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槻倉荘

 しゃくり、と音が鳴る。先ほど、ベランダから迎え入れたものだ。瑞々しさは申し分なく、口の中に広がる芳香はもっと愛でていたいと思わせるほど。それでも、摘み取ってしまったものだからと申し訳なさを感じながら、感謝を抱きながら咀嚼する。おいしく食べて、という彼女らの声が未だ耳に残っている。さあもう一口、と濃紫へと伸ばした指先が絡めとられた。
「もう、俺の方が綺麗な色をしてるのに」
 ね、だからいい加減に食べて、と朗らかに笑う彼。居座り始めて早一ヶ月。あしらうことにも慣れ、彼自身もまたあしらわれることに慣れてしまった。己の主張が受け入れられなかったことが不満であるという感情を隠そうともせず、しかし、お互いにそれが本気でないことは分かっている。穏やかなこの時間を楽しんでいる節があることは、言葉にせずとも分かっていた。
 いつの頃からか、食用や観賞用といった区分に関係なく花弁を口にするようになった。それは「愛しい存在とひとつになりたい」と願った花々の執念の為した奇跡であったのかもしれないが、時期を同じくして、それまでは普通に食べることのできていた食事に味を感じなくなってしまった。私を食べて、と囁く花々の声が聞こえていなければ、今でも食事に苦心していたことだろう。
 他の人間がどうしているのかは分からないが、少なくとも花尾自身は自らの食生活による不具合を感じたことがない。通常では到底あり得ないのだろうが、そもそも花々の願いによって変えられてしまった嗜好である。栄養素のバランス云々についてもまた、花々の奇蹟によって都合よく回っているのだろうと解釈している。故に不具合はないのだが、不満があるとするならばそれこそまさに、今の状況であった。花人による、襲撃である。
 花人、と呼ばれる種族とでも言おうか。彼らのことをどう表現すればよいのか、花尾は明確な答えを持ち合わせていない。ただ、花の時期にだけ人の姿を取ることのできる「都市伝説」でしかない存在が本物であるということだけは知っていた。人の未練が花に宿るのか、人を哀れんだ花が人を留めているのか。当事者にも分かっていないそれを、外野がどうして暴くことができよう。竜胆の花人たる彼もまた、花に慈しまれている存在のひとりである。
「だから、何度も言っている通り、俺はお前を食べないよ」
「俺が人の姿をしているから、でしょう」
 花の状態であっても食べてくれないくせに、という恨み言は黙殺する。分かりやすく頬を膨らませて不満をアピールする竜胆。空気を含んでいる頬をそっと押すと、ぷす、と間抜けな音を立てて潰れていく。
「……ちょっと」
「いや、つい」
 じとりと睨み付けられてしまうと、強くは出られない。それでも、指先を離すと少し残念そうな表情をするのが隠しきれていない。そういった詰めの甘さに絆されてしまっていることには気がついているのだが、もう手遅れだった。それは人の姿形をしているからというわけではなくて、ただ単純に、竜胆の在り方を気に入ってしまっているから。人の姿をとっているかどうかが花尾にとってのボーダーラインなのだ、と勘違いしているようだが敢えて訂正はしていなかった。あながち、間違いでもないのだ。人の姿を取ることによって、声のみならず、表情、しぐさ等で花尾への想いをぶつけてくれるようになる。ただひたすらに、一直線に花尾への愛をぶつけてくれる彼らを、もう少し眺めていたい、触れ合っていたいと考えてしまうのだから。
 根本が花であるが故に、他の花々と同じように「花尾に食べられてひとつになること」こそが至上の喜びであるということは変わらないのだろう。花尾がいくら「人」として慈しんだところで、満たされないことは知っている。それでも、竜胆を含め人の姿を取ることのできる「花人」は、花と人とが混ざり合った存在であるのだ。花尾に食べられるその一瞬こそを至高とし、最終的な目的としている「花」であることは分かっている。そこに至るまでの時間を「人」として愛してやりたいということは、花尾の自己満足でしかないのだろう、とも。今はまだ難しくとも、いつか、終わりを惜しんでくれるようになってくれたならばと、そんな小さな夢は花尾の中で静かに息衝いている。
