そこそこ長いの
その日、ランスロットはひとり、騎空挺グランサイファーの甲板に佇んでいた。
(グラン、お二人からとっても大人気なんですよ!)
(グランも多分弟ができたみたいで嬉しいんだと思うんだよな。何だかんだ言って楽しそうに相手してやってんだ)
ちょうど式典の準備をしていたあの時──アーサーとモルドレッドの稽古をしていたグランの姿を目にした時に、ルリアとビィから聞いた話が頭を過る。もっと聞き捨てならないことを話していたような気がすることまで思い出すと、気が気ではない。
だからあの時ランスロットは、予定を早めることを決めた。
早くグランサイファーに、グランに合流しなければならない。
そしてグランとの確かな何かを得なければならない。
それは焦りだった。
そして同じ現場に居合わせ、自分と同じ感情をグランに抱いているヴェインもやはり、同じく焦りを覚えたようだった。
それからランスロットは、自分でも凄まじい集中力と作業スピードで執務をこなしていたと振り返っている。後片付けまで滞りなく行えるようにと、かなり予定を前倒しにして動いていた。
無論騎士団長として、何かに手を抜いたり、蔑ろにするつもりもない。
公私混同している自覚があったからこそ、全力を尽くした。
体力には自信がある。しかし、予算をはじめとした書類仕事については、普段の倍は頭も使った。その分流石に無理をしたと思う。
本来この手の作業は性分ではないことなど、幼なじみのヴェインはもちろん、共に副団長を務めていたパーシヴァルも察していたところだろう。
ヴェインと揃ってグランサイファーと合流し、顔を合わせた時には、よく見慣れた怪訝な顔をされたものだ。
それでもその甲斐あっての今なのだ。
睡眠は今晩とればいい。具体的に今後どうアプローチするかなども全く考えていなかったが、少しずつでもグランと話せる機会を増やしていけばいい。
あまり回らない頭でそんなことをランスロットが考えていると、よく知る──一番聞きたかった声が、自分の名前を呼んだ。
「ランスロット!」
ランスロットは心の中で天に感謝した。日頃の行いだとか、見ている人は見ているだとか、そんな言葉が頭に浮かんでは消えていく。
「グラン……」
名前を呼ばれたので自分も名前を呼んだ。
そんなごく当たり前のことをしたとランスロットは思っているのだが、どういうわけか、自分を見るグランの表情が曇っていくのだ。
普段は労いや出迎えの言葉を掛けてくれるとろこが、今日はそうではなかった。
「どうしたんだグラン? そんな顔をして……俺の顔に何か付いているのか?」
「……ランスロット、すごい顔してるよ」
「え?」
「目の下にクマができているし、何だか顔色も悪いし……」
グランの指摘には驚いたが、振り返れば心当たりしかないようなもので。
「あー……そんなにひどいのか?」
「うん」
グランは即答し、ランスロットはとうとう、顔に出るほど自分が疲れているということを受け入れることとなった。
「予定より早く来るって急に連絡が来たから無理してないかなって心配してたけど、やっぱりそうじゃないか」
そう一気に言ったグランの様子は、心配していると言うよりも、最後の方は怒っているに近かった。
「そんなに急がなくたって、ランスロットにはランスロットのやることがあるんだから……あ、式典すごかった。二人ともすごくかっこよかったよ」
グランの言葉を耳にしながら、ランスロットの中でその実感がじわりとその心に火を灯していく。
怒られるほど心配され、労われ、褒められているらしい。
(これは……少し、いや、かなり……)
嬉しい。
そんなことを言うとまた怒られそうなので言わずにいたが、それはそれで……なんて考え始めた俺の顔はグランの目にどう写っているだろうか? と言うか、もしかして脈があるんじゃないか? と浮わつくランスロットの心を他所に、グランが突如声を上げる。
「あ、そうだ! いいこと思い付いた。ランスロット、これから時間あるかな?」
「ああ、勿論」
「じゃあ十分くらいしたら僕の部屋に来てもらっていい?」
「あ、ああ! 承知した!」
それはほぼ勢いだけの返事だった。
今のやり取りを思い返す中、イエス以外の選択肢はやはり考えられない。
しかしこんなに上手くいくことがあっていいのだろうかと、ランスロットはその場に呆然と立ち尽くしたのだった。
その一方で、自室に向かうグランの足取りは軽かった。
思い立ったが吉日とばかりに、グランはランスロットを迎えるための準備を始める。
「桶とタオルと……お湯は厨房からもらってこよう……よし」
