そこそこ長いの

 幽世の件から暫くして、領主であるアグロヴァルは忙しない日々を送っていた。
 隣国の王の気遣いもあり、その後騒ぎが必要以上に広まることはなかった。王の椅子を降りることも考えなかったわけではない──ただ、城の家臣や国の民達の彼に対する信頼が揺らぐことはなく、その中には久しぶりに顔を合わせた末弟のパーシヴァル、そしてそのパーシヴァルが世話になっている騎空団の団長も含まれていた。

 パーシヴァルが自慢の家臣だと評して憚らないその団長は、一見すると実に平凡な少年であった。
 しかしながら時折見せる強い瞳と自分を前にしても怯まぬ度胸、そして幽世に飲まれた自分に向けられた刃から感じた力を、アグロヴァルは忘れたことがない。パーシヴァルが彼に執心していることを理解するのにそう時間は掛からなかった。

「街の人はみんなこの国が、アグロヴァルさんのことが大好きなんだって言っていました! だからもう一度、アグロヴァルさんがやり直すんです。僕も力になります!」
 身を乗り出してまでして強くそう言ったときのグランをアグロヴァルはよく覚えている。
 国を治めることの何たるかを、まして成人の儀も迎えていない少年風情が好き勝手に言ってくれたものだと、力に取り憑かれていた頃のアグロヴァルであれば、聞く耳を持たずに終わっていたかもしれない。
 しかしその言葉は不思議と、間違いなくアグロヴァルの胸を打っていた。感情任せの滅茶苦茶な理想に酷く惹かれ──この少年の手を取れば、もう一度やり直すことを赦されるような気がした。

 グランは言葉のとおり、騎空団の仕事の合間を縫ってはウェールズを訪れるようになっていた。そこにはパーシヴァルや隣国の騎士団の顔もあり、本当に懸命にウェールズのために尽力してくれた。
 以前、アグロヴァルはグランに皆まで連れて来ずとも、と問うたことがある。そこでアグロヴァルはグランが騎空士になるまでのあれこれを知ることになるのだが、その頃の二人は互いが互いに特別な存在になっていたのだ。




 この日のグランサイファーもまたウェールズに停泊していた。到着が夕刻を過ぎていたため、復旧作業については翌日からとして今日は身を休めることになった。

 自室のあるパーシヴァルや他の面々は城の者に任せ、アグロヴァルは直々にグランを客室へと案内する。
「いつもすまないな……恩に着る」
「いいんです! 僕が勝手に手伝うって言い出したことだし……それに」
 グランが言葉を止めるのと同時に、二人は部屋の前で足を止めた。グランはきょろきょろと辺りを見回し、廊下に人の姿がないことを確認する──そしてアグロヴァルの手をそっと握る。
「団長?」
「アグロヴァルさんに、会えるの嬉しくて」
 か細い声でそう伝えると、グランは俯いてしまった。
 その顔は赤く染まっているのだろう、それを言うためにどれだけ気をやったのかと思うと、アグロヴァルの胸に愛おしさがこみ上げてくる。長く凍っていた心臓をじわじわと溶かしてくれた温かさは、いつしか燃え上がる炎のように熱を持っていた。

 ああ、この少年が愛しくて仕方がない。

 持て余す情熱のまま、彼を自分だけの物にしたい。そして自分の元に閉じ込めることができたなら、どれだけ幸福なことだろうか。
 アグロヴァルはその手を強く握り返し、グランを自分の方に引き寄せる。腕の中にすっぽりと収まってしまう小さな体をぎゅっと抱き締めた。
「あ、アグロヴァルさん……!」
「……月が天上へ昇る頃、我の元へ来い」
 本当は今すぐにでもこのまま愛したかった。赤くなった耳に愛を囁き、指を絡め、熱を分け合いたい──しかし自分が選んだこととは言え、王であるアグロヴァルがこの城の中で自由になるにはまだ時間を要したのだ。
「……はい」
 グランもまたそれを理解していた。短く返事をすると、名残を惜しみながらそっとアグロヴァルの腕の中から抜け出した。
「じゃあ、後で」
「ああ」
 名残惜しいのはお互い様で、アグロヴァルはグランの柔らかい髪をくしゃりと撫でてから背を向ける。
 それから一度も振り返らぬまま遠ざかるその背中は、威風堂々そのものだと、グランは尊敬の眼差しを向ける。

