9話:限界
「先生、ちょおベッド貸して」
俺は保健室の扉を開けるなり開口一番にそう言った。
保険の先生は書類仕事をしていたようで、机に腰掛けながら「ベッドー?」と気怠そうにこちらを覗き込む。
目が合った瞬間、先生は瞬いてにやりと笑った。
「……ヒーロー登場やん」
先生は立ち上がると、ジャっと音を立てベッドを仕切るカーテンを引き、「その子ここ寝かせとき」と告げた。
俺は言われた通り、真優をベッドに寝かせる。
首が詰まって苦しそうやったから、堪忍な、と思いながら首元のボタンを一つだけ開けてやる。
――うん?
俺はわずかに眉を寄せた。真優がいつも肌身離さず着けているネックレスが見当たらない。
そんなことを考えていると、先生が傍にやって来て問い掛けた。
「この子どうしたん?」
「……部活中倒れた」
「ふぅん」
先生はそう言いながら真優の脈を計り、細々とした作業を進める。
それから、俺に向き直って「ちょお様子確認するから、離れてや。男子禁制やで」と目の前で仕切りカーテンをぴしゃりと閉めた。
カーテンが開くまでの時間が、永遠に感じられる。
しばらくして、先生が出てくるとぽつりと「一過性の貧血やな」と告げる。
「貧血?」
俺は思わず先生の言葉を繰り返した。
「そう。立ちくらみとか眩暈とか」
先生はふぅっと一息つくと、続けた。
「症状は一時的なもんやから、そこまで心配せんでも平気やで。ただ、今日の部活は休ませたってな」
「……分かりました」
俺は先生の言葉にほんの少しだけ安心する。
先生は、俺の肩を叩くと「して、少しお願いがあるんや」と、神妙な面持ちで話し始めた。
「私、このあと会議なんよ。やから、あの子喋れるようになったら伝えといたって」
「え? いや、ちょお待ってください。俺が?」
慌てる俺に先生は「当たり前やん」とにっこりとほほ笑んだ。
無理や、無理無理。絶対無理!
今、俺が残ったらあかん。
多分、真優にキレてまう。
自分大事にせえ! ってキレる。
そんな心情を知ってか知らずか、先生はあっちゅーまに保健室を出て行った。
「ほな、悪いけどあとよろしく!」
固まる俺に届くのは、保健室の扉が閉じる音だけ。
マジか……。
俺は思わずため息を吐く。
どうにか、気持ち落ち着けなあかん。
真優自身、しんどいのに目ぇ覚めて突然キレられたら堪ったもんやないやろ。
俺はもう一度長く息を吐き出すと、手近にあった椅子に座った。
……心臓、止まるかと思った。
先生に『そこまで心配せんで平気』って言われるまで、生きた心地せんかった。
腕ん中でぐったりしとる真優は、いつもの何倍も小さくて、冷たくて。
保健室に冷房と空気清浄機の音だけが響く。
真っ青な彼女の表情を思い出して、ため息がこぼれたとき、不意に「謙也くん……?」と声が掛かった。
俺は椅子を蹴る勢いで、真優のベッドに駆け寄る。
シャッと仕切りカーテンを開けば、真優はまだ青い顔のまま半身を起こそうとしとって。
「ごめんな」
俺はその肩をそっと押さえ、もう一度彼女の身体をベッドに沈める。
「……まだ寝とき」
押し返した真優の瞳が一瞬揺れた気がした。
多分、普段よりもずっと低い声が出たせいで、抑え込んだ苛立ちに気が付いたんやと思う。
単なる怒りやない。
言葉にできないほどの心配がぐちゃぐちゃに混じり合って、俺を苛立たせとる。
真優はふっと目を伏せると、もう一度「ごめんな」と謝った。
――別に謝ってほしいわけとちゃう。
ただ、自分のこと大事にしてほしいだけや。
俺は一度拳を強く握ると、ゆるりと開いた。ゆっくり息を吸い込んで、吐き出す。
それから、椅子を引っ張って来て、腰掛けた。
気持ちを落ち着けて話すには、それくらいの時間がどうしても必要やった。
俺は真っ直ぐに真優を見ると、淡々と問い掛ける。
「……寝てへんのやろ」
静かに落ちたその言葉は、俺自身の不甲斐なさにナイフを突き立てる。
胸の奥をえぐるように刺さったそれはあまりにも鋭利で、真優を傷つけているのではないかと錯覚してまう。
真優の指がピクリと跳ねた。
どんなに誤魔化しても誤魔化しきれないところまで来ていると、彼女自身理解しているはずで。
真優は腕で目元を覆うと、泣きそうな声でぽつりと呟く。
「……バレてもた」
「バレバレや。……あほ」
俺は深く息を吸い込んで、吐き出した。
それから、いろんな感情が混ぜこぜになった俺自身を飲み込んで、笑って見せた。
正直、ちゃんと笑えているかなんて分からへん。
それでも、今一番必要なことは、真優を安心させることやってのは分かる。
「今くらい、寝ときや」
こんなときくらい、甘えさせてもええやろ?