久しぶりに腕が鳴るぞ、とグランは意気込む。あとはランスロットが来るのを待つだけだ。
そして約束通りの十分後、ランスロットはグランの部屋を訪れた。
「いらっしゃい!」
「ああ、邪魔をする。でもどうしたんだ?」
ランスロットの問い掛けに、グランは得意気に答えたのだ。
「お疲れのご様子のランスロットに、僕が耳かきをしてあげようと思います!」
「…………グラン、今なんと?」
「だから、耳かき」
いや、言っていることはわかる。わかっているが、一体どういうことなのか。
「ザンクティンゼルにいた頃、下の子達によくやってあげてたんだ。だから結構上手いと思うよ? ささ、ここに座って座って……」
ランスロットはよく状況が飲み込めないまま、グランに手を引かれてベッドの縁に腰を掛けた。するとグランはサイドテーブルの上で湯気を上げる桶からタオルを掴み、ぎゅっと絞っている。
「じゃあまずは耳をあっためるからね……」
「えっ? あっ?」
まるで戦いのときのような素早い身のこなしで、グランは温めたタオルでランスロットの右耳を包み込んだ。
「熱くない? 大丈夫?」
「あっ、ああ。寧ろ丁度いいくらいだが……」
「よかった。じゃあまずは耳のマッサージをするね」
グランは早速タオル越しに力を込めた。耳たぶから縁をなぞるように、程よい力加減で指圧されていく。
ぎゅむ、ぎゅっ、ぎゅっ。
ぎゅーっ。
少しざらつくタオルの質感とぬくもりがとても心地いい。
ランスロットのこれまでの戸惑いは一転し、されるがままにうっとりと目を閉じた。
「ふふ、気持ちいいでしょ?」
「ああ……」
「こうしてあっためておくと耳の血流がよくなるんだ。あと耳にはたくさんのツボが集まっているから、こうして押さえるだけでも効果があるんだよ」
詳しいんだな、と会話を続けるのも億劫になってしまっているのがもどかしい。折角グランの新しい一面を知ったところだというのに。
「あと耳の裏側もこうして……」
ぐりぐりっと、親指の腹で擦られる。
気持ちがいい。
うあー……と、ランスロットは思わず一番風呂に入った時のような声を上げてしまった。
「あっ」
「ちょっと今のはおじさんっぽかったかな……」
グランにクスクスと笑われ、我に返ったランスロットの体温が一気に上がる。真剣に恥ずかしい。
「……よし、じゃあ温まってきたみたいだし、本番の耳かきするねー……」
すっとグランの手がタオルごと耳から離れ、今まで温められていた耳が暫くぶりに外気に触れた。
ランスロットがそのひんやりとした感覚に物寂しさのようなものを覚える間もなく、グランはその隣に腰を下ろした。
そしてぽんぽん、と自分の膝を叩いている。
「はい、どうぞ」
「……どうぞ、とは?」
「だってこれから耳かきするから、ほら」
これはつまり、ランスロットの思い違いでなければ──所謂膝枕というものだ。
しかもグランの方から誘われている。
「って、あっ……ごめんランスロット! 僕って言うか男の膝枕とか嫌だよね? つい昔の癖で……」
「ちっ違う! 違うんだグラン!」
寝なくてもできるから! と息巻くグランをランスロットは必死で制止する。
そう、嫌なわけがない。
寧ろ願ったり叶ったりが過ぎるくらいなものだから、困る。
「お、重くないか?」
「ううん。大丈夫」
そうして、ランスロットの頭はグランの膝の上に着地している。
おそらくこれから見えやすくするためだとはわかっているが、グランの細い指が耳の周りの髪をするりと掻き分けていく度に、ランスロットの葛藤が全身を駆け巡っていた。
(牢で両手を繋がれていた時よりも不自由かもしれないな……)
言葉選びも、こんなに密着しているのにそれ以上踏み込めないのも、もどかしい。距離を縮めるどころか一気に膝枕である。もうこれはいけるんじゃないか? いっそこのまま──と、ランスロットは何度も考えた。
しかし、グランの張り切っている様子を見ると何もできずに言われるがまま、いよいよその時は訪れた。
「じゃあ、始めるね。最初は縁の内側から……」
かり、かりかり。かり。
耳かきの先端が小気味いいリズムを刻んでいる。慎重ではあるが、迷いのない動きだと思った。あのグランがわざわざ得意だと自称するだけのことはある。
「力加減大丈夫かな? 強すぎたり弱すぎたりしない?」
「ああ、ちょうどいい。と言うか、あんたにこんな特技があったことの驚きの方が大きいかな」
「あ、特技って思ってくれたんだ」
他愛ない会話をしている間も、グランの手が休むことはない。
「じゃあ、中に入れていくね」
こういった一言も、昔相手にしていた小さな子供達を驚かせないようにする気遣いなのかもしれない。実にグランらしいと思う。
