微熱のままで
その手が好き
生ぬるい風が、気だるそうに腕を滑っていく。昼間とそう変わらない高温多湿の夜陰を、ぼんやりと部屋の明かりが灯すベランダで過ごしていた。手すりに全体重を預けた私の隣には、白銀の髪を夜風に乗せて揺らす不破瑠衣が、私と同じように手すりにもたれかかっている。
夏の間だけ、という条件下のもと私の家で過ごしている彼は、こうして毎夜ベランダに出ては物思いに耽っていた。
隣に佇み、時折風で乱れる前髪を耳にかける仕草がたまらなく大人びていて、ちらちらと視線で追ってはまた夜空に戻していく。そんなことを無意味に繰り返しているだけでも、心が満たされるほど幸せだった。
「…何?」
視線に気付いた不破くんが、こちらを見ずにほんのり微笑みながら目を伏せて囁く。
「…いや…不破くん、いつも何を考えてるのかなって」
「……そんなことが気になる?」
「気になるよ。好きな人が何を考えてるのか、知りたくない人なんていないでしょ」
好奇心に満ちたトーンで答えると、不破くんは憂いを帯びた流し目で一度だけ私を捉えて、再び視線を正面に戻した。
「……別に何も考えてないよ。そんな…君が期待するようなことはね」
「…なぁんだ」
私は少しだけ残念そうに唇を尖らせる。別に、何か面白い答えを待っていたわけではないけれど。それと同時に、ふと手すりの向こう側に飛び出た不破くんの手に自然と視線が動いた。男らしくも、繊細な左手の甲にある生々しい傷だ。
鋭い刃で貫かれたような痛々しい傷跡。初めて出会った時から、その手の傷がずっと気になっていたのだ。彼のこういった、見たことのないような傷は手の甲だけではなかった。
右腕の肘、そして背中の傷。肌を重ねた時に気付いていたものの、それを口にすることはなく、ずっと今まで心の奥に秘めていた。彼が普通の人間ではないことは薄々感じているものの、尋ねたところでもしかしたら彼を困らせてしまうかもしれないと思っていたからだ。
だけど、私は思い切ってその手の傷にそっと優しく触れてみる。
不破くんは私の手が添えられたことに気付くと、深くて淡い瑠璃色の瞳を私の方へと静かに向ける。
「…不破くんのこの傷…」
「…あぁ、これか」
「痛くはないの?すごく深そうな傷…」
指先でこわごわと触れてみると、ごつりとした男らしい手に浮かぶ乾いた感触に心が疼いた。
「…全く。理解してもらえないだろうが、私は痛みを感じない体質なんだ。…とは言っても、この傷は少し特別でね。未だに完治してないが、気に入ってるんだよ」
「…傷を気に入ってるって…そうなんだ。痛くないのなら良かった…」
不破くんの言葉に、不思議とどこかほっとしてしまう。その気持ちを素直に口にした時、不破くんは一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべて瞳を伏せる。恐らく、彼には計り知れぬ過去があるのだろう。知りたくないと言えば嘘になるが、彼が自ら話さない限りは私もそっとしておきたかった。
「君は変わってるな。他の人は、この傷を見たら大抵驚く。普通の傷ではないと見ただけで分かるからな」
珍しくどこか寂しげな瞳で言葉を紡ぐ不破くんの姿を見て、胸の奥底がきゅっと脈を打った。私は、不破くんの指を自分の指に深く絡めると、もう片方の手で優しく包み込んだ。
「驚かないよ。…この傷含めて不破くんでしょ…?私は好きだな、この傷が」
ほんのりと温かい不破くんの手を自分の頬に添えて、傷ごとその感触をもう一度確かめてみる。私には理解出来ないであろう過去を持つこの傷が、なぜだかとても愛おしかった。不破くんは指先を私の頬へぴたりと添えたあと、少しずつその指先を私の唇へと滑らせ、なぞっていく。次第にその指が顎へと掛けられると、彼は目を伏せて微かに口を開いた。
「…へえ。珍しい人もいるもんだな。少しだけ気に入ったよ、君のことが」
艶やかで低い声が耳に届いてすぐ、不破くんは顔を近づけて私の唇へと寄せる。気に入った、のではなく、少しだけ気に入った、というあくまでも感情を抑えた彼の言葉がもどかしかったが、それでも満足だった。目を閉じて受け入れ、重ねられた唇は、まるで砂糖を溶かしたように甘くて柔らかく、私の脳を焦がすには充分すぎるほどに官能的で、ゆっくりと味わうように何度も唇を重ね続けた。
唇を離し、暗闇の中でも明らかに分かるほど火照った顔で不破くんの目をじっと捉えると、私達はしばらくの間視線をぶつけ合った。
暑さのせいなのか、それとも熱さのせいなのか??私の額と頬には汗の玉がじんわりと浮かんでは消え、高鳴る鼓動とシンクロするように顔を踊りながら滑り落ちていく。下ろされた不破くんの手を優しく握りしめると、彼はまた大人びた表情でほんの少しだけ微笑んだ。
静寂に包まれた夏の半夜。冷たさの中に宿る淡い熱を感じ、少しだけ彼のことをまた一つ知れたような気がして、私の頬は柔らかく緩んでいくのだった。
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