 指先を追ってきた竜胆の望むままに触らせてやりながら、先ほど確認したベランダの花々に思いを巡らせる。あの子は明日にでも食べてやらねばならない、あの子はあともう少しで食べごろになりそうだ、あの子は、あの子は、あの子は。
 花尾の意識が外へと向けられたことを感じ取ったのだろうか。竜胆は花尾の指先に柔く歯を立てる。
「こら」
 腕を引くと、大人しく指は解放される。そのまま、途中で止まってしまっていた食事を再開する。少し温くなってしまっていたが、相変わらず花弁は軽い音を立てながら花尾の内へと消えていく。羨ましそうにはしているものの、竜胆はもう何も言わなかった。言っても花尾が竜胆を食べないという事実は変わらないのだし、食事の邪魔をしてまで我を通すほどに我儘ではなかったから。
 咀嚼しながら、花尾は己の内に浮かんだ考えを噛み砕く。想いをそのまま形にすることができるほど、素直な性格をしていない。それでも、素直でないというだけで、竜胆の望む形にはしてやれないというだけで、彼を大切には思っているのだ。
「なあ、竜胆。明日の予定は」
「昨日も今日も明日も、花尾さんの家を守るくらいかな」
 俗な表現をするのであれば、自宅警備員といったところか。人間としての外見年齢はおよそ大学生くらい。昼間に出歩いても不自然ではないだろうに、竜胆はいつだって花尾の部屋で待っていた。確かに、家事を一手に担ってくれている彼の存在が助けになっていることは事実だ。同時に、折角人の身体を得ているというのに随分と勿体ないことをしているように思う。それを、何とかしてやりたかった。
 分かり切った答えではあったので、何をいまさら、という表情を向けてくる竜胆の手を捕まえてやる。
「なら、少しだけ小旅行しようか」
 居候させてやってるんだから拒否権はない、という最終兵器を持ち出してやるまでもなく、竜胆は頷いた。思えば、一緒に出掛けよう、と声を掛けてやったのは初めてであったのかもしれない。少なくとも、今回は。
 そんなに嬉しそうにするのなら、もっと早くに声を掛けてやればよかったな、と少しだけ後悔する。今日は花尾自身も仕事があって、小旅行、なんてものに今から出たとしても帰ってくることができるかどうかが分からない。こういった時には車があれば便利だと思うのだが、日常生活においては電車やバスさえあれば事足りてしまう。駐車スペースや維持費のこと、貯金残高のことを考えると、まだ大きすぎる買い物であるように思われて手出しができずにいる分野だ。
「どこに行くかとかもまだ決めてないからさ、お前の行きたいところでいいよ」
「俺の? そんなの」
「花尾さんのお腹の中、なんて答えはいらないからな」
「……その発想はなかった」
「おっと、藪蛇だったか」
 冗談はさておき。どこが良いのかと思いのほか真剣に考え始めてくれた竜胆に、花尾は少し動揺する。お腹の中、はさすがに出てこないにしても、花尾の隣だとか、花尾の行きたいところだとか、そんな返答があるものだと思っていたのだ。良い意味で裏切られ、頬が緩んでしまう。彼の口から、何が飛び出してくるのかと。

 未だ薄暗い早朝。始発の電車を待つホームに、二人の姿はあった。目的地に何があるのかは知らない。握りしめているのは、券売機上に掲げられた路線図で最も高額で遠くに位置する駅へ至るための切符。待っている間に調べても良いのだけれど、敢えてそれはしなかった。そこに何があるのかは重要ではなかったから。
 二人で遠くへ行ってみたい、というのが竜胆の願いだった。できればゆっくりと穏やかに、話をしながら遠くへ行きたいと。その時点で、車を用いるという線は消えた。二人で話をしながら、という点は満たすとしても、ゆっくりと穏やかに、という点で問題があったのだ。運転をしなれていない花尾にとって、そこはクリアすることのできない問題だった。そこで電車かバスかとなった時、より遠くへ行けるのは、と選出された手段が電車であった。