家では母親の様子伺って、寝んとピアノ弾いて。
今でも俺に怪我負わせたことに負い目感じて。
学校では針の筵で。
きっと、安心できるところなんてほとんどなくて。
自分を大切にせえへんことに苛立ちはある。
やけど、ええ加減、甘えられる場所作らな、真優が壊れてまう。
「なんやったら寝るまで傍いたるで!」
冗談半分、本気半分や。
心配でちゃんと寄り添いたい気持ちと、俺がおったところでっちゅー気持ち。
何が真優をここまで急き立てているのかは、今でも分からん。
けど、どうにかしたりたい。
「……変やの」
不意に、真優の震えた声がこぼれ落ちた。
今にも消えてしまいそうな、か細くて弱々しい声。
「謙也くんは、変や……」
繰り返された言葉に、俺はそっと肩の力を抜いた。
多分、間違ってなかったんやと思う。
今の真優は壊れかけとる。
自分自身に『まだ大丈夫』って言い聞かせながら、一人でどうにかしようともがいとる。
やけど、それは自分自身にナイフを突き立てる行為で。
だから、どうにか治さなあかんのやけど、治し方なんて全く分からんで。
ただ――。
俺は自分の瞳に真優を納め、そっと笑った。
傍にいることを選択した俺の判断は、真優を繋ぎ止めることができたんやと思う。
「……ほめ言葉として受け取っとくわ」
俺は冷や汗で張り付いた真優の髪を払ってやると、ぶっきらぼうに言った。
それから、安心させるように真優の頭を撫でる。
「先生が、一過性の貧血やって言うてたで。今日はもう部活出たらあかんって」
「せっかくこっちおる間は部活気張ろう思とったのに」
情けな、と続ける真優に俺は小さく笑った。
「充分、格好いいっちゅー話や」
それだけ言うと俺は椅子から立ち上がる。
寝るまで傍にいたる、とは言うたものの、実際問題、俺おったら気ぃ休まらんやろ。
俺は「ほな、部活終わったら覗きにくるで、ちゃんと寝ときや」と背を向けた。瞬間――。
俺のジャージの裾がくんっと引かれた。
驚いて、思わず振り返った俺に返された言葉は「戻ったらあかん」という一言だった。
「……さっき、寝るまで傍におるって言うた」
真優の水色の瞳が揺れている。
彼女自身、緊張しながら言葉を発しとるんは分かる。
分かるけど。
俺はしどろもどろになりながら言葉を紡いだ。
「言うた。確かに言うた、けど」
真優はジャージの裾を離さない。
なんならぎゅうっと力いっぱい握り始める始末。
次第に頬が熱を持ちはじめる。
どうしたものかと、考えていれば真優は俺をじぃっと見つめて「嘘つき」と呟いた。
それ言われたら、もうどうすることもできへん。
俺は戻ることを諦めて、再度椅子に腰掛ける。
そうすれば真優は満足そうに表情を緩めて、目を閉じた。
「ありがとうな」
「……ええから、早よ寝ぇや」
そっぽ向いて雑に返せば、ふふっと小さな笑い声が返って来て。
――わがままやな、ったく。
ややもすれば、真優の小さな寝息が聞こえてくる。
俺はそっと、ジャージをつかんだままになっとった彼女の手をはずした。
女子にしたら大きな――でも、俺からしたら小さな手。
力の抜けた細くて長い指に絡ませるようにして、ぎゅうっと握り込む。
ほんまに限界やったんやと思う。
体力的にも、精神的にも。
握った彼女の手に俺は額を寄せた。
「ほんま、頼むわ……」
俺は保健室の扉を開けるなり開口一番にそう言った。
保険の先生は書類仕事をしていたようで、机に腰掛けながら「ベッドー?」と気怠そうにこちらを覗き込む。
目が合った瞬間、先生は瞬いてにやりと笑った。
「……ヒーロー登場やん」
先生は立ち上がると、ジャっと音を立てベッドを仕切るカーテンを引き、「その子ここ寝かせとき」と告げた。
俺は言われた通り、真優をベッドに寝かせる。
首が詰まって苦しそうやったから、堪忍な、と思いながら首元のボタンを一つだけ開けてやる。
――うん?
