★恋に浸る

高校をなんとか卒業することができた私は、母親名義の狭いアパートで一人暮らしを始めた。
一人暮らしというか、詳しく言えば最初の数週間はたしかに一人暮らしをしていた。高校を卒業してすぐ、仁はなにかと理由をつけて私の家に遊びに来た。
煙草が一口欲しくなった、シャワーを貸して欲しい、お腹が空いた、暇だったから。
本当は私に会いたかったんでしょ、自惚れた質問をすると仁はその言葉通り「自惚れてんじゃねえぞ」、いつも正解だと言うように笑った。

それが何度も続いた頃。一人暮らしだったはずの生活は、いつのまにか付き合いたての大学生達が浮かれてやるような半同棲のようなものになっていた。
学生気分の三月が終わり四月を迎えると、私達はお互いに真面目に働きはじめた。
春になりすぐ19歳になった仁と、まだ18歳の私。朝から夕方までなれない仕事にへとへとになりながらも、夜は静かに愛を確かめ合った。
朝に起きて仕事に行くのが憂鬱だった。でも起きた時、隣には髪を下ろし年相応に見える寝顔で寝ている仁がいる。
仕事の昼休みには仁と全く同じおかずの弁当を、なんとか仲良くなれた同僚とお喋りしながら食べたりしている。
仕事から帰り、仁が放ったらかしにした服や洗い物に対して一人で憤怒する。
仁がいなければ。私は高校をあっさり中退して適当な男と恋に溺れていただろうし、定職にもつかずフラフラと遊び歩いていただろう。
仁がいるから。私は少しずつ、更生の道を歩み始めた気がした。



仕事を始めてしばらく経った。私が19歳の誕生日を迎えた時、仁はお揃いのピアスを買い私にくれた。
プレゼントだとは言わず、「一つ余ってるからやる」。仁は綺麗にラッピングされた箱を差し出してきた。「どこにこんな綺麗な余り物があるの」、私は素直にならない仁に思わず笑いながら受け取った。
私と仁の左耳には、同じ場所に同じピアスがある。中学の頃に同じ事をしたのを思い出す。私達あんまり変わってないね、そういって二人で小さく笑いあった。
それでも少しだけ大人になった私達は、昔の私達のような荒みやさぐれたような若い子達を見て少し恥ずかしいと思うようになった。
夜出歩いた時にたまに若い男の子に絡まれる仁を、私は同類だと思われてるよ大笑いし、まれに若い猿みたいな品のない男にナンパされる私を、ヤレると思われてると仁は笑った。

私達が成長し世間を少しずつ知り始めた頃。半同棲だった仁との生活はいつのまにかれっきとした同棲となり、狭い私の部屋には仁の物が増えていった。この狭い部屋のままでは寝る場所もなくなってしまう、仁と私は二人で暮らす部屋を探し始めた。
19歳の仁と私は、親の同意がないと部屋を借りることができなかった。優紀に書類を書いてもらうからいいと、契約者を仁にして部屋を借りる話も出た。けれど仁には実家があるし、もしも仁と別れることがあれば私が住む家は無くなってしまう。お前別れるつもりあんのかよと、少し不機嫌になった仁を愛おしく思った。

ある時、二人とも気に入る部屋を見つけた。ここがいい!そう思った私達は、すぐに契約を進めていった。けれど簡単に部屋が借りれるわけではなく、難関がいくつかあった。
お金はまだいい、仁と働いて懸命に溜めた貯金がある。やはり問題は部屋の保証人だった。
高校を卒業してすぐ住み始めたこの部屋は、母親のアパートと少し離れた場所にあった。いちいち仲の悪い母親に会いに行くのも嫌だし、父親とはもう何年も連絡を取ってないから気まずいし、郵便で送るのも返事が返ってこないと困るし。私はもうすぐ成人するというのに、未だに親がいないと何もできない子供なのだと痛感させられた。

「母親に会いに行って書類を書いてもらうしかないよね」

数日間の間、嫌だ嫌だ会いたくない憂鬱だとため息をつき続けた私を、仁は何か考えるように見ていた。
明日も仕事だ。働くだけでも憂鬱なのに、何故こんなくだらない悩みに貴重な自由時間を使わなければならないのか。更に憂鬱になり、大きくため息をついた。