 千円という大台を超えたその場所は、この駅の運賃表における西端であった。これより先へは行かせない、と言われているかのような終着点。その駅の向こう側にも駅は存在していて線路は続き、電車は走っていくのだろうにそこが世界の果てであるかのような気すらした。そんな場所への切符を買ってホームで待つ。午前五時三十六分。切符に記されている数字から四則計算によって十を導き出せないか、と考え始めた竜胆に落とすなよと声を掛け、花尾は自身の切符を財布に入れて鞄の中へとしまい込んだ。こうすれば、絶対に失くさない。花尾と竜胆は久しぶりの「算数」に頭を悩ませることになる。
 暗闇を切り裂いて到着した電車の車内に人の姿は疎らで、誰もが眠いのか目を閉じていた。その中で声を出すことは躊躇われてしまい、隣に座っていても花尾と竜胆の間に会話は無かった。車内が外よりも明るい生で、窓が鏡のように光を反射している。偽鏡、という呼び名を教えてくれたのは誰であったのだろうか。
 暗いとはいえ、周囲の様子が分からないわけではない。偽鏡の向こう側、車内の様子と重なるようにして見える外の世界はまだ眠っている。何をするわけでもなく窓の外を眺める花尾の肩に、竜胆は凭れ掛かる。
「おい」
「いいじゃん、別に」
 まだ座席が空いている今、敢えてくっつく必要はないだろうと気恥しさを感じる花尾が小声でたしなめても、竜胆は何を言われても離れるつもりがないらしかった。まだ先は長く、他の乗客も自らの世界に閉じこもっている。ならば良いか、と花尾が考えたのはこれが逃避行であるからだ。全て、竜胆の願うとおりにしてやろうと花尾が決めている日。それくらいしか、花尾にはできない。
 何駅か通り過ぎると、少しずつではあるが車内の人の姿が増えてきた。そうなると流石の竜胆にも恥じらう感情が芽生えたらしく、全体重を預けるかのように花尾の肩へと凭れ掛かるということは無くなった。それでも相変わらず、二人の間に隙間なんて存在しないように、決して離れるものかとでも言うように、竜胆は花尾に身を寄せていたのだけれど。
 それほど長く電車に乗っているつもりはないのに、外の景色は見たことのないものになっていた。広がる田園。ぽつり、ぽつりと点在する住居。細い道を歩いている人は、どこからどこへと向かっているのか。
「花尾さん、花尾さん」
「どうした」
「何だろうね、あれ」
 対向車の通過待ちのため、他よりも少しだけ長く停車している駅の前。何が書いてあるのかは分からないのだが、そこには大きな石碑があった。偉人の伝承か、受け継がれてきた伝承か、はたまた猛威を振るった災禍の記憶か。花尾と竜胆が二人で好き勝手に想像を広げている間に石碑との間には電車が滑り込んできてしまい、軽い音を立てて扉を閉めた電車が動き始める。ネタは尽きてしまっていたけれど、それまで話すことができていなかった分を取り戻そうとするかのように、二人は取り留めのない話を続けていた。学生服を着た集団が目立つようになり、車内にはざわめきが満ちている。向かいの席の集団は、テスト前の追い込みを行っているらしい。
 話をしながらも見慣れない景色を目に焼き付けておきたくて、花尾の視線は窓の外へと向けられている。薄暗い中でも目立つ白色が、不意に目についた。駅が近付いて減速すると、それが何なのか判別できるようになる。線路に沿って咲いている、水仙。花尾に倣って窓の外を眺めながら、竜胆の口はひたすらに動き続けていた。
(……何か、変な感じだな)
 不思議な感覚である。花尾は、まさか今、このような時期に竜胆と一緒に電車に揺られ、あの花を目にしているとは思ってもみなかった。平日の朝。竜胆が大学生くらいの姿で現れてくれたことに感謝する。これがもっと幼かったならば、事態はもっとややこしいことになっていただろうから。
 水仙を見ていると、花尾はいつだって祖母を思い出す。その花にまつわる伝承を教えてくれた祖母は、ありとあらゆる花を愛していたと言っても良い。タイミングよく竜胆の話も一区切りを迎えたようであったから、花尾は彼が次の何かを話し始める前に口を挟んだ。
「そういえば、うちのばあちゃんが言ってたんだけど」
「ばあちゃん?」
「そうそう。藤ばあって呼ばれてたんだ」
 近所の公園にある藤の木を熱心に世話していた花尾の祖母は、周囲の人々から「藤ばあ」と呼ばれていた。誰からも愛されていた祖母は花尾の自慢で、祖父の後を追うようにして亡くなった彼女から教わったことは全て、花尾の中では忘れることのない大切な記憶となっている。
