★彼氏と彼女

「亜久津とさ、週何回やるの?」

千石君の言葉に、私は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。教室にいるクラスメイト達が一斉に私達の方を振り向いた。きっとみんな無意識に驚き、その答えが知りたかったんだ。
私は自分の顔が真っ赤に染まっていくのを感じながら、みんなに見ないでと顔と手を横に振りそっぽを向いた。ごめんごめん。いつもの様にちゃらけ、目尻を細めて笑う千石君が今は悪魔に見えた。

「な…何回って…」

「だってさぁ。君達中三で付き合ったのに、未だにそういう話聞かないんだもん」

「ふ、普通はそんな話しないでしょ?」

「そう?あー、いいなー亜久津。きっとほぼ毎日できるんだよね」

俺も彼女がいたら毎日したいよー。
私の机に自分の椅子を持ってきて話す千石君は、頬をついてうなだれた。恥ずかしいからそういう話しないでよ、私は質問をごまかしながら急いで自分の席を立とうとした。ねえ教えてよー。そう言って引き止める千石君に、最低!私は顔を真っ赤にしながら怒り、くすくすと笑い声の聞こえる教室を出た。

山吹の高等部に進学し、無事に何事もなく高校一年生になった私は亜久津君と付き合い続けていた。目立った喧嘩もひどいすれ違いもない。前の彼氏の時とは大違いで、私達は平穏な日常を過ごしていた。
けれど亜久津君は前の彼氏のことを気にしているのか。付き合って一年近く経ったけれど、一度もそういう事をしたことがなかった。
抱き合って触れるだけのキスはしてもその先はしない。たまにギラギラとした視線を感じる事はあったけれど、彼は誘う素振りを私に見せなかった。
きっと亜久津君は私に凄く気を使っている。彼は私がそういう事に対して恐怖心を抱いていると思っているだろう。確かにその通りだった。私が彼の思い通りの人間じゃなかったら、私とした後に態度が冷たくなったら。私はそんな事を恐れていた。
けれど亜久津君となら。そう思い始めている自分も確かに心の中にいた。この状態でいいのか、悪いのか。気にしてはいたけれど、自分から誘う勇気もなかった。
そんな平穏な日常を、私と亜久津君はのんびりと過ごしていた。






「千石君がさ、私と亜久津君がえっちしてるのか気になるんだって」

馬鹿じゃねーの。亜久津君はいつも通り興味なんてない、そんな様子で呟いた。みんなが急いで部活動へ向かう中、二人して帰宅部の私達は下駄箱の前で靴を履いて帰路につこうとした。山吹の正面玄関には私達しかいなかった。だから小さい声でこそこそと、私達はこんな話題を交わして笑っていた。

「…亜久津君はさ、そういう事したいと思ってる?」

「なんだ、していいのかよ」

「そういう事」の意味をちゃんと理解しているであろう亜久津君は、笑いながら私のお腹あたりを肘で優しく小突いた。していいのかの問いに何も答えることが出来なかった私は、あははとごまかして小さく笑い返した。

「千石君は毎日したいって言ってたよ」

「あいつ、猿だろ」

「でもね、千石君って意外とモテるんだよ」

「あぁ、「意外」とな」

ちゃんと千石君をフォローしたつもりだったけど、逆効果にしてしまった。亜久津君に馬鹿にされてから気づいたミスに、教室での質問のお返しだと私は心の中で舌を出した。
亜久津君は私より先に靴を履き終え、正面玄関を潜った。私も立ち上がり、かかとを踏んだままの靴を屈みながら直した。ちょっと待ってよ、小走りで先を歩く亜久津君に追いつく。
外に出ると夕方だというのに眩しい太陽が私たちを照らした。校庭で運動部の子達が部活をするのを尻目に、私達は校門を目指し砂がまみれたコンクリートの道を歩いた。

「じゃあさ、亜久津君はしたいって思ったらどうするの?」

「そんな事聞いてどうする」

「うーん……参考…?…にする」

「なんの参考だよ」

くだらねえ、そう言いつつも亜久津君は笑っていた。彼は私の答えに笑っているのか。そう考えると変な事を言ってしまったと、私は少し恥ずかしくなった。

「お前で抜いてる」

「? 何を?」

亜久津君はいつも通り私の隣を歩いている。私は彼が小さく呟いた、その言葉の意味がわからずに再度問いかけた。横のグラウンドでは野球部が大きな声をあげながら走っている。これじゃあ亜久津君の声がしっかり聞こえない。

