★恋に浸る

「それ本気で言ってる?」

「一応な。テニスなんざ、どうせくだらねえ球遊びだろ」

仁がテニス部に入部したというのを、本人の口から聞いた時には驚きを隠せなかった。
絶対向いてないと大笑いをする私にうるせえと悪態をついた仁は、屋上で煙草の煙を大きくふかした。校舎を背景にし、やけに煙が似合う男だと私は仁を見てそう思った。

「なんでテニス?そういや昔やってたんだっけ?」

「顧問のジジイにのせられた」

「伴先生の事?私あの先生好きだな。あんまり怒らないもん」

うぜえだけだろ、仁が呟くと学校のチャイムが鳴った。あぁやっとお昼だ、私は揚々とした気持ちで指に挟んだ短くなった煙草を地面に捨て上履きで踏み消した。隣の仁はそんな私を見て、まだ長さのある煙草を同じく上履きで踏んだ。
旧校舎のトイレでいつもたまっているのを教師に目をつけられた私達は、立ち入り禁止のこの屋上で時間を潰していた。山吹で問題起こすのはお前らだけ、先生にこの前職員室で言われた言葉をふと思い出す。

「今日一緒に帰る?テニス部の練習とかあるの?」

「んなもんあってもでねえよ」

まあそうだよね、私は当然の事だと思いながら校内に続く屋上の扉を開けた。仁が真面目にテニスをするなんて、きっと雨どころか槍が降るだろう。彼自身もそう思っていたはずだ、私の言葉にいつも通り笑っていた。

仁は予想通り、テニス部の練習には滅多に出なかった。
仁は部員と仲良くなるどころか、部活の中でも浮いていた。真面目にテニスに取り組む彼等の中に、やる気のない仁が突然入部したのだ。彼の事をよく思わない人はテニス部の中に沢山いたと思う。
小学生の頃に少しの間だけテニスを習って、今も少し強いからって。今更荒れに荒れた仁が真面目に部活に出るわけない。当人の仁も今更だと、必死に練習をするわけでもなかった。
私達は変わらず、遅刻や早退を繰り返して日付が変わる寸前まで遊んでいた。仁と喋る口実の為に吸い始めた煙草の美味しさを、私はやっと理解し始めた。
一年半前に仁に開けてもらった左耳の穴は、仁と同じピアスが付いている。未だに好意は伝えられないままだったけれど、私は変わらず仁が大好きだった。


仁が少しずつ変わり始めたのは、青学との試合に出てからだった。仁は私とお揃いのピアスを外して試合に挑んだものの、相手の一年生に負けてしまった。私はその試合を軽い気持ちで見ていた。別に負けても仁は悔しがったりしないだろう、私はそう思っていた。
現に彼は試合後にもうテニスはしないと言っていたし、私はそれに対してなんの違和感も感じなかった。結局テニスなんか、仁が気まぐれに始めた暇つぶしの遊びだったんだ。また一緒に下校をしたり、遊びに行ったり出来る。そう思っていた私の考えは、ことごとく外れていった。

相変わらず仁と私の遅刻や早退は多かった。
素行不良で先生達の目の敵にされていた私達だったけれど、仁は都大会で部活に貢献したと周りから評価されはじめた。あいつ本当は出来るやつなんだな、そんな感じに。
試合に負け、仁はもうやらないと言っていたテニスをまたやりたいと再度始めた。本気でやるの?、そう質問すると小さく笑って肯定の返事をした彼に、私は何も言わなかった。きっと真剣にやる事はないだろう、根拠もないのにそう思っていたから。
テニスをまたやるようになった仁は、私との時間を減らしテニスの練習時間を増やしていった。あんなに興味がないと言っていたのに、彼は全国大会を見に行き、合宿にも参加し、海外にも行き。
別に私はテニスに対して嫌悪を抱いたり嫉妬したりしなかった。会う時間が減るのは嫌だったけれど、楽しそうにテニスをする仁に口を出す権利は私にはない。そんなにテニスって楽しいんだな、そんな曖昧な感覚でいた。私はテニスに夢中になり楽しむ仁を、いつも横で見ていた。




