月光に毒される
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荒れた村が広がった西流魂街。死神の目が行き届かず、虚や狂人によって命を失う者が多い。
私は足が速く、多くの危機から逃げ出すことができた。女は一人だった。村人には家族があり、家がある。己が何者なのか、それを知る者は誰一人としていなかった。気付いた時に握っていた小刀と己の足の速さを武器に、生きる理由を探していた。
(腹が減った……。)
女を一番に苦しめたのは、強烈な空腹だった。村の人々の多くは空腹を感じず、食事の摂取を必要としなかった。
(何故、私だけ……。)
草木を食べる日々。いくら食べても空腹は満たされなかった。襲撃されるか、飢えで命を落とすか…どちらも女を死へいざなっているように感じた。
(どうすれば生き長らえる事が出来るのか?)
女は旅を経て、空腹を感じない村人でも食事をする者がいることを知った。彼らは味覚を持っている為、動物や植物を食する楽しみを知っていた。ある村で狩りをしている村人を見つけ、飢えを満たす方法を知った。それから女は動物を狩ることを覚えた。鹿は遅く、兎と狐は脚が速く、獲ることに楽しさを覚えた。毎日のように狩りを繰り返すうちに動物の殺し方を覚えた。血の味を知った。
狩りの楽しみを覚えた女に、恐怖などなかった。人と関わらずとも、動物を狩っていれば一人で私は永遠に生きていられる。
……そう、思っていた。
***
暑い季節が過ぎ、過ごしやすい日々から涼しくなってきた頃、草木の色が変化した。変化する環境に違和感を抱きながら、私は森の中で暮らしていた。温度が下がっていく度に、動物を見かけることが少なくなっていった。
女は焦った。なぜ動物がいない?今まで感じていた小動物の気配が少しずつ減っていく。
(何もいない。どうして……?)
虚に森を荒らされたわけではない。変わらない森なのに、木々が葉を落とすたびに生き物の気配が消えていく。
(森にも死があるのか…?)
女はどうすることもできずに、ただ茫然と森を見つめていた。
***
(腹が減った……。)
再び草木のみを食べる日々。当然、猛烈な空腹が女を襲う。それに伴い、寒さが体力を奪う。今まで動物の皮と毛で作った衣服を纏っていたが、いくら火を焚いても寒さはしのげなかった。体を動かせば温かくなることを知っていたが、空腹が増すばかりだ。
眠れぬ夜を五日程過ごした頃、久しく足を踏み入れなかった人里へ下りる事にした。空腹と寒さ、そして喉の渇きを満たすために村人はどのように過ごしているのだろうか?この目で確かめに行こうと決心した。
*
村は相変わらず貧相で、人々は薪で暖を取っていた。家内にいるのか、村を出歩く者はほとんどいない。
(何も飲まず食わずで寒さだけをしのぐのみ…か。)
元々渇きや空腹を感じない者達だ。彼女ほど飢えている者は見当たらなかった。ただ、寒さと時間が過ぎるのを待っている。暖の取り方は覚えたものの、空腹と渇きを満たすことが出来ない。
あてもなく立ち尽くしていた彼女に声を掛ける者がいた。
「よぉ、ねえちゃん。森から来たのか?」
振り返ると、男が三人。女は動物の毛皮を身に纏っていた為、物珍しそうにニヤニヤと笑みを浮かべ近付いてきた。
「……。」
「そう怖い顔するなよ。寒いだろうし、俺たちと温まろうぜ?」
良からぬ事を考えている。この男たちの下衆の心は読めていた。汚い肉欲をぶら下げているのが見え見えだ。
「悪いようにはしないからよ。な?」
「怖がってんだろ。あんまり見ない顔だけど、何か用があってここに来たんだろ?人探しか?」
褐色の肌をした男を制して前に出てきたのは、朗らかな顔をした男だった。
「何を探しているんだ?顔を見せてくれよ。」
「……っ!!」
男の匂いを嗅いだ女は先程までの理性を失った。動物の匂い。食べ物の匂いだ。
(食べ物……狩りの時間だ……。)
極限までに飢えていた女は、頭で考えるより先に体が動いていた。
「う"あ"あ"あ"あ"あ"あ”ああぁぁ!!!!!!!」
差し出された男の右手がなくなり、血が噴き出した。絶叫した男は膝まづき、うなり声を上げている。
後ろにいた男二人は目を見開き、女の姿をとらえた。
「てんめぇええ!!!!!」
小太りの男が女めがけて突っ込んでくる。彼女は瞬時に男の背後に周り小刀で首元を斬りつけた。勢いよく飛び散る鮮血に、女は喉を鳴らした。
「うわああぁあぁぁ!!!!!」
褐色の男が恐怖でおぼつかない足取りでその場から逃げ出した。女は飛び上がり、男の頭上から両手の拳を叩きこんだ。ゴリン、と骨のきしむ音がして、その男は息を止めた。女は男の髪を掴んで上半身を起こすと、その喉元に噛みついた。口の中に広がる鮮血を無我夢中で飲む。