 水仙を切っ掛けとして開かれた宝箱の中から、竜胆に見せてやるべきものを選ぶ。どれにしようかと悩んだのはほんの数秒ほどで、すぐに花尾は話し始めた。
「花ってさ、愛した分だけ綺麗に長く咲くらしいよな」
「そうそう。だから、花尾さんはもっと俺を愛してくれていいんだよ」
 笑顔で話し掛ける、クラシックを聞かせてやる。眉唾物だろうと突っ込みたくなる内容のものもあるのだけれど、特にここ近年、テレビや雑誌などでもそう言われるようになった。事実、祖母が愛情を注いで育てた花たちは身内の贔屓目なしに見ても美しかったのだから全てが間違っているというわけではないのだろう。
 しかし、花尾が言いたかったのはそんな世間の噂話ではない。祖母の言葉には続きがある。
「だから、道端の花だったり他とは変わった色の花だったり、誰も気に掛けないような花や避けているような花こそ自分が愛してやるんだって心持でいるようにってさ」
 やたらと目につく白色は、誰かに愛されているからこそこれほどまでに目を引くのかと。そこまで言うことは恥ずかしかったので、件の花に目を向けるだけに留める。愛してほしい、と叫びながら竜胆もまた窓の外へと目を向けていて、あの花も誰かに愛されているんだろうね、と口にした。そして続けて何かを言いたそうにしている姿が随分と薄くなってしまった偽鏡に映っていたのだが、花尾は指摘しないでおいてやった。だって、彼が何を躊躇っているのかということくらい、言われなくても分かっていた。本当は口にしたくない内容なのだが、今日だけだから、とそっと吐き出す。
「これでも、大切にしてるつもりなんだ」
「知ってるよ。でも、もっと欲しいって、思っちゃうんだ」
 なんでだろうね、と呟く声には答えてやらなかった。それは、自分で見つけなければ意味のないことだから。

「あの」
 声を掛けられ、花尾はそっと瞼を開けた。太陽が昇ってきたせいで、光が真っ直ぐ目に刺さる。眩しさのあまり眉を寄せてしまった花尾の様子を見て、強すぎる光から庇うようにして花尾の前に立ってくれたその人は、すっと手を差し出した。
「これ、落とされていませんか」
 記された駅の名は花尾にも見覚えのあるもので、確かに花尾がこの小旅行のために購入したものだった。日光が眩しすぎると感じたのは花尾だけではないらしく、窓は少しずつ覆われていく。その隙間、運よく垣間見ることのできた駅の看板は、次の駅で花尾の小旅行が終わるのだということを告げていた。親切などこかの誰が拾ってくれたその切符を今度は落とさないようにと、花尾は握り締める。小旅行は終わってしまった。
 ここ最近、竜胆が部屋から出ようとしていなかったのは、外が寒くなりすぎたからだった。本来ならばもう花が枯れてしまっている、彼が人の姿を保てなくなってしまっている季節だというのに、それでも、健気に頑張っていた。部屋が暖かいからだ、と笑っていたけれど、彼の核たる花は他の花々と同じようにベランダに並べてあって、冷たい外気温に晒されているはずだった。それを指摘してやると、今度は花尾の愛が温めてくれるのだ、と。本人は冗談のつもりだったのかもしれないけれど、それでも、嬉しかった。もしかしたら、と思ってしまった。だから、外へ行こうと声を掛けたのだ。彼は、どこまでついてきてくれるのかと。結果は、惜しいところで終わってしまったのだけれど。
 電車を降りてホームから空を眺めてみると、思った以上に太陽の光は眩しくなかった。突き刺すようなものではなく、温かく、包み込んでくれるような。改札を出た花尾は、太陽を隠すように財布から取り出した切符を翳してみる。一、六、六、〇。零なら簡単に作れるのに、と耳慣れてしまった声がぼやいていた。
 来年こそは、といじけている竜胆の姿が目に浮かぶ。しばらくの間は触れて慰めてやることはできないのだけれど、帰ったら真っ先に水をあげようと思った。早く戻っておいで、と願いを込めて。次はもっと遠くまで行こうと願いを込めて。
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