内側から外側に、くりくりと器用に耳かき棒を動かしながら、徐々にそれが深くなっていくのがわかる。
壁を削ぐように掬っては、予め広げていたティッシュの上へ。かり、かり……さりっ、さりさり……その動きの繰り返しは実に心地いい。
グランも集中しているようで、無意識に漏れる息でも声でもない音が耳元を撫でるのもたまらなかった。
「どう?」
「あー……気持ちいい。すごく」
「そっか、よかった。人から何かしてもらうのって気持ちいいし、僕も小さい頃に耳かきしてもらうの好きだったから、ランスロットも喜んでくれたらいいなって思って」
今、俺はとてつもなく嬉しいことを言われている。
だから礼を言わなくてはと思っているのに、ランスロットの疲れた体にこの耳かきはあまりにも効きすぎた。口を動かせるほど頭が働かない──気持ちよくて、本当に……眠い。
「……よし。じゃあ梵天するね」
「ん……ぼん、てん?」
今にも眠ってしまいそうではあるが、聞き慣れない単語にランスロットは少しだけ意識を取り戻したようだった。
「あっ、反対側のふわふわしてるところのことだよ。僕もユエルとソシエに教えてもらって最近知ったんだ……じゃあ、いくよー」
なるほど、あれか。と、合点がいったタイミングで、ふわふわとした綿のような感覚がぎゅむっと耳の中を塞いでいく。グランはゆっくりとそれを回し始めた。
しゅる、しゅるる……ぎゅ、ぐー……こしょこしょ、こしょ。
柔らかい音に鼓膜も喜んでいるようにすら思える。そう言えば子供の頃は、こっちの方が好きだったかもしれない。
(ああ……気持ちがいいな。本当に寝てしま、い……そう……)
閉じた目の内側まで閉じそうになった瞬間、耳から梵天が離れ、外の音がクリアになる。
ああ、終わってしまったのか、なんて名残を惜しむ猶予もグランは与えてくれなかった。
「じゃあ反対側だね。顔こっちに向けて」
わかっていたことではあるが、目の前はグランの腹部である。体を反転させただけだというのに、今までよりももっと距離が近いように思える。
ランスロットは気が気ではなかったが、グランの様子は変わらない。反対側と同じ流れで手際よく耳かきを再開され、ランスロットが再びその心地よさに微睡むのに時間は掛からなかった。
そしてグランもまたそんなランスロットに気付いていたのだろう。
「眠かったら寝ちゃっていいからね」
その言葉を最後に、ランスロットの意識は遠退いていった。
「ん……」
「あ、起きた?」
果たしてどれくらいの時間が経ったのだろうか。眠っていた分、ランスロットは今までよりも頭がすっきりしていると自覚した。
「……はっ! すまない、ずっとこの姿勢では流石に重かっただろう? 足が痺れたりしていないか?」
「大丈夫だよ。そんなに長い時間じゃなかったし、それだけリラックスしてくれたなら僕も耳かきした甲斐がある、かな?」
ランスロットからすると、真下から見上げるグランの表情は少し見え辛い。
だから一瞬だけ、グランが意を決したような表情をしたことに気付くことはなく。
「じゃあ、最後に……仕上げ」
グランはランスロットの形のいい耳元に顔を近付けていく。そして──
…………ふっ、ふーっ。
と、息を吹き掛けた。
「っ──!?」
「あっごめん! びっくりした?」
「あっいや、その……ああ……」
口ごもるランスロットは、勿論何をされたかは理解している。
反射的におかしな声を上げてしまうほど、明らかに「気持ちいい」の種類が違ったのだ。
そしてランスロットの中で、ひとつの疑問が浮かび上がった。
「グラン、その……この耳かきは、他の団員にもよくしているのか?」
耳かきだけならまだしも、仕上げだと言っていた──自分の下半身を心配してしまうほどの今のそれまで含めて、他の人間にもしたことがあるのだろうか?
もしそうだとしたら、嫉妬するどころか悪気もなく誰にでも手を差し伸べるグランの聖人性は、最早悪だとも思わなければならない。
どくどくと煩い鼓動を必死に抑えながら、ランスロットはグランの答えを待った。
「……ザンクティンゼルを出て、グランサイファーで旅を始めてからは、今……ランスロットにしたのが、初めて、だよ」
ランスロットはその答えに、ごくりと唾を飲み干した。そしてぶつからないよう、ゆっくりとグランの膝の上から起き上がり、正面からその表情を見つめる。
顔を真っ赤にして、こちらを見ようとしない。それでもグランは、震える唇で告げた。
「他の人には……したことない。ランスロットだけ、だよ」
後日、ランスロット騎士団長の剣閃がより鋭くなっていると、見習い騎士達の間で専らの評判だとかどうとか。