6話: You are the most important to me.
「……お母さん」
勢いよく開け放たれた扉から入ってきたのは、お母さんやった。
みんなが帰ったあとでよかったと心の中で思う。
「そないに怖い顔して、どないしたん?」
無意識に声が硬くなる。
カツカツとヒールを鳴らして、私の前に立つとお母さんは「あんな演奏で一位取って満足?」と捲し立てた。
「カデンツァの強弱の振れ幅が弱い」
「プロの世界やったらやってけるわけないじゃない!」
いつもなら、お母さんの怒りが収まるのを、嵐が過ぎ去るのをただ、ただ黙って待つ選択をしたと思う。
やけど――。
「うち、もうプロやねんよ。お母さんと違って」
今日は言い返してしまった。
きっと、直前にみんなに会ったから。
このままやったらあかんって、勇気もらえとったから。
私は手が震えていることを悟られないように、ドレスの影に隠してぎゅっと握った。
同時に「……なんですって?」と、お母さんのスイッチが入る音も聞こえた。
「あんた、誰に向かって言ってんの!?」
金切声がキーンと耳に響く。
怖くない、と言ったら噓になるけれど、今日ここで言い返さなあかん気がした。
私は一度口を真一文字に結ぶと、目一杯息を吸い込んで――それでも、出来るだけ感情的にならへんように口を開いた。
「約束した通り、ちゃんと一位取ったやん」
「だから何? それが偉いとでも思てんの?」
「一位取ったんが偉いとは思ってへんよ」
淡々と言い切って、短く息を吐いた。
多分、今から言おうと思うてること口にしたら、もう戻られへん。
「やけど、お母さんはうちに文句言う資格ないで」
「!? 誰に向かってそんな口――っ」
顔真っ赤にして怒鳴り散らすお母さん。
なんで、こんな人になってしまったんやろう。
私がピアノ始める前は――きっと壊れていなかった。
自分が目指したコンサートピアニストの夢を、私に重ねたお母さん。
最初は私がピアノ弾けるって喜んだのに、気付いたときには、過去のお母さんなんて軽く飛び越えとって。
嫉妬。
羨望。
憎悪。
ぐちゃぐちゃに混ざった、感情に支配されておかしくなってしまったこの人を哀れに思う。
やけど――。
「言いたいことあるなら、実績つけてから言うて!」
私はお母さんの傷を抉るように言い放った。
お母さんが息を飲んで、目を見開く。
「うちは! コンクールで何回も優勝しとる!」
始めて出た五歳のピアノコンクール。
いきなり一位になった。
「お母さんと違って嫌なことあっても諦めへんかった!」
家族から罵られて、恨まれても。
ピアノだけは諦めへんかった。
「他に何を望むん!?」
これ以上ないものを、私は貴女に与えたでしょう?
「うちはきっとこの先もピアノはやめへん」
言葉が自分の中で跳ね返って、胸の奥で鈍く響いた。
ピアノは――私の人生そのもの。
尚が『やめてもいい』って言うてくれたこともあったけど――心のどこかで、怖かった。
やめたら、今までの私が全部、消えてしまう気がして。
「お母さんがどんなに悔しがったってやめたれへん!!」
声が震える。
怒鳴りたいわけやない。
ただ、誰にも奪われたくなかった。
妬まれても、蔑まれても――。
この手からピアノを放り投げるなんて、できへん。
息が急に詰まる。
一瞬、視界が滲んだ。
「……やから、もう解放してや」
搾り出すように言葉が漏れた。
お母さんの夢も、妬みも、憎しみも。
全部、私を縛る鎖――。
「もう、お人形でおるんはしんどいねん……」
静かな空気の中で、その一言だけが――あまりに重たく響いた。
これ以上、お母さんの望む姿でいたら、私は私がなくなってしまう。
瞬間、お母さんの手が振りかぶられた。
怒りの沸点を越えて、暴力という形で発散せな、自分を保たれへん。
ほんま、哀れやわ。
「……都合悪なったらすぐ暴力やな」
びくりとお母さんが止まる。
多分、お母さんも心の奥底では気付いとる。
自分の夢、娘に背負わせて。
やのに、悔しくてしゃーなくて。
自分で自分の首絞めて。
自分と娘は別の人間やって、いつになったら受け入れてくれるんやろか。
受け入れられへんのなら、うちが取れる最後のお母さんへの愛は、突き放すしかないんやで。
「うちに勝たれへんくせに、ようやるわ」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
お母さんはうまく呼吸できんみたいに、肩を上下させて。
振り上げていた手をだらんと降ろして、歯ぎしりをしたあと、踵を返して走っていった。
背中向ける前に一瞬だけ見えたお母さんの顔は、今にも泣きだしそうで。