「お前で抜いてるって言ってんだよ」

「私でなにを抜くの?」

「…もう言わねえ」

抜くってなに?、もう喋んな、なんで?、いいから黙ってろ。
聞き覚えのない単語に反応する私に、亜久津君は答えてくれなかった。そして横にいる私の顔を見ることもない。そんな彼の反応を見た私は一言、変なの。眉をひそめてそう呟くと、亜久津君は小さく笑って私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。




次の日の朝。教室に入ると私はいつものように友達に挨拶をして席に着いた。鞄から教科書を取り出していると、まだ眠たそうに目をこする千石君が教室へと入ってきた。
そういえば、昨日亜久津君が意味を教えてくれなかったあの言葉。夜に調べようと思っていたのに、疲れて寝てしまったのを今になってふっと思い出した。きっと亜久津君と仲の良い千石君なら意味を知っているだろう。私は鞄を机の上に置くと立ちあがり、欠伸をする千石君の元に向かった。おはよう、おはよー。いつものようにへらっと笑った千石君に、私は躊躇することなく疑問をぶつけた。

「あのね、千石君に教えて欲しい事があるんだけど」

「ん?なになに、俺でよければなんでも訊いて」

「抜くってどういう意味?」

「…えっ!?」

千石君は私の言葉に必要以上の驚きを見せた。目立つ様に大きな声で訊いたわけでもない。それなのに何故か、朝の教室にいた数少ない男子達が一斉に私の方を振り向いた。その現象に驚いた私は、恐る恐る教室内を見渡した。
殆どの男子が驚いた顔をしてこっちを見ているのに、女子達は何のことか分かっていないようで平然としていた。もしかしたら男子にしか分からない、何やら凄い事を訊いてしまったのではないか。嫌な予感を感じ取った私は千石君に恐る恐る尋ねた。

「…私、なんか変なこと言った?」

「うん、まぁ…その…かなりね」

千石君は、眉をひそめて苦笑いをした。目を合わせた男子達はクスクスと小さく笑い合うか、目をそらすかの二択だった。

(ど、どういう意味?)

意味もわからず焦る私は小声で千石君に話しかけた。そして千石君はかなり気まずそうに笑い、私に耳打ちをした。

(多分おな………いや、自慰行為の事だと思う)

驚いて私は勢いよく後ずさった。君、耳まで真っ赤だよ。小さな声でこっそり教えてくれた千石君は、未だに苦笑いをしていた。





もう毎日の日課となった亜久津君との下校。正面玄関から先に出て行く亜久津君。それに置いていかれないように急ぐ私。外へ出ると昨日と同じく、運動部がグラウンドで部活をしていた。
亜久津君が私で自慰行為をしている。そんな馬鹿な、そう言って笑いとばせるなら笑い飛ばしたかった。けれど亜久津君は昨日の帰り道、「お前で抜いてる」。間違いなくそう言った。
朝に千石君から意味を教えてもらってから、私は今日一日中そのことで頭がいっぱいだった。ちらりと横目で亜久津君を見る。いつも通りの無愛想な顔がそこにはあった。この人が私で…。そう考えれば考えるほど、亜久津君とどんな顔を合わせていいか分からなくなった。
走り込みをする野球部達が、校門を目指す私達の横を走りぬけていく。なんだよ、私の目線に気がついた亜久津君が不思議そうに呟いた。そして話を私が切り出したのは、野球部が遠くへと走り去った後だった。

