5話:Two Pianos, One Voice.

ホールを後にして、夜の街を並んで歩く。
機嫌を窺うように真優を覗き見れば、まだ怒りが収まらんみたいな顔しとってつい笑いそうになる。

どうしたもんかと、思考を巡らせていると真優の歩みが止まった。
そして――深く息を吸い込んだ。

「はああっ!? もーー! むっっっかつくうぅぅ!!」

そないに大きな声やない。
やけど、腹ん中に溜め込んどった苛立ち全部外に出したるって感じの声の出し方。
俺は思わず目を見開いて、真優を凝視する。

肩で息をして、乱れた髪かき上げて。

「なーにが『演奏家の基本』やねん! 知っとるわ!」
「知ったうえで拒否しとんのよ、こっちは!」

地団太を踏み出す勢いで紡がれる言葉の数々に、俺は我慢ができなくなって吹き出してしもた。
少し前まで、心臓痛くて息しにくかったんが嘘みたいや。

「……っ、ふはっ……ははっ!」

途端に真優の鋭い視線が飛んでくる。

「なに笑てんの!?」

むぅっと口を尖らせて、苛立ちに頬赤らめて凄んでくる真優が可愛くて仕方がない。
本気で怒っとるのに、そんなん思うんは失礼なんかもしれへんけど……。

真優がここまで怒ってくれとるんは俺を庇ってのことで。
そう思うとほんま、心から愛しさが溢れてしゃーないっちゅー話。

「いや、すまん。可愛すぎて、つい」

そう正直に白状すれば、真優は口をへの字に曲げつつも、仕方なさそうに息を吐いた。
笑った俺に対するとばっちりは回避できたみたいや。

真優は気を取り直したみたいに、息を吸い込むと親の仇のように文句を垂れ流す。

「好き勝手曲の指示無視した演奏する奴がよう言うわ!!」
「けっちょんけちょんにしたることも出来たんに!」
「曲優先してせんかったうち褒めて!!」

そこまで一気に言って、俺の前に頭を出してきた。

……撫でろってことか。

随分、子どもっぽい態度やなと思って「えらい、えらい」と半笑いで、頭を撫でてやる。

「もっと! 心込もってへん!!」

そんな理不尽な、とかも思うけど。
頑張ったんはほんまやからな。

俺はゆるりと口角を上げ、真優をぎゅうっと抱き締める。
それから、むくれ顔の真優の頭を再び撫でる。

「はいはい。真優はめっちゃえらい。ほんまよう我慢した」

抱き締めたままそう言い聞かせれば、しばらく黙り込んだあと「そやろ?」と胸に顔寄せてきた。

「おん。めっちゃ格好良かったで」
「……ほんま?」
「うん。めっちゃ冷静やったし格好良すぎて震えたわ」

しばらく、俺の胸に顔寄せて目ぇ閉じとった真優が、小さく息を吐き出した。

なんやちょお落ち着いてきたっぽい。
真優はゆっくりまぶたを持ち上げると、ぽつりと呟いた。

「ほんま、あの高慢ちき。合わせのときから『うちに勝ちたい』が見え透いとって気に食わんかったわぁ……」

――あ、まだあかんわ。

「そやったん」
「合わせの度に神経すり減らしとったぁ」
「言うてくれたらよかったんに」
「……合わせられへん言い訳なんてしたないやん」

今度は俺の胸に頭こすりつけて、ぐずぐずし出す。
ほんまに今回の本番は精神的にいろんな面できつかったんやろな。

そんな思いと同時に、俺は心から感心してしまった。

――ほんまこいつ、すごいな。

『合わせられへん言い訳なんてしたない』なんて。
プロ根性っちゅーやつなんやろな。

コンサート開いてたくさんの人がお金払って聴きに来て。
やのに、全然合わせられてへん演奏なんてした日には、今後の演奏家生命に関わるもんな。
是が非でも、聴きに来た人らに『ええ演奏会やった』って笑顔で帰ってもらいたいんよな、真優は。

「我ぁ強いんはソロのときだけにしてやぁ」
「ははっ! もう勘弁したって」

珍しく文句と泣きごとを垂れ流す真優を、俺はぎゅうっと抱き締める。
傍におるでって伝わるように、強く、強く。

それから、俺は肩口に顔を埋め「なあ、真優……」と口を開いた。

「俺はさ、音楽で生きていこうとかないやん?」
「? まあ、謙也くんはそやな」

真優の腕がそっと背中に回される。

「正直『音楽家やないのに、真優と付き合うててええんやろか?』って考えたことはあんねん」

……言うつもり、なかってんけどなぁ。

自分の意志の弱さに呆れる。
こんなん言うても、真優が困るだけって分かっとるのに。
今日は真優が水瀬のこと突っぱねたから、まだ救われたけど。

背中に回された真優の手がピクリと反応した。
それから、俺の背中を何度も真優が撫でる。

「ピアノせぇへんからって、いけずなことでも言われた?」
「まあ、ちょっとな。いろいろあった」
「ほんま、あの人嫌やわ。しょーもないことして」

それから、真優は静かに――それでいて安心させる声音で告げた。

「別に人生、音楽だけやないねんし。他のことでうちより秀でとる人なんて沢山おるやん」
「……」
「謙也くんやってその一人よ。テニスできて、頭良くて。うちよりすごいとこなんて数えたらきりないくらい」

真優はそう言い切ったあと「それにな」と続けた。

「確かにうちはピアニストやけど――別に、音楽の世界だけで生きていきたいわけやないし」

真優の手が俺の頭に伸びて、ゆっくりと撫でてくる。

「謙也くんはうちの世界に色取り戻してくれた人やで」
「傍いてもらわな困るわ」

真優の心からの言葉に、ようやく胸に刺さったナイフが抜けた。
きっと、この先また同じようなことで悩むこともあるんやろけど。

でも、その度に真優となら乗り越えられる気がする。
そう本気で思わせてくれる真優って、ほんまにすごいやっちゃな。

「……あかん。ほんま好きで堪らん」

そっと真優の頬に手を添えキスをする。
一瞬、真優の目が見開いて、俺を映し込んだかと思えば、すぐにゆるりと細められ、受け入れるように閉じられた。

その一連の動作すら愛しくて――。

小さなリップ音を立て離れた。
まぶたを持ち上げれば、頬を桃色に染めた真優の淡い水色の瞳が、不安げに俺を覗き込んでいる。

「……うちと付き合うん、嫌になっちゃった?」

おずおず問うてくる真優に、俺は首を横に振って答える。

「そんなわけあるかい」
「絶対手放したらん思うたとこやわ」

ふわりと真優が安心したように笑う。
この笑顔、見られるだけで充分やん。

真優の周りには、同世代の音楽家がたくさんおって――水瀬みたいに真優に惹かれとる奴もおって。

でも、真優が選んだんは俺や。
そう今なら自信持って言える。

音楽もろくにやってへんけど、それでも傍におれる。
よう考えたら、その方がすごいことやったりせぇへん?

音楽っていう垣根を取っ払って、それでも愛されるって、ほんまにすごいことやろ。
せやったら、俺は――この愛おしい彼女をどこまでも大切にするに決まっとるやんか。

この先どんなことがあっても、手放してやらへんからな。
覚悟しいや!

そんな決意を胸に、俺はもう一度だけ真優をきつく抱き締めた。
もう絶対揺らがへん。
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