は笑った。
「ははっ、やったな名前!これで飯の調達係は任せられるな。」
「ふふ、おめでとう。」
名前は二人の言葉には答えず、二人の横に腰を落とした。小鳥なので羽が柔らかく、むしらなくても炙るだけで良さそうだ。名前は串を刺した獲物を火の前に付き立て、炙った。
「もう焼けたんじゃねーか?」
こんがりと焼き目が付いた姿を見て一角は名前に声を掛けた。名前は串を手に取り、息を吹きかけて鶏肉にかぶりついた。小ぶりの肉だが、それも気にせず名前は骨ごとバリバリと食べていく。
目を瞑りよく味わっている所を見た一角は「相当嬉しいんだな」と思った。
「良かったな、名前。」
名前は俯いて、耳を赤くした。
***
「ほら、そんなんじゃ俺を倒せねぇぞ!」
一角は息が上がっている名前を煽った。彼女はキッと彼を睨み、再び一角に斬りかかった。速さが上がり、殺気も押し殺せて以前より戦いに手ごたえを感じるが、まだまだ一角の経験値には遠く及ばない。
「それが本気か?」
彼女が手を抜いているわけではない事は分かっているが、出会った時に戦った命のやり取り程の緊迫感は感じられない。
「…もういい。」
名前は戦意が喪失したようで、短剣を鞘に戻した。
「逃げるのか?俺を倒すんだろ?」
「うるさい。」
実力不足なのは彼女自身が一番よく分かっているようだ。不毛な戦いを続けたくないと思ったのか、一角とは目も合わさずに森の中に入って行った。
「あーあ、行っちゃったね。」
弓親は手持ち無沙汰になった一角に声を掛けた。
「ま、しゃーねぇな。強さは経験がモノを言う。」
場数踏まなきゃ強くならねぇよ、と思いながら一角は自身の刀を鞘に収めた。最近は強い者と出会えず、体の鈍りを感じていた。名前がいるから気は紛れたが、戦い不足でやはり退屈だ。
「虚の一体でも出てこりゃいいんだけどな。」
「やだよ、アイツら醜いんだもん。」
弓親は嫌煙した表情で呟いた。
ふと、一角は遠くを見つめた。その方角は瀞霊廷がある方角。
(あの人は今頃何やってんだろうな…。)
大きな背中に魅せられ、今も毎日頭をよぎる人物。思い返せば、あの人と戦ってから、流魂街が急につまらない場所になってしまったような気がする。あの人は強さを求めて死神になった。一角はぼんやりと考えながら、目を瞑った。
(もっと強くなりてぇ…!)
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昼間の暑さがようやく和らいだ宵五ツ刻。東南から昇った月は明るく地を照らしている。
今日も仕事を終えた屋敷の者たちが宴会を開いていた。宴を抜け出した一角は女を捜した。あれから彼女とは一切顔を合わせていない。彼女の方から一角を避けているのだろう。丘に人影が見える。一角はそこへ向かって歩み始めた。
「……。」
女は湖面から見える景色と月を眺めている。そよそよとさわやかな風が草木を揺らす。蛙や虫たちの鳴き声が心地よい。
一角は一間空けて女の隣にあぐらをかいて座り、持ってきた酒を煽った。
眉をひそめる女に、一角はニマリと口元を引き上げた。
「呑むか?」
「要らない。」
女は即座に拒否した。彼女の事だ、きっと酒なんか吞んだことないのだろう。そもそも酒とは何か説明しないといけないだろうか?まぁいい、そのうち教えてやるさ。
「お前、生まれた時の事覚えているか?」
どうせ答えてくれないだろう、と一角は思った。だが予想に反し、女は間を置いてから口を開いた。
「…分からない。気が付いたら今の姿だった。」
「そうか。」
一角は酒を煽った。
「俺はよ、チンピラの寄せ集まりみてーな所で生まれて、その集団の中で移動しながら村を襲ったりしてたんだぜ。」
彼の言葉に相槌を打つわけでもなく、女は耳を傾けた。一角はそのまま話し続けた。