「あの、昨日の話なんだけど…」

「昨日?」

「うん、そ、その…わ、私で…ぬ…」

「あぁ?何の話してんだ」

「…ぬ………抜く…って…」

「…あぁ」

悪い、変な事言ったな。亜久津君は私の反応を見て、あの言葉の意味を理解した事に気付いただろう。いや、その、あはは…。私は変に慌て、誤魔化すような笑い方をした。

「もうそういう事言わねえから安心しろ」

「ま、毎日するの?」

私を安堵させようと話題を遠ざける亜久津君に対し、私は動転して直球な質問をした。はぁ?亜久津君の呆れたような、驚きも含まれた声が頭の上からした。こんな恥ずかしい事を訊いたけれど、亜久津君の顔が見れるほど私の心は強くない。
数秒の間、私達の間に静寂が訪れる。聴こえるのは運動部の発声練習、私達を抜き去っていく女子生徒達のとりとめのない会話。私はひたすら地面と、どんどんと近づいてくる校門だけを見ていた。そんな様子を見た亜久津君は今度は声を出して笑い、しねえよ。誰も見ていないからか、私の頭を撫でて再度小さい声で呟いた。
やけに長く感じた道のりを歩いて校門を出る。亜久津君は特に焦ったり恥ずかしがりもしなかった。私一人だけが恥ずかしがり、赤面しているのではないかと心配になった。

「お前耳まで真っ赤」

亜久津君の小さな笑いは止まらない。赤いのは顔だけだと思っていたのに。私は真っ赤だと指摘された耳を両手で隠した。

「だって亜久津君が変な事言うから」

「お前が訊いたんだろ、どうすんのかって」

「それはそうだけど!」

「自分で訊いて照れてりゃ世話ねえな」

「じゃ、じゃあさ!…今日はするの?」

馬鹿にされたままではいられない、これでも私は中学生で処女を卒業したのだ。他の子より進んで事を終えた、れっきとした女だ。地面を見つめるのを辞めて隣で歩く亜久津君の顔を見れば、彼も私の顔を見ていた。

「何をだよ」

「ぬ…抜くの…」

「誰で?」

「…私?」

なに不安になってんだよ。亜久津君は隣で楽しそうに笑っていた。だって動画とか画像とか、世の中には色んな物が沢山あるんだよね?そう思ったけれど、これ以上馬鹿にされるといけないから黙っておいた。

「今日、お前とそういう事するならしねえ」

亜久津君は急に立ち止まった。私も慌てて立ち止まり、亜久津君の方へと振り向いた。ちょうど止まった場所は私の家と亜久津君の家への分かれ道。きっと彼は私の返事を待っている。いつもなら黙って私の家の方面へと歩くのに。

「…亜久津君の家に行ってもいいの?」

「お前が良ければな」

私は一瞬迷って、再度迷って、かなり迷って。
亜久津君と行為をした後。私への態度が冷たくなったらどうしよう、想像と違ったと嫌われたらどうしよう。そんな心配事がいくつか頭に浮かんだ。
亜久津君は不安げな表情をした私を見て小さく笑い、いつも通りに私の家の方面へと歩き出した。

「悪い、忘れろ」

亜久津君は何事もなかったかのような顔をしている。変に拍子抜けをした私はどうするべきか悩み、歩かずにその場で立っていた。
けれど今確かに、亜久津君は私を求めた。そして不安そうにした私を優先して、いつものように家へと送り届けるのだろう。私は今まで相当彼に我慢させてきたんだ。私が進みよらないとこの溝が埋まらない事に、今やっと気が付いた。
私は耳まで熱くしながら、黙って先を歩く亜久津君の手を取った。亜久津君の重たい身体が私の方を向く。驚いたような亜久津君の顔、それを直視できない私。そして私の家の方面とは違う、彼の家の方面に手を引いて歩き出した。

「おい、帰るんだろ」

「…亜久津君の家、行こ」

「お前な、無理すんなよ」

「無理してないよ」

「…」

「亜久津君となら、その…」

訪れる静寂、手を繋ぎ立ち止まる私達。それを不思議そうに見て去って行く、帰路につく数名の生徒達。亜久津君は黙って私の手を引き、自宅への道を歩き出した。繋がれたその手は前の彼氏とは違う、ひどく優しく握られた手だった。







「…亜久津君の部屋、煙草臭い」

慣れたんじゃねえのかよ。顔を歪める私より更に眉間に皺を寄せた亜久津君は部屋の窓を開けた。窓からは心地いい風が入ってくる。私はその綺麗な空気を求めて窓側まで足を踏み入れた。
小さな机の上にある簡易的なライターと、いつも吸っている銘柄の煙草。その横にある灰皿に押しつけられたいくつもの吸い殻。シングルベッドと床に直接横積みされたCDと本。それからお母さんが畳んでくれたであろう、綺麗に洗濯された服。私は初めて足を踏み入れた亜久津君の部屋に、何だか落ち着かずきょろきょろと見渡していた。

