1話:はじまりの幻想曲

コンサートホールを出た頃には、すっかり夜のとばりが町を包み込んでいた。
夜風がやけに冷たく感じる中、俺たちは並んで帰り道を歩く。

「……むっちゃ上手かったな、最後の子」
呟くように侑士が言った。
もう唖然としとって、とんでもないもん聴いたみたいな感情が声に乗っとる。
「おん、せやな」

俺も素直に頷いた。
上手かったのは事実や。
ただ、心の引っ掛かりは消えなくて思わず続けた。

「上手かったけど……」
「けど、なんやねん?」
「なんや、苦しそうやなかった?」
「そうか?」

侑士は首を傾げたあと、パンフレットを手にじっと眺めていた。
俺は頭の後ろで手を組み、ぼんやりと夜空を見上げる。

――気のせいやったんか?
けど、どう考えても苦しそうに思たで。

あんな心臓痛なる演奏初めて聴いた。

そんなことを考えて唸っとったら、不意にピンク色の花びらが視界をかすめた。

――桜?

開花予想ってもうちょい先やなかったっけ?
そんなことを考えて首を捻る。したら、侑士も「桜? えらい早いな」なんて言うとるから、多分合うてる。

どっから花びら飛んできたんやろって、周囲見渡したら、あった。

一本だけ。
満開の枝垂れ桜。

その下で、何かが光を弾いた。
眩しさに瞬きをして、目を凝らす。

……あった。

ちょうど、桜の花びらが落ちたすぐ側。

俺は小走りで近付き、それをそっと拾い上げる。
「なんや、ネックレス?」
急に走り出した俺の背中越しに、侑士がのぞき込んだ。
「おん」

一粒ダイヤのネックレス。
光り方からして、どう見てもガラス玉やない。
正真正銘、本物。

侑士は一瞥して、あっさりと言った。

「その辺の見やすいとこ置いときいや」
「いや、これ絶対高いヤツやで。交番の方がええやろ」

持ち主、きっと探しとる。
こんな高そうなもん、失くしたってなったらショックでかすぎるやろ。

侑士は俺の言葉に「まあ、確かになぁ」と頷いた。
帰りに交番にでも寄ろうと息を吐いた、そのとき。

不意に視界の端で、キャップを目深に被った女の子が何かを探し回っとる姿が目に入った。
俺たちの姿なんか目にもくれんで、ほんま必死っていうんがぴったりなくらい、地面覗き込んで。