「もう吸わねえ」

ある日突然、煙草を吸っている私の隣で仁は呟いた。彼は私に封の空いた煙草のパッケージを差し出し、私はそれを意味もわからず受け取った。前と変わらない、私と同じ銘柄だった。

「もう煙草いらないの?」

「ああ」

「テニスの邪魔になる?」

声も出さずに頷いた仁に、私は驚きを隠せなかった。煙草が吸えなくなるとそれなりにニコチンを欲し、僅かにイラついたりしていた仁が。こんなにあっさりと煙草をやめると宣言した。
私は勿論反対なんてしない。私と銘柄お揃いだったのに、そんな年相応に子供染みた事も言えなかった。
これも待ってろ、そう言って仁は身につけていたピアスも私に手渡した。私は黙って頷き受け取った、お揃いだねって、お互いに意識した大切な思い出なのに。
これで仁と一緒に使っていたライターも、お揃いだった左耳のピアスも私だけが使う物になってしまった。毎日学校終わりにくだらない話をして、煙草が少なくなればお小遣いを出し合って一緒に吸った。お金がなければ人少ない道路や公園で何をするわけでもなくただひたすらに時間を潰したし、仁が喧嘩をすれば私は遠くから離れて見ていた。
それも、全てが無くなっていった。私には仁との距離が、少し離れていったように思えた。




いつの日か学校に行くのを面倒くさがった他校の友人達と、遅刻して登校しようと朝に公園に集まった事があった。
そういえばまだ彼氏作らないの?そう聞く彼女達に、私はまだいらないと必死に誤魔化した。
作りたいよ、作れるものなら、仁と付き合えるなら。本当に好きな人と簡単に恋人になれるなら、関係が崩れるのが怖いとか、仲良しのままでいたいなんて考えずに告白してるよ。
そう一人でもやもやとしていた時、公園の外でテニスラケットを待ち朝練に向かう仁を見た。私が学校を遅刻しようとしているのに、仁は真面目に部活に行こうとしている。私は学校で友達も作らずに、ずっと仁といた。私には仁しかいなかったのに、仁にはもうテニスと部活の仲間がいる。
私と仁は元より住む世界が違っていたのだと、突然現実を突きつけられ悲しくなった。隣では仁ではない、友達の煙草の副流煙が鼻をくすぐった。




秋になると学校では進路希望調査が行われた。
大体の同級生達は山吹の高等部への進学を希望していたけれど、私はこのまま高等部に進むか他の高校に行くか悩んでいた。
もし山吹の高等部に進まなかったら、大嫌いな両親は顔を真っ赤にして怒るだろう。でも友達もできないし、勉強も分からないし、仁と一緒にいる事も減ってしまったし。
私がもう山吹にいる意味が見出せない。そう思っていた頃、決定的な事があった。
今までは仁と二人で呼び出される事が多かったけれど、今回は私だけが職員室に呼び出された。なんだろうと、私は嫌な予感を感じ取りながら先生の元へと向かった。

「亜久津は今真面目にやってるんだから、もう亜久津と絡まないでくれ」

君と一緒に居たら亜久津はまたダメになるかもしれない。前に私に叱咤した先生は私の目を見てはっきりと言い放った。
前にも先生は仁と絡むなと言った。けれど今言われた「亜久津と絡むな」は、前とは正反対の意味だった。
今、少しずつ更生しつつある仁と、未だ中途半端な私。先生は今度は私の方が害になると考えたのだろう。確かにその通りだった。自分でも薄々感じていた正論を、ついに先生に言われてしまった。
仁は素行は悪かったけれど元より頭が良く、対して勉強もしていないのにテストで上位を取るような人間だった。テニスも努力をしなくても、周りには逸材だと言われている。そんな仁と、ただの落ちこぼれの私との差はどんどんと開いていた。
努力しなくても勉強の出来る仁、努力をしないから勉強が出来ないままの私。
海外の試合で部活に貢献する仁、部活にすら入っていない私。
朝も夜もテニスの練習をする仁、朝も夜も出歩き暇を潰す私。
煙草もピアスも辞めた仁、煙草もピアスも仁への想い入れがあって辞めれない私。
仁が先生から、同級生から、世間から評価され始めた頃。私だけが未だに、世間に馴染めないままでいた。
先生の言葉が頭に残り、仁とこのまま一緒にいていいのか。私は分からないままでいた。





