5話:風に散る願い

テニスコートに近付くにつれ、ボールを打つ音とにぎやかな声が聞こえてくる。
私は小さく笑うと、ひょっこり顔を覗かせた。

思いのほか近くに謙也くんがいて、私は「や、謙也くん」となんとも素っ頓狂な声を上げた。
謙也くんは一瞬飛び跳ねるようにして驚いたかと思うと「なんや、真優やん」と続ける。

「珍し」
「来たあかんかった?」
「あかんことないけど」

照れくさそうに頭を掻く謙也くんに、私はふふっと笑みをこぼす。

最近になって、ようやく謙也くんを名前で呼ぶことに慣れてきた。同時に呼ばれることにも。
謙也くんが『真優』と名前で呼ぶものだから、最近ではそれがすっかり定着して、テニス部の面々は私のことを名前で呼ぶ。

唯一、財前くん――もとい光だけが、名前で呼ぶ前に「名前で呼んでええんすか?」と聞いてきた。
私がなし崩し的に「ええよ。なんやそれで定着しとるし」と返せば、彼は「ほんなら俺んことも名前でええですわ」と言ってくれた。
ぶっきらぼうだけど、実は結構可愛い後輩だったりして。

「真優やん。どないしたん?」
私と謙也くんが話していることに気付いた白石くんが話し掛けてくる。

「ちゃんと入部しよ思て」

そう告げれば、途端に謙也くんが「マジか!」と声を上げた。
私はしたり顔で「マジや」と返す。

それを聞いた白石くんは、一瞬顔をほころばせると、すぐに考えるように口元に手をあてる。
「せやったら、入部届書いてもらわなあかんな」
その言葉を待っていました! とばかりに、私は満面の笑みで、少し早口になって答えた。

「持っとるで! ちゃんと書いてきたしな」
「準備ええやん!」

私は意気揚々と鞄の中に手を入れ、入部届を探す。
しかし、なかなか見つからない。
やっぱり手さぐりで探すのは横着だったか、と少しだけ恥ずかしくなって、私は鞄の中を覗き込んだ。

瞬間、手が止まる。

背中を冷や汗が流れた。
先ほどまでの意気揚々としていた気分は消え去り、頭に警鐘が鳴り響く。

鞄の底にびりびりに破かれた入部届が張り付いていた。
まるで肉を噛みちぎるみたいに、紙の繊維がばらばらに裂かれている。
見慣れたはずの自分の字が、断面で寸断されて読めない。

心臓が一瞬で喉までせり上がって、息が詰まった。

――バレた……?

指先が震える。
鞄の中で、入部届の切れ端無意識に握りしめる。
それでも、私は謙也くんたちにその不安を見せないように、ふっと小さく息を吐き出した。

――大丈夫、大丈夫。
ここは学校。あの人はおらん。

「……おかしいな、入れたと思うたんやけど」

自分の意思に反して声が震える。
心臓の音がうるさい。

ふと謙也くんと目が合った。
違和感に気付いたように細められた目を見て、私は慌てて目を逸らす。

「あんだけ、勢い付けて言うとったんに、結局忘れたん」

どうやら謙也くんは私の声の震えに気が付かなかったらしい。

いや、ちゃうな。
気付いてないふりしてくれてるだけ。
明らかに心配そうな表情が向けられとる。

思わず心の中で自嘲しながら、私は「なー。そうかもしれん」と、歯切れの悪い言葉を返した。
不意に白石くんと謙也くんが見合わせるのが目に入った。

私は無理矢理作った笑顔を顔に張り付けて口を開く。

「新しい入部届もらってくるさかい、ちょお待っとってくれる?」

そう言って、振り返った瞬間、こちらに向かってくる人影が目に入った。
あの歩き方を、私は知っていた。

喉の奥が締め付けられてひゅっと音が鳴る。

「……お、母さん」

恐怖でカラカラに乾いた喉に声が張り付く。
お母さんは私の姿を見つけると、途端に目くじらを吊り上げて、一気に距離を詰める。

「な、んで……?」
「なんで? そんなのあんたが一番分かってるでしょ」

お母さんの氷みたいに冷たい声が心臓に刺さる。
もう五月やのに、肺が凍ってしまったみたいに上手く息が吸えへん。
お母さんは苛立たしそうに頭を掻くと、盛大なため息を吐いた。