「そのうち、内輪で争いが増えて俺たちは分裂した。始めは何人かいたんだが、強え奴と戦ってるうちに俺は一人になった。んで、弓親(あいつ)と出会った。俺たちはいろんなやつと戦ってきた。負けはなかった……あの人と出会うまではな。」
女は初めて一角の顔を見た。この話に興味を持ったようだ。その様子を見て一角はふっと笑みを零した。ようやく食いついた。
「刀一本なのに恐ろしく強かった。幾ら斬っても倒れない。むしろどんどん強くなっていく。結局俺はやられちまってよ、こうして生き永らえてるのさ。」
「その人の名は決して忘れることはねぇ。」
「更木剣八。俺を初めて倒した男だ。」
「…そいつは今、どこにいるの?」
「あの人はきっと死神になっているはずだ。あそこには化け物のように強いやつがゴロゴロいるって聞いたぜ。」
「そう…。」
(今から言う事は…絶対ぇ怒るんだろうな…。)
しばらく考えていた事を、ついに彼女へ伝える。一角は長い沈黙を破った。
「…お前、名前ねぇんだろ。」
「……。」
女は黙っている。
「名前、俺が付けてやろうか?」
「は?」
女は目を見開き有り得ない、という表情で一角を睨み付ける。
「勝手な事を言うな!!」
「名前がねぇんだったら付けちまえばいいんだよ、な?」
「お前にそこまで決められる筋合いはない!」
「これから一緒に旅すんのに名前がないと不便だろ。」
「私は行くとは言っていない!」
「なら、さっさと否定すりゃあ良いだろ?何勿体ぶってんだよ。」
「……。」
「それに、名前が無いんだったら自分で勝手に名乗ってりゃ良かったんだ。でもお前はそれをしなかったんだろ?」
「名など無くていい!」
「それ、本心か?」
「……っ!!?」
一角は彼女が動揺していることが手に取るように分かった。今までヒトと関わりのない生活で名前など不要だと思っていたようだが、今の彼女には名前が必要だ。
「ずーっと考えていたんだぜ?お前の名前。」
一角は女と刃を交えてから、彼女に見合った名前を考えていた。周囲に女子がいなかった為、大丸組合にいる女子の名前を一人ずつ確認した。
人に命名する事など初めてだった一角は、自分なりに良い名前を考えたつもりだったが、彼女自身はどうだろうか? 音の良い、一角が近くにいてほしいと願う名前だ。
「名前、お前は名前だ。」
「名前……。」
女は顔を伏せて唇を噛んだ。肩を震わせているのは、それが怒りなのか嬉しさなのか本人しか分からない。ただ耳まで赤くなっている所を見ると、何か感情を抱いたみたいだ。
「明日からそう呼ばせてもらうぜ、名前!」
彼女がどう思ったかは分からない。しかし一角はこれから彼女をこの名で呼ぼうと決心している。女は一角に顔を見せることなく瞬歩で屋敷に戻って行った。
*
「で、彼女はなんて言ってたの?」
屋敷に戻ると弓親が一角に詰め寄った。
「何が?」
「は?旅について来るのか聞いたんじゃないの?」
「あ、そういやそうだったな。忘れてた。」
弓親はやれやれと肩をすくめた。
「じゃあ何話してたの?」
「あいつに名前がないと何かと不便だから、俺が付けてやったのさ。」
「…っぶ!?本当に??ていうかあの子、絶対怒ったでしょ。」
予測もしなかった出来事に弓親は噴き出した。ただの暇つぶしにしては相当お節介だ。
「まーな。でも、俺にしちゃいい名前付けたと思うぜ?」
「なんて名前付けたのさ?」
「名前。」
「名前?…割とまともな名前だね。」
「そりゃ、大丸組合の給仕たちから名前を聞いて考えたからな!」
「何でそこまで熱心になるの?」
弓親はそこが一番引っかかっていた。今まで様々な女に出会ってきた。
上玉から不細工まで、時には一角に言い寄って来る女もいた。
しかしそれには目もくれなかった男が、何故彼女に拘るのだろう?