俺はわずかに眉を寄せた。真優がいつも肌身離さず着けているネックレスが見当たらない。
そんなことを考えていると、先生が傍にやって来て問い掛けた。
「この子どうしたん?」
「……部活中倒れた」
「ふぅん」
先生はそう言いながら真優の脈を計り、細々とした作業を進める。
それから、俺に向き直って「ちょお様子確認するから、離れてや。男子禁制やで」と目の前で仕切りカーテンをぴしゃりと閉めた。
カーテンが開くまでの時間が、永遠に感じられる。
しばらくして、先生が出てくるとぽつりと「一過性の貧血やな」と告げる。
「貧血?」
俺は思わず先生の言葉を繰り返した。
「そう。立ちくらみとか眩暈とか」
先生はふぅっと一息つくと、続けた。
「症状は一時的なもんやから、そこまで心配せんでも平気やで。ただ、今日の部活は休ませたってな」
「……分かりました」
俺は先生の言葉にほんの少しだけ安心する。
先生は、俺の肩を叩くと「して、少しお願いがあるんや」と、神妙な面持ちで話し始めた。
「私、このあと会議なんよ。やから、あの子喋れるようになったら伝えといたって」
「え? いや、ちょお待ってください。俺が?」
慌てる俺に先生は「当たり前やん」とにっこりとほほ笑んだ。
無理や、無理無理。絶対無理!
今、俺が残ったらあかん。
多分、真優にキレてまう。
自分大事にせえ! ってキレる。
そんな心情を知ってか知らずか、先生はあっちゅーまに保健室を出て行った。
「ほな、悪いけどあとよろしく!」
固まる俺に届くのは、保健室の扉が閉じる音だけ。
マジか……。
俺は思わずため息を吐く。
どうにか、気持ち落ち着けなあかん。
真優自身、しんどいのに目ぇ覚めて突然キレられたら堪ったもんやないやろ。
俺はもう一度長く息を吐き出すと、手近にあった椅子に座った。
……心臓、止まるかと思った。
先生に『そこまで心配せんで平気』って言われるまで、生きた心地せんかった。
腕ん中でぐったりしとる真優は、いつもの何倍も小さくて、冷たくて。
保健室に冷房と空気清浄機の音だけが響く。
真っ青な彼女の表情を思い出して、ため息がこぼれたとき、不意に「謙也くん……?」と声が掛かった。
俺は椅子を蹴る勢いで、真優のベッドに駆け寄る。
シャッと仕切りカーテンを開けば、真優はまだ青い顔のまま半身を起こそうとしとって。
「ごめんな」
俺はその肩をそっと押さえ、もう一度彼女の身体をベッドに沈める。
「……まだ寝とき」
押し返した真優の瞳が一瞬揺れた気がした。
多分、普段よりもずっと低い声が出たせいで、抑え込んだ苛立ちに気が付いたんやと思う。
単なる怒りやない。
言葉にできないほどの心配がぐちゃぐちゃに混じり合って、俺を苛立たせとる。
真優はふっと目を伏せると、もう一度「ごめんな」と謝った。
――別に謝ってほしいわけとちゃう。
ただ、自分のこと大事にしてほしいだけや。
俺は一度拳を強く握ると、ゆるりと開いた。ゆっくり息を吸い込んで、吐き出す。
それから、椅子を引っ張って来て、腰掛けた。
気持ちを落ち着けて話すには、それくらいの時間がどうしても必要やった。
俺は真っ直ぐに真優を見ると、淡々と問い掛ける。
「……寝てへんのやろ」
静かに落ちたその言葉は、俺自身の不甲斐なさにナイフを突き立てる。
胸の奥をえぐるように刺さったそれはあまりにも鋭利で、真優を傷つけているのではないかと錯覚してまう。
真優の指がピクリと跳ねた。
どんなに誤魔化しても誤魔化しきれないところまで来ていると、彼女自身理解しているはずで。
真優は腕で目元を覆うと、泣きそうな声でぽつりと呟く。
「……バレてもた」
「バレバレや。……あほ」
俺は深く息を吸い込んで、吐き出した。
それから、いろんな感情が混ぜこぜになった俺自身を飲み込んで、笑って見せた。
正直、ちゃんと笑えているかなんて分からへん。
それでも、今一番必要なことは、真優を安心させることやってのは分かる。
「今くらい、寝ときや」
こんなときくらい、甘えさせてもええやろ?