「文句言いに来たのよ。部活義務制なんてあり得ない」

お母さんの声が地面に突き刺さる。
私は鞄をぎゅっと握った。

体温が抜け落ちたみたいに冷たいのに、手汗が止まらなくて。
真っ直ぐお母さんを見ることなんてできない。

お母さんの視線がぎゅっと握りこまれた、私の鞄に向けられる。
そして、途端に何かを思い出したように目を血走らせ、金切声を上げた。

「あんた、いい加減にしなさいよ!!」
「入部届なんか勝手に書いて! 何考えてんの!?」

白石くんや謙也くんだけでなく、テニスコートにいた部員たちが一斉に黙り込む。
何事かと、テニス部だけでなく周囲にいた生徒たちの視線が一気に向けられる。

ここまで、激高したお母さんは久しぶりに見た。
私は自分の鞄をただただ強く握って、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。
お母さんは鬼の形相で、私の鞄をむしり取った。

勢いに任せて、中身をひっくり返す。
投げ捨てられた譜面と一緒になって、細かく引き裂かれた入部届が地面に落ちた。

「うわっ……」

細かく千切られた入部届が風に舞う中、誰かの声が聞こえた。

――そりゃ、そんな声もあげたくなるわ。

恐怖心とは裏腹に、私の頭は妙に冷静で。
足元がぐらぐら揺れているのに、私の心だけが水面下に沈んで静まり返っているみたい。

「こんなもの! こんなもの!!」

お母さんは地面に落ちた入部届を何度も、何度も踏みつける。
感情のボルテージが上がるほど、お母さんの声は甲高く震え、空気がピリつく。

どうにかこの場を納めないと。
そう思うのに身体は小刻みに震えて、言うことを聞かない。
私は一度、ぎゅうっと目を閉じると息を吸い込んで、一歩踏み出した。

「お母さん、落ち着いて!」

震える手がお母さんの肩をつかむ。
やけど、そんなもの慰めにすらならなくて。

乱暴に振りほどかれて、ぐらついた。
ふらついてしゃがみ込んだ瞬間、私の首元からダイヤのネックレスが覗く。

太陽の光を反射したそれを目に留めると、お母さんは目を見開いて「あんた、それ……」と、地を這うような声を発した。

お母さんの手が瞬時にネックレスに延びて、すごい力で引っ張られる。

「痛っ!」
「それはあのとき捨てたでしょ⁉」

力任せに引っ張られたネックレスは、私の首に小さな傷を作って、悲鳴を上げるみたいにぷつりと切れた。
千切れたチェーンが空中で一瞬だけきらめく。

いやや!
やめて! それしかないねん!
――そのネックレスしか……っ!

世界の音が遠退いた。
喉の奥に鉄の味がする。

「……やめて」

私の口から発せられたとは思えないほどの低い声が口を吐いて出た。
ネックレスをつかんだままのお母さんの手に力が入る。

「あんた、誰に口答えしてんの?」

どうにか冷静さを張り付けたようなお母さんの声が、風に溶けていく。
やのに、そんな声に反してお母さんは私に向かってネックレスを勢いよく投げつけた。

私は地面に落ちたネックレスを拾い上げると、力いっぱいに握りこむ。手の中でネックレスが、脈打つみたいに熱くなった。

私は今、自分が悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか分からない。
ほんまは止めなあかん、と思うのに。
もう言葉を止めることなんてできへんで。

「一位くらい、いくらでも取ってあげる!」
「だから――もううちのこと、放っておいて!」

処理しきれない感情が涙になって溢れ出す。
いろいろな感情が混ざり合って、激情が渦巻いている。

「あんた……本当、いい加減にっ!!」

お母さんが手を振り上げた。

――ああ、痛そう。

振りかぶられた手を見て、私の頭は瞬時、そう考えた。
これだけ、感情がぐちゃぐちゃなのに脳みそは冷静で笑ってしまう。
私は痛みに耐えるためにきつく目を閉じた。

そのとき、ふっと目前に影が差した。

バシンッと大きな音がしたのに、私に痛みが届くことはなくて。

恐る恐るまぶたを持ち上げれば、目の前に広がるのは四天宝寺のジャージ――謙也くんの背中。


「……こいつの人生、あんたのもんやないで」


聞いたことのない、謙也くんの低い声。
あまりの剣幕に、冷や汗が流れる。

お母さんは腕を振りぬいたまま固まっていた。
ざわざわと周囲がざわめく。

ようやく多くの人が見ていることに気が付いたお母さんは、苦々しげに舌打ちをした。

「――っ! 好きにしなさい!」

あの人の姿が小さくなる。
ようやく全身に血が回る感覚が戻ってきた。
でも、まだ手は震えとって。

「痛っ」

正直、混乱は治まっていないけれど、漏れ聞こえたその声に、私は大慌てで謙也くんの腕を引いた。

謙也くんの左頬が赤い。
お母さんに叩かれたんや……。
そう理解した瞬間、私は真っ青になった。
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