「くそ…があぁぁあ……!!!!!」
右手を失った男が、仲間の男の血をすする女めがけて鎌を振り下ろした。
「なん……だと……!!?」
鎌は女の首元で止まり、その肌を貫くことはなかった。女は口から鮮血を滴らせながら、のろりと立ち上がった。
「邪魔……するなあぁぁああっ!!!!!」
***
西流魂街……
東西南北、八十番まである流魂街。
後ろから数えた方が早いこの地区は死神の目は行き届かず、荒れた町並みが広がっていた。住民は無気力な者かちんぴらばかりだ。自分の身は自分で守らなければならず、苦しい生活を送っていた。強者は問答なく弱者を蹴散らす。正に地獄絵図のような日々。住民はその身に恐怖を感じることしか出来なかった。
「おらおらー!!俺に掛かって来れる奴はいないのか?」
そんな廃れた村に活気の良い男の声が響き渡った。
「戦える奴はいねーのか!!」
しかし返事は皆無。道端に座り込んでいる。人々がチラリとこちらを見るばかりで、全く興味を見せようとしなかった。
「くそっ、つまんねーな。」
一角はちっと舌打ちをした。近頃、自分に挑んでくる者がいない。戦う事に生きる意味を感じている男には退屈そのものだった。
「一角。」
一角、と呼ばれた男は自分の名を呼んだ長髪の男、弓親の方を振り向いた。彼は調達した干し芋を持っている。
「さっき気になる事を聞いたよ。」
「なんだ?」
一角は眉を釣りあげた。弓親の表情を見ると、いい話みたいだ。
「最近、この近くでかなり強い人殺しが出没するようだ。」
「ほう?そいつはどんな奴だ?」
「それがね、女なんだって。」
「女ぁ?色仕掛けて襲撃か?」
一角はその女が集団をまとめるカシラのようなものだと思った。しかし、弓親は顔を横に振る。
「一人で村を三つ襲ってる。対峙した者は皆殺されてて、その姿を見た者はいない。どう?かなり期待できるんじゃない?」
「それ、ほんとに女かよ…虚じゃないのか?見たやつは皆死んじまってるし、分かんねーじゃねぇか。」
「男でも女でもどっちでもいいでしょ。戦いが愉しめるんだったら。」
「まぁな。んじゃ、今日からそいつを捜すとするか。」
「了解。楽しみだね。」
「はん、いい暇つぶしになりそうだな。」
一角は新たに出来た目標に喉を鳴らした。
***
長い間人が住まなくなったボロボロの空き家に火が灯った。現在の家主は髪が乱れ、血に汚れた衣を身に纏った女。今日の獲物の骨を折り、囲炉裏の火の周りに突き立てた。虚ろな目で火を見つめる間に、血肉は焼けてじゅうぅと音を立て始める。頃合いだと思った女は肉を手に取り食べ始めた。少量しか付いていない肉を歯を立ててしゃぶるように食べる。これで彼女の腹は少しだけ満たされた。鹿や猪の肉は食べやすいが、この肉は旨みも少なく筋張っててかなり固い。寒さと飢えをしのぐにはこれを食べるしかなかった。
女は思った。なぜ同じ姿なのに他人と違うのか。腹が減り、喉も渇き、食べずにはいられなくなる。もしかしたら、自分は穴の開いた怪物なのかもしれない。女は人の気配を感じ、人や大きな動物は見ずとも気配で位置を探る事が出来た。狩りを始めてから使えるようになった力。この力のおかげで女は無駄な戦いから回避することもできた。
ある日、いつものように気配を探っていると全身が粟立つ不快感を感じた。その気配は明らかに人でも動物でも無い未知の者。未知の者は人を消す。その瞬間を女は気配で感じていた。人の間で聞いた噂。女はそれが虚だと知った。
女は横になり、目を閉じた。
(私もその化け物と同じ存在か……。)
***
「…っち、全然見つかんねぇ。」
訪れる村で情報を集める一角と弓親だったが、少し前まで溢れていた情報がぱったりと消えた。もしかして虚にやられたか?そんな考えもよぎったが、人から聞く限りでは虚にやられるようなタマではない。
「襲撃された村の人に話を聞くと、その女は村全員を襲ってるわけじゃない。どちらかというと血気盛んな男やチンピラ共。だけど、春になってから全然姿を現さないみたい。」
「どこ行ったんだ?虚にやられちまったのか?」
「それはないと思うよ。足が速いみたいだし、こっちから捜すのは難しいね。」
「じゃあ、どうすんだよ?」
「それはもちろん、現れそうな場所で待ち構えるのさ。」
*
静かな湖。動物は水を飲みに現れる場所。
女は息を潜めながらじっと湖を見ていた。
(来た……。)
草木から現れたのは一頭の鹿。女は獲物を確認し、走り出した。水面に口を付けようとした時、鹿は顔を上げた。女は地面に伏せ、息を殺すが鹿は慌てて走り出してしまった。女は目を細め、次の獲物を探した。
ちょうど鳥が目の先に降り立った。息を殺しながら、素早く小刀を投げた。しかし女が刀を投げたと同時に羽ばたいた。
(なぜ気付かれる…?)
