5話:支配者
舞台裏から、コツコツというヒールの音が聞こえる。
心臓が早鐘に鳴り始める。
吐きそうや。
やけど、俺の緊張は真優の姿が見えた瞬間、ただの杞憂になった。
真優が一歩舞台上に足を踏み出した瞬間――ホール全体の空気が張り詰めた。
同時に、他の挑戦者の未来は切り捨てられた。
観客の咳払い一つ聞こえない。
それどころかいたるところで、息を飲む音が重なる。
部活で「全国制覇や!」って本気でやってる俺ですら、桁違いやと思う圧倒的な存在感に、正直、恐怖を覚えた。
それは俺だけやなかったみたいで、横目で白石や財前を見れば、目見開いて固まっとる。
無意識なんやろうけど、二人とも白くなるほど手を握りしめとった。
――なんや、これ……。
真優はピアノの前に立つと深く沈み込むように一礼をして、ピアノ椅子に腰掛けた。
たったそれだけの――他のピアニストもやっていた同じ動きのはずやのに。
客席を支配する空気に、誰もが息を吸うタイミングを見失った。
真優はしばらく目を閉じてから、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
小さな呼吸音のあと鍵盤の上を流れるようにして、真優の演奏が始まった。
たった一音、弾いただけのはずやった。
けれど、その一音は静かな湖面に投げ込まれた一粒の雫が、無限に広がっていくようにホールを支配する。
真優の指先が描くのは、目に見えん物語やった。
人間の中にあるさまざまな感情を刺激して、離さない。
人によって、受け取り方は違うと思うのに、一音ごとに、心臓を鷲掴みにされる。
このホールにいる俺たちは、最後の一瞬まで目を離すことを許されていない。
弱音の粒立ちが信じられないほど明瞭に響き渡る。
低音の一撃が響くと、ホールが地響きのように揺れた。
静かに鍵盤が歌えば、ホール全体が息を飲むように凍りついた。
思わずその指先を目で追ってしまう。
俺たちの知る柔らかにほほ笑む少女はいない。
そこにいるのは、音を、空間そのものを掌握する支配者。
真優の音が響くたび、空間が彼女の色に塗り替えられていく。
甘く、もの悲しげに歌う旋律は命令だった。
聴衆は逆らえず、ただ従うしかない。
支配者が手を下ろすまで、世界は音に縛られた。
最前列で審査員のペンが止まっている。
膝の上のプログラムが震える。
――なのに、なんでやろうな。
どうしてこんなにも、あたたかに包み込まれるんやろう。
一心不乱に演奏する真優の手元がきらりと光った。
一粒ダイヤのネックレスが腕の動きに合わせて舞い踊る。
ラストに向け、曲はさらに熱気を帯びていく。
さまざまな感情が音に乗り、怒涛の大群となって駆け抜け――真優は最後の一音まで、気持ちをのせて弾ききった。
ホール全体が一瞬の静寂に包まれる。
真優がふっと小さく息を吐き出した瞬間、静寂の糸がぷつりと切れ、割れんばかりの拍手に湧いた。
多分、このホールにおる全員が同じことを考えた。
小鳥遊真優の存在はあまりに異質や。
春に演奏を聞いたときのような、苦しさや悲しさは感じない。
けど、この場を支配する雰囲気は圧倒的で。
次元が違う。
人間の領域を超えとった。
喉が鳴る。
真優が――勝ちに行く演奏をしたんや。
そう理解した瞬間、俺は小さく笑った。
ほんま、すごい奴や!
□ + ◇ + □
真優はピアノ椅子に座ったまま、数回呼吸を整えると、ゆっくりと立ち上がった。
客席に改めて向き直る。
瞬間、観客たちが一瞬どよめいた。
今、俺たちが見ている真優はいつもの真優で。
にこにこほほ笑んで、満足げに礼をして舞台袖にはけていく。
――いや……さっきの誰やねん。
登壇してとんでもない演奏をした真優と、今、降壇していった真優が結びつかない。
「なんや、めっちゃ強そうやったのに……。今の真優、めっちゃ可愛いかったなぁ?」
とは、金ちゃんの言葉。
――完全に同意過ぎるで、金ちゃん……っ!
