9話:限界
視聴覚室の前方で白石を中心に、真優とオサムちゃんが、資料に目を通している。
ふと目に入った、真優の顔色がいつもよりも悪く感じられた。
なんや瞬きの回数多い気もするし……。
ピアノもあって、忙しいんやろな。
そんなことを考えていると「お疲れさんです」と声が降ってきた。見れば財前が立っとって。
「おー、お疲れ」
言うなり、俺は空いとった隣の席を引いてやる。
財前が隣に腰掛けたのを横目に、俺は前方で資料に目を落とす真優の姿を目にとめる。
――『……寝てへんのやって』
翔太から真優の状況を聞かされて以来、俺は何もできずにいた。
聞かされてなお、どうしたらええんか分からんで。
真優が部活に必死になる理由を計りかねている。
最初は、ピアノから逃げたいんかと思った。
あの母親の支配から逃れたくて、ピアノっちゅー鎖断ち切りたいんかと思とったんやけど。
それなら、ピアノ弾かんと寝てしまえばええだけの話で。
やけど、真優はそれをせん。
自分の身削ってまで、ピアノを弾いとる。
いつ倒れたっておかしくない状況になっても、絶対に弾くことを止めへん。
――何を、そんなに意地になってるん。
「……なんで寝えへんのやろ」
気付けばそんなことを口にしていた。
すぐ横から財前の「は?」という声が返って来て、俺はやっば、と慌てて言葉を紡ぐ。
「なんでもあらへん」
「そうですか」
財前は訝しげに首を傾げとるけど、それ以上何も言ってこんかった。
そんな中、不意に白石の声が視聴覚室に響いた。
「全員揃ったな!」
ミーティングの開始や。
□ + ◇ + □
「――というわけで、全国大会の話は終わりや」
「何か質問あるか?」
そう白石が告げれば、部員から次々にくだらん質問が飛び交う。
「お菓子はいくらまでですか!」
「旅費が捻出できへん場合は走っていくとかですか!」
白石は咳払いすると一喝する。
「お菓子は知らんし、走って行ける距離やありません!」
他の奴らと一緒になって笑うけど、なんや気分は晴れへん。
そんな自分に呆れてしまう。
いつもやったら、くだらん質問すんねんけどな。
気分が乗らん。
そんなこと思うとったら、財前が小声で聞いてきた。
「どないしたんですか?」
視線を一瞬、財前に向ける。
こういうとき、いの一番にしょーもない質問するやん、とか思とる顔しとんな。
俺は考え事でぐちゃぐちゃの心隠すみたいに、薄く笑って「ああ、いや」と続けた。
「なんでもあらへんよ」
財前がこんな返答で納得するとも思わんけど、とりあえず返事をした瞬間「最後に一つ」と白石が声を張った。
「これは相談とかやなくて、報告になってしまうんやけど」
白石の視線が真優に向けられ、真優がゆるりと頷いた。白石はそれを確認すると、俺たちに向き直る。
「今回の全国大会、真優は同行せえへん」
瞬間、耳の奥がキンと鳴った。
頭に言葉が入ってこん。
周りの反応も、遠くでぼやけてる。
──どういうことや。
たった一言で、足元の地面がズレたみたいに感じた。
それまで、鳴っとった紙をめくる音の一切も止んで。
騒然とする状況に白石は「驚かせてすまんかった」と続ける。
「ここ何日か、俺と真優とオサムちゃんで話し合っとるところ見た奴も結構おると思う」
「その話し合いの内容が、今言ったことについてや」
空気が水を打ったように静かになった。
「みんなも記憶に新しいと思うけど」
「真優が入部した日『一位くらいとったる』って、こいつ啖呵切っとったやろ」
白石の言葉に、涙流しながら母親に楯突いた真優の姿が思い出された。
「――そのコンクールの日が、全国大会の週と重なる」
厳密に言えば決勝の五日後な、と白石は付け足した。
