1話:はじまりの幻想曲
結局、なし崩し的に俺たちはコンサートホールに来とる。
暗転と演奏の繰り返し。
ほらな、やっぱ遊園地の方がテンション上がった。
外、結構天気良かったし。
走ったら気持ちええんやろな、なんてあくびを飲み込む。
目じりに滲んだ涙を拭い、プログラムに視線を落とした。
次の子で最後。
ポスターで俺が目を離せなくなった子――小鳥遊真優という名前らしい。
とはいえ、このご時世。
こういうプロフィール写真って加工してるんやろ?
しかも、写真があんだけ美人ってことは、相当手ぇ加えてるんやろなぁ。
ああ、さよなら俺好みの女の子。
これから舞台に上がる子に対して勝手に嘆いていると、不意に近くの席から囁き声が聞こえてきた。
「小鳥遊真優ちゃんって、あの?」
「そうそう。コンクールで一位しか取ったことない子」
へえ、上手いんや。
なんて考える中、その人らの話は続く。
「ちゅーか『夜のガスパール』弾くんやな」
「なー。まだ中二やろ? ほんま末恐ろしい……」
「あ、けどオンディーヌと絞首台だけやん」
なんやめっちゃ怖い単語聞こえてきたけど。
絞首台て……。
そんなことを思いつつ、暗がりの中、目を凝らしてプログラムの文字を読む。
モーリス・ラヴェル
――夜のガスパールより オンディーヌ/絞首台
そんな表記があって、これの話かと納得する。
「天才やっても、中学生でスカルボは無理なんやな」
ほんの少し、安堵したようなその人らの声音に眉根を寄せ、隣の侑士に聞いてみる。
「スカルボって何?」
侑士、ピアノ弾けるねんし知っとるやろ、と期待を込めて見れば、小さなため息と共に返事が返ってきた。
「ピアノ曲ん中でもめっちゃ難しい曲」
「ふぅん?」
「プロでも弾くん躊躇する奴がおるくらいの曲や」
そんな難しい曲なんや。
まあ、この子俺と同い年っぽいし、そないに難しい曲なら手堅くプログラムから外すんも妥当か。
そんなこと考えとったら、侑士がため息交じりに「ちゅーか」と続ける。
「俺はオンディーヌすら弾きたない」
「そうなん?」
「最初の連符いやらしすぎて指つる」
「……そんなに?」
こいつ、こんなんやけど結構ピアノ弾ける奴やで。
そんな侑士が弾きたない曲って。
どんだけややこしい曲やねん、と息を吐いたと同時にステージ上が明転した。
拍手の中、舞台袖の辺りからコツコツコツとヒールの音が聞こえる。
コツっと、小鳥遊真優の足が一歩ステージに上がった瞬間、俺は度肝を抜かれた。
写真のままの女の子が、ピアノの前に立っとる。
絹糸のような黒髪を耳に掛け、写真と同じネイビーのドレスに身を包んで。
抜けるように白い肌は、照明の灯りで発光しているように見えた。真っ赤な唇は艶やかで、バラ色の頬に左の泣きぼくろ。
息するん忘れてしもた。
こんなに綺麗な女の子って実在するんやな。
けど、それ以上に魅せられたのは彼女の瞳。
日本人には少し珍しい淡い水色の――。
綺麗な目やな……。
真っ直ぐに客席を見つめる瞳に、その辺のいろんな色映し込んで、特別な輝きを放っとる。
彼女は優雅に沈み込むように一礼すると、すっとピアノに腰掛けた。
遠目からでも分かる長いまつげを伏せ、ゆっくりと開けた瞬間、会場の空気が変わった気がした。
ピリッと張り詰め、否応なしに惹き込まれる。
初めての感覚に、戸惑いを隠せない。
喉を鳴らし横目に侑士を見れば、同じように息を飲んどった。
小さな呼吸音を合図に繊細な旋律が流れ始める。
透明な指先で奏でられる旋律が、水の音を描いたように広がっていく。
――やけど、なんでやろ?