やのに、その姿を見ても私は『やってもうたなぁ』って他人事で。
そんな自分のことが怖くなった。
勢いよく開け放たれた扉の前で、お母さんは謙也くんにぶつかりそうになって、一瞬減速した。
それから低く小さな声で「退きなさいよ」と呟き、いなくなってしまった。
ドアが閉まる音が、楽屋の静けさに吸い込まれた。
私は困ったように謙也くんに笑い掛ける。
「タイミングの悪いお人やなぁ」
「……なんや、ちゃんと言い返せるんやん」
謙也くんはちょっとだけ笑って言うてくるけど、反対に私は作った笑顔、顔に張り付けたまま固まった。
「待って。どこから聞いとったん」
「『プロやねんよ、お母さんと違って』から」
「全部やん」
最初から聞かれていたことに、息が詰まった。
あんな、家族傷つけるような言葉を吐く人間だなんて、知られたくなかった。
きっと幻滅した。
そう思うのに、私に向けられる謙也くんの表情は、ほんま優しくて……。
「強なったな」
予想外の謙也くんの言葉で、頭が真っ白になった。
やってそうやん。
あんなに家族を大事にしとる人が、家族のこと突き放すとこ見て……。
咎められることはあっても。
まさか、そんな……。
意識しても表情が震える。
どうにか落ち着けようと、手のひらに爪が食い込むほど強く握っていた手を解くけど。
俯いて、ゆっくり息を吸ってみるけど。
自分が崩れないように耐えてみるけれど。
――どうにもならなくて。
「強く、なんか……っ」
こぼれ落ちた言葉をきっかけに涙が溢れ出した。
染みついとった恐怖は簡単に消えるもんやなくて。
それでも、これ以上心が壊されたら取り返しがつかんくなる気がして、お母さんに楯突いた。
でも、ぎりぎりのところで形を保っていた私の心は――。
全部、謙也くんが認めてくれた。
そう理解した瞬間、糸の切れた操り人形みたいに崩れ落ちた。
もうこれ以上、一人では形保てへんみたいに、ガラガラ音を立てて。
視界に謙也くんのぎょっとした表情が一瞬だけ映り込む。
ただ、本当に一瞬だけ。
そのあとは、涙で滲んで何も見えなくなった。
勢いよく開け放たれた扉から入ってきたのは、お母さんやった。
みんなが帰ったあとでよかったと心の中で思う。
「そないに怖い顔して、どないしたん?」
無意識に声が硬くなる。
カツカツとヒールを鳴らして、私の前に立つとお母さんは「あんな演奏で一位取って満足?」と捲し立てた。
「カデンツァの強弱の振れ幅が弱い」
「プロの世界やったらやってけるわけないじゃない!」
いつもなら、お母さんの怒りが収まるのを、嵐が過ぎ去るのをただ、ただ黙って待つ選択をしたと思う。
やけど――。
「うち、もうプロやねんよ。お母さんと違って」
今日は言い返してしまった。
きっと、直前にみんなに会ったから。
このままやったらあかんって、勇気もらえとったから。
私は手が震えていることを悟られないように、ドレスの影に隠してぎゅっと握った。
同時に「……なんですって?」と、お母さんのスイッチが入る音も聞こえた。
「あんた、誰に向かって言ってんの!?」
金切声がキーンと耳に響く。
怖くない、と言ったら噓になるけれど、今日ここで言い返さなあかん気がした。
私は一度口を真一文字に結ぶと、目一杯息を吸い込んで――それでも、出来るだけ感情的にならへんように口を開いた。
「約束した通り、ちゃんと一位取ったやん」
「だから何? それが偉いとでも思てんの?」
「一位取ったんが偉いとは思ってへんよ」
淡々と言い切って、短く息を吐いた。
多分、今から言おうと思うてること口にしたら、もう戻られへん。
「やけど、お母さんはうちに文句言う資格ないで」
「!? 誰に向かってそんな口――っ」
顔真っ赤にして怒鳴り散らすお母さん。
なんで、こんな人になってしまったんやろう。
私がピアノ始める前は――きっと壊れていなかった。
自分が目指したコンサートピアニストの夢を、私に重ねたお母さん。
最初は私がピアノ弾けるって喜んだのに、気付いたときには、過去のお母さんなんて軽く飛び越えとって。
嫉妬。
羨望。
憎悪。
ぐちゃぐちゃに混ざった、感情に支配されておかしくなってしまったこの人を哀れに思う。
やけど――。
「言いたいことあるなら、実績つけてから言うて!」
私はお母さんの傷を抉るように言い放った。
お母さんが息を飲んで、目を見開く。
「うちは! コンクールで何回も優勝しとる!」
始めて出た五歳のピアノコンクール。
いきなり一位になった。
「お母さんと違って嫌なことあっても諦めへんかった!」
家族から罵られて、恨まれても。
ピアノだけは諦めへんかった。
「他に何を望むん!?」
これ以上ないものを、私は貴女に与えたでしょう?
