11話:白昼カデンツァ

最後の一音を弾き終わった。
丁寧に、余韻を残して指先が鍵盤から離れる。

俺はゆるりと目を開くと、再び小窓から中を覗き込んだ。
頬を紅潮させ、肩で息をする真優に酷く魅せられる。

こんな練習毎日しとったら、ふらふらにもなる。
俺かてドラム叩き終わったあと、息切れとることあるけど、あそこまでちゃうな。
まあ、打ち込んどる次元が違うっちゅー話か。

そんなことを考えていると、不意にパタパタという足音が耳に入った。
途端に音楽室の扉が開いて真優が顔を出す。

「やっぱ謙也くんやん」
「おん、邪魔してもた?」

覗き込まれるようにして目が合うて、思わずたじろぐ。

本音はまだまだ真優の演奏見ときたいし、聴いていたい。
やけど、練習の邪魔になるんは嫌やから、もし『止めて』って言われたら引くつもりではおる。

真優は数回瞬いて小さく笑うと首を横に振った。
「ううん。邪魔とかないで」
真優はそう言うとおかしそうに続けた。

「小窓から謙也くんの頭ぴょこぴょこ見えとってな。なんやひよこみたいで可愛ええなぁって」
「……ひよこて」

くすくす笑う真優に、肩の力が抜けてしまう。
中入り、と促され、俺は真優に続いて音楽室へ足を踏み入れた。

音楽室特有のワックスがけされた床の匂いが、鼻をかすめる。

「ほんま、よう目立つ金髪やな」

俺の前を歩く真優がなんてことなさそうに言うてくる。

「そうかもしれんけど、なんでおるって分かったん? 集中しとったやろ?」
「んー?」

真優はゆっくりした足取りで、再びピアノ椅子に腰かけると、気の抜けた声で話し始める。

「案外見とるんよ、周りのこと。演奏会のときとかは、客席の雰囲気に合わせて弾き方変えとるしな」
「そんなん、できるもんなんや」
「まあ、これでもプロの端くれやさかい」

真優が長い息を吐き出して、目を閉じた。
長いまつ毛の影が目の下のクマに重なる。

音楽の、それもプロの世界のことは分からん。
やけど、普段穏やかな彼女にも意地があって。

疲れとったとしても、しんどいことがあったとしても、できる限りのことをせんのはプライドが許さんのやと思う。

――それが、焦りに繋がっとるんとちゃう?

真優はゆっくりとまぶたを持ち上げると、俺を視界に収めた。

「やけど、なんや今回焦ってしもて」
俺の心を読んだのか、真優は頬杖をついて笑う。

「謙也くんのお顔に『焦っとる?』って書いとるよ」
「……まあ、ちょっと思たけど」
「分かりやすいよなぁ、謙也くん」

しぶしぶ白状したら、真優は「素直やな」と続けた。
「まあ、コンクール前はどうしたって焦ってしまうよって」

真優はやれやれと息を吐いた。
それから、ふっと顔を伏せ表情が陰る。

「それに、一位取れんかったらあの人に『ほら見たことか』って言われそうやろ?」
「そんなん、絶対いや」

あのおかんに啖呵を切ったことで、引くに引けんくなった不安と重圧がのしかかっている気がして仕方がない。

真優の手がすっと左手首に伸びた。
左手首には一粒ダイヤのネックレスが二重巻きになってつけられている。

こないだ、真優が興奮した様子で「謙也くん、謙也くん!」と見せてきた着け方やった。
「これやったら、ひとまずコンクールまでは行けそう!」
そう言って顔赤くして喜んどった。

そんなことを思い出しつつ、俺は真優の様子を観察する。

「頑張っとる証拠やん」

慰めの言葉ってわけやないけど、ほんまに思っとること。
そこまで自分追い込めるんって、すごいことやで。

「大丈夫やって。真優ん音、聴いとったら落ち着くし」

自分でも思わず口に出てしまった一言。
真優は一瞬きょとんとすると、嬉しそうにふわっと顔をほころばせた。
その笑顔に、胸の奥がじんわり熱くなる。

真優は「よしっ!」と気合を入れ直すと、ぐぐっと伸びをした。
「なんや元気出た!」
嬉しそうに告げる笑顔が眩しい。
真優の淡い水色の瞳が真っ直ぐに向けられる。

「したら、ギャラリーもおることやし」
「もうひと頑張りさせてもらおかな」

俺はそっと口角を上げると、手近にあった席に腰掛けた。

「ほな、特等席で楽しませてもらいます」

真優の背中に降り注ぐ木漏れ日の光が、舞台のスポットライトみたいに見えた。
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