幻想的で甘い旋律やのに、音と音の間から……。
淡く滲むような痛みがこぼれてくる。
こぼれ落ちた痛みは、波紋となってホールを包み込んだ。
まるで俺たちを冷たい水の底に閉じ込めるみたいに。
そうかと思えば、曲調が変わった。
彼女の指が鍵盤に触れるたび、音が死んでいく。
そんなん、錯覚と分かっとる。
やのに、首元に死神の鎌、掛けるられとるみたいで、冷や汗が止まらへん。
――めっちゃ上手いねんけど、なんか……。
息が詰まる。
最後の音がホールの暗がりに飲み込まれていった。
今、息していいのかも分からん。
曲が終わってほっと息を吐きたいのに、ピアノ椅子に腰掛けたままの彼女が、それを許してくれへん。
次の瞬間、小さな呼吸音が響いて――肌が粟立つ低音のフレーズが響き渡った。
会場のいたるところから息を飲む音が聞こえる。
「……スカルボや」
近くの席で誰かが囁いた。
プログラムにはない曲――スカルボが駆け回る。
精緻で綺麗やのに壊れとる。
それが最初の印象。
どんな表情で弾いとんねんって視線動かしたら、ピアノの前の彼女はうっすら笑みを称えとって。
途端に怖くなった。
やけど、それ以上に――。
なんでそんな苦しそうなん……。
悪戯に狂った音が跳ねまわる。
そこにおったと思ったら、次の瞬間、別の場所に現れて。
やりたい放題。
ホール全体を引っ掻き回しとる。
その音に触れた途端、心臓が掴まれたみたいにきゅっと痛んだ。
最後の一音まで、彼女から目を離せんかった。
空気が氷みたいに静まり返る。
多分、顔引きつっとる。
こんな、演奏する奴おるんや……って喉が鳴った。
指先が完全に鍵盤から離れた。
一拍の静寂のあと、割れんばかりの拍手がホール全体を包み込んだ。
その拍手は、圧倒的な演奏に対する賞賛と――安堵。
恐怖の夜から解放されたみたいな、安堵感がホール全体を埋め尽くす。
彼女が立ち上がった。
すっと客席に向けられた淡い水色の瞳と目が合うた気がして、ドキリと心臓が跳ねる。
彼女は演奏前と同じように笑顔を浮かべて一礼すると、舞台袖へ消えていった。
「……ほんまに同い年か?」
その背中に侑士の囁きが問い掛けるけど、答える奴は誰一人としておらんかった。
暗転と演奏の繰り返し。
ほらな、やっぱ遊園地の方がテンション上がった。
外、結構天気良かったし。
走ったら気持ちええんやろな、なんてあくびを飲み込む。
目じりに滲んだ涙を拭い、プログラムに視線を落とした。
次の子で最後。
ポスターで俺が目を離せなくなった子――小鳥遊真優という名前らしい。
とはいえ、このご時世。
こういうプロフィール写真って加工してるんやろ?
しかも、写真があんだけ美人ってことは、相当手ぇ加えてるんやろなぁ。
ああ、さよなら俺好みの女の子。
これから舞台に上がる子に対して勝手に嘆いていると、不意に近くの席から囁き声が聞こえてきた。
「小鳥遊真優ちゃんって、あの?」
「そうそう。コンクールで一位しか取ったことない子」
へえ、上手いんや。
なんて考える中、その人らの話は続く。
「ちゅーか『夜のガスパール』弾くんやな」
「なー。まだ中二やろ? ほんま末恐ろしい……」
「あ、けどオンディーヌと絞首台だけやん」
なんやめっちゃ怖い単語聞こえてきたけど。
絞首台て……。
そんなことを思いつつ、暗がりの中、目を凝らしてプログラムの文字を読む。
モーリス・ラヴェル
――夜のガスパールより オンディーヌ/絞首台
そんな表記があって、これの話かと納得する。
「天才やっても、中学生でスカルボは無理なんやな」
ほんの少し、安堵したようなその人らの声音に眉根を寄せ、隣の侑士に聞いてみる。
「スカルボって何?」
侑士、ピアノ弾けるねんし知っとるやろ、と期待を込めて見れば、小さなため息と共に返事が返ってきた。
「ピアノ曲ん中でもめっちゃ難しい曲」
「ふぅん?」
「プロでも弾くん躊躇する奴がおるくらいの曲や」
そんな難しい曲なんや。