「その方がおもしれーだろ?」
「………。」
弓親は言葉も出なかった。一角の考えは読めない。しかし彼の行動は弓親を退屈させずにいた。これだから面白い。
「明日は買い出しに行くぜ。ここみたいに食いもんが簡単に手に入らねーからな。」
一角は満足げに湯浴みに向かった。
*
名前…と名付けられた女は個室のシャワー室にいた。初めてこの場所で温かい湯で全身を洗ってから、数日が経つ。大丸組合には男女共に大浴場が備え付けられていたが、赤の他人と肌の付き合いはしたくなかった。
「はぁ…はぁ……くそっ…!!!」
浴室の壁を叩いた名前はその場に崩れ落ちた。
(訳が分からない…!)
数十年の習慣がたった数日で目まぐるしく変わっていく。名前は新しい生活を頭で理解するのに必死だった。初めて口にする飲食物や衣類。更には食器や道具を使った慣れない作業に疲弊し、軽いパニック状態に陥っていた。名前がこれほどまでに苦労しているのは、全てあの男のせいなのだ。
「名前まで勝手に……。」
名前に戦いを挑み、負傷した彼女を治療し、更には名前まで与えた。本人の意思をまるで無視した行動に、腹の底から怒りの感情が湧いた。いつか必ずこの仇を返してやる、と名前は誓った。しばらく座り込んでいた名前だったが、着物を脱いで蛇口をひねって湯を頭から浴びた。
「……。」
しかし、温かい湯で体を洗う事を知った名前は認めたくなかったが、感動した。汚れも落ちやすく、洗い終えると心身共にとてもスッキリしているのだ。
(……人々はこんなに快適な場所で暮らしていたのだな…。)
これまで暑さや寒さに苦しめられてきた彼女にとっては近代的で過ごしやすい環境は決して嫌なものではなかった。そしてあの男の言葉が蘇る。
『どーせ、また一人になるんなら、俺たちと色んな景色見た方が楽しいと思うぜ?』
あれからいくら攻撃を仕掛けようとしても全て見抜かれてしまう。今のままではあいつを倒すことが出来ない。どうしたらいいのか?名前はずっとそれだけを考えていた。あの男を倒すにはもう少し時間が掛かる。
(共に行動していれば、隙をついて倒すことができるかもしれない。)
「……。」
名前は少しだけ口元を引き上げた。
*
翌日。相変わらず名前はそっぽを向き一角たちとは顔を合わせようとしない。それでも構わず一角は彼女をわざわざ連れていく。
(ほら、言ってる傍から…。)
「何故、私が付き合わなければならない!」
「名前が知らねー面白いこと教えてやるから、ついて来いよ。」
「勝手にその名で呼ぶな!」
名前は一角を殴ろうとしたが、簡単に腕を掴まれた。ギリギリと歯を食いしばって一角の腕を振り切ろうとするがそれも敵わない。
「離せ、勝手に私の事をお前が決めるな!何故私に構うのだ!!」
「何だって良いだろ、ほら行くぞ。」
一角は怒る名前をずるずると引きずるように大丸組合の門を出た。
(本当に駄々をこねる子供みたいだな…。)
弓親は一角の言葉を思い出して苦笑した。
*
旅の買い出しに来た三人は市場に来ていた。
「弓親、こいつと一緒に調味料を買ってきてくれ。俺は他の物を仕入れてくる。」
「え、僕が!?」
この子の面倒見なきゃいけないの?と驚く弓親。
「名前、初めに言っておくが弓親は強ぇぞ。無闇に怒らせるなよ。」
一角はそれだけ言うと「頼んだぜ!」と手を挙げると別の方向へ歩き出した。
(一角、キミのわがままに付き合うとは言ったけど、快く承諾したわけじゃないからね???)