春が訪れ、女は再び森へ戻ってきた。久しく食べていなかった動物の肉が食べたくなり、狩りをするが一向に捕えられずにいた。近づくことはできるものの、あと少しと言うところで逃してしまう。以前はそんなことはなかったのに。
(水浴びは先程したが…。)
体臭のせいかと思ったが、朝に水を浴びた女はそれが原因ではないと思った。戦い方を覚えた女は以前に増して強くなっているはずだ。なのに、なぜ動物が捕まえられない?女は動物の気配を探るために目を閉じた。
*
「いっちょ上がりっと。」
一角は竹で作った罠を弓親に渡した。
「このあたりに仕掛けておこう。」
弓親は川に入り、罠を仕掛けた。早ければ明日の朝食で魚が食べられそうだ。
「……。」
「どうしたの?一角。」
じっと森の様子を窺っている一角に、弓親は耳をすませた。
「時折、森がざわつきやがる。誰かいるな。」
「そうだね。もしかしたら…。」
「行くぞ。」
一角は鞘を持ち、立ち上がった。二人は森の奥へ進んだ。
*
熟れていない固い実を食べる女は水を飲みながら、無理やり喉に流し込んだ。水があるだけ多少は空腹を満たすことが出来たが、やはり物足りない。
女はあの後、何度も狩りを試みたが一向に獲物を仕留める事が出来なかった。焦ってはいなかったが、今まで感じなかった苛立ちが彼女を支配した。空腹とは別の何かが、女を急き立てる。
気持ちを抑えなければ、と思いつつ周囲を探っていると大きな気配に気が付いた。動物ではない、はっきりとした気配…人だ。女は少し考え、心を決めた。決して旨くはないが、食欲を満たすことが出来そうだ。
今まで手に掛けた者の数は五十近いだろうか。女はその時の事をよく覚えていない。ただ、血の匂いと死にゆく者の叫びが脳裏に張り付き、空腹が訪れるたびに女の脳内に響いた。命を狩るのは動物と同じなのに、なぜ心が乱れるのか。以前から「自身の中の化け物がいつか目覚めるのではないか?」と感じていたが、そう思う頻度が増した。この先、自分は一体どうなってしまうのか?心の中で燻る恐怖に駆られながら、女は歩を速めた。
*
生い茂る草木の隙間から光が見える。湖に近いこの付近は動物の通り道からか、道が開けていた。しかしやけに静かな様子に、一角と弓親は緊張の糸を緩めなかった。
「一角。」
弓親の言葉と共に一角は立ち止まった。視線を感じ、その先を見ると小さな人影が見える。小柄な形から女だと分かった。気配は小さなものだが、妙な感じだ。女は視線を合わせないが、こちらの気配を探っているようだった。
「気を付けて一角。」
弓親の言葉に一角は地面を踏みしめた。途端女の姿が消え、凄まじい殺気とともに女が一角の懐に入った。首筋目掛けて小刀を振る女の攻撃を躱しながら、一角は鞘で女の腕の根元を叩いた。女がたじろいだ瞬間を突いて腹に思い切り蹴りを入れる。女は地面を転がるも、瞬時に立ちあがり一角の後ろに控える弓親に襲いかかった。
「おっと、僕は邪魔みたいだね。」
弓親は女の攻撃を躱し、踵を返してその場から離れた。女は一角の攻撃をかわし、距離を取った。
「ほぉ、中々やるじゃねぇか。俺の名は斑目一角!お前は?」
久しく見なかった手応えのある相手に、一角は目の色を輝かせた。
女は黙り込んだまま、再び一角に襲いかかった。
「ちぇっ!挨拶くらいしろよな。」
風を切る音が耳元をかすめ、一角は女の右腕を取った。
「ぐぅ……っ!!!」」
「お前、名は?」
しつこく尋ねてくる一角を、女は睨みつけた。
「そんなものはない!私はずっと一人だった!」
「そうか…。」
女は一角から腕を振りほどき、距離を置いた。名のない者は、一角達が旅をしている時に度々遭遇した。彼女もその一人か。名もないまま死にゆくなんて、動物と同じだと一角は思った。
一方、女は今まで会った中で最も強い相手に遭遇し、苦虫を噛み潰す思いをしていた。下手をすれば殺される。こんなに緊張するのは初めてだ。
(強い…でも殺らなきゃ…。)
女は自前の速さで一角の背後に付くが、一角は反射で女の攻撃を受け止めた。そして鞘から刀を抜き、女の腕を斬りつけた。
「––––––ぅ"っ!!!」
斬りつけられた左腕から赤い血が吹き出る。女は斬りつけられ、出血したのは初めてだった。今まで対峙した男達の攻撃は、女に傷一つつけることすら出来なかったのだ。
(今まで出血したことなんかないのに…痛い…!!)
ジンジンと血が溢れ出す腕をかばい、女は痛みに悶えた。
「なんだ、血を見るのは初めてか?」
うろたえる女の姿に、戦いに慣れていないのだろうかと一角は思った。斬りつけたとはいえ、傷は浅い筈だ。しかし、女は血を見慣れぬと見て、顔を青ざめながら肩で大きく息をしている。
女は視界がボヤけていた。空腹と出血。精神的なダメージが彼女を襲っていた。足元が震える。
『怖い』
人と戦っている最中に、女は初めてそう思った。斬りつけられた腕の指先が冷たくなってくる。息は整ったのに、心を落ち着かせるために女は大きく息を吸うが、一向に良くならない。
(落ち着け…致命傷ではない。アイツを殺れば、私は生き長らえられる。)
女はそう自分に言い聞かせ、再び小刀を握りしめた。
弓親は二人の戦いを木の上から眺めていた。今のところ一角が優勢だが、彼女がどう反撃してくるか分からない。弓親は一角の表情を見て、口元を緩めた。
(一角、愉しそう。)
*
一角は地に足をつき、女の素早い攻撃を受け止めた。先程から女が攻撃を仕掛け、一角は攻撃しなかった。
様子を伺っていた一角だったが、女の単純な攻撃に痺れを切らした。
「さっきの威勢はどうした!?怖じ気付いたか?」
息を切らす女は一角を睨みつけ、舌打ちした。動き、速さは上々。狙い所も悪くない。ただ、強烈な殺気でどこから攻撃してくるか一目瞭然だ。
「んじゃ、こっちも行くぜ!」
刀を振り下ろすと見せかけると、女は身構えたが一角は女の右腕を掴み、腹を斬った。
「ぐあっ…!!!」
傷口から多量の血が溢れ出る。女は膝から崩れ落ちる。一角は女を蹴り飛ばした。
(ちっ…最早、戦意喪失か?)