「なんか、亜久津君!って感じの部屋だね」

「んなもん見て面白いか」

「うん、知らない一面見てる感じで」

えっちな本とかある?私は窓の近くにあるベッドの下を覗いて見た。けれど何もない、ただの暗闇だった。アホかお前。亜久津君は笑いながら上の制服を脱いで部屋着に着替えていた。特に困った様子もなくズボンを脱ごうとした亜久津君に私は赤面し、慌てて窓の外を見た。

「今日、家にお母さんいないんだね」

「多分でかけてる」

「よかった、いたら挨拶しなくちゃと思って緊張してたの」

振り返ると制服よりかなり楽そうな部屋着に着替えた亜久津君がいた。彼は机の上の煙草を手に取り、手慣れた様子で火をつけ吸い込んだ。吸うの?、一本だけ。せっかく換気して綺麗な空気になったのにと、喫煙者にしか分からない欲求に私は疑問を抱いていた。
私はぼんやりと外を眺めながら、亜久津君が煙草を吸い終わるのを待っていた。後ろを向いたらきっとあの頭が痛くなるような匂いが充満しているだろう。彼が煙草を吸い終わるまで、今日出た宿題の話とか、水曜日にやるドラマが面白いとか。そんなくだらないことをお互いの顔を見ずに話していた。
しばらくすると机の上の灰皿がごとん、と音を立てて動いた。それと同時に亜久津君が私の名前を呼んだ、私は振り返ろうとする。振り返るより先に後ろから私に抱きつき窓際に近づいて来た彼は、窓と鍵を閉めた。部屋にこもった白い煙。さようなら、綺麗な空気。

「閉めちゃうの?」

「外に声聞こえてもいいのか」

「…それはだめ」

座っていい?私は亜久津君の許可を取り横のベッドに腰を下ろした。後に続くように亜久津君は私の顔に手を伸ばしてベッドに膝をついた。ゆっくりと押し倒されると目が合った、なんだか少し緊張しているからか笑えてしまう。亜久津君が私の頭を撫でてキスをしようとしたその時。玄関の方からガチャガチャと鍵を開ける音がした。私は彼と顔を見合わせる。ガチャ、バタン。ドアを開け、すぐに閉めた音が聞こえた。

「仁ー?友達いるのー?」

扉の向こうから女の人の声がした。亜久津君は私に覆いかぶさったまま深いため息をついた。悪い、続きまた今度な。そう言って彼は再度立ち上がると、寝転んでいた私を持ち上げベッドに座らせた。そして一度強く抱きしめ、私の乱れた髪を撫でた。

「面倒だから部屋から出てくるなよ」

「じーん?帰ってるよねー?」

「え、でも、お母さんだよね?」

ひどく嫌そうに頷いた亜久津君は部屋から出て行った。彼は眉間にシワがよっていた、そして目も座っている。あれは完全に怒ってる。付き合ってから分かるようになった、亜久津君の感情に私はお母さんと喧嘩しないか不安になりそっと聞き耳を立てた。
友達いるの?、いるから入ってくんなよ。ドアの向こうから聞こえた亜久津君の声は不機嫌そのものだった。じゃあジュースくらいださないと!低い声の亜久津君とは正反対のウキウキとした明るい声がする。いらねえよ、珍しく友達連れてきてるんだからこれくらいしないと!扉の向こうに、あの亜久津君に物怖じしない人間がいる事に私はさっきとは別の意味でドキドキとしている。
どんなお母さんなのか見たい。たしか千石君がめちゃくちゃ美人だと言っていたはずだ。好奇心に負けた私は乱れた髪と制服を直し、ほんの少しだけ扉を開けてみた。ドアノブを回すと小さな音が出る。そして隙間からチラリと見えたのは、元気のない亜久津君と若いお母さん。音の出たドアに目線を移した二人とぱちり。静かに目が合った。お母さんはかなり驚いていた。その横の亜久津君は、げんなりとしていた。

「あの、初めまして。亜久津君と付き合ってる…」

名前を名乗ると亜久津君のお母さんは笑顔になり喜び始めた。仁彼女いたの!?興奮気味に騒ぐお母さんを、亜久津君は本気で鬱陶しそうに見ていた。
お互い勇気を出して1日目。私と亜久津君は、未だに平穏な日常を過ごしていた。
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