怒りに震える弓親だったが、とりあえず気持ちを切り替え名前に向き直った。
「キミ、とりあえず何も言わず僕に付いてきてよね。」
名前は何も言わなかったが、弓親の後ろを歩き始めた。
(この子、一体何を考えてるのか分かんない。)
様々な女性に会ってきたが、その中でも彼女は変わっていた。寡黙と言えばそうだが、何を考えているのか分からない上に感情も読みにくい。一角と話している時は明らかに怒っているが。そんな事を考えながら、弓親は他の店より繋盛している商店に足を踏み入れた。
「こんにちは。何をお求めで?」
店に入ると屈強そうな護衛が店の隅で、二人を見つめた。この辺りは荒らしや盗みが頻発している為、店側が独自に警備を強化している。
「塩が三升に醤油三合、味噌が二合。」
弓親の注文を聞き、護衛は二人に詰め寄った。店員も顔が緊張している。
そんな店員の様子を気にすることなく、弓親は巾着から貨幣を取り出した。
「これでお願いするよ。」
貨幣を見た店員は「すぐ用意いたします」と店の奥に入っていった。
「……。」
弓親の手元をまじまじと見つめる名前。興味深そうに貨幣を見つめている。
「お金を見るのも初めてなの?」
「初めてではないが…。」
弓親はなるほどね…と名前の様子を見て納得した。一角が言う通り、人間社会で生きていくには無知すぎる。力を持っているなら腹が減る。食べ物を手に入れる為にはお金が必要だ。
「お待たせしました。」
「ありがとう。」
名前は弓親と店員のやり取りを見て、ただの鉄の塊と思っていた物が、食べ物や着るものに交換できると学んだ。
「さぁ、行くよ。」
店を出た二人がしばらく歩くと、付け狙うかのようにやさぐれた男たちが二人を囲んだ。
「そこのお二人さん、見ていたぜぇ。そんなに買い込んで宴でもするのかい?」
「ここに金と買い物袋を置いて行ったら、あんたら二人の命は助けてやる…まぁ、奴隷として売り飛ばすんだけどなぁ?!」
その男の合図と同時に他の男たちが二人目がけて襲い掛かってきた。弓親と名前は即座に瞬歩を使い、その場から離れた。
「ねぇキミ、雑魚の相手ぐらい一人できるよね?」
「倒していいの?」
「殺さないでね。」
名前は目にも止まらぬ速さで男たちを蹴散らした。一度の攻撃で二人が倒れ、他の男たちがどよめいた。
「おい!この女、指名手配の女だ!捕まえて報奨金かっさらうぞ!」
報奨金、という言葉に男たちの目つきが変わった。手を抜かず全力で攻撃を仕掛けてくる。
「うおらあぁっ!!」
大刀を振り回す男の攻撃をかわし、仲間の男たちを巻き添えにする。飛び道具をかわすと一人の男の顎目がけて蹴りを入れた。次々と男たちを倒していく様子を見て、弓親は「使えそうだね」と呟いた。
「このクソ女ー!!!!!」
叫ぶ男の懐に入り、後頭部から頸椎に打撃する。膝から崩れ落ちた男が最後でその場は鎮まった。短刀すら使わなかった名前は、物足りなさを感じながら弓親の元へ戻った。
「これでいいの?」
「あぁ、十分だ。」
それにしても、弓親は男たちの言葉が気になった。流魂街で指名手配の人相図なんてよっぽどの大罪を犯さなければ張り出されない。彼女は裏世界で恨みを買ってしまっているのだろうか?そうだとしたら、今後もこうして襲撃される事がありそうだ。一角と弓親も一部の者たちから恨みを買われており、時たま刺客が現れた。しかし一角の強さが裏社会にも広まり、近頃は恐れられて刺客も来なかった。そんな事を考えていると、名前が弓親に歩み寄った。
「少し寄りたい所がある。」
*
「揃ったか?」
「あぁ。」
大丸組合に戻った三人は、買い揃えた物を広げた。荷造りの準備だ。一角が揃えた油と薬を小さな瓶に入れ三人が持った。塩も均等な量に分けた。
時間があった時に作った肉と魚の干物もある。
「所で問題が発生した。」
「何だい?」
一角の神妙な面持ちに弓親は目を細めた。
「それが、大丸さんへの納金なんだが…足りねぇんだよな。」
「嘘でしょ?」
「俺も冗談だと言いたいんだが…マジだ。」
今日の買い出しがなければ足りていたかもしれないが、それは後の祭りだ。悩む一角と弓親の様子を見ていた女は巾着を取り出した。
