12話:five minutes.
夜、八時半頃レッスンが終わった。
「今日もありがとうございました」と礼を言って、先生の自宅を後にする。
先生の家の門扉を閉めてから、ぐっと伸びをして、息を吐いた。
――ええレッスンやった。
今まで弾きにくうてしゃーなかった連符のところがかなりクリアになった。
やっぱ先生ってすごいな、なんて思いつつ、私は空で指を動かす。
イメージの中でピアノの鍵盤を叩けば柔らかで力強い音が一粒一粒光の粒となって紡がれる。
――ここは、もっと真に迫るようにっ!
そう息を吸い込んだ瞬間、背後からガサッという音が聞こえた。
途端に、私の意識は現実に引き戻される。
なんやろ? そう思ってうしろを振り返るけれど。
ただ、青白い街灯がぽつりぽつりと灯る静かな住宅街が続いているだけ。
ただ、奥の方は真っ暗で。
光の届かん闇が口を開けているように思えて、思わず身震いした。
なんとなく、うすら寒いものを感じ少し早足になる。
それと同時に、背後から私と同じ速さで着いてくる足音に気が付いた。
最初はただの気のせいやと思った。
走っても、角を曲がっても、かすかな靴音が背後からついてくる。
……いや、そんなはずない。
自分が神経質になっとるだけ。
そう言い聞かせながらも、足音に気付いてしまえば振り返る勇気なんて持てなくて。
でも、横道に逸れた瞬間、その足音はぱたりと止んだ。
思わずほっと息を吐く。
やっぱ、ただの気のせいやったんやん。
さすがに疲れとんのかな、なんて自分に呆れつつ、わずかに歩く速度を落とした――瞬間、再び私と同じ速度の足音が聞こえ始めた。
ひゅっと喉が鳴る。
一定の間隔で響くその音は、私が横道に入っても、立ち止まっても、遅れて同じ速さで近付いてくる。
喉の奥に冷たいものが広がって。
歩幅が自然と速まる。
気付けば、もう気のせいでは片付けられない確信が、胸を締めつけていた。
――誰かおる……っ!
心臓が早鐘のように鳴り、息が切れる。
どうにか、駅前の明るいところまでやってくると私は少しだけ安心して、息を吐き出した。
――なんやったん、さっきの。
早鐘の心臓をどうにか落ち着けようと、駅前で信号が変わるのを待っていれば、不意に「真優ちゃんですか?」と声を掛けられた。
突然の出来事に肩が跳ねあがる。
多分、直前に恐い思いをしたせい。
ただ、こんな人通りの多いところで話し掛けてくるくらいやから、別に変な人やないやろうと、私は声の方を振り向いた。
二、三十代くらいの男の人が私を見ていた。
大きなトートバッグを肩にかけて、穴が開きそうなくらい凝視してくる。
「そう、ですけど?」
そう答えれば、その人はぱぁっと顔を輝かせ「やっぱり!」と、ずいっと一歩近付いてきた。
よう分からん寒気が、背筋を駆け抜ける。
「僕、こないだの新人演奏会でキミのこと知って!」
「すごい子がおるなぁって!」
私はその人の熱量に圧倒されつつも「はあ、ありがとうございます」と礼を述べる。
ピアニストとしての私を知ってくれとる人の中には、時折こうやって街中で話し掛けてくる人もおって。
別に変なことやない。
芸能人やないけど、クラシック業界では多少名前も知られとるし、写真や動画も世に出てもうてるし。
信号が青に変わった。
私はその人に軽く会釈をする。
「声掛けてもろてありがとうございます」
「これからも気張りますよって」
それから、小走りになって駅へ駆け込んだ。
タイミングよく来た電車に飛び乗って、私は電車の車窓から景色を眺める。
――なんや、変な人やったな。
これから、こういうこと増えるんやろか。
私は大きなため息を吐くと、到着した最寄り駅で電車を降りた。
正直、今から考えると迂闊やったんやと思う。
電車に乗ったことで頭の中はもう切り替えられとって。
家帰ったら今日のレッスンの復習せな、とか、明日の英語の宿題せなとか、考えとった。
完全にオフモード。
リラックスしてもうて、警戒心なんて皆無で……。
小さくあくびをこぼした瞬間、うしろから手首を掴まれた。
驚きと恐怖で目を見張った。
慌てて振り向けば、さっきの男の人が――私の腕を掴んで、にんまり笑って立っとって。
意味が分からなさ過ぎて固まってしまった私に、その人は矢継ぎ早に話し掛ける。
「さっきのお宅で練習してるの?」
「こんな時間なのに親御さんのお迎えとかもないの?」
「ここが真優ちゃんのお家の最寄り駅なのかな?」
心臓の音がうるさい。
でも、確かめないわけにはいかなくて私は口を開いた。
「さっきのお宅って……なんで?」
「なんで、知ってはるんですか……?」
自分でも分かるほど声が震えている。
男の人はきょとんと目を丸くすると、さも当然のように「なんでって」と続けた。
「ずっと見てたから」
途端に全身から血の気が引いた。
多分、きっと……っ、ううん。
帰り道、聞こえとった足音は――
この人ずっと?
脳内に警鐘が鳴り響き、勢いに任せて手を振り払った。
私の手が男の人のトートバッグに当たる。
瞬間、トートバッグの中身が道に散らばった。
……一瞬、何が起きたのか分からんかった。
数えきれないほどの私の隠し撮りの写真。
雑誌の切り抜き。
チラッと覗くロープと、黒くて重さのある機械……?