*
裂けた傷口から熱い液体が流れ出る。空腹と喉の渇き、体温の低下。指先が冷たくなってくる。死が近いのか、身体が動かない。
(これで…お終いか……。)
今まで一人で生きながらえてきたが、ここで終わりだと女は悟った。
だがせめて、口の渇きだけを癒したい。私は腹から出る血を指で舐めとった。
(美味しい……。血、血、ち、ち...。)
いつもと同じ鉄の味がする。しかし、血を舐めた瞬間から唾液が溢れ出す。
もっと血が欲しい。もう…何も考えられない。
(血が欲しい…!!!)
*
終いか。一角は弓親を呼ぼうと周囲を見渡したが、突如耳元を空気が掠めその途端、背中に痛みが走った。
「……っは!簡単に死なねえってか。そうこなくっちゃなぁ!?」
一角は焦点の合わぬ女の目を見て、ニヤリと口元を引き上げた。
先程の迷いが消え、一直線に一角に襲いかかってくる。
一角は女の体を掴もうと合間を伺うが、女は一切隙を見せず迅速に一角を斬り裂こうと攻撃してくる。
(さっきより強くなってやがる...!)
掴まれそうになると女は一角と距離を置き、瞬時に背後に回る。脚を斬られた一角は続けて肩、腰と赤い血が飛び散った。女は刀に付いた血を舐め取り、ニヤリと笑った。
「狂ってんな。」
再び始まった命の駆け引きに、一角は心を躍らせた。続けて女が一角に襲いかかる。一角は女の攻撃を避けながら間合いを詰める。首筋目がけて刀を振り下ろす女に一角は一瞬の油断もならない。
一角は一度、刀を地面に放った。女の肩を掴み、女の頬に拳を入れる。彼女がよろけた隙をつき、腕をつかみ下から身体を入れて投げた。
「がはっ…!!」
背中から地面に叩きつけられた女は顔を歪ませた。一角は拳を女に叩き込むが、女も身体を反転させて一角の攻撃をなんとか逃れようとした。
一角は女の上にのしかかり、刀を握る女の手首を捻り上げた。
刀を落とした女は、抵抗するも一角の力に抑え込まれようとしていた。
「あぁああぁ…っ!!!」
「勿体ねぇ。経験不足だなぁ?」
一角は彼女の刀を奪い、女の首筋に当てた。今まで戦ってきた者は諦めて命乞いをするところだが、この女はどうするだろうか?
「終いだな。」
「ふっ。」
女は一角を一瞥すると、左手を一角の顔面に向けた。一角は背中が粟立ち、とっさに女から離れた。途端、女の手の平から閃光が放たれた。
(あれは、死神が使う技じゃねぇか…。)
女は立ち上がり、素早く一角に襲い掛かった。
(ちっ…厄介だな。)
自分に不利な相手に、一角はどう攻めるか模索した。素早さと急所を狙う的確さは秀逸だが、力と戦いの場数は一角が勝っている。自らの刀を取り返そうと、女は一角の隙を狙う。一角は女の攻撃をうまくかわしながら、自分の刀を拾った。
「俺を斬ってみな!」
一角は彼女の刀を投げ、女に持たせた。女は不審そうに一角を見つめる。一角は刀と鞘を持ち、構えた。
「行くぜっ!」
その言葉を合図に、女は一角に襲い掛かった。打撃を受けながら、一角は女の動きを見ていた。輝きが無く、充血した目。蒼白な肌と退色した唇は渇ききっている。首筋と腕や足は骨が浮き上がり、食事を満足に摂っていないと見える。
「軽いぜ。」
女の攻撃を鞘で受け止める。女は素早く一角の脇を突くが、体を反転させて再度女の攻撃を防いだ。
「弱えっ!!」
女は一角の圧に押され弾き返された。無防備になった女に、一角は重い斬撃を放った。
「がはっ……!!」
女の左肩から右腹にかけてから血が噴き出る。吐血する女は、苦悶の表情を浮かべながら倒れた。
「はぁ…はぁ…。」
今まで絶えずあった殺気が途切れた。一角は息を吐いて地に座り込んだ。女は体を震わせ、痛みにもがいていた。
痛い。血が止まらない。思考が定まらない。目の前が暗くなる。最早痛みすら鈍く感じるほど脳は分からなくなっていた。体の震えは不思議と死への恐怖ではない。
長い闘いだったが、やっとこの痛みから解放される。苦しいと思ったが、女の胸の中は安堵していた。ようやくこれで楽になれると…。
(これでいいんだ。)
女は意識を手放した。
再び訪れた平穏。徐々に生き物の声が森中に響き始める。
「一角。」
刀を拾う一角に弓親は声を掛けた。
「お疲れさま。」
「おう。」
一角も女の攻撃を受けて至る所から出血していた。
「傷の手当と腹ごしらえ、あと新しい着物を新調しないとね。」
弓親がこの後の予定を考えていると、一角は女の刀を拾った。
「一角…?」
弓親は眉を釣り上げる。一角は二本の刀を弓親に渡した。
「ちょっと、どうするのさ?」
意識のない女に歩み寄った一角は、彼女の帯を緩めた。襟を開くと痩せた身体が露わになった。腹から今も鮮血が流れており、一角は弓親から受け取った荷物を開き血止めの薬を手に取った。
「こいつ、名前がねぇんだとよ。」
「……。」
手当する一角を見ながら、弓親は息を吐いた。情けをかけるなんて珍しい、と思っていると嫌な予感が脳裏をよぎった。
「ちょっと待ってよ、まさか連れてくつもりじゃないよね?」
「そのまさかだな。」
一体何を考えているのか、弓親は理解不能だった。治療したところで利などないのだから。
「嫌だよ、僕は!」
弓親の反対を無視し、一角は手当を続けた。
「……。」
弓親は黙って一角の背中を見つめていた。
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私は足が速く、多くの危機から逃げ出すことができた。女は一人だった。村人には家族があり、家がある。己が何者なのか、それを知る者は誰一人としていなかった。気付いた時に握っていた小刀と己の足の速さを武器に、生きる理由を探していた。
(腹が減った……。)
女を一番に苦しめたのは、強烈な空腹だった。村の人々の多くは空腹を感じず、食事の摂取を必要としなかった。
(何故、私だけ……。)
草木を食べる日々。いくら食べても空腹は満たされなかった。襲撃されるか、飢えで命を落とすか…どちらも女を死へいざなっているように感じた。
(どうすれば生き長らえる事が出来るのか?)