「これで足りる?」
巾着を受け取った一角が中身を見ると、大丸に支払わなければならない金額の三倍の額を優に超える貨幣が入っていた。
「お前、どこでこれを?」
「そう言えば買い出しの後、この子が寄りたいって言ってた場所について行ったんだ。」
名前は弓親を連れ、彼女が使っているねぐらを訪れた。そこから必要な物を持ってきたのだ。
「今まで倒してきた奴らがくれた。何に使うのかと思っていたけど、これで物を買うことを知った。」
名前の強さに怖気づいた輩は命を乞う時、貨幣を手渡した。名前は使い方が分からないものだから、受け取ってそのままだったのだ。
「使っていいんだな?」
「……。」
一角が尋ねると「勝手にしろ」と言わんばかりに彼女はそっぽを向いた。全く素直じゃないなと、一角は思いながらも内心助かったと息を吐いた。
「んじゃ、ありがたく使わせて貰うぜ!」
一角は請求額の足らない差額を彼女の巾着から取り出した。
「で、ここでハッキリさせておきたい事があるんだけど。結局、キミは僕たちに付いてくるの?」
今まで旅の返答を避けていた名前だったが、痺れを切らした弓親に直接に問われてしまった為、言い逃れできない。
「おーそう言えばそうだったな。」
「全く、巻き添えになる僕の気持ちになってよ。で、どうなの?」
弓親に詰め寄られた名前は目を瞑り「行く。」と一言答えた。
「っしゃあ!よろしくな、名前!」
「決まってたなら、早く言ってよね。」
即答した名前に呆れる弓親と喜ぶ一角。拒否するに違いないと思っていたが、案外融通の利く子なのかもしれない。
「あと、キミがいくら一角に盾つこうと勝手だけど、僕の言う事は聞いてもらうから。」
「おー怖。」
冷やかす一角の横で二人は見つめ合った。ガンを飛ばす名前に向かって弓親は笑顔で圧を掛ける。
「……分かった。」
弓親に逆らわない方がいいと察した名前は素直に答えた。
「じゃあとりあえず、お金の計算くらいできるようになった方がいいんじゃない?って言うか、まず数は数えられるの?」
「弓親、教育係頼んだぜ~俺は大丸さんに納金してくる。」
やれやれ、と弓親はため息を吐いたが彼女に向き直った。
「ちょっと貸してくれる?」
弓親は名前の貨幣を一種類ずつ並べ始めた。
*
「大丸さん、お世話になりました!」
「あぁ、またいつでも寄ってくれ。達者でな!」
大丸は一角の後ろでそっぽを向いている名前に声を掛けた。
「お前さん、ずいぶんと顔色が良くなったじゃないか。」
名前は何も言わずに軽く頭を下げた。短期間でここまで回復できたのは大丸組合の治療のおかげだ。
「これから色々あるだろうが、助かった命、大事にするんだぞ。」
「世話になりました。」
荷物を持った三人は大丸組合の門を出た。
「名前。」
一角は名前に向き直った。
「お前が俺に仕返しを狙ってるのは分かってる。いつでも相手してやるから、全力で掛かって来いよ?」
名前はプイと顔を背けた。言われなくても、と拳を握りしめた。
弓親は「勝手にやってよね」と肩をすくめた。
***
水面に浮かぶ木のウキ。それがユラユラと揺れ、沈むその瞬間を静かに待つ。今日は晴れた日。穏やかな風が時折吹き、とてもいい日和だ。
名前は瞬きもせず一点にウキだけを見つめる。ウキが沈んだ瞬間を見逃さずに竿を引き上げようとしたが、獲物は危険を察知したのか、糸を引くことなく逃げた。
「くっ……!!」
むなしく握られた竿の先には魚にかじられた餌。名前はムッと睨みつけながら再び竿を投げ入れた。
「っしゃあ、鮎ゲット~!」
離れた場所では一角が難なく魚を釣り上げていた。水に入れた竹篭の中には十数匹の川魚。
「朝食ってねぇし、そろそろ昼飯にすっか。弓親ーそっちはどうだ?」
「準備は出来てるよ。」
火を起こしていた弓親は一角の傍に歩み寄り、篭の中の魚を見て笑みを浮かべた。
「さすがだね、一角。」
一角の視線は名前に向いていた。
「相変わらず下手だよね。」
名前は数日前の狩りでも鳥はおろか、鹿や猪にさえ近付くことも出来なかった。二人はその原因を分かっていた。