「だから俺の名義にして優紀に書類書いて貰えばいいだろ」

「嫌だよ、仁ともし別れたら私の住む場所なくなっちゃう」

俺に捨てられねーように気をつけろよ、わざと意地悪く笑う、仁の広く硬い背中を私は笑いながら手のひらで軽く叩いた。
狭い部屋でも弱々しく叩いた音は響かない。私はベッドの上にあぐらをかいて座る、仁の脚の上に移動して身を丸めた。

「優紀ちゃんが私の親だったら、私は絶対ぐれてないもん」

「お前の親、放任主義だから楽だろ」

やっぱり親交換すればよかったね、仁の腕の中で笑い、私とは違う大きい手と指を絡めた。絡めた指の行き先がなくなると手をほどいたり、指を触ったりして私は暇を潰した。

「楽しかったよね、昼に起きて、学校で暇つぶして、夜にはどっか行ってさ」

今は朝起きて、お弁当作って、仕事行って、疲れて寝るだけだもん。
寝る前にやることやるだろ、指を絡めたままの仁の手が胸のあたりにまで下がり、私はまた後でね、手を強く握ってごまかした。

「中学の頃さ、勝手に借りたバイクの鍵を返し忘れて焦ったよね」

「そんなもん覚えてねーよ」

「うそ、私がいたずらで仁の鞄にいがくり入れたことは?」

「邪魔だったから鍵と一緒に、バイクのシートの中にいれて返しただろ」

ちゃんと覚えてるじゃん、私達の笑い声は狭い部屋でも大きく響いた。
私達は昔の話を思い出すように話し、お互いを馬鹿にして笑い合った。
よく銀髪でテニスなんてしてたね、他の奴らの髪色もそう大して変わらねえよ。先輩に馬鹿にされて喧嘩した事もあったよね、お前の事馬鹿にされて黙ってられるかよ。

「しょっちゅう仁の家に泊まってたよね」

こんな狭いアパートよりも、亜久津家の仁の部屋とリビングの方が好きだな。ぽつりと呟いた私の意見に、仁も黙って頷いた。

「優紀に迷惑かけたな」

ね、本当に迷惑かけちゃった。
今度会ったら改めて謝らなくてはいけない。仁の母親が優紀ちゃんでなければ、彼女が身近にいなかったら。私の事を守ってくれる大人はいなかっただろう。

「優紀ちゃんが親だったらよかったって、今まで何回も思った」

あんなに優しくて、綺麗で、親身になってくれる人なんてそうそういないだろう。彼女を母親に持つ、仁がずっと羨ましかった。

「だったら親にしてやるよ」

「どうやって」

「俺と結婚しろ」

「うん、いつかしようね」

というかなんで上から目線なの。なんの冗談を言っているんだと、呆れて笑った。私を後ろから抱きしめる白い腕に力が入る。

「俺が旦那だったら部屋借りるのに親の許可なんかいらねえ」

「結婚する方が親の許可取るの大変じゃん」

「一回会って許してもらえばいいだけだろ」

後は会わずに放置してやれ、頭の上から冗談らしき言葉を呟いた仁の低い笑い声が聞こえる。
もしかして本気で言ってる?、私は後ろを振り返り仁の顔を確認した。昔とそう大して変わらない。整った顔を待つこの男は、黙って首を縦に振った。

「私達まだ19歳だよ」

「どうせ結婚するなら、いつしても一緒だろうが」

「相手は私でいいの?」

「ガタガタうるせえな、お前としか結婚する気ねえよ」

お前をもらう奴なんか俺以外にいねえよ、いるよきっと、いたとしてもそいつらがお前の事幸せにできるわけがねえ。

仁は本気だ。きっとまだ子供の中高生達がこぞって言う、お遊びの「結婚しようね」とは違う。また成人もしていない私達が籍を入れて共に生活する事を、彼は真剣に望んでいる。

「俺はお前とすぐにでも結婚してえって言ってんだよ」

分かったら黙って返事しろ。
仁は私の脇腹に手を入れ、身体の向きを変えて正面で向き合った。

「指輪は?」

「んなもんいつでも買ってやる」

「結婚式は?」

「お前がやりたきゃやれ」

この綺麗でもオシャレでも何でもない狭い部屋で、指輪も婚姻届も何もないまま私は大好きな人に求婚されている。
世間一般の女性だったらこの状況でのプロポーズはどう思うのだろうか、私は経験したことがない為に分からずにいた。
でも不快になるどころか、私は嬉しく思い胸を熱くした。仁だったら、仁とだったら。声も出せずに涙目で頷いた私を、彼は他人には見せない笑顔で見ていた。