女は旅を経て、空腹を感じない村人でも食事をする者がいることを知った。彼らは味覚を持っている為、動物や植物を食する楽しみを知っていた。ある村で狩りをしている村人を見つけ、飢えを満たす方法を知った。それから女は動物を狩ることを覚えた。鹿は遅く、兎と狐は脚が速く、獲ることに楽しさを覚えた。毎日のように狩りを繰り返すうちに動物の殺し方を覚えた。血の味を知った。
狩りの楽しみを覚えた女に、恐怖などなかった。人と関わらずとも、動物を狩っていれば一人で私は永遠に生きていられる。
……そう、思っていた。
***
暑い季節が過ぎ、過ごしやすい日々から涼しくなってきた頃、草木の色が変化した。変化する環境に違和感を抱きながら、私は森の中で暮らしていた。温度が下がっていく度に、動物を見かけることが少なくなっていった。
女は焦った。なぜ動物がいない?今まで感じていた小動物の気配が少しずつ減っていく。
(何もいない。どうして……?)
虚に森を荒らされたわけではない。変わらない森なのに、木々が葉を落とすたびに生き物の気配が消えていく。
(森にも死があるのか…?)
女はどうすることもできずに、ただ茫然と森を見つめていた。
***
(腹が減った……。)
再び草木のみを食べる日々。当然、猛烈な空腹が女を襲う。それに伴い、寒さが体力を奪う。今まで動物の皮と毛で作った衣服を纏っていたが、いくら火を焚いても寒さはしのげなかった。体を動かせば温かくなることを知っていたが、空腹が増すばかりだ。
眠れぬ夜を五日程過ごした頃、久しく足を踏み入れなかった人里へ下りる事にした。空腹と寒さ、そして喉の渇きを満たすために村人はどのように過ごしているのだろうか?この目で確かめに行こうと決心した。
*
村は相変わらず貧相で、人々は薪で暖を取っていた。家内にいるのか、村を出歩く者はほとんどいない。
(何も飲まず食わずで寒さだけをしのぐのみ…か。)
元々渇きや空腹を感じない者達だ。彼女ほど飢えている者は見当たらなかった。ただ、寒さと時間が過ぎるのを待っている。暖の取り方は覚えたものの、空腹と渇きを満たすことが出来ない。
あてもなく立ち尽くしていた彼女に声を掛ける者がいた。
「よぉ、ねえちゃん。森から来たのか?」
振り返ると、男が三人。女は動物の毛皮を身に纏っていた為、物珍しそうにニヤニヤと笑みを浮かべ近付いてきた。
「……。」
「そう怖い顔するなよ。寒いだろうし、俺たちと温まろうぜ?」
良からぬ事を考えている。この男たちの下衆の心は読めていた。汚い肉欲をぶら下げているのが見え見えだ。
「悪いようにはしないからよ。な?」
「怖がってんだろ。あんまり見ない顔だけど、何か用があってここに来たんだろ?人探しか?」
褐色の肌をした男を制して前に出てきたのは、朗らかな顔をした男だった。
「何を探しているんだ?顔を見せてくれよ。」
「……っ!!」
男の匂いを嗅いだ女は先程までの理性を失った。動物の匂い。食べ物の匂いだ。
(食べ物……狩りの時間だ……。)
極限までに飢えていた女は、頭で考えるより先に体が動いていた。
「う"あ"あ"あ"あ"あ"あ”ああぁぁ!!!!!!!」
差し出された男の右手がなくなり、血が噴き出した。絶叫した男は膝まづき、うなり声を上げている。
後ろにいた男二人は目を見開き、女の姿をとらえた。
「てんめぇええ!!!!!」
小太りの男が女めがけて突っ込んでくる。彼女は瞬時に男の背後に周り小刀で首元を斬りつけた。勢いよく飛び散る鮮血に、女は喉を鳴らした。
「うわああぁあぁぁ!!!!!」
褐色の男が恐怖でおぼつかない足取りでその場から逃げ出した。女は飛び上がり、男の頭上から両手の拳を叩きこんだ。ゴリン、と骨のきしむ音がして、その男は息を止めた。女は男の髪を掴んで上半身を起こすと、その喉元に噛みついた。口の中に広がる鮮血を無我夢中で飲む。
「くそ…があぁぁあ……!!!!!」
右手を失った男が、仲間の男の血をすする女めがけて鎌を振り下ろした。
「なん……だと……!!?」
鎌は女の首元で止まり、その肌を貫くことはなかった。女は口から鮮血を滴らせながら、のろりと立ち上がった。
「邪魔……するなあぁぁああっ!!!!!」
***
西流魂街……
東西南北、八十番まである流魂街。
