1話:隣のおる理由

昨日の夜のことなんて嘘みたいに、空はええ天気で。
しんっと静まり返った玄関で靴を履く。

正直、外に出るんは勇気がいる。

ドア開けたら、昨日腕つかんできたあの人が立っとるかもしれん、なんて脳が勝手に想像して息が詰まって。
全部、私の妄想だと分かっているのに、恐怖に足がすくんでしまう。

そんな自分に呆れてため息を吐けば、ふと背中に声が掛かった。

「学校行くん?」

頭に寝癖を残したままの尚が訝しげに私を見ていて。
私は咄嗟にいつもの表情を貼り付けると口を開く。

「や、起こしてしもた?」

そんな騒がしく準備したつもりはないんやけど。
そう尚を見れば、なんてことなさそうに「普通に起きただけ」とか抜かしよる。

……朝、弱い尚がそんなわけあらへんのにな。

昨日の見とったさかい、心配であんま寝れんかったんちゃうかな。
ほんま、可愛い弟。

やけど――。
それ以上は踏み込んでこんといてな。

そんな思いを乗せて言葉を紡ぐ。

「そお? ほな、うち先出るな」

つま先を玄関に打ち付けて、立ち上がる。
玄関ドアに手を掛けた瞬間、尚のやるせない声が響いた。

「……っ! 今日くらい休めばええやん!」

その声にドアノブに掛けた手に力が入った。

「休まんよ」
「なんで……」

不安で泣きそうな声で尋ねてくる尚をどうやって納得させよう。

私は一度目を伏せると、ふっと短く息を吐いた。
それから、ゆるりとまぶたを持ち上げると口角を無理矢理上げて、振り返る。

「家おる方がしんどいやん。お母さんキレとるし」
「それは、そうかもしれんけど。でも……」

尚が拳を握った。
悔しさとやるせなさが混ざったみたいな色を乗せて。

私はやれやれとため息を吐いて、手招きする。
おずおずと寄ってきた尚の頭にぽんっと手を乗せて、数回撫でつけるとじぃっと覗き込んだ。

「……昨日のこと、絶対に学校で話したらあかんで」

尚の指先がぴくりと跳ねた。
それでも、私は視線を尚から外してあげへん。

キッチンからブゥンという、冷蔵庫のモーター音が響く。

――知ってるねん。
尚が姉のひと睨みに弱いこと。

何も言えんくなった尚に、私は笑顔を向ける。

「ふふっ……。ちゃんと寝癖直してから学校来るんやで?」

なんて、ぴょこんと跳ねた髪の毛を摘んで続けた。

「ほな、行ってきます」

玄関の扉を開ける。
七月の蒸し暑い空気が全身を包んだ。
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