5話:Two Pianos, One Voice.

数刻後、本番が始まった。
満員御礼のホールの舞台上で、真優と水瀬がアイコンタクトを取りつつ鍵盤に指を走らせる。

俺は舞台袖からその様子を見守っとった。
本番が始まる前、真優に「客席の方行っててもええよ?」って言われてんけど。
今日だけはどうしても一番近くで見ていたくて、こちらに残ることにした。

リハーサルのあと、水瀬に言われたことは結局、真優には伝えていない。

――本番前に伝えることとちゃうしな。

ただ、あのときの水瀬の言葉は俺の胸に深く食い込んどって、気ぃ抜いた瞬間に何度も刺してくる。

スポットライトに照らされた真優の真剣な表情が真正面に見える。
やけど、彼女の視線は一度やって俺に向けられることはない。

本番中やねんから、当たり前っちゃ当たり前なんやけど。

こうやって見とると……。
どんだけ手ぇ伸ばしても届かへん気してまうな。

二台ピアノの楽曲が寸分も違わぬ調子で奏でられていく。
真優は水瀬の様子を注意深く窺いながら、息を合わせる。

やけど、ほんの一瞬。

水瀬の音が前に出過ぎて、わずかにバランスが崩れた。
同時に真優の顔がしかめられる。

それでも真優は冷静に、合わせる方向で演奏全体をまとめあげる。
その手腕に脱帽する。

数時間前に行われたリハーサルとは全く違う水瀬の演奏に対応していく真優の即応力の高さと、技術面に度肝を抜かれた。

今の真優、ものすごい神経使って演奏しとる。

真優の順応力の上に成り立った、演奏はついに最終楽章まで辿り着いた。

セルゲイ・ラフマニノフ
二台のピアノのための組曲第二番作品十七
――第四楽章 タランテラ。

この曲はセコンドの真優先行で始まる。
真優の一呼吸を合図に、ピアノの音色がホールに響き渡った。

今までの楽曲とは明らかに違うアップテンポな八分の六拍子が会場を駆け抜ける。
真優から始まったメロディーラインはすぐさまプリモの水瀬に受け継がれ――一拍、ズレた。

即座に真優が合図を出す。
『戻ってこい』って。
素人の俺でも分かるくらい、分かりやすく。

やのに、水瀬は自らの演奏を立て直すことに必死で、気が付かない。
真優の目が細められ――指が和音をかき鳴らす。


次の瞬間、主導権はもう真優のものやった。


それがあまりにも鮮やかで、多分客席におる人らには全く分からんかったと思う。

真優が主導権を握って演奏は続く。
そのことに気付いとるのは、舞台袖から真っ直ぐに真優を見とる俺と、相方の水瀬くらい。

主導権が真優に渡った瞬間、ほんの一瞬、水瀬の肩が揺れ、指に迷いが生じた。
まさかこんな一瞬で、主導権を奪われるなんて一切思ってへんかったんやろな。

真優の鋭い眼光が水瀬を貫いて、有無を言わせず従えさせる。
思わず背筋がぞくりと震えた。

――真優、めっちゃ格好ええやんけ!

どうにかまとめ上げた曲に送られるのは、盛大な拍手。
拍手の中、真優と水瀬は立ち上がり、優雅に一礼をした。

それから、舞台袖にはける真優に水瀬は手を差し出す。
こういう演奏会って基本レディーファーストやからな。いわゆる『お手をどうぞ』ってやつ、なんやろけど。
真優はにっこりとほほ笑んで、それを躱し一足先に舞台袖に戻ってきた。

客席から完全に見えなくなったところで、真優はふーっと長く息を吐き出した。

「めっちゃよかったで」
そう言って真優に寄れば、彼女は瞬いて、肩をすくめる。
「……それ、ほんま?」

きっと、真優の中では及第点ギリギリの演奏。
まあ、ずっと水瀬に合わせとったしな、と小さく笑えば、その背中に「いや、肝冷えるわ」と声が掛けられた。

途端に、真優の口が不服そうにへの字に曲げられる。
けれど、いつまでも俺の方を向いたまま無視するわけにもいかんかったのか、口角を無理やり上げ、水瀬を振り返った。

「すんません」
「最終楽章で急に主導権を取られると、こっちの調子が崩れるやろ?」

穏やかな調子で口にしとるけど、水瀬の言葉の端々に苛立ちが滲んでいる。
真優はそれを真正面から受け止めると、もう一度だけ「すんません」と口にして続けた。

「あんまりにも強い演奏やったんで」

はっきりと、けれど柔らかな口調で言い切った。
俺は思わず宙を見上げる。

――これ『我出し過ぎやわ』って釘刺しとるんや。
こっわ……。
やけど、少しだけ胸が晴れるっちゅーか。

そういや、前からずっと『強い演奏しはる人』って真優言うとったな、なんて今になって思い返す。
真優らしい意趣返しに、俺は小さく笑った。

水瀬は一瞬、きょとんとしたかと思えば「ははっ!」っと吹き出す。

「確かに。もう少し小鳥遊さんのことを考えるべきやったな。僕としたことが」

あ、通じてへんっぽい。
別に真優、水瀬に負ける思て主導権奪ったんやないねんけど。

呆れてため息をそっと吐けば、真優も似たような表情でため息を吐いとった。
何言うても分からんなこの人、とか思っとるな、これは。

真優は一度目を伏せると、ゆるりとまぶたを持ち上げて淡々と言葉を紡いだ。

「なんにせよ、無事弾き切ったんですから」
「お疲れさんでした」

その言葉の冷たさにうすら寒いものを感じつつ、その場を後にする真優に俺は付き従った。
今はあんま刺激せん方がよさそうや。
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