後ろから数えた方が早いこの地区は死神の目は行き届かず、荒れた町並みが広がっていた。住民は無気力な者かちんぴらばかりだ。自分の身は自分で守らなければならず、苦しい生活を送っていた。強者は問答なく弱者を蹴散らす。正に地獄絵図のような日々。住民はその身に恐怖を感じることしか出来なかった。
「おらおらー!!俺に掛かって来れる奴はいないのか?」
そんな廃れた村に活気の良い男の声が響き渡った。
「戦える奴はいねーのか!!」
しかし返事は皆無。道端に座り込んでいる。人々がチラリとこちらを見るばかりで、全く興味を見せようとしなかった。
「くそっ、つまんねーな。」
一角はちっと舌打ちをした。近頃、自分に挑んでくる者がいない。戦う事に生きる意味を感じている男には退屈そのものだった。
「一角。」
一角、と呼ばれた男は自分の名を呼んだ長髪の男、弓親の方を振り向いた。彼は調達した干し芋を持っている。
「さっき気になる事を聞いたよ。」
「なんだ?」
一角は眉を釣りあげた。弓親の表情を見ると、いい話みたいだ。
「最近、この近くでかなり強い人殺しが出没するようだ。」
「ほう?そいつはどんな奴だ?」
「それがね、女なんだって。」
「女ぁ?色仕掛けて襲撃か?」
一角はその女が集団をまとめるカシラのようなものだと思った。しかし、弓親は顔を横に振る。
「一人で村を三つ襲ってる。対峙した者は皆殺されてて、その姿を見た者はいない。どう?かなり期待できるんじゃない?」
「それ、ほんとに女かよ…虚じゃないのか?見たやつは皆死んじまってるし、分かんねーじゃねぇか。」
「男でも女でもどっちでもいいでしょ。戦いが愉しめるんだったら。」
「まぁな。んじゃ、今日からそいつを捜すとするか。」
「了解。楽しみだね。」
「はん、いい暇つぶしになりそうだな。」
一角は新たに出来た目標に喉を鳴らした。
***
長い間人が住まなくなったボロボロの空き家に火が灯った。現在の家主は髪が乱れ、血に汚れた衣を身に纏った女。今日の獲物の骨を折り、囲炉裏の火の周りに突き立てた。虚ろな目で火を見つめる間に、血肉は焼けてじゅうぅと音を立て始める。頃合いだと思った女は肉を手に取り食べ始めた。少量しか付いていない肉を歯を立ててしゃぶるように食べる。これで彼女の腹は少しだけ満たされた。鹿や猪の肉は食べやすいが、この肉は旨みも少なく筋張っててかなり固い。寒さと飢えをしのぐにはこれを食べるしかなかった。
女は思った。なぜ同じ姿なのに他人と違うのか。腹が減り、喉も渇き、食べずにはいられなくなる。もしかしたら、自分は穴の開いた怪物なのかもしれない。女は人の気配を感じ、人や大きな動物は見ずとも気配で位置を探る事が出来た。狩りを始めてから使えるようになった力。この力のおかげで女は無駄な戦いから回避することもできた。
ある日、いつものように気配を探っていると全身が粟立つ不快感を感じた。その気配は明らかに人でも動物でも無い未知の者。未知の者は人を消す。その瞬間を女は気配で感じていた。人の間で聞いた噂。女はそれが虚だと知った。
女は横になり、目を閉じた。
(私もその化け物と同じ存在か……。)
***
「…っち、全然見つかんねぇ。」
訪れる村で情報を集める一角と弓親だったが、少し前まで溢れていた情報がぱったりと消えた。もしかして虚にやられたか?そんな考えもよぎったが、人から聞く限りでは虚にやられるようなタマではない。
「襲撃された村の人に話を聞くと、その女は村全員を襲ってるわけじゃない。どちらかというと血気盛んな男やチンピラ共。だけど、春になってから全然姿を現さないみたい。」
「どこ行ったんだ?虚にやられちまったのか?」
「それはないと思うよ。足が速いみたいだし、こっちから捜すのは難しいね。」
「じゃあ、どうすんだよ?」
「それはもちろん、現れそうな場所で待ち構えるのさ。」
*
静かな湖。動物は水を飲みに現れる場所。
女は息を潜めながらじっと湖を見ていた。
(来た……。)
草木から現れたのは一頭の鹿。女は獲物を確認し、走り出した。水面に口を付けようとした時、鹿は顔を上げた。女は地面に伏せ、息を殺すが鹿は慌てて走り出してしまった。女は目を細め、次の獲物を探した。
ちょうど鳥が目の先に降り立った。息を殺しながら、素早く小刀を投げた。しかし女が刀を投げたと同時に羽ばたいた。
(なぜ気付かれる…?)