「とりあえず下ごしらえすっか。」
一角は料理用の刀で器用に魚を開いていく。弓親は生の魚に竹串を刺して火の脇の地面に突き刺した。全ての魚の下処理を終えた一角は一人釣りを続ける名前の元へ向かった。
「昼飯できたぞ。」
「……。」
空腹には抗えないのか、名前は素直に釣り竿を持ち、焚き火の元で座った。
「いただきまーす。」
焼けた竹串を刺した魚にかぶりつく一角と弓親。
「やっぱ釣れたては旨ぇよなー。」
「夜はお粥にしようか。」
「そうだな。」
二人をよそに名前は炎にあぶられる魚をじっと見ていた。この男は何故あれほど簡単に魚を釣ることが出来るのだろう?何故自分にはそれが出来ないのか?以前は出来ていた狩りが、全く出来なくなっている。それはこの男と出会う前からの事だ。いつから出来なくなったのか考えていたが、人を殺めるようになってからだと気付いた。同属の生物を殺めたその時から、私の手は汚れてしまった。野生の生き物はそれに感づいているのだろうか?
「殺気を殺すんだな。」
呟いた一角の言葉で名前は我に返った。
「頭の中、殺す事ばかり考えてんの、丸分かりだぜ。前は出来てたんだろ?思い出せよ、その時の感覚。」
この男は殺気だけではなく、自分の心の中まで見透かしているのだろうか?認めたくないが、冷静に考えるとこの男の言う通りだ。今の私では彼に勝てない。それは殺気が滲み出ているからだと身に染みて痛感した。
(殺気を殺す…前やっていたみたいに…。)
「食うもん食わねぇと強くなれねぇぞ。」
一角は一向に魚に手を付けない名前を見かねて呟いた。味噌を塗って炙った魚の開きにかぶりついた。昼間なのにすでに酒を煽っている。名前は苛立ちを感じつつ、竹串を取り、彼の獲ってきた魚を一口かじった。塩と焦げた魚の皮と脂が美味しい。
(魚は旨い…。)
グッと目を瞑り魚を食べる名前はその美味しさを感じているようだった。耳が赤くなっている。その様子を見た一角はフッと笑みを浮かべた。
***
それからというもの、名前は黙って一角と弓親に付き従い行動した。時間が出来た時は一人になり、瞑想に耽った。
「やけに大人しくなったんじゃない?」
口を出さずに見ているだけの二人だったが、彼女が自分で模索して強くなろうとしている事が分かった。彼女なりに考えて鍛錬をしているようだ。戦いばかりが鍛錬ではない。普段の生活から身のこなし方や霊圧を制御していくのだ。
「油断して、彼女に不意を突かれないように気を付けた方がいいよ。」
「言われなくても分かってるさ。」
きっと彼女は一角に対して感謝はしていない。寧ろ隙を狙って仕返しの機会を窺っているだろう。一角は重々承知していた。しかし、それ以上に一角は彼女に期待していた。
(アイツがどう成長して強くなっていくのかが楽しみだ。)
一角や弓親以上に強くなるやもしれない。その時は命のやり取りを愉しみたいものだ。名前と共に行動するのはそれまでの暇つぶしだ、と一角は思っていた。
***
「こうやって編むんだぜ。」
一角は切り倒した竹を縦に割いて作った竹ひごを編み、魚を捕える罠を作って名前に見せた。
「凄い……。」
慣れた手つきで竹ひごを編んでいく一角を見て、名前は思わず感嘆の声を上げた。手先が器用な一角だから成しえる技だったが、初めて作る名前は見様見真似で竹籠を作った。
「……出来た…。」
出来上がった竹籠は一角の物と比べると網目が大きく、形もいびつで魚を捕える罠としては使えないが、それ以上に竹籠を作ることが出来たという事実が名前にとって良い経験になったようだ。僅かながら、口角を上げて竹籠を見つめている名前の姿を見て一角は口元を引き上げた。
他にも文字の読み方を弓親、書き方を一角が教えた。名前は物覚えが早く、行く先で張り出されているかわら版(新聞)を読んだり、分からない意味を二人に聞いたりして知識を深めていった。
***
息を潜めて赤い木の実を付けた木の枝を見つめる。そこに降り立った鳥を見つめ、名前は弓の弦を引いた。ゆっくりと息を吐き、実をついばんだ鳥に向かって矢を放った。
バサッ…!!