まあ、この子俺と同い年っぽいし、そないに難しい曲なら手堅くプログラムから外すんも妥当か。
そんなこと考えとったら、侑士がため息交じりに「ちゅーか」と続ける。
「俺はオンディーヌすら弾きたない」
「そうなん?」
「最初の連符いやらしすぎて指つる」
「……そんなに?」
こいつ、こんなんやけど結構ピアノ弾ける奴やで。
そんな侑士が弾きたない曲って。
どんだけややこしい曲やねん、と息を吐いたと同時にステージ上が明転した。
拍手の中、舞台袖の辺りからコツコツコツとヒールの音が聞こえる。
コツっと、小鳥遊真優の足が一歩ステージに上がった瞬間、俺は度肝を抜かれた。
写真のままの女の子が、ピアノの前に立っとる。
絹糸のような黒髪を耳に掛け、写真と同じネイビーのドレスに身を包んで。
抜けるように白い肌は、照明の灯りで発光しているように見えた。真っ赤な唇は艶やかで、バラ色の頬に左の泣きぼくろ。
息するん忘れてしもた。
こんなに綺麗な女の子って実在するんやな。
けど、それ以上に魅せられたのは彼女の瞳。
日本人には少し珍しい淡い水色の――。
綺麗な目やな……。
真っ直ぐに客席を見つめる瞳に、その辺のいろんな色映し込んで、特別な輝きを放っとる。
彼女は優雅に沈み込むように一礼すると、すっとピアノに腰掛けた。
遠目からでも分かる長いまつげを伏せ、ゆっくりと開けた瞬間、会場の空気が変わった気がした。
ピリッと張り詰め、否応なしに惹き込まれる。
初めての感覚に、戸惑いを隠せない。
喉を鳴らし横目に侑士を見れば、同じように息を飲んどった。
小さな呼吸音を合図に繊細な旋律が流れ始める。
透明な指先で奏でられる旋律が、水の音を描いたように広がっていく。
――やけど、なんでやろ?
幻想的で甘い旋律やのに、音と音の間から……。
淡く滲むような痛みがこぼれてくる。
こぼれ落ちた痛みは、波紋となってホールを包み込んだ。
まるで俺たちを冷たい水の底に閉じ込めるみたいに。
そうかと思えば、曲調が変わった。
彼女の指が鍵盤に触れるたび、音が死んでいく。
そんなん、錯覚と分かっとる。
やのに、首元に死神の鎌、掛けるられとるみたいで、冷や汗が止まらへん。
――めっちゃ上手いねんけど、なんか……。
息が詰まる。
最後の音がホールの暗がりに飲み込まれていった。
今、息していいのかも分からん。
曲が終わってほっと息を吐きたいのに、ピアノ椅子に腰掛けたままの彼女が、それを許してくれへん。
次の瞬間、小さな呼吸音が響いて――肌が粟立つ低音のフレーズが響き渡った。
会場のいたるところから息を飲む音が聞こえる。
「……スカルボや」
近くの席で誰かが囁いた。
プログラムにはない曲――スカルボが駆け回る。
精緻で綺麗やのに壊れとる。
それが最初の印象。
どんな表情で弾いとんねんって視線動かしたら、ピアノの前の彼女はうっすら笑みを称えとって。
途端に怖くなった。
やけど、それ以上に――。
なんでそんな苦しそうなん……。
悪戯に狂った音が跳ねまわる。
そこにおったと思ったら、次の瞬間、別の場所に現れて。
やりたい放題。
ホール全体を引っ掻き回しとる。
その音に触れた途端、心臓が掴まれたみたいにきゅっと痛んだ。
最後の一音まで、彼女から目を離せんかった。
空気が氷みたいに静まり返る。
多分、顔引きつっとる。
こんな、演奏する奴おるんや……って喉が鳴った。
指先が完全に鍵盤から離れた。
一拍の静寂のあと、割れんばかりの拍手がホール全体を包み込んだ。
その拍手は、圧倒的な演奏に対する賞賛と――安堵。
恐怖の夜から解放されたみたいな、安堵感がホール全体を埋め尽くす。
彼女が立ち上がった。
すっと客席に向けられた淡い水色の瞳と目が合うた気がして、ドキリと心臓が跳ねる。
彼女は演奏前と同じように笑顔を浮かべて一礼すると、舞台袖へ消えていった。
「……ほんまに同い年か?」
その背中に侑士の囁きが問い掛けるけど、答える奴は誰一人としておらんかった。