7話:Something is wrong with her.

その日の夜、俺は自室で寝転がり天井をぼんやり見つめていた。
腹の上には、イグアナのハヤブサ。
ザラつく背中を何度か撫でながら、今日の出来事を反芻する。

仮に、踏み外したのが先やったとして、や。
そんなこと、普通あるか?

小さい子どもならともかく、中学三年が何でもない階段を踏み外すなんて。

俺はハヤブサを腹から退け、上体を起こした。
柄にもなく、何度もため息がこぼれる。
考えたところで仕方ないのに、脳みそは勝手にあの瞬間を再生する。

右手に残る、真優の温もり。
――やっぱ、小さかったな。

確かに小柄やけど、それ以上に華奢やった。
俺の腕にすっぽり収まるくせに、舞台に立てば圧倒的な存在感を放つ。不思議や。

――それに、柔らかかった。

そこまで考えて、全身が一気に熱を帯びる。
何考えとんねん俺!

思わず顔を覆ったとき、ドアノブがカチャリと回った。
視線を向けると、神妙な面持ちの翔太が立っていた。
「兄ちゃん、今ええか?」

しばらく見合わせてから、翔太が首を傾げた。

「……なんや、翔太」
「いや、なんで赤いん?」
「そこ、一旦ノータッチで頼むわ」

咳払いで誤魔化すと、翔太は首を傾げつつ部屋に入ってきて腰を下ろした。

「まあええけど……。なあ、俺の友達に尚っておるやろ?」
「ああ、お前がよお話しとる?」

サッカー部らしいけど、俺はまだ顔を見たことがない。
翔太がよく家で名前を出す、一番仲のええ友達や。

「その尚が、どないしてん」

俺は軽く返す。
『今ええか』なんて切り出したわりには、大した話やないやろ。
そんなことを思いながらハヤブサをケースに戻す。

「尚、フルネーム小鳥遊尚って言うねんけど――」

ぴたりと手が止まった。

「……小鳥遊、尚?」

思わず翔太の言葉を繰り返した。
途端に心臓が早鐘のように打ち始める。

――小鳥遊なんて、そうそうある苗字やないで。

「でな、兄ちゃんこないだ真優ちゃん連れてきたやろ?」
「……おん」
「尚に聞いたら、姉ちゃんやねんて」

真優が家に来たあの日、部活が終わる直前に「ちょお弟のとこだけ行ってくるな」と駆けて行った彼女を、今になって思い出した。

「ほんで?」
努めて平静を装うけど、内心ざわつく。
翔太がこのタイミングで言うってことは――。

翔太は一瞬目を伏せ、深く息を吐いた。

「尚、最近なんや怖い顔しとってさ」
「どうしたん? って聞いてんよ」

翔太の目が言葉を探すように泳ぐ。
やけど、上手い言葉が見つからんかったみたいで、ぐっと息を飲んで、仕方なさそうに直球の言葉を紡いだ。

「したら、姉ちゃんがやばい気ぃする、言うててな」
「……は?」

胸の奥に沈めていた不安が、一気に浮上する。
目の下のクマ、覚束ない足取り、階段の踏み外し――。

嫌な予感が形を取りそうで、息をひそめた。
翔太には悟られないよう、静かにそっと。

「兄ちゃん、真優ちゃんと仲ええから、なんか知っとるかなって」
「いや、知っとるも何も……」

仲がええかなんて分からへん。
特に、最近は避けられとるしな。

なんて自嘲気味に笑うけれど、胸の奥がチクリと痛む。
痛みを吐き出すように息を吐くと、翔太に聞き返した。

「尚はなんで姉ちゃんやばいって?」

翔太は言い淀みながら、ぽつりと落とした。

「……寝てへんのやって」

壁の時計の秒針が一つ、音を刻む。
寝てへん? 頭の中で言葉が反響する。

「兄ちゃん、知っとるやろ」
「真優のおかんのこと?」
「おん。あれ、うちの学年でも噂になっとってな」
「まあ、あれはしゃーないやろ」

そもそも、俺完全に生き証人やったしな。

俺が苦々しげな表情を浮かべると、翔太が重くなった空気を軽くするために「兄ちゃん、男前になっとったしな」と、肩をすくめた。
思わずジト目で翔太を睨む。

「ほんまに思うとったか? お前」

翔太は小さく笑うと気を取り直して続けた。

「部活入ったんはええけど、その分ピアノの時間減ったら約束守られへんとかで」
翔太のやるせなさそうな声が響いた。
「今ほとんど寝てへんらしい」

拳に力がこもる。
寝てへんとか、それで最近ずっと眠そうにしとるんか。

「尚が『少しは寝えや』言うても、『一位取ったるって言うてしもたんやから、しゃーないやろ』って」

翔太のため息がこぼれ落ちて、消えていった。

「見てられへんって、声震えとってな……」

気付けば、俺は翔太の頭を思いきり撫で回していた。
「は⁉ やめや兄ちゃん!」
憤慨する翔太に、俺は笑みを向けると「話してくれておおきにな」と告げた。

真優の状況と状態が一本の線で繋がってしもた。

――ほんま、あいつ……あほやな。

俺は「兄ちゃんに任せとき!」と翔太を自室に帰すと扉を閉め、長いため息を吐き出す。

全部が繋がってしもて、頭が痛くなってきた。

日常生活に支障をきたすくらい寝てへんとか。
そのうち過労で倒れんで。

今日やって足踏み外した瞬間、一瞬意識飛んでしもたんやろ?
真っ青な顔しとったのやって、階段落ちた恐怖もあるんやろけど、それ以上に普通に体調悪かったんやないん!?

俺は頭を乱雑に掻いて、倒れ込むようにしてベッドに身を沈める。

――翔太に大見栄張ったはええけど……

正直、この事実を知ったとてどうしたらいいか分からん。

真優の意地も気持ちも――ひっくるめて、どうにかしたりたい気持ちと、全部投げ捨てて笑っとってほしい気持ち。

その狭間で俺の心は揺れ動く。

「……どないせえっちゅーねん」

やるせない声が、静かな部屋に溶けた。
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