風を切る矢に気付いた鳥は飛び立とうと羽を広げるが、矢の方が速かった。矢が躰を貫き、鳥は地面に落ちた。
(……やった!)
名前は鳥の元に駆け寄り、拾い上げた。弓矢を使って捕獲したのは初めてだった。これも一角から作り方を教わり、名前が自分で作った弓矢だ。久し振りに野生動物を仕留める事が出来て名前は胸が熱くなった。
その後も弓矢を使い、続けて数羽捕獲した。狩猟を終えた名前は火を焚く二人の元へ戻った。名前が持ってきた獲物を見て一角と弓親は笑った。
「ははっ、やったな名前!これで飯の調達係は任せられるな。」
「ふふ、おめでとう。」
名前は二人の言葉には答えず、二人の横に腰を落とした。小鳥なので羽が柔らかく、むしらなくても炙るだけで良さそうだ。名前は串を刺した獲物を火の前に付き立て、炙った。
「もう焼けたんじゃねーか?」
こんがりと焼き目が付いた姿を見て一角は名前に声を掛けた。名前は串を手に取り、息を吹きかけて鶏肉にかぶりついた。小ぶりの肉だが、それも気にせず名前は骨ごとバリバリと食べていく。
目を瞑りよく味わっている所を見た一角は「相当嬉しいんだな」と思った。
「良かったな、名前。」
名前は俯いて、耳を赤くした。
***
「ほら、そんなんじゃ俺を倒せねぇぞ!」
一角は息が上がっている名前を煽った。彼女はキッと彼を睨み、再び一角に斬りかかった。速さが上がり、殺気も押し殺せて以前より戦いに手ごたえを感じるが、まだまだ一角の経験値には遠く及ばない。
「それが本気か?」
彼女が手を抜いているわけではない事は分かっているが、出会った時に戦った命のやり取り程の緊迫感は感じられない。
「…もういい。」
名前は戦意が喪失したようで、短剣を鞘に戻した。
「逃げるのか?俺を倒すんだろ?」
「うるさい。」
実力不足なのは彼女自身が一番よく分かっているようだ。不毛な戦いを続けたくないと思ったのか、一角とは目も合わさずに森の中に入って行った。
「あーあ、行っちゃったね。」
弓親は手持ち無沙汰になった一角に声を掛けた。
「ま、しゃーねぇな。強さは経験がモノを言う。」
場数踏まなきゃ強くならねぇよ、と思いながら一角は自身の刀を鞘に収めた。最近は強い者と出会えず、体の鈍りを感じていた。名前がいるから気は紛れたが、戦い不足でやはり退屈だ。
「虚の一体でも出てこりゃいいんだけどな。」
「やだよ、アイツら醜いんだもん。」
弓親は嫌煙した表情で呟いた。
ふと、一角は遠くを見つめた。その方角は瀞霊廷がある方角。
(あの人は今頃何やってんだろうな…。)
大きな背中に魅せられ、今も毎日頭をよぎる人物。思い返せば、あの人と戦ってから、流魂街が急につまらない場所になってしまったような気がする。あの人は強さを求めて死神になった。一角はぼんやりと考えながら、目を瞑った。
(もっと強くなりてぇ…!)
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