9話:あの人の思い

九月に入り、入賞者コンサートが迫っていた。
あの日、入賞した私たちに課されたのは、三十分前後のピアノ協奏曲。
コンクールから約一ヶ月で仕上げろなんて――運営も無茶を言う。

私は連日、自宅のピアノ室で暗譜と練習に追われていた。
やけど、頭の片隅にこびりついて離れないのはお母さんのこと。

――なんで、何も言ってこんのやろ?
逆に調子狂う……。

いつもなら、お母さんに情緒をぐちゃぐちゃにされてから、自分の演奏のことを考えるのに。
今回は、最初から自分の演奏だけに集中できている。
正直、かなり安定している。

――いいことなんやろうけど、分からへん。
お母さんやって、何か思うことはあるはずやのに。

沈黙は優しさなんかやない。
むしろ、何考えてるんか分からんくて――得体の知れない気味の悪さが、演奏にさえまとわりついていた。

□ + ◇ + □

入賞者コンサート三日前から、ソリストとオーケストラとのゲネプロが行われとる。
申し訳ないと思いつつ、私はこの三日間――それから本番の計四日間、部活をお休みすることを伝え、連日ホールに通っている。

ゲネプロ最終日のリハーサルを終え、私はすっかり暗くなってから帰宅した。
……やのに、リビングの明かりがついている。

――お母さん、起きてるんや。

私は小さなため息を吐くと、出来るだけお母さんを刺激しないように自室へ向かう。

本番前日に、何か仕掛けられたら堪ったもんやない。
なんでこんなにびくびくせなあかんのやろ、と自分に呆れつつ、階段に足を掛けたそのときやった。

「真優」

背筋が凍った。
今の今まで暑かったのに、一気に指先まで冷たくなる。

あの日以来、初めて聞くお母さんの声。
肩に反射的に力が入り、呼吸が浅くなる。

私は一度、目を閉じゆっくりまぶたを持ち上げると、そろりと振り返った。

「なに?」

お母さんが私の目を見て、それから逸らした。
それから、廊下の端の暗がりを彷徨うみたいに視線が動いて、ふっと伏せられる。

言いたいことはあるんやろうけど、言い淀んでいる様子に、私は思わず首を傾げる。

「用ないんやったら、荷物置きに行ってええかな?」

私は出来るだけいつも通りを装って問う。
ただ、心臓だけは早鐘のように鳴っていて。
これまで積み重ねてきたお母さんに対する恐怖がまた顔を覗かせる。

お母さんはふっと短い息を吐き出すと、くるりと背を向けた。
そして――

「……明日、頑張りなさいね」

たった一言。
お母さんはそれだけ言うとリビングに戻っていった。

私はしばらくその場を動くことができなかった。
あのお母さんが私に「頑張れ」と言ったことが信じられへん。

ただ、耳に届いた言葉は確かに本物で。

私は口元に小さな笑みを浮かべると、誰も居なくなった廊下に「頑張るわ」と一言返した。
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