心臓止まるかと思った。
喉の奥の方がきゅっと締まって痛くて仕方ない。
その人は「あー! もう落としたらダメじゃないか」とか言いながら、拾っているけれど。
私は、その場を駆けだした。
「今日もありがとうございました」と礼を言って、先生の自宅を後にする。
先生の家の門扉を閉めてから、ぐっと伸びをして、息を吐いた。
――ええレッスンやった。
今まで弾きにくうてしゃーなかった連符のところがかなりクリアになった。
やっぱ先生ってすごいな、なんて思いつつ、私は空で指を動かす。
イメージの中でピアノの鍵盤を叩けば柔らかで力強い音が一粒一粒光の粒となって紡がれる。
――ここは、もっと真に迫るようにっ!
そう息を吸い込んだ瞬間、背後からガサッという音が聞こえた。
途端に、私の意識は現実に引き戻される。
なんやろ? そう思ってうしろを振り返るけれど。
ただ、青白い街灯がぽつりぽつりと灯る静かな住宅街が続いているだけ。
ただ、奥の方は真っ暗で。
光の届かん闇が口を開けているように思えて、思わず身震いした。
なんとなく、うすら寒いものを感じ少し早足になる。
それと同時に、背後から私と同じ速さで着いてくる足音に気が付いた。
最初はただの気のせいやと思った。
走っても、角を曲がっても、かすかな靴音が背後からついてくる。
……いや、そんなはずない。
自分が神経質になっとるだけ。
そう言い聞かせながらも、足音に気付いてしまえば振り返る勇気なんて持てなくて。
でも、横道に逸れた瞬間、その足音はぱたりと止んだ。
思わずほっと息を吐く。
やっぱ、ただの気のせいやったんやん。
さすがに疲れとんのかな、なんて自分に呆れつつ、わずかに歩く速度を落とした――瞬間、再び私と同じ速度の足音が聞こえ始めた。
ひゅっと喉が鳴る。
一定の間隔で響くその音は、私が横道に入っても、立ち止まっても、遅れて同じ速さで近付いてくる。
喉の奥に冷たいものが広がって。
歩幅が自然と速まる。
気付けば、もう気のせいでは片付けられない確信が、胸を締めつけていた。
――誰かおる……っ!
心臓が早鐘のように鳴り、息が切れる。
どうにか、駅前の明るいところまでやってくると私は少しだけ安心して、息を吐き出した。
――なんやったん、さっきの。
早鐘の心臓をどうにか落ち着けようと、駅前で信号が変わるのを待っていれば、不意に「真優ちゃんですか?」と声を掛けられた。
突然の出来事に肩が跳ねあがる。
多分、直前に恐い思いをしたせい。
ただ、こんな人通りの多いところで話し掛けてくるくらいやから、別に変な人やないやろうと、私は声の方を振り向いた。
二、三十代くらいの男の人が私を見ていた。
大きなトートバッグを肩にかけて、穴が開きそうなくらい凝視してくる。
「そう、ですけど?」
そう答えれば、その人はぱぁっと顔を輝かせ「やっぱり!」と、ずいっと一歩近付いてきた。
よう分からん寒気が、背筋を駆け抜ける。
「僕、こないだの新人演奏会でキミのこと知って!」
「すごい子がおるなぁって!」
私はその人の熱量に圧倒されつつも「はあ、ありがとうございます」と礼を述べる。
ピアニストとしての私を知ってくれとる人の中には、時折こうやって街中で話し掛けてくる人もおって。
別に変なことやない。
芸能人やないけど、クラシック業界では多少名前も知られとるし、写真や動画も世に出てもうてるし。
信号が青に変わった。
私はその人に軽く会釈をする。
「声掛けてもろてありがとうございます」
「これからも気張りますよって」
それから、小走りになって駅へ駆け込んだ。
タイミングよく来た電車に飛び乗って、私は電車の車窓から景色を眺める。
――なんや、変な人やったな。
これから、こういうこと増えるんやろか。
私は大きなため息を吐くと、到着した最寄り駅で電車を降りた。
正直、今から考えると迂闊やったんやと思う。
電車に乗ったことで頭の中はもう切り替えられとって。
家帰ったら今日のレッスンの復習せな、とか、明日の英語の宿題せなとか、考えとった。
完全にオフモード。
リラックスしてもうて、警戒心なんて皆無で……。
小さくあくびをこぼした瞬間、うしろから手首を掴まれた。
驚きと恐怖で目を見張った。
慌てて振り向けば、さっきの男の人が――私の腕を掴んで、にんまり笑って立っとって。
意味が分からなさ過ぎて固まってしまった私に、その人は矢継ぎ早に話し掛ける。
「さっきのお宅で練習してるの?」
「こんな時間なのに親御さんのお迎えとかもないの?」
「ここが真優ちゃんのお家の最寄り駅なのかな?」
心臓の音がうるさい。
でも、確かめないわけにはいかなくて私は口を開いた。
「さっきのお宅って……なんで?」
「なんで、知ってはるんですか……?」
自分でも分かるほど声が震えている。
男の人はきょとんと目を丸くすると、さも当然のように「なんでって」と続けた。
「ずっと見てたから」
途端に全身から血の気が引いた。
多分、きっと……っ、ううん。
帰り道、聞こえとった足音は――
この人ずっと?
脳内に警鐘が鳴り響き、勢いに任せて手を振り払った。
私の手が男の人のトートバッグに当たる。
瞬間、トートバッグの中身が道に散らばった。
……一瞬、何が起きたのか分からんかった。
数えきれないほどの私の隠し撮りの写真。
雑誌の切り抜き。
チラッと覗くロープと、黒くて重さのある機械……?
心臓止まるかと思った。
喉の奥の方がきゅっと締まって痛くて仕方ない。
その人は「あー! もう落としたらダメじゃないか」とか言いながら、拾っているけれど。
私は、その場を駆けだした。