「さすがに、そんな直前に選手やない部員を同行させるわけにもいかんやろ? それで」
白石はそこまで言うと再び真優を見た。
真優は一つ頷くと「ここからはうちが」と席を立ち、話を引き継いだ。
「まずは、ミーティングでこんな話をしてしまって、すみません」
「本来ならみんなの晴れ舞台やから、同行するのが筋やと思う」
真優自身、悩みに悩んで出した答えなんやろ。
やのに、真優は唇を噛んで、目え伏せて、心底申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「やけど、みんなもうちのお母さん、見たやろ?」
「入部届びりびりに破いて……ああいうこと平気でする人やねん」
真優の鞄からびりびりに破かれた入部届が出てきた瞬間、誰もが息を飲んだ。
「うちがコンクール直前に全国大会に行って『ピアノ弾いてませんでした』なんて状況になったら」
「……ほんまに何しでかすか分からへん」
その言葉に、納得してしまう自分がいる。
人目も憚らずに恫喝して。
手振り上げて――。
俺は無意識に左頬に触れた。
痛みはもうない。
やけど、あのときの衝撃は簡単に忘れられるものやない。
不意に、真優の水色の瞳が俺に向けられた。
申し訳なさとやるせなさを孕んだ瞳が、ゆるりと伏せられる。
「うちやなくて、部活自体に被害が出るかもしれへん」
「全国大会前の大事な時期にそれは、絶対に避けなあかんから」
真優がそう告げれば、数分前まで広がっていたざわめきは鳴りを潜め、代わりに諦めにも似た納得が空間を支配していた。
「……それやったら、しゃーないな」
ぽつりと言ったのは金ちゃんやった。
あのゴンタクレな金ちゃんでさえ、そう言うんや。
誰も、反論できへん。ただ――。
金ちゃんの発言を聞いた瞬間、真優の表情が歪んだのを俺は見逃さなかった。
心の底からつらいという感情が見え透いて、痛々しくて見てられへんかった。
ふと目に入った、真優の顔色がいつもよりも悪く感じられた。
なんや瞬きの回数多い気もするし……。
ピアノもあって、忙しいんやろな。
そんなことを考えていると「お疲れさんです」と声が降ってきた。見れば財前が立っとって。
「おー、お疲れ」
言うなり、俺は空いとった隣の席を引いてやる。
財前が隣に腰掛けたのを横目に、俺は前方で資料に目を落とす真優の姿を目にとめる。
――『……寝てへんのやって』
翔太から真優の状況を聞かされて以来、俺は何もできずにいた。
聞かされてなお、どうしたらええんか分からんで。
真優が部活に必死になる理由を計りかねている。
最初は、ピアノから逃げたいんかと思った。
あの母親の支配から逃れたくて、ピアノっちゅー鎖断ち切りたいんかと思とったんやけど。
それなら、ピアノ弾かんと寝てしまえばええだけの話で。
やけど、真優はそれをせん。
自分の身削ってまで、ピアノを弾いとる。
いつ倒れたっておかしくない状況になっても、絶対に弾くことを止めへん。
――何を、そんなに意地になってるん。
「……なんで寝えへんのやろ」
気付けばそんなことを口にしていた。
すぐ横から財前の「は?」という声が返って来て、俺はやっば、と慌てて言葉を紡ぐ。
「なんでもあらへん」
「そうですか」
財前は訝しげに首を傾げとるけど、それ以上何も言ってこんかった。
そんな中、不意に白石の声が視聴覚室に響いた。
「全員揃ったな!」
ミーティングの開始や。
□ + ◇ + □
「――というわけで、全国大会の話は終わりや」
「何か質問あるか?」
そう白石が告げれば、部員から次々にくだらん質問が飛び交う。
「お菓子はいくらまでですか!」
「旅費が捻出できへん場合は走っていくとかですか!」
白石は咳払いすると一喝する。