「仁といてもいいのかなぁ」

何だよ急に。放課後に旧校舎のトイレでニコチンを摂取する私の隣にいる仁は、煙草を吸う訳でもなく暇そうに壁にもたれて短い返事をした。
仁の喫煙スポットだったのに、仁が禁煙をした今はもう私だけの喫煙スポットになっている。わざわざ屋上なんかに行かなくても、先生達はもう私達に目をつけるのをやめたようだった。仁はもう問題ないと思われ、私はきっと諦められているんだろう。

「先生がさ、仁に害を与えるから一緒にいたらダメだって」

「あ?」

「仁、最近凄いじゃん。元から頭いいし、テニス真剣にやってるし」

私と釣り合わないのかなぁ、なんて。
補導されようが、親に叱られようと、同級生に悪口を言われても何ともないのに、仁の悪影響になるのではと思うとひどく弱気になってしまう。
副流煙が仁の方へいかないように、煙草の向きを調節し禁煙をした彼に配慮した。私は仁が吸っている煙草の副流煙の匂いが、私の制服からするのが好きだったのに。もう叶うこともないだろう、そんな想いに耽っている。

「最初から釣り合ってねぇよ」

誰だよ何も知らない中途半端なお前に、煙草の美味さと授業のサボり方教えてやった奴。
仁は薄く笑って私を軽く馬鹿にした。うるさいな、全部仁だけど。私も思わず釣られて笑ってしまう。

「他人の言う事を気にしてんじゃねえよ」

小さく笑う仁の横顔はやはり綺麗で美しかった。今一番近い距離にいて、彼の事はほとんど何でも知っているのに。それがまた遠い存在のように感じさせた。

「私、仁とずっと一緒にいれたらいいのにって思ってるよ」

一緒に馬鹿やるのも楽しいし、くだらない話をするのも飽きないし、私は優紀ちゃん好きだし。なんか仁が離れていってるようで変な感じ。
私は何気なく、思っていた本心を口にした。
全て言い終わった後に「一緒にいれたら」と自分が発言した事にふと気づいた。何かで誤魔化そうと煙草のフィルターぎりぎりまで急いで吸い込んで、そのまま吸い殻を便器の中に捨てた。火が消える水音がトイレに響いただけで、特に私の発言は変わるわけでもなく。少し胸の鼓動が速くなったけれど、仁は平然と返事をした。

「今までもずっといただろ」

「まぁ、そうだけど」

「今も煙草吸わねーのにわざわざここに来て、嫌々お前と喋ってやってんだろ」

嫌々って何、私が仁に突っ込めば彼は顔をそらして口角を上げた。好きだ、この距離感が、気のおけない仁が。
廊下のスピーカーからチャイムが鳴って、部活動開始を知らせた。それを聞いた仁が向かう先は私との帰路ではなく部活だった。
仁はトイレから出て行く、私を一人置いて。頑張ってね、おう。私の小さすぎる応援は、テニスコートに向かう彼に響いているのか分からなかった。



進路の最終希望を出す日が近づいた頃。
両親の仲は過去最高に悪くなり、ついに離婚の話が出た。ついていくのはどちらがいい?、母親にそう言われた時にはどちらでもいい。そう答えた。
そのうちに母親についていく事が決まった私は「高校は公立に行って」、そう両親に言われた。別れるのに両親は色々揉めていて、多分私に出すお金もなくなり、世間に見栄を張る必要を感じなくなったのだろう。
山吹を離れるのは構わない。勉強についていけてないし、友達いないし、先生嫌いだし。でも仁がいる。仁とは離れたくない。数ヶ月前にずっと一緒にいたいと話したばかりだった。
でもその数ヶ月の間に仁はテニスで沢山の活躍をした。更に練習やら勉強やらで忙しくなり、私といる時間はかなり少なくなった。
いつもひとりぼっちだった仁は、学校でいつもテニス部の人達と話していた。やっと出来た友達との時間を仁から奪ってはいけない。そう思って私はわざと仁に話しかけないでいた。
一言、二言。話さなくなる度に私達の距離は少しずつ遠くなっていった。仁に話しかけようとすれば同級生達の視線が気になり、一緒に帰ろうとすれば先生の言葉が頭に浮かび。
少し彼を避けているような状態の私に気づいた仁は、あまり私に構わなくなっていった。廊下で会えば軽く一言交わすけれど、前みたいに長話をする事もない。電話や連絡も殆どとらない。旧校舎のトイレには私が一人いるだけ。仁の家にはもう数ヶ月行っていない。
でも私は仁が好きだった。好きだからこそ、仁の評判を落としたくなかった。自分といる事で仁の評価が落ちるなら、一緒にいない方がいい。そう思った。