思わず、侑士に目配せを送る。

「なあ」

意を決して話し掛ければ、その子は一度動きを止めて、困惑した様子でこちらを見上げた。
キャップの先にのぞく長い黒髪に、桜の花びらが絡まっとる。

訝しげに首を傾げるその子と、目が合うた。
日本人には珍しい淡い水色の瞳に、左目の下の小さな泣きぼくろ。

彼女は小さく息を吐くと、余所行きの笑顔を張り付けた。
ゆるりと立ち上がって、首を傾げる。
「どうしました?」
鈴のように澄んだ声が、夜気を柔らかく揺らす。

――多分……いや、絶対そう。

思わず固まってしもた。
そんな俺に侑士はため息を吐いて、眉根を寄せる。

それから、侑士は手に持ったままのパンフレットと目の前の女の子を交互に見て、口を開いた。

「自分さっきピアノ弾いとった?」
彼女は一瞬考えて、こくりと頷く。
「コンサート、見てはったん?」
不思議そうな声に侑士は「おん」と返すと、続けた。

「ええ演奏やったで」
「ほんま?……せやったらよかった」

そう笑った彼女は安心したように胸をなでおろしとった。

――なんで、そないに安心した、みたいな顔すんねやろ。

胸の内にふっと浮かんだ疑問は、侑士の呆れ笑いによってかき消される。

「まさかスカルボまで弾くとは思わんかったわ」

侑士が肩をすくめて告げる。

瞬間、彼女の表情が引きつった。
長いまつげをゆっくり上下させて、ゆっくり息を吐き出して。

「……スカルボ、怖なかった?」
「怖い? 上手過ぎて怖いはあったけど……?」

侑士が首を傾げつつ答える。
そういうことを聞かれとるんかいまいち分からんみたいな顔して。
やけど、多分この子が聞きたいんはそう言うことやないと思う。

単純に怖くなかったか、が聞きたいんやと思うけど……。

そんなことを考えて、そっと彼女を覗き見れば「そっかぁ」なんて、適当に返しとって。

訝しげな俺の視線に気付いた彼女はハッとすると、取り繕ったような笑みを浮かべて口を開く。

「そう言うてくれて嬉しいわ。ありがとうな」
言うなり彼女は頭を下げた。
「ほんなら、うち今ちょお忙しいさかいに」
くるりと背を向け、再び地面に目を凝らし始める。

「なんか、探し物しとる?」

侑士が確認するように問い掛けた。
そうすれば、彼女は「うん、まあ。そんなところ」と、こちらを振り向かないまま返してくる。

俺と侑士はもう一度目配せを送り合う。
頷き――それから、俺は様子を窺うようにそっと尋ねてみた。

「ダイヤのネックレス、とか?」

瞬間、彼女の動きが止まった。
さっと振り返り、俺たちに歩み寄ってくる。

――近っ⁉

思とった以上に近付かれて、思わず半身を引く。
そんなことお構いなしに、彼女は俺を覗き込んで、口を開いた。

「なんで分かるん?」
「こ、これ……」

そう言って、手のひらに乗せた一粒ダイヤのネックレスを見せる。
彼女の瞳がまんまるく見開かれた。

「それ、うちのや!」

ネックレスと俺を交互に見て彼女は続ける。

「え? なんで? これ、どないしたん?」
「そこ、落ちとって」

端的に告げれば、彼女は一瞬、泣きそうな顔になって、その場に膝抱えてしゃがみ込んだ。
俺は慌てて、彼女の傍にしゃがみこむ。

「なっ⁉ え、大丈――っ?」
「……はー、よかったぁ」

不意に聴こえてきた言葉に、俺の声が途中で止まる。

「これ、探しとってんよ」
ふっと上がった顔に、さっきまでの笑顔とは違う、力の抜けたような笑みを浮かべ、俺の目を真っ直ぐ見た。

「お兄さんありがとうな。拾ってくれて」
「ほんま、助かったわ」

水色の瞳に自分が映った瞬間、心臓がひゅっと縮む。

「……っ」

声が出えへん。
そんな情けない俺を、彼女は首を傾げつつ「お兄さん?」と、不思議そうに見とる。

侑士のわざとらしいため息が夜闇を裂く。
「すまんな」

突然の侑士の謝罪に、彼女の視線が俺から逸らされる。
心底不思議そうな表情を浮かべた彼女が、眉根を寄せて侑士を見た。

「こいつ、自分のこと凝視しとったさかい、今パニックなんやと思うわ」
「や、そうなん? ほんなら、急に現れてしもて、申し訳ないことしたなぁ」

その申し訳なさそうな瞳に、俺は心の中で悪態を吐く。

――侑士。
ほんまええ加減にせえや……。

「かまへんよ。で、このネックレス自分のなんやろ?」

持って行き。そう付け足した侑士は、俺の手からネックレスをひょいっと取り上げ、彼女に手渡す。

彼女はそれを受け取るとすぐ首に掛け、胸の前でそっと押さえた。
その仕草がやけに丁寧で、胸の奥に何か大事なもんをしまっとるみたいやった。

「ほんまにありがとう。大事なもんやから、助かったわ」

立ち上がった彼女が何度も、何度も頭を下げる。
ほんま、こっちが恐縮するくらい。

そんだけ、このネックレスが彼女にとって大切なものやったんやと思う。
持ち主の元に戻ったネックレスは輝きを増した気がした。

よっと立ち上がった俺を覗き込むようにして、彼女が見上げてくる。

「なんや、驚かしてしもたみたいでごめんな」

申し訳なさそうに下がる眉に、俺は「いや……」と、どうにか声にした。
その声に安心したのか、彼女はほっと息を吐くと言葉を紡ぐ。

「拾ってくれて、ほんまにありがとう」

淡い水色の瞳に射抜かれて、目が泳ぐ。

「お、おん! 気にせんで。よかったわ、持ち主に返せて」

そう一気に言うた瞬間、彼女の瞳にあたたかい光がともった気がした。

――あ、普通に笑ろたら、こんな感じなんや。

舞台上で目にした冷たい笑みとは全く違う、あたたかなほほ笑みを浮かべた彼女は、ほんまに天使みたいで。

あたたかくて、優しくて。
意識とは別のところで、身体が熱を持ちはじめる。

彼女は「そろそろ行かな」と姿勢を正すと、俺たちに、深々と頭を下げた。

「ほんまにありがとう」

それから「ほんなら、ね?」と足早に去っていく。
そのうしろ姿に、よかったなぁって思うのに、胸ん中に残った鈍い痛みは消えへんで。

あんな痛い音弾いとって、しんどないんやろか。
なんて思ってしまう。

彼女の姿が完全に見えなくなった頃、不意に侑士が小突いてきた。

「惚れた?」
「っ!? はあ!? ンな訳あるかいっ!!」

勢いで否定したけど、正直、心臓は高鳴っとる。

あんなに小柄で華奢やとは思わんかった。
水色の瞳も、整った顔立ちも。

――いや、好みドンピシャの子に話し掛けられたら、
そら誰でもこうなるやろ。
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