家では母親の様子伺って、寝んとピアノ弾いて。
今でも俺に怪我負わせたことに負い目感じて。
学校では針の筵で。
きっと、安心できるところなんてほとんどなくて。
自分を大切にせえへんことに苛立ちはある。
やけど、ええ加減、甘えられる場所作らな、真優が壊れてまう。
「なんやったら寝るまで傍いたるで!」
冗談半分、本気半分や。
心配でちゃんと寄り添いたい気持ちと、俺がおったところでっちゅー気持ち。
何が真優をここまで急き立てているのかは、今でも分からん。
けど、どうにかしたりたい。
「……変やの」
不意に、真優の震えた声がこぼれ落ちた。
今にも消えてしまいそうな、か細くて弱々しい声。
「謙也くんは、変や……」
繰り返された言葉に、俺はそっと肩の力を抜いた。
多分、間違ってなかったんやと思う。
今の真優は壊れかけとる。
自分自身に『まだ大丈夫』って言い聞かせながら、一人でどうにかしようともがいとる。
やけど、それは自分自身にナイフを突き立てる行為で。
だから、どうにか治さなあかんのやけど、治し方なんて全く分からんで。
ただ――。
俺は自分の瞳に真優を納め、そっと笑った。
傍にいることを選択した俺の判断は、真優を繋ぎ止めることができたんやと思う。
「……ほめ言葉として受け取っとくわ」
俺は冷や汗で張り付いた真優の髪を払ってやると、ぶっきらぼうに言った。
それから、安心させるように真優の頭を撫でる。
「先生が、一過性の貧血やって言うてたで。今日はもう部活出たらあかんって」
「せっかくこっちおる間は部活気張ろう思とったのに」
情けな、と続ける真優に俺は小さく笑った。
「充分、格好いいっちゅー話や」
それだけ言うと俺は椅子から立ち上がる。
寝るまで傍にいたる、とは言うたものの、実際問題、俺おったら気ぃ休まらんやろ。
俺は「ほな、部活終わったら覗きにくるで、ちゃんと寝ときや」と背を向けた。瞬間――。
俺のジャージの裾がくんっと引かれた。
驚いて、思わず振り返った俺に返された言葉は「戻ったらあかん」という一言だった。
「……さっき、寝るまで傍におるって言うた」
真優の水色の瞳が揺れている。
彼女自身、緊張しながら言葉を発しとるんは分かる。
分かるけど。
俺はしどろもどろになりながら言葉を紡いだ。
「言うた。確かに言うた、けど」
真優はジャージの裾を離さない。
なんならぎゅうっと力いっぱい握り始める始末。
次第に頬が熱を持ちはじめる。
どうしたものかと、考えていれば真優は俺をじぃっと見つめて「嘘つき」と呟いた。
それ言われたら、もうどうすることもできへん。
俺は戻ることを諦めて、再度椅子に腰掛ける。
そうすれば真優は満足そうに表情を緩めて、目を閉じた。
「ありがとうな」
「……ええから、早よ寝ぇや」
そっぽ向いて雑に返せば、ふふっと小さな笑い声が返って来て。
――わがままやな、ったく。
ややもすれば、真優の小さな寝息が聞こえてくる。
俺はそっと、ジャージをつかんだままになっとった彼女の手をはずした。
女子にしたら大きな――でも、俺からしたら小さな手。
力の抜けた細くて長い指に絡ませるようにして、ぎゅうっと握り込む。
ほんまに限界やったんやと思う。
体力的にも、精神的にも。
握った彼女の手に俺は額を寄せた。
「ほんま、頼むわ……」