次の週の休日。私達は市役所から貰ってきた婚姻届を持ち、久しぶりに仁の家に行った。半年ぶりくらいに会った優紀ちゃんは顔を見るなり、いつ結婚するの?、ニコニコしながら訊いてきた彼女に私達は思わず笑った。
今度結婚する。仁は封筒から三つ折りにした婚姻届を優紀ちゃんに手渡すと、彼女はかなり驚き両手で口を押さえた。

「子供出来たの?」

おずおずと呟いた優紀ちゃんに、仁は違えよといつもより大きい声を出して否定をした。




「貴方がいなかったら、仁と仲悪いままだったかもしれない」

ボールペンどこやったっけ、部屋を歩き回る彼女は笑顔だった。
どうやったらこんな明るい人から、仁みたいな怖い人間が産まれてきたのだろうか。父親に似ているのかな、私は会ったこともない仁の父親について想像をした。

「私は優紀ちゃんがいなければ、生きていけなかったよ」

やだそんな大げさに褒めないでよ。
ボールペンを見つけ、机の上で婚姻届のその他の欄に「亜久津優紀」と書く彼女は優しく、相変わらず綺麗なままだった。
顔合わせとかいつにする?、そわそわと落ち着かない優紀ちゃんを、仁は落ち着けと眉間に皺を寄せ椅子に座るよう促した。
父親とは連絡がとりにくいから、母親の許可を得ようと思う。だから母親から許可がでるまで少し待っててほしい。
優紀ちゃんは非難することなく、私達の意見を聞いてくれた。彼女に反対されなくてよかった。私はこの結婚を「子供の戯言」だと、判断されなかった事を嬉しく思った。

「貴方達なら大丈夫。ちゃんといい家庭が築けるよ」

別れる時に笑顔で送り出してくれた彼女が、もう少しで本当の母親になるのだと思うと胸が踊った。



しかしそう簡単に籍を入れる事は出来なかった。
数日後、私の母親に「結婚したいから相手を紹介する」と電話をかけた。私の母親は放任主義のわりには変な所に厳しく、私と仁の結婚に大反対をした。

「まだ未成年の子供が、おままごとの結婚をしたところで上手くいくはずがない」

電話越しの母親の言葉は、正論であり的確だった。世間のほとんどの人が、私達を見てそう思うだろう。
子供同士が浮かれて結婚をして、そのうちに上手くいかなくなりあっさりと離婚する。どこにでもあるような話だと、未来を想像して馬鹿にするだろう。
友達には二十歳になったら親に内緒で籍を入れればいいと言う子もいた。それは逃げてるみたいで嫌!、私は母親に負けたくないと意地を張り、まだ若いがゆえの勢いだけの反抗をした。
私達は世間の想像通りにはならない。
早く一緒になりたい、周りにどれだけ馬鹿にされたって構わない。仁と結婚できたら、大好きな人と共に生活ができたら。私は今までずっとそう思って生きてきた。
このまま私が大人になり、結婚をし、子供を産んで。それでも両親との仲が悪いのは嫌だ。この仁との結婚で、できることならそれも一緒に解決したい。
もし母親が私達の結婚を認め、少しでも祝福してくれたら。私は過去のいざこざを水に流して、母親と仲良くする事がきっとできるだろう。
私達は私の母親を、どうにか説得する事に決めた。


その日は雲ひとつない、よく晴れた日だった。私達の気持ちとは裏腹に、気持ちのいいくらいの青い空だった。
今から行きます。母親が家にいる事を確認し、それだけ伝えて通話を切った。電話の向こうで焦る声が聞こえたけれど、私達はこんなチャンスを逃すわけにはいかない。母親のアパートに押しかける事にした。
もし彼氏がいたらどうする?、母親に会うのかなり久しぶり、仁スーツ似合うね、緊張してお腹痛くなってきた。
ほとんど私が喋りかけていたけれど、仁は鬱陶しそうな顔をしながらも時折返事したり、首を傾げたり反応をした。

「仁って敬語話せるの?」

「知るかよ、話すしかないんだろ」

イライラしながら返事をした仁に、私は頑張れよと笑い背中を手のひらで軽く叩いた。


高校を卒業してから一度も、足を踏み入れることもなかった母親のアパートに着いた。
駐車場には母親の車しかない。よかった、今このアパートに彼氏かよくわからないような男はいない。私はそれだけで少し緊張がほぐれたような気がした。
チャイムを鳴らすと、不機嫌そうな母親が扉を開けて出てきた。私と仁をチラリと見て一言、どうぞと呟いて家に入れた。
お邪魔します。今初めて聞いた、仁の敬語に私は密かに驚いている。