「うちはきっとこの先もピアノはやめへん」
言葉が自分の中で跳ね返って、胸の奥で鈍く響いた。
ピアノは――私の人生そのもの。
尚が『やめてもいい』って言うてくれたこともあったけど――心のどこかで、怖かった。
やめたら、今までの私が全部、消えてしまう気がして。
「お母さんがどんなに悔しがったってやめたれへん!!」
声が震える。
怒鳴りたいわけやない。
ただ、誰にも奪われたくなかった。
妬まれても、蔑まれても――。
この手からピアノを放り投げるなんて、できへん。
息が急に詰まる。
一瞬、視界が滲んだ。
「……やから、もう解放してや」
搾り出すように言葉が漏れた。
お母さんの夢も、妬みも、憎しみも。
全部、私を縛る鎖――。
「もう、お人形でおるんはしんどいねん……」
静かな空気の中で、その一言だけが――あまりに重たく響いた。
これ以上、お母さんの望む姿でいたら、私は私がなくなってしまう。
瞬間、お母さんの手が振りかぶられた。
怒りの沸点を越えて、暴力という形で発散せな、自分を保たれへん。
ほんま、哀れやわ。
「……都合悪なったらすぐ暴力やな」
びくりとお母さんが止まる。
多分、お母さんも心の奥底では気付いとる。
自分の夢、娘に背負わせて。
やのに、悔しくてしゃーなくて。
自分で自分の首絞めて。
自分と娘は別の人間やって、いつになったら受け入れてくれるんやろか。
受け入れられへんのなら、うちが取れる最後のお母さんへの愛は、突き放すしかないんやで。
「うちに勝たれへんくせに、ようやるわ」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
お母さんはうまく呼吸できんみたいに、肩を上下させて。
振り上げていた手をだらんと降ろして、歯ぎしりをしたあと、踵を返して走っていった。
背中向ける前に一瞬だけ見えたお母さんの顔は、今にも泣きだしそうで。
やのに、その姿を見ても私は『やってもうたなぁ』って他人事で。
そんな自分のことが怖くなった。
勢いよく開け放たれた扉の前で、お母さんは謙也くんにぶつかりそうになって、一瞬減速した。
それから低く小さな声で「退きなさいよ」と呟き、いなくなってしまった。
ドアが閉まる音が、楽屋の静けさに吸い込まれた。
私は困ったように謙也くんに笑い掛ける。
「タイミングの悪いお人やなぁ」
「……なんや、ちゃんと言い返せるんやん」
謙也くんはちょっとだけ笑って言うてくるけど、反対に私は作った笑顔、顔に張り付けたまま固まった。
「待って。どこから聞いとったん」
「『プロやねんよ、お母さんと違って』から」
「全部やん」
最初から聞かれていたことに、息が詰まった。
あんな、家族傷つけるような言葉を吐く人間だなんて、知られたくなかった。
きっと幻滅した。
そう思うのに、私に向けられる謙也くんの表情は、ほんま優しくて……。
「強なったな」
予想外の謙也くんの言葉で、頭が真っ白になった。
やってそうやん。
あんなに家族を大事にしとる人が、家族のこと突き放すとこ見て……。
咎められることはあっても。
まさか、そんな……。
意識しても表情が震える。
どうにか落ち着けようと、手のひらに爪が食い込むほど強く握っていた手を解くけど。
俯いて、ゆっくり息を吸ってみるけど。
自分が崩れないように耐えてみるけれど。
――どうにもならなくて。
「強く、なんか……っ」
こぼれ落ちた言葉をきっかけに涙が溢れ出した。
染みついとった恐怖は簡単に消えるもんやなくて。
それでも、これ以上心が壊されたら取り返しがつかんくなる気がして、お母さんに楯突いた。
でも、ぎりぎりのところで形を保っていた私の心は――。
全部、謙也くんが認めてくれた。
そう理解した瞬間、糸の切れた操り人形みたいに崩れ落ちた。
もうこれ以上、一人では形保てへんみたいに、ガラガラ音を立てて。
視界に謙也くんのぎょっとした表情が一瞬だけ映り込む。
ただ、本当に一瞬だけ。
そのあとは、涙で滲んで何も見えなくなった。