5話:Two Pianos, One Voice.

終演後、そそくさと着替えを済ませた真優は(着替えの最中は廊下に追い出された。)、ドレスをたたみスーツケースに押し込んでいる。

「ほんま、うちがセコンドやなかったら崩壊しとったで!?」

ぷっくーと頬を膨らませて、勢いよくスーツケースを閉める真優に笑いを禁じ得ない。

二台ピアノを演奏すると真優に聞いたとき、プリモとセコンドについて軽く調べた。

この演奏会、すべての曲で真優がセコンドを担当しとった。
真優の演奏力やったらプリモを弾けばきっと華やかになるのに、なんでやろ? と思ったんが発端。

二台ピアノを演奏するにあたって、プリモは高音域――主旋律を担当するケースが多い。
やけど、そのメロディーラインを浮き立たせるには安定した土台が必要で。
つまるとこと、セコンドはプリモと比べたときに実力者が担当するケースが多いっちゅー話。

やから、憶測やけど。
実際のところ、旋律のプリモやなくて、支えるセコンドが主導権握った方が曲は安定するんやろな。

けど、真優は水瀬のやっかいなプライドを見抜いとった。
だからこそ、ぎりぎりまで主導権持たせてたんやと思う。
曲の世界観壊さんために。

「せやな」
心の中で真優に拍手を送りながら、俺は同意した。

――そのとき、コンコンと楽屋の扉がノックされた。

真優はやれやれとため息を吐いたあと「どうぞ」と扉の方を向く。
ドアノブがひねられて、押し開けられた扉から顔をのぞかせたのは水瀬。

水瀬は軽く片手を上げると「お疲れさま」と、当たり前のように楽屋の中へ入ってきた。
そして、有無を言わさず真優の両手を取る――瞬間、真優の肩がびくりと跳ね上がった。

「小鳥遊さん、今日はほんまにええ演奏会でした」
「そ、そら何よりです」

真優が明らかに引いとる。

ここまであからさまな真優の態度に俺は珍しいなと瞬く。
笑顔が引きつっとって、取られた手ぇ早よ離したくてしゃーないみたいな。

俺は真優から視線をゆるりと水瀬に向けた。
水瀬はそんなことお構いなしで、にこにこと笑顔を浮かべている。

「ぜひ、またご一緒しましょう!」

そう告げられた瞬間、真優は一瞬だけ目を細め、それから改めて笑顔を張り付けた。

「……そう言うてもろて、ありがとうございます」

誘われて、もしほんまにやりたいとかやったら、真優は「ぜひ! タイミング合わせてやりましょう」くらいは返すんやろけど。
そうせんかったってことは、やんわりとした拒絶。

――強かっちゅーか、なんちゅーか……。

こんな奴相手でも、失礼にならんように返すんよな。
そこはちょっとだけ見習いたいって思ったり。

そんなことを考えて感心していれば、不意に水瀬の視線が俺に向けられた。
なんやねん、と眉根を寄せれば、水瀬は小さく笑ってから再び真優に視線を戻す。

「したら、次回の打ち合わせもかねて打ち上げでも行きましょう」

真優は笑顔を張り付けたまま、すっと水瀬の手から抜け出して、言葉を紡ぐ。

「すんません。今日は彼が来てくれとるんでうちはこれで」
「打ち上げ楽しんでくださいね」

穏やかな口調で丁寧に断りを入れ、頭を深々と下げる。
「水瀬さんとご一緒できて、いろいろ勉強になりました」
ゆるりと上体を起こし真優はスーツケースを手に取った。

「ほなら、失礼します」

あまりの撤退の速さに、普段せかせかしている俺の方が慌ててしまう。

少し前、侑士に『演奏家にとって打ち上げの参加は義務みたいなもん』と聞かされていただけに、この真優の行動に不安を覚える。
俺は真優に差し入れられたプレゼントの数々を手に持ちつつ、耳打ちする。

「ほんまにええん?」
「ほんまにええの」

小声で言い切る真優は、足早に水瀬の横をすり抜け、楽屋の扉に手をかけた。
カチャリと真優がドアノブをひねった瞬間、水瀬の声が背中を刺す。

「打ち上げの参加は演奏家の基本やろ?」
「小鳥遊さんほどの奏者がそんなこと分からんわけやないやろうに」

真優の手が止まる。
長いまつげが苛立ちを飲み込むようにゆっくりと上下した。
けれど、そんな様子に水瀬は気付かない。
水瀬は嘲笑を含んだ声音で続けた。

「そのなんも分かってへん彼の影響? ほんま勿体ない」

胸に突き刺さっとったナイフ、更に深々と突き立てられた気がした。
一気に胸が苦しくなって、息が上手く吸われへん。

こいつのことは癪に障る。
けど……っ。
俺のせいで、真優の――ピアニストとしての真優の評判落ちるんだけは絶対嫌やっ!

俺はぐっと胸の痛みを飲み込むと「っ、真優」と名前を呼ぶ。
「俺のことはええから。行ってきてええで」
そう告げるのが今できる精一杯やった。

正直、めっちゃ嫌やけど。
でも、しゃーないやん。

真優はそういう世界で生きとって、これからもクラシックの世界で名を馳せていく。
そんな彼女の邪魔だけは、絶対にしたくなかった。

真優はゆっくり息を吸い込むと、すっとドアノブから手を離した。
これでええんや、と諦めにも似た悔しさに拳を握ったとき――ほんまに小さな、ものすごく小さな舌打ちが隣から聞こえてきた。

「……え?」

俺が思わず声を上げたと同時に、全部の感情そぎ落としたみたいな声がこぼされる。

「好き勝手言いよってからに」

きっと聞こえたんは俺だけ。
真優の怒りを無理矢理抑え込んだみたいな声に、背筋が泡立つ。

真優は大きなため息を吐いて水瀬を振り返り、にっこり笑った。

初めて笑顔が怖いと思った。
それは水瀬も同じようで、真優見て固まっとる。

「なんも分かってへんのは誰です? 水瀬さんでしょ?」

しんっとその場が凍り付く。
……静まり返った楽屋で、時計の音だけが響いている。
真優は笑顔を引っ込めると、淡々と言葉を紡いだ。

「うち、本番で合図出しましたよね?」
「『戻ってきい!』って」
「やのに自分の演奏立て直すのに必死で無視しよって」
「暴走プリモ制御するこっちのことも考えてください」

水瀬を真っ直ぐ射抜く、真優の瞳は冷たい。
思わぬ姿に、その言葉を直接向けられていない俺ですら恐れを覚える。

「水瀬さんの演奏は確かに強い。それに技術もすごいと思います」
「うちにはその強さはありませんし、技術力やって見習うべきところはある」

真優の言葉が止まらない。
本番を迎えるまで溜めに溜め込んどった不満が、あの一言をきっかけに爆発してしもうとる。

ただ、水瀬も思うところがあるのか――はたまた、穏やかで柔和な真優がここまで言うことに驚いているのか、一切言葉を発しない。

完全に真優の独壇場。

「やけど、二台ピアノは対話です。勝負やない」
「主導権取ることに必死になって曲壊しかけて」
「ほんまなんも分かってへんお人ですね」

真優はキッと目を細めると淡々と静かに言い切った。

「そんな人と、うちは二度とピアノ一緒にやりたないです」

真優はちらりと俺を見ると、静かに手を引き「行くで、謙也くん」と、楽屋を後にした。
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