春が訪れ、女は再び森へ戻ってきた。久しく食べていなかった動物の肉が食べたくなり、狩りをするが一向に捕えられずにいた。近づくことはできるものの、あと少しと言うところで逃してしまう。以前はそんなことはなかったのに。
(水浴びは先程したが…。)
体臭のせいかと思ったが、朝に水を浴びた女はそれが原因ではないと思った。戦い方を覚えた女は以前に増して強くなっているはずだ。なのに、なぜ動物が捕まえられない?女は動物の気配を探るために目を閉じた。
*
「いっちょ上がりっと。」
一角は竹で作った罠を弓親に渡した。
「このあたりに仕掛けておこう。」
弓親は川に入り、罠を仕掛けた。早ければ明日の朝食で魚が食べられそうだ。
「……。」
「どうしたの?一角。」
じっと森の様子を窺っている一角に、弓親は耳をすませた。
「時折、森がざわつきやがる。誰かいるな。」
「そうだね。もしかしたら…。」
「行くぞ。」
一角は鞘を持ち、立ち上がった。二人は森の奥へ進んだ。
*
熟れていない固い実を食べる女は水を飲みながら、無理やり喉に流し込んだ。水があるだけ多少は空腹を満たすことが出来たが、やはり物足りない。
女はあの後、何度も狩りを試みたが一向に獲物を仕留める事が出来なかった。焦ってはいなかったが、今まで感じなかった苛立ちが彼女を支配した。空腹とは別の何かが、女を急き立てる。
気持ちを抑えなければ、と思いつつ周囲を探っていると大きな気配に気が付いた。動物ではない、はっきりとした気配…人だ。女は少し考え、心を決めた。決して旨くはないが、食欲を満たすことが出来そうだ。
今まで手に掛けた者の数は五十近いだろうか。女はその時の事をよく覚えていない。ただ、血の匂いと死にゆく者の叫びが脳裏に張り付き、空腹が訪れるたびに女の脳内に響いた。命を狩るのは動物と同じなのに、なぜ心が乱れるのか。以前から「自身の中の化け物がいつか目覚めるのではないか?」と感じていたが、そう思う頻度が増した。この先、自分は一体どうなってしまうのか?心の中で燻る恐怖に駆られながら、女は歩を速めた。
*
生い茂る草木の隙間から光が見える。湖に近いこの付近は動物の通り道からか、道が開けていた。しかしやけに静かな様子に、一角と弓親は緊張の糸を緩めなかった。
「一角。」
弓親の言葉と共に一角は立ち止まった。視線を感じ、その先を見ると小さな人影が見える。小柄な形から女だと分かった。気配は小さなものだが、妙な感じだ。女は視線を合わせないが、こちらの気配を探っているようだった。
「気を付けて一角。」
弓親の言葉に一角は地面を踏みしめた。途端女の姿が消え、凄まじい殺気とともに女が一角の懐に入った。首筋目掛けて小刀を振る女の攻撃を躱しながら、一角は鞘で女の腕の根元を叩いた。女がたじろいだ瞬間を突いて腹に思い切り蹴りを入れる。女は地面を転がるも、瞬時に立ちあがり一角の後ろに控える弓親に襲いかかった。
「おっと、僕は邪魔みたいだね。」
弓親は女の攻撃を躱し、踵を返してその場から離れた。女は一角の攻撃をかわし、距離を取った。
「ほぉ、中々やるじゃねぇか。俺の名は斑目一角!お前は?」
久しく見なかった手応えのある相手に、一角は目の色を輝かせた。
女は黙り込んだまま、再び一角に襲いかかった。
「ちぇっ!挨拶くらいしろよな。」
風を切る音が耳元をかすめ、一角は女の右腕を取った。
「ぐぅ……っ!!!」」
「お前、名は?」
しつこく尋ねてくる一角を、女は睨みつけた。
「そんなものはない!私はずっと一人だった!」
「そうか…。」
女は一角から腕を振りほどき、距離を置いた。名のない者は、一角達が旅をしている時に度々遭遇した。彼女もその一人か。名もないまま死にゆくなんて、動物と同じだと一角は思った。
一方、女は今まで会った中で最も強い相手に遭遇し、苦虫を噛み潰す思いをしていた。下手をすれば殺される。こんなに緊張するのは初めてだ。
(強い…でも殺らなきゃ…。)
女は自前の速さで一角の背後に付くが、一角は反射で女の攻撃を受け止めた。そして鞘から刀を抜き、女の腕を斬りつけた。
「––––––ぅ"っ!!!」
斬りつけられた左腕から赤い血が吹き出る。女は斬りつけられ、出血したのは初めてだった。今まで対峙した男達の攻撃は、女に傷一つつけることすら出来なかったのだ。
(今まで出血したことなんかないのに…痛い…!!)
ジンジンと血が溢れ出す腕をかばい、女は痛みに悶えた。
「なんだ、血を見るのは初めてか?」
うろたえる女の姿に、戦いに慣れていないのだろうかと一角は思った。斬りつけたとはいえ、傷は浅い筈だ。しかし、女は血を見慣れぬと見て、顔を青ざめながら肩で大きく息をしている。
女は視界がボヤけていた。空腹と出血。精神的なダメージが彼女を襲っていた。足元が震える。
『怖い』
人と戦っている最中に、女は初めてそう思った。斬りつけられた腕の指先が冷たくなってくる。息は整ったのに、心を落ち着かせるために女は大きく息を吸うが、一向に良くならない。
(落ち着け…致命傷ではない。アイツを殺れば、私は生き長らえられる。)
女はそう自分に言い聞かせ、再び小刀を握りしめた。
弓親は二人の戦いを木の上から眺めていた。今のところ一角が優勢だが、彼女がどう反撃してくるか分からない。弓親は一角の表情を見て、口元を緩めた。
(一角、愉しそう。)
*
一角は地に足をつき、女の素早い攻撃を受け止めた。先程から女が攻撃を仕掛け、一角は攻撃しなかった。
様子を伺っていた一角だったが、女の単純な攻撃に痺れを切らした。
「さっきの威勢はどうした!?怖じ気付いたか?」
息を切らす女は一角を睨みつけ、舌打ちした。動き、速さは上々。狙い所も悪くない。ただ、強烈な殺気でどこから攻撃してくるか一目瞭然だ。
「んじゃ、こっちも行くぜ!」
刀を振り下ろすと見せかけると、女は身構えたが一角は女の右腕を掴み、腹を斬った。
「ぐあっ…!!!」
傷口から多量の血が溢れ出る。女は膝から崩れ落ちる。一角は女を蹴り飛ばした。
(ちっ…最早、戦意喪失か?)