「お菓子は知らんし、走って行ける距離やありません!」
他の奴らと一緒になって笑うけど、なんや気分は晴れへん。
そんな自分に呆れてしまう。
いつもやったら、くだらん質問すんねんけどな。
気分が乗らん。
そんなこと思うとったら、財前が小声で聞いてきた。
「どないしたんですか?」
視線を一瞬、財前に向ける。
こういうとき、いの一番にしょーもない質問するやん、とか思とる顔しとんな。
俺は考え事でぐちゃぐちゃの心隠すみたいに、薄く笑って「ああ、いや」と続けた。
「なんでもあらへんよ」
財前がこんな返答で納得するとも思わんけど、とりあえず返事をした瞬間「最後に一つ」と白石が声を張った。
「これは相談とかやなくて、報告になってしまうんやけど」
白石の視線が真優に向けられ、真優がゆるりと頷いた。白石はそれを確認すると、俺たちに向き直る。
「今回の全国大会、真優は同行せえへん」
瞬間、耳の奥がキンと鳴った。
頭に言葉が入ってこん。
周りの反応も、遠くでぼやけてる。
──どういうことや。
たった一言で、足元の地面がズレたみたいに感じた。
それまで、鳴っとった紙をめくる音の一切も止んで。
騒然とする状況に白石は「驚かせてすまんかった」と続ける。
「ここ何日か、俺と真優とオサムちゃんで話し合っとるところ見た奴も結構おると思う」
「その話し合いの内容が、今言ったことについてや」
空気が水を打ったように静かになった。
「みんなも記憶に新しいと思うけど」
「真優が入部した日『一位くらいとったる』って、こいつ啖呵切っとったやろ」
白石の言葉に、涙流しながら母親に楯突いた真優の姿が思い出された。
「――そのコンクールの日が、全国大会の週と重なる」
厳密に言えば決勝の五日後な、と白石は付け足した。
「さすがに、そんな直前に選手やない部員を同行させるわけにもいかんやろ? それで」
白石はそこまで言うと再び真優を見た。
真優は一つ頷くと「ここからはうちが」と席を立ち、話を引き継いだ。
「まずは、ミーティングでこんな話をしてしまって、すみません」
「本来ならみんなの晴れ舞台やから、同行するのが筋やと思う」
真優自身、悩みに悩んで出した答えなんやろ。
やのに、真優は唇を噛んで、目え伏せて、心底申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「やけど、みんなもうちのお母さん、見たやろ?」
「入部届びりびりに破いて……ああいうこと平気でする人やねん」
真優の鞄からびりびりに破かれた入部届が出てきた瞬間、誰もが息を飲んだ。
「うちがコンクール直前に全国大会に行って『ピアノ弾いてませんでした』なんて状況になったら」
「……ほんまに何しでかすか分からへん」
その言葉に、納得してしまう自分がいる。
人目も憚らずに恫喝して。
手振り上げて――。
俺は無意識に左頬に触れた。
痛みはもうない。
やけど、あのときの衝撃は簡単に忘れられるものやない。
不意に、真優の水色の瞳が俺に向けられた。
申し訳なさとやるせなさを孕んだ瞳が、ゆるりと伏せられる。
「うちやなくて、部活自体に被害が出るかもしれへん」
「全国大会前の大事な時期にそれは、絶対に避けなあかんから」
真優がそう告げれば、数分前まで広がっていたざわめきは鳴りを潜め、代わりに諦めにも似た納得が空間を支配していた。
「……それやったら、しゃーないな」
ぽつりと言ったのは金ちゃんやった。
あのゴンタクレな金ちゃんでさえ、そう言うんや。
誰も、反論できへん。ただ――。
金ちゃんの発言を聞いた瞬間、真優の表情が歪んだのを俺は見逃さなかった。
心の底からつらいという感情が見え透いて、痛々しくて見てられへんかった。