久々の家は私が暮らしていた頃とそう変わらなかった。室内に干されたままの洗濯物に、シンクに溜まった使用済みの食器。母親は私達を椅子に座るようにいい、お客として持て成しお茶を出した。
仁が自己紹介をした。母親は小さくどうも、怪訝な顔をしながら頭を社交辞令気味に下げた。

「結婚したところでどうするの?」

子供ができたわけでもないなら、意味もなく急いで結婚しなくていい。
世間話をするわけでもなく、母親は第一声にぴしゃりと言い放った。

「世間体もあるし、もっと大人になってからにしなさい」

そうだった、母親は世間体をよく気にする女だった。
私は親の見栄のために、仲の良かった友達と離れ行きたくもなかった山吹に入学した。夜中に補導された私を、両親は一度も迎えに来なかった。
けれど私は、その両親の見栄のおかげで仁に出会い、世間体のせいで荒み、それらにとらわれすぎた両親は離れ離れになった。
私達はそんな事にとらわれない。自分達がしたい事をする、他人に何を言われようが気にしない。それほど彼と一緒になりたいと、強く思っている。

「そんなの関係ない。一緒にいたいから、好きだから私達は結婚したいの」

世間一般の結婚した人達だって、大半はその理由なはずだ。好きだから、一緒にいたいから、家族になりたいから。
私の母親は、私達が若いからという理由だけで非難をする。
でもそれでは私達は納得しない、一緒になるのに年齢なんて関係ないはずだ。
隣の仁は何か言いたそうだった。けれど昔みたいに簡単に文句は言えない。それが、仁が少し大人になった証拠な気がした。

だからその考えが甘い、じゃあ私達がもう少し歳をとったらいいの?、屁理屈言わないで。

言ってるのはどっちだよ、私は母親の意見にひどくいらつかされた。私は今だに、反抗期なのかもしれない。
喧嘩のようになってしまった話し合いだけれど、本当は平和で穏やかな話し合いにしたかった。けれどその願いを叶えるにはもう遅いと、私は声を張り上げながら頭の中で理解していった。

「大体、この子がいたから成績も落ちたし、家にも帰ってこなかったでしょ」

貴方に出会わなければ、もう少しできた子になってたかもしれない。
母親は標的を私から仁に変えた。優紀ちゃんとは正反対の言葉を仁に吐く、母親に更に腹立った。

「違う、仁は関係ない」

じゃあ誰の家に入り浸ってたの?この子でしょ?
私の意見は、母親の耳には届いていないようだった。彼女の言うことは正論だった。確かに仁の家にずっといた、だから私も強く反論できない。
私や仁が悪かった。そんな分かりきった事を、今になり重みとして感じとっている。

「すみませんでした」

私と母親がまくし立てて話す中、仁はぽつりと呟き謝罪をした。
仁が反論もせずに謝るのも、素直に頭を下げるのも。私はずっと彼と一緒にいたのに、今初めて見た。
隣に座る仁は、今も確かに成長し続けている。

「家に泊めるわ補導されるわ、好き勝手したくせに」

棘のある母親の言葉は、仁にも私にとっても全く反論できない正論だった。
でも私は親のおもちゃなんかじゃない、昔も今も。

「私は寂しかったから仁と一緒に居た」

家に帰っても親はいないし、自分達の見栄のために行きたくない学校に行かされたし、あげくは勝手に離婚して家から追い出すし!

今まで親に言いたかったことが、喉から全て出てきた。泣くつもりなんてなかったのに目頭が熱い。泣いてたまるか、一度だけ目尻を指で擦り前を向いた。


私と母親は、しばらく勢いよく言葉を交わした。
そんな事は関係ない。必死に誤魔化す母親に私は腹を立て、母親は言うことを聞かない娘の私に腹を立てた。
私が好き勝手生きてしまったのを、全て母親のせいにする気はない。もちろん自分が悪い、それも十分理解している。
けれど若く反抗期を引きずったままの私は、母親の意見がやはり素直に聞けず、腹を立てながら声をあげた。

「貴方たちがいい家庭を築けるとは思えない」

母親はこれ以上話す事はないと怒り、席を立とうとした。
私は伝えたいことを全て言い切ってしまった。でも喧嘩をしに来たわけでも、怒らせに来たわけでもない。結婚の許可を貰いに来たのだ。
今まで仲が悪かった親から、大好きな人と結婚できてよかったねと、嘘でもいいから祝福されたいと思ってここに来た。
和解をして仲良くなれるかもしれない、仁と優紀ちゃんみたいに笑い合えるかもしれない。
しかしその考えはやはり甘く脆い妄想だったと、私はすでに思い知らされている。私は先程堪えた涙を我慢できずに、鼻を鳴らし肩を揺らして泣いた。
それまで私達の会話を黙って聞いていた仁が、私の泣き声だけがする静寂の中で母親に話しかけた。

「今まで迷惑かけてすみません」

再度頭を下げた仁に、隣ですすり泣く私は驚いている。
今まで敬語どころか人を威圧するような喋り方しかしなかった仁が、謝罪をしながら頭を下げている。
過去の彼がこの姿を見たらなんて思うだろう。ださいとか、やめろだとか言って怒るかもしれない。でも今の仁は、素直に人に謝る事ができる。

「彼女がいなかったら、今の俺はいません」

席を離れようとした母親は動きを止めて、私達を怪訝な顔で見ながら上げかけた腰を再度椅子におろした。

「仲悪かった親と仲良くなれたのも、更生できたのも、今楽しく生活できているのも彼女がいたからです」

俺の家に泊まってたのも、夜に出歩いたのも、寂しかったからだと思ってます。
仁は淡々と語っていった。母親はただ黙って、仁の言葉を聞いている。
仁が言った言葉が、私の全てだった。

「俺は、彼女に寂しい思いはさせません」

結婚の許可を下さい。
頭を下げ続けた仁に、私は同調した。
家にいつもいて、楽しく会話をして、出かけたり、たまには喧嘩したりする普通の生活がしたい。
同棲じゃなくて、結婚して一生仲良く暮らしていきたい。
決して子供のおままごとなんかじゃない。

「私達にもし子供が出来ても、私みたいな寂しい思いは絶対にさせない」

聞き取れないような酷い声だったかもしれない。でも母親に思いを伝えるしかなく、私は必死に声を出した。母親は少しイラついた様子のまま、ため息をついた。



それから少し沈黙の時間が続いた。壁にかかった時計の針だけが、カチカチと音を立てて進んでいく。ずっと長い間話をしていた気がするのに、まだ20分程度しか経っていなかった。
静寂なこの時間を仁はむず痒く感じたのか、お願いします。そう言って再度頭を下げ婚姻届を母親に出した。

「もう勝手にして」

母親はため息をついて諦めたように笑い、仁から婚姻届を受け取ってサインを書き始めた。
仁のお礼の後に続いた私の言葉は、ありがとう勝手にする、だった。
それに対して母親は、昔から好き勝手生きていたのにと、小言を言った。


名前を書き終えた母親は「たまにはこっちにも帰ってきて」、そう呟き私達に帰る様促した。
私は婚姻届けに書かれた母親の名前に、少しだけ距離が縮まったのではないかと、名前に背中を押してもらえた様な気がした。
また今度来る。最後にやっと笑う事ができた私と仁は、私達の狭いアパートに帰ることにした。



もう二度と敬語なんか話さねえ。
イラつきながらそう呟いた仁の姿は、一目見て分かるほど疲れきっていた。
でもそれが少し可愛くもあり、嬉しくて。私と結婚する為に、彼はいつもしない事をしてくれたんだと喜びがこみ上げた。
仁って敬語話せたんだね。少し馬鹿にしたように笑うと、彼は黙ってろと眉間にしわを寄せて隣で歩く私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。乱れた髪を直しながらやめてよ、笑って仁の手を退かした。

「今更仲良く出来るかな」

母親もだけど父親とも、なんとかなるだろ、なんとかしないとならないよ。

「今度は俺が、お前と親の仲を取り繕ってやる」

どれだけ時間がかかっても、絶対に。
今隣にいる仁は、昔の横暴で暴力的な仁ではない。私だってそうだ、昔のつまらないガキのままではない。
私達はずっと一緒にいた時も、離れていた時も、大人になった今も。少しずつだけれど成長してきたし、これからは二人で手を取り合い生きていくのだろう。

「ねえ、手繋いで帰ろっか」

中学の頃は手を繋ぐ事も出来ずに帰宅していたのに。今、大人になった私達は躊躇することなく手を繋ぎ指を絡めた。
まだ空の表情は変わっていなかった。今の私達の気持ちを表すように、雲ひとつない綺麗な青い空だった。

その下で手を繋いで歩く仁と私を見た過去の私達が、クスクスと仲良く笑いあった気がした。
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