 ──それを見ている視線に気付かぬままに。










 約束の刻になってもグランは現れなかった。
 どこまでも真っ直ぐで真面目なグランのことである、この事実にアグロヴァルは違和感を感じていた。
 賊の侵入などまずあり得ないはずだが、もしかしたらあれの身に何かあったのかもしれない。
 いや、きっと昼間は依頼に奔走していたのであろう。もしかしたら眠っているのかもしれない。
「我の方から出向かせるなど……ククッ。本当にお前という奴は」
 グランのいる客室へ向かうアグロヴァルの胸中は決して穏やかではなかった。
 都合のいい可能性だけを浮かべられなかった不安は、最悪の形で的中することになる──辿り着いたその部屋の扉が、軽く開いていたのだ。



「……扉を閉め忘れるなど不用心だな、我が弟よ」
「……兄上」
 アグロヴァルの目の前に飛び込んできたのは、暗がりの中でもよくわかる炎のような髪の、よく知る男の姿だった。その髪は乱れ、衣服は実直な弟らしからぬ着崩れを起こしている。
「……すみません。気付かぬほどに夢中になっていたようです」
 パーシヴァルはあまりにも何事もなかったかのようにそう答えた。
 そんなはずがあるものかと、アグロヴァルは自らの拳を強く握った。この部屋を包む空気とパーシヴァル自身が何よりの証拠だと、アグロヴァルは不本意ながら確信する──この部屋で何が行われていたのかを。
「ああ、グランなら眠っています。少し手荒くしてしまったので疲れたのでしょう……沢山声を上げていましたから」
 ベッドサイドに座ったまま、パーシヴァルは傍らで寝息を立てるグランの頬を撫でている。宝物にでも触れるかのようなその手付きに、アグロヴァルの抑えていた感情が遂に溢れ出した。
「貴様ッ……!」
 パーシヴァルの胸倉を掴み力任せに自分の方を向かせる。
 それでもパーシヴァルは表情ひとつ変えることはなく、その赤い瞳はまるで底のない湖のように深淵を映していた。
「兄上。大声を出されては起きてしまいます」
「……お前は自分が何をしたのかわかっているのか」
「……ええ。グランを抱きました」
 敢えて、わざと直接的に言ってくる意図が、アグロヴァルには嫌気が差すほどわかっていた。この弟は自分に理解させるためにこう言っているのだ──グランが汚され、汚したのは自分だという事実を。
「そのような顔をされましても……兄上、先に俺の家臣に手を出したのは貴方の方だ」
「……お前の思う家臣とは慰み者の意味も含むのか」
 怒りで震えるアグロヴァルの声色に怯むどころか、パーシヴァルは眉ひとつ動かさずに反論する。
「グランを誑かして慰み者にしているのは貴方の方でしょう」
 あくまでも正しいのは自分であると、初めて意志を持った目がアグロヴァルを睨みつけていた──これが本当にあのパーシヴァルなのかと、アグロヴァルが困惑するほどに。
「お前は……何を……」
「俺はグランを愛しています。団長として、家臣として、右腕として……これから生涯を共にする者として」
「パー……シヴァル……」
 アグロヴァルが掛ける言葉を失っている間に、パーシヴァルは掴まれていた兄の手を力ずくで放させる。
 そして着崩れを軽く正すと立ち上がり、アグロヴァルに背を向けたその時だった。
「……パーシヴァルよ」
「……何でしょうか」
「やはりお前もウェールズの人間なのだな」
「……兄上の弟ですから」
 アグロヴァルはパーシヴァルに目を向けることはなく、パーシヴァルもまたアグロヴァルに背を向けたまま答える。




(ねぇパーシヴァル、アグロヴァルさんってどんな人?)
 初めは自分の兄のことを知ろうとする家臣らしいいい心掛け程度に思っていた。
(好きな食べ物とか知ってる? やっぱりパーシヴァルと同じで苺が好きなの?)
(領主ってことはさ、やっぱり婚約者とか、いるのかな……)



 もっと早くに気付くべきだったのだと、パーシヴァルは奥歯を噛み締める──自分の気持ちにも、グランの変化にも。
 復興に手を貸したいとは言ったものの、ウェールズに立ち寄る頻度が増え始めた頃から違和感を覚えていた。
 そして見てしまった──玉座の柱の陰に隠れて口吻を交わす二人の姿を。
 二人が自分の知らない表情で微笑み合っている姿を。


(俺はもう、母上に何もできなかったあの時の無力な俺ではない)



 部屋を出たパーシヴァルは、その壁にもたれて大きく息を吐く。
「……失うのはもう沢山だ」
 ──それが実の兄の大事な人であったとしても。





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