*
裂けた傷口から熱い液体が流れ出る。空腹と喉の渇き、体温の低下。指先が冷たくなってくる。死が近いのか、身体が動かない。
(これで…お終いか……。)
今まで一人で生きながらえてきたが、ここで終わりだと女は悟った。
だがせめて、口の渇きだけを癒したい。私は腹から出る血を指で舐めとった。
(美味しい……。血、血、ち、ち...。)
いつもと同じ鉄の味がする。しかし、血を舐めた瞬間から唾液が溢れ出す。
もっと血が欲しい。もう…何も考えられない。
(血が欲しい…!!!)
*
終いか。一角は弓親を呼ぼうと周囲を見渡したが、突如耳元を空気が掠めその途端、背中に痛みが走った。
「……っは!簡単に死なねえってか。そうこなくっちゃなぁ!?」
一角は焦点の合わぬ女の目を見て、ニヤリと口元を引き上げた。
先程の迷いが消え、一直線に一角に襲いかかってくる。
一角は女の体を掴もうと合間を伺うが、女は一切隙を見せず迅速に一角を斬り裂こうと攻撃してくる。
(さっきより強くなってやがる...!)
掴まれそうになると女は一角と距離を置き、瞬時に背後に回る。脚を斬られた一角は続けて肩、腰と赤い血が飛び散った。女は刀に付いた血を舐め取り、ニヤリと笑った。
「狂ってんな。」
再び始まった命の駆け引きに、一角は心を躍らせた。続けて女が一角に襲いかかる。一角は女の攻撃を避けながら間合いを詰める。首筋目がけて刀を振り下ろす女に一角は一瞬の油断もならない。
一角は一度、刀を地面に放った。女の肩を掴み、女の頬に拳を入れる。彼女がよろけた隙をつき、腕をつかみ下から身体を入れて投げた。
「がはっ…!!」
背中から地面に叩きつけられた女は顔を歪ませた。一角は拳を女に叩き込むが、女も身体を反転させて一角の攻撃をなんとか逃れようとした。
一角は女の上にのしかかり、刀を握る女の手首を捻り上げた。
刀を落とした女は、抵抗するも一角の力に抑え込まれようとしていた。
「あぁああぁ…っ!!!」
「勿体ねぇ。経験不足だなぁ?」
一角は彼女の刀を奪い、女の首筋に当てた。今まで戦ってきた者は諦めて命乞いをするところだが、この女はどうするだろうか?
「終いだな。」
「ふっ。」
女は一角を一瞥すると、左手を一角の顔面に向けた。一角は背中が粟立ち、とっさに女から離れた。途端、女の手の平から閃光が放たれた。
(あれは、死神が使う技じゃねぇか…。)
女は立ち上がり、素早く一角に襲い掛かった。
(ちっ…厄介だな。)
自分に不利な相手に、一角はどう攻めるか模索した。素早さと急所を狙う的確さは秀逸だが、力と戦いの場数は一角が勝っている。自らの刀を取り返そうと、女は一角の隙を狙う。一角は女の攻撃をうまくかわしながら、自分の刀を拾った。
「俺を斬ってみな!」
一角は彼女の刀を投げ、女に持たせた。女は不審そうに一角を見つめる。一角は刀と鞘を持ち、構えた。
「行くぜっ!」
その言葉を合図に、女は一角に襲い掛かった。打撃を受けながら、一角は女の動きを見ていた。輝きが無く、充血した目。蒼白な肌と退色した唇は渇ききっている。首筋と腕や足は骨が浮き上がり、食事を満足に摂っていないと見える。
「軽いぜ。」
女の攻撃を鞘で受け止める。女は素早く一角の脇を突くが、体を反転させて再度女の攻撃を防いだ。
「弱えっ!!」
女は一角の圧に押され弾き返された。無防備になった女に、一角は重い斬撃を放った。
「がはっ……!!」
女の左肩から右腹にかけてから血が噴き出る。吐血する女は、苦悶の表情を浮かべながら倒れた。
「はぁ…はぁ…。」
今まで絶えずあった殺気が途切れた。一角は息を吐いて地に座り込んだ。女は体を震わせ、痛みにもがいていた。
痛い。血が止まらない。思考が定まらない。目の前が暗くなる。最早痛みすら鈍く感じるほど脳は分からなくなっていた。体の震えは不思議と死への恐怖ではない。
長い闘いだったが、やっとこの痛みから解放される。苦しいと思ったが、女の胸の中は安堵していた。ようやくこれで楽になれると…。
(これでいいんだ。)
女は意識を手放した。
再び訪れた平穏。徐々に生き物の声が森中に響き始める。
「一角。」
刀を拾う一角に弓親は声を掛けた。
「お疲れさま。」
「おう。」
一角も女の攻撃を受けて至る所から出血していた。
「傷の手当と腹ごしらえ、あと新しい着物を新調しないとね。」
弓親がこの後の予定を考えていると、一角は女の刀を拾った。
「一角…?」
弓親は眉を釣り上げる。一角は二本の刀を弓親に渡した。
「ちょっと、どうするのさ?」
意識のない女に歩み寄った一角は、彼女の帯を緩めた。襟を開くと痩せた身体が露わになった。腹から今も鮮血が流れており、一角は弓親から受け取った荷物を開き血止めの薬を手に取った。
「こいつ、名前がねぇんだとよ。」
「……。」
手当する一角を見ながら、弓親は息を吐いた。情けをかけるなんて珍しい、と思っていると嫌な予感が脳裏をよぎった。
「ちょっと待ってよ、まさか連れてくつもりじゃないよね?」
「そのまさかだな。」
一体何を考えているのか、弓親は理解不能だった。治療したところで利などないのだから。
「嫌だよ、僕は!」
弓親の反対を無視し、一角は手当を続けた。
「……。」
弓親は黙って一角の背中を見つめていた。
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