「……ギャップで脳焼いていくタイプばい」
「いや、マジでどっちがほんまの顔なんすか、あの人」
「やーん! 真優ちゃん素敵ぃ!」
「は!? 浮気かっ!?」
「わしらが知っとる真優はんと、同じ人なんやろか」
「とんでもないもん、見せられたなぁ……」
「これが天賦の才ってやつなんやろな」
拍手喝采の中、それぞれ思い思いの言葉を口にする。
俺もかねがねみんなと同意見や。けど――。
真優の意地、ちゃんと見せてもろたで。
おかんに啖呵切った日から、負けたないって思いでここに照準合わせてたのも知っとる。
真優自身のプライドが妥協を許さんかったのも知っとる。
才能の裏に隠された血のにじむ努力を――俺は知っとる。
「……ほんま、ようやったな真優」
一向に鳴りやまぬ拍手の中、俺は長い息を吐き出した。
会場の拍手。
全部持っていきよったな、あいつ。
あの笑顔に隠された、爪痕みたいな闘志をずっと見てきたんや。
俺はふっと笑みをこぼした。
最後の一音が、まだ胸に残っとる。
心臓が早鐘に鳴り始める。
吐きそうや。
やけど、俺の緊張は真優の姿が見えた瞬間、ただの杞憂になった。
真優が一歩舞台上に足を踏み出した瞬間――ホール全体の空気が張り詰めた。
同時に、他の挑戦者の未来は切り捨てられた。
観客の咳払い一つ聞こえない。
それどころかいたるところで、息を飲む音が重なる。
部活で「全国制覇や!」って本気でやってる俺ですら、桁違いやと思う圧倒的な存在感に、正直、恐怖を覚えた。
それは俺だけやなかったみたいで、横目で白石や財前を見れば、目見開いて固まっとる。
無意識なんやろうけど、二人とも白くなるほど手を握りしめとった。
――なんや、これ……。
真優はピアノの前に立つと深く沈み込むように一礼をして、ピアノ椅子に腰掛けた。
たったそれだけの――他のピアニストもやっていた同じ動きのはずやのに。
客席を支配する空気に、誰もが息を吸うタイミングを見失った。
真優はしばらく目を閉じてから、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
小さな呼吸音のあと鍵盤の上を流れるようにして、真優の演奏が始まった。
たった一音、弾いただけのはずやった。
けれど、その一音は静かな湖面に投げ込まれた一粒の雫が、無限に広がっていくようにホールを支配する。
真優の指先が描くのは、目に見えん物語やった。
人間の中にあるさまざまな感情を刺激して、離さない。
人によって、受け取り方は違うと思うのに、一音ごとに、心臓を鷲掴みにされる。
このホールにいる俺たちは、最後の一瞬まで目を離すことを許されていない。
弱音の粒立ちが信じられないほど明瞭に響き渡る。
低音の一撃が響くと、ホールが地響きのように揺れた。
静かに鍵盤が歌えば、ホール全体が息を飲むように凍りついた。
思わずその指先を目で追ってしまう。
俺たちの知る柔らかにほほ笑む少女はいない。
そこにいるのは、音を、空間そのものを掌握する支配者。
真優の音が響くたび、空間が彼女の色に塗り替えられていく。
甘く、もの悲しげに歌う旋律は命令だった。
聴衆は逆らえず、ただ従うしかない。
支配者が手を下ろすまで、世界は音に縛られた。
最前列で審査員のペンが止まっている。
膝の上のプログラムが震える。
――なのに、なんでやろうな。
どうしてこんなにも、あたたかに包み込まれるんやろう。
一心不乱に演奏する真優の手元がきらりと光った。
一粒ダイヤのネックレスが腕の動きに合わせて舞い踊る。
ラストに向け、曲はさらに熱気を帯びていく。
さまざまな感情が音に乗り、怒涛の大群となって駆け抜け――真優は最後の一音まで、気持ちをのせて弾ききった。
ホール全体が一瞬の静寂に包まれる。
真優がふっと小さく息を吐き出した瞬間、静寂の糸がぷつりと切れ、割れんばかりの拍手に湧いた。
多分、このホールにおる全員が同じことを考えた。
小鳥遊真優の存在はあまりに異質や。
春に演奏を聞いたときのような、苦しさや悲しさは感じない。
けど、この場を支配する雰囲気は圧倒的で。
次元が違う。
人間の領域を超えとった。
喉が鳴る。
真優が――勝ちに行く演奏をしたんや。
そう理解した瞬間、俺は小さく笑った。
ほんま、すごい奴や!
□ + ◇ + □
真優はピアノ椅子に座ったまま、数回呼吸を整えると、ゆっくりと立ち上がった。
客席に改めて向き直る。
瞬間、観客たちが一瞬どよめいた。
今、俺たちが見ている真優はいつもの真優で。
にこにこほほ笑んで、満足げに礼をして舞台袖にはけていく。
――いや……さっきの誰やねん。
登壇してとんでもない演奏をした真優と、今、降壇していった真優が結びつかない。
「なんや、めっちゃ強そうやったのに……。今の真優、めっちゃ可愛いかったなぁ?」
とは、金ちゃんの言葉。
――完全に同意過ぎるで、金ちゃん……っ!
「……ギャップで脳焼いていくタイプばい」
「いや、マジでどっちがほんまの顔なんすか、あの人」
「やーん! 真優ちゃん素敵ぃ!」
「は!? 浮気かっ!?」
「わしらが知っとる真優はんと、同じ人なんやろか」
「とんでもないもん、見せられたなぁ……」
「これが天賦の才ってやつなんやろな」
拍手喝采の中、それぞれ思い思いの言葉を口にする。
俺もかねがねみんなと同意見や。けど――。
真優の意地、ちゃんと見せてもろたで。
おかんに啖呵切った日から、負けたないって思いでここに照準合わせてたのも知っとる。
真優自身のプライドが妥協を許さんかったのも知っとる。
才能の裏に隠された血のにじむ努力を――俺は知っとる。
「……ほんま、ようやったな真優」
一向に鳴りやまぬ拍手の中、俺は長い息を吐き出した。
会場の拍手。
全部持っていきよったな、あいつ。
あの笑顔に隠された、爪痕みたいな闘志をずっと見てきたんや。
俺はふっと笑みをこぼした。
最後の一音が、まだ胸に残っとる。