素行の悪い友人達が進学すると言っていた公立の高校に私が合格した頃、私と仁は殆ど会話をしなくなった。
私はそれが凄く寂しく辛かったけれど、友達や後輩がたくさん出来て満更でもないように学生生活を送る仁を見るとそれでいいと思った。
同級生の中には亜久津君と別れたんだなんて、幼稚な事を言う子もいた。元から付き合ってないし、仁と私の事を何も知らないのに勝手に憶測しないで!私は仁との関係をこそこそと語られる時にはいつもそう思った。
たまに遠くにいる仁と目が合う事があった。けれど話せない。私は居た堪れなくなり、顔を背けてよくその場から逃げ出した。
仁と会話がしたかった、仁と放課後はくだらない事をして笑いたかった、また仁の家で遊んだり、二人で暇を潰したかった。
煙草を吸う度、左耳に開いたピアスを見る度に私は仁の事を思い出した。前はずっと一緒だったのに、これからもずっと一緒だと思ったのに。
立派になっていく仁が悪いのではないと理解していた。だからこそ余計に辛かった。私は仁と釣り合わないのだと自覚していたから。



付き合ってほしい。顔も名前もよく知らない、たまに廊下ですれ違うだけの同級生からそう言われたのは、卒業式まで一ヶ月をきった頃だった。
別にその同級生の事は好きでもなんでもなかった。少し前の私だったらごめんなさいと一言謝り、告白をあっさりと断ったと思う。
でも今は仁の事が好きで好きで堪らなくて苦しかった。彼の事を忘れてしまえたら、違う人が好きになれたら、どれだけ楽だろうと思っていた。
今は仁への苦しい恋心から逃げたくてしょうがなかった。だから私は顔も名前も性格も、よく知らない同級生と付き合い始めた。

仁が見知らぬ同級生の女の子と付き合い始めたのは、私に好きでも何でもない彼氏が出来て一週間くらい経った後だった。
一応彼氏の同級生と登校していると、校門で可愛らしい女の子と一緒に歩いている仁を見かけた。その二人を見た時には一瞬思考が奪われた。心が重くなり身体が冷えたような、そんな気分にもなった。
仁の横にいる女の子は私とは全くタイプの違う子で、仁と二人で並んで歩く姿は絵になっていた。仁がちらりと私達の方を向き、ぱちり。私と目が合った。いつもみたいに目をそらす事が出来なかった私に、仁は声を出さずに私に小さく手を挙げ挨拶をした。その横で女の子がどうしたの?、仁に甘えたように聞いている。
その姿を見てまた居た堪れなくなった。女の子は仁と何か話した後、ニコニコと微笑んで私に会釈した。それがまた女の子らしくて可愛く、あぁ仁はあんな可愛い子が好きだったのかと、胸が締め付けられた。
早く好きだと仁に伝えればよかった。私の方が仁といた時間は長いし、私の方が仁の事をよく知っているし、あの子より私の方が仁の事好きなのに!
ずっと仁の事が好きだったのに。あの可愛らしい女の子に仁をとられたと、私は激しく嫉妬を感じている。
呆然と立ち尽くす私の横にいるのは、仁ではない。好きでも何でもない同級生。
私と仁は、数日後